正興寺玄昌置文
慶長六年正月十七日 / 冊子 742頁
正興寺玄昌が島津家への別心がないことを誓い、自身は才覚が乏しく諸事の取り次ぎができないため、その点は容赦してほしいと申し述べた置文。
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慶長六年正月十七日 / 冊子 742頁
正興寺玄昌が島津家への別心がないことを誓い、自身は才覚が乏しく諸事の取り次ぎができないため、その点は容赦してほしいと申し述べた置文。
明和七年閏六月七日~十二月晦日(記事所載日) / 冊子 265頁/原整理番号 701/整理ID 701
明和七年の閏六月から十二月まで、公辺の礼式・昇格・贈答・役職変更を記す。閏六月七日、正覺夫人主が御座間で謁し、芭蕉上下を着用した。毎月の淨國公・宥邦公・慈徳公・圓徳公・智光夫人・正覺夫人の諱辰には親しく謁して進香し、慈照夫人・照雲君については正辰に親しく進香、その他の期は「因進」とし、礼装の定式を命じる。芭蕉の語にはママ注を伴う。十一日、赤松則正・島津久連・島津久金が客舎を訪れた。十八日、大家の使老女が守宮へ来て新婚を祝い、公が迎え拝した。服装には熨斗・縮帷子・麻上下の注がある。二十八日、赤松甚右衛門則正・二階堂蔀行旦を大御目付格に陞し、職禄を各二百斛、爵を進め世列寄合とし、職務は従前どおりとする特恩を与えた。七月四日、大家の使人が雲雀を賜り、公は少疾のため松平隠岐守を招いて迎拝・拝恩を代わらせた。この月、御茶道頭を「御同明頭」と改める命令を記す。九月二十六日、慈照夫人主の小祥忌の法事で大円寺へ謁し、先君夫人の例の長上下に対して、この時は熨斗目上下を着たという。十月二十日、國老の樺山左京久智・島津左中久金に御側事を領して交聴させ、従来の江戸・西藩の國老による輪番を改めた。十二月十六日、大円寺へ謁し、熨斗目・半切を着た。近侍先番の服も、それまでの熨斗目から「不洗物」へ改める命令を記す。十八日、大家が使いを遣わし、鷹の撃った鶴を例どおり賜った。公の服装との注があり、同月晦日の除夜には熨斗目・長裃を記す。出典は近秘野艸。
安永六年丁酉十一月朔日(墓表)、同月癸亥(碑陰文) / 冊子 539~540頁/原整理番号 1501/整理ID 1501
題は太夫人島津氏墓表で、題の八字は本文の列にまたがって大字で掲げられる。既に葬ってから三十三年として、子の懋昭が墓表を立てたと記す。太夫人は諱都美、島津氏、右馬頭忠将の後裔で、家は代々垂水を領し麑府に居住した。父の名は貴儔、自称備前、老いて自号靜山翁、太夫人はその嫡女とする。先君に嫁いで二年で没し、延享二年十一月七日、十九歳、法名は正覺院殿貞範妙雅大姉、墓は隅州加治木の長年寺にあると記す。祖夫人から聞いた人物評として、温恭慈恵、上に仕え下を慈しみ、平居幽閑で言笑を慎み、操縵・書札を好み、世俗の紛華を好まなかったことを載せる。男子は懋昭一人で、母の没時には生まれて才二日だったと記す。その後の嗣位襲封と、母の慈顔を知るに及ばなかった悲しみを述べ、安永六年丁酉十一月朔日、男・従四位上中将薩隅日三州守兼領琉球国源懋昭記と署す。近侍掌務臣山田明遠が薫沐拜書したと記す。続く碑陰文は、墓表を作った公が知学事臣山本正誼に碑の陰を書かせたものとし、夫人は圓德公の元配で、公が初め公族島津久季の嗣となったためその邑加治木へ葬られたと説明する。公が爵を襲った後、夫人の主を福昌寺祖廟へ祔し、諸侯の礼で祭ったことを、母以子貴の義として述べる。末は安永六年歳次丁酉冬十一月癸亥、知学事臣山本正誼謹記。編者注は原碑による補入、原碑文十行と篆字の区別を示す。
安永八年冬十一月癸卯(署記)、起工八月甲子・竣工十月丙子(本文) / 冊子 587~588頁/原整理番号 1653/整理ID 1653
薩州麑島明時館記。安永八年、本府に治暦の館を創建して明時館と名づけ、公が知学事臣山本正誼に記を命じたと述べ、正文は明時館にあるとする。著者は、先君得佛公を鎌倉右大将の側室の子とし、文治二年に薩隅日三州へ封じられたが、頒朔授時の政が届かず農桑が時候を失ったため、暦官を特賜され、代々歳暦を自作して境内へ頒ち、宣明暦法を伝えたと叙述する。四百余年後、江府が改暦を議し、貞享元年に貞享暦ができると、本藩は本田親貞を遣わして法を受け、旧来どおり領内に行った。延享四年の江府の改暦では磯永周英を送り、宝暦四年に宝暦暦ができ、周英は助員として十一年ほど在って帰り、本藩へ宝暦法を伝えたという。明和二年の修暦でも暦官を徴したので、水間良實が助員として八年ほど在り、帰国後も毎年計算した気朔・交食・日躔・月離・五星・四餘等を提出したとする。藩の暦官は六百年に及び、一国の私用だけに従事したものではないが、官署がなく、家で暦を作り、推歩測候の器具にも不足があった。公の「襲封之十一年」に行人兼太史の児玉實門へ命じ、水間良實と相談して簡天儀・測午表・子午針・望遠鏡等を作り、旧有の渾天儀・樞星鏡・正方案とともに良實に付して蔵した。その後五年を経て当年に至り、国老小松清香と近侍掌務山田明遠に治暦館設置を議させ、二人は児玉實門と水間良實に諮った。府城の東南四百七十歩ほどに地を選び、能吏を選び、工と役夫を集めて築造・縄準による加工を行い露臺を設けた。高さは「丈有三尺」、上面の方形はその高さと同じ数、基址はその二倍と記し、府屋も若干区設けた。秋八月甲子に始め、冬十月丙子に完成し、水間良實を暦正として館事を管掌させた。藩の暦官制度は古いが、制度の備えが整ったのは今日からであるとして、その始末を記すとする。付説では、藩の暦官は陰陽頭に赴いて伝授を受けてから暦を作り、江府の暦官も同様で、江府の改暦も陰陽寮に命を請うてから行うため、正朔一統の遺意があると述べ、この点も記すべきだとして添える。署記は是歳冬十一月癸卯、本府知学事山本正誼謹書。先君の出自・授職・賜暦官・六百年という期間や正朔一統の意義づけは、著者の叙述と解釈として保持する。
天保九年十二月五日・十五日 / 冊子 24頁/原整理番号 33/整理ID 33
天保九年十二月五日、島津斉興が召されて登城し、御座之間で徳川家慶に謁して特に懇命を受け、宰相に任じられた記事。十五日に登城して昇官の礼を述べた。用番老中の書面は、前年の将軍家の慶事に際して御三家や姻戚の諸侯が昇進したことと、斉興が御臺所の姻戚に当たることを理由として伝える。一方、近侍から聞いた話として、斉興が平素から公務に努め、領国政治にも成果があるため特に賞された旨を記し、書面の説明と聞き伝えを区別する。
(慶長五年)十二月廿九日 / 冊子 728-729頁
島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)に、上方交渉は龍伯(島津義久)と十分に談合して進めるよう求め、般若院・本田助允の下向と書状到来、井伊直政・山口直友の使者への応対・召留め、和久甚兵衛との往来について慎重に処置するよう伝えた書状。
慶長六年正月十七日 / 冊子 742頁
正興寺玄昌が、京都の知人には命じられた当地の様子以外を伝えず、伊集院衆から聞いた事柄はそのまま言上し、旧来の親疎によって偏らないことを神仏に誓った置文。
(慶長六年)正月晦日 / 冊子 745頁
舟越景直が義弘に、関ヶ原合戦での働きが徳川家康をはじめ諸人から高く評価されていることを伝え、島津家の安堵に向けて早期の談合・和解を勧める。東西両軍の内情を踏まえ、再会を願いながら今後の処置を助言した書状。
(慶長六年)二月二日 / 冊子 747頁
山口直友が義久に、忠恒の使者へ詳しく返答したことを伝え、上杉景勝が上洛する前に義久も上洛して領国安堵の交渉を進めるよう強く勧める。詳細は善才坊の口上に託した書状。
年月日未詳 / 冊子 458頁
天正十八年、島津義弘が飯野から栗野へ移った際の「御在城御家」として、川上四郎兵衛・有川雅楽助・上井次郎左衛門の名を記した国老記の記事。 居城移転に伴って近侍した家臣を具体的に示し、義弘の身辺組織を確認できる。
年月日未詳 / 冊子 817~818頁
児玉利昌が島津家久に近侍して寵遇され、忠勤を認められたため、諸役人から敬われ、しばしば家久への取次を務めたことを記す。寛永元年八月には、蒲池備中入道が後嗣の件を川上久国らに申し入れ、利昌を通じて家久へ上申したことを例示した児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 404頁
家久在府中、児玉利昌が始良(姶良)の地頭職と給米三十石を受けたこと、納殿役として近侍し現地へ赴けないため、三十二歳の子利実を遣わし、児玉吉兵衛らと支配に当たらせたことを記す児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 630頁
寛永十四年の家久の療養経過を記す。久志本式部少輔が江戸へ帰った後、将軍家から外科の祐慶法印が遣わされ、伊東仁右衛門祐昌らが受け入れに当たり、児玉利昌や東郷重位らが昼夜近侍して治療を支えた。
「寛永廿一年」二月六日 / 冊子 330~331頁
岩下某の口上覚書。島津義弘の代から近侍・細工役として奉公し、茶入袋などの細工や諸役を勤め、扶持米を受けてきた経歴を述べる。家族・子孫の生活と従来の扶持・役目を維持するため、奉公実績を踏まえた処遇を願い出ている。
明和五年戊子(年次記事、翌年の注あり) / 冊子 185頁/原整理番号 457/整理ID 457
明和五年の年次記事。元日は既に首途を済ませたため賀正を受けず、御座間で公族と三官に会い、外庭稲荷を拝した。正月十三日は護摩所・福迫・稲荷、二十日は大雄・松峯・玉龍を訪れ、鷹が捕えた鶴の賜りを十八日に拝受したことも記す。二月六日に府城を発ち、家老川田伊織国福・仲久健、用人・納戸奉行・使番らが同行する。大里から海路で坂越へ向かい、座船住吉丸と他の船を挙げ、小字注では船の総計を三十九艘とする。三月二日に大坂邸、六日に伏見邸、二十九日に芝邸へ到着。四月朔日は大家の使者が来て「守宮」を与え朝観を賀し、二日は閣老各邸を訪ね、護摩所の不動へ還謁する。七日は関山金陣を使わした。兒玉主左衛門利容らが購入した千字文・唐詩選・字林集等と、草菴・蒙求・和歌類題・古今集・天狗藝術論等を備え、親覧したと記す。八日は近衛公が諸大夫を遣わして賀正、十三日は大家の使いの閣老が邸で慰労し、十五日に朝観礼、十六日に大円寺、二十三日に高輪五社、二十四日に増上寺、二十九日に一橋邸を訪れた。六月朔日は朝から酒井雅楽頭邸を訪問し、近侍の高崎納右衛門ら及び有川・伊東・山田・林・相良・柏の陪席や召しにも触れる。七月十九日には大家が使者を遣わして雲雀を賜り、鷹が捕えたものと記す。二十五日には高橋此面種寿の家老職を、旨に逆らったため免じた。十二月十六日は使番興津左京が鶴を携えて邸に来たが、重豪は少し病んでいたため相良近江守に迎拝を託した。この鶴も鷹が捕えたものという。冬に福昌寺の新作を命じ、翌年秋に完成したとの小字注を付す。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。
年月日未詳 / 冊子 519–520頁/整理ID 1796
島津久輝が主君綱貴へ献じた祭文。長年左右に仕えた家臣として、綱貴が東武の邸で病没し、遺体を国元へ迎えて葬るまでを述べ、仁徳・武威・領国統治をたたえて哀悼の句を連ねる。
正月25日 / 冊子 787~788頁/原整理番号 872
黄門が粥をむせて食べられず、昼食や汁・菜も十分取れないなど、前日から当朝にかけての摂食・体調を詳報する。宮内卿や肥前守らも様子を問い、発熱感から衣服を薄くし障子を開けさせたことにも触れる。記録者一人での詰めは心配なので、宛先三人のうち一人の帰還を望むと述べ、鬼塚を介して送る。差出人は目録の推定を保持する。
年月日未詳 / 冊子 268頁/原整理番号 107-8
二代目上原源右衛門が、島津義久の国分在住期にとりわけ奉公し、初め平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門らと相役となって兵具方を務めた由緒書。源右衛門は義久の側近くに召し置かれたため高麗出兵に伴う加増を受けなかったが、島津家久(忠恒)への代替わりに際し、黒色の『雨の御旗』を奉持する使者を命じられ、その加増として知行五十石を与えられ、名寄も現存すると記す。国分へ帰って報告した際、義久はこの使者役には百石を与えるつもりだったのに少分しか下されなかったとの意向を示したと伝える。兵具方勤仕・朝鮮出兵不参加・御旗奉持・五十石加増を一続きの奉公由緒として説明する文書である。
年未詳3月27日、延享4年4月12日、宝暦9年2月28日ほか / 冊子 275~277頁/原整理番号 107-17
三月二十七日、上原休兵衛が大峯彦兵衛へ、先代上原源右衛門は高麗渡海の際に島津義久の側へ召し置かれて渡海せず、帰朝後、渡海衆への加増とは別に『雨之御旗』に関する使者役の加増として五十石を与えられ、兵具方を勤めたとする家伝を伝え、由緒調査の際には関係文書を見せてほしいと求めた覚書。伊作田を上原氏の本名とする伝承も掲げるが、系図がないため実否は不明と明記する。付属系図は尚益・尚清・尚傳・尚志・尚賢・尚續・尚方らをたどり、延享四年四月十二日に尚益が養子尚清へ家職を譲ったこと、宝暦九年二月二十八日に尚傳が家督を継いだこと、平田家への養子、上原林悦の別家、松元・岸・餅原各家との婚姻などを記す。
年月日未詳 / 冊子 122頁
『越前島津忠綱譜』の記事。承久三年、父忠久が越前国守護職に補任され、忠綱が守護代として越前へ赴いたため越前島津氏を称したこと、頼経・頼嗣・宗尊親王に近侍したことを記す。
永正十六年九月九日 / 冊子 621頁
中野安房守歳信が新納越後守忠泰の諮問に答え、久顕公を中心とする家政運営について意見を述べた答申書。家督の安定、近侍・家臣の登用と処遇、佐伯殿・内田十郎ら関係者への対応、所領給付の基準を論じ、家中統制を立て直す方策を示す。
年月日未詳 / 冊子 777頁
多田紀伊介が兄とともに伊集院大和守の近侍となり、稲荷宮修理をめぐる密談から謀計を察知して日新公へ報告し、城方の計略を退ける助けとなった経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 306~308頁
太平寺で島津義久に近侍した「御供七人」について、姓名と人物関係を考証した伊地知季安の注記。伝承によって人数・顔触れ・通称が異なることを示し、古記・家譜・口伝を照合しながら家臣名を確定しようとする史料批判の跡が分かる。
年月日未詳 / 冊子 327頁
町田氏の梅久・忠栄・久徳・久倍らの系譜と官途を掲げたうえで、久倍の奉公を詳述する。久倍は島津義久の豊肥筑六国への出兵に従軍し、九州征伐後は伊集院地頭として太平寺へ向かう義久の道中警固を担当、二子忠綱・久幸とともに供奉した。さらに義久の上京にも父子で従い、聚楽第で秀吉に拝謁した際には伊集院幸侃ら少人数のみが近侍したという。系図と服属期の随行履歴を併記する記事。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
上原氏二代目の源右衛門は国分で島津義久に近侍し、平田狩野らと兵具方を勤めたため、他の者が高麗へ出陣して加増を受けた際にも義久のそばに留め置かれた。忠恒への代替わりに際して墨色の「あめの御旗」を持つ使者を務め、その加増として五十石を与えられ、義久は本来百石を与える意向であったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 357頁
伊集院右衛門入道幸侃は島津一門の末流で国老となり、豊臣秀吉の西征時に八万石を与えられたが、近侍として専横し隠謀を進めたとする。島津忠恒は国家の危機を知り、慶長四年三月九日に幸侃を茶室へ招いて自ら討った。忠恒は将軍家を恐れて高尾寺に籠もったが、五大老が隠謀の由来を聞いて忠恒に罪はないとして赦免し、伏見の宅へ戻ったことを記す。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 521–522頁/整理ID 1798
島津久兵が主君綱貴へ献じた祭文。賢明な治世と家臣への恩愛をたたえ、病中に近侍できないまま西海から千里を越えて葬儀へ赴いたことを述べ、遺骸を迎えて弔う悲しみを表す。
宝暦五年六月二十五日~八月二十一日 / 冊子 559~560頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1685
忠洪が重年の遺骸を国元の玉龍山福昌寺へ帰葬することを幕府へ願い、許可を得た記事。六月二十五日酉刻に芝邸から大圓寺へ移し、翌二十六日丑刻に同寺を出発した。大圓寺海卯・戒翁寺融道の両和尚、家老義岡相馬久仲、側用人二階堂林左衛門行通・河野安之右衛門通古、近侍や歩行士数十人が霊棺を護って供奉した。東海道・美濃路を経て七月十一日に伏見へ着き、一日滞棺し、十三日に伏見を出て川を下り大坂へ泊まった。大坂で二日滞棺したのち十六日に出発し、山陽道を経て八月四日に長州赤間関へ着き、豊州大里へ渡って九州路を進み、十四日に領内の出水専修寺へ到着した。十五日は阿久根蓮華寺、十六日は隈之城釋名寺、十七日は伊集院雪窓院に入り、十八日夜戌時に鹿府福昌寺へ着いて遺体を御所の間に安置し、十九日夜に入棺した。二十一日夜は棺を客殿に安置して法筵を営み、南林寺陳山が起龕、妙谷寺教州が鎖龕、皇徳寺光易が奠湯、興國寺大龍が奠茶を担当した。維那が元枝書記の役を務め、大衆が読経する中、江戸にいた忠洪に代わって島津備中貴儔が祭文を奉献した。元注は儀式担当について記録が残らないことと、寺僧からの報告による記載を説明する。後に祭文を掲げる。出典は重年公御譜。
文化8年7月願・許可。9月15日江府発、10月有馬・京都、11月4日高輪帰着 / 冊子 372頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1164
重豪は近年江府で宿疾を患い、今茲秋7月、斉興が重豪のため摂州有馬温泉での湯治を願い、大家が許した。9月15日江府を発ち、21日信州善光寺に詣でる。10月7日大坂着、4日滞坂し、10日大坂を発って有馬に至り温泉に浴したが僅か5日と記す。14日有馬を去り翌日伏見、16日宇治萬福寺で拝礼、17日京都着、中馬利兵衛宅に主して憩い、19日近衛内大臣基前公を訪ねた。20日微行で綾小路前中納言俊資卿・堤三位廣長卿の家へ行く。21日京師を去り、大津石場から船で松湖を渡り、江州膳所城主本多下総守康禎の邸を過ぎ、東海道の各駅を経て11月4日江府高輪邸へ戻る。康禎の邸には瓦第・近侍に関する割書注がある。許可・出発・入湯・各参詣訪問・帰府を別々に記し、1161/1162の三廻御暇と本件僅五日入湯を黙って一致させない。
天保4年4月8日夜酉刻(年次目録、月日は前項継承、時刻本文) / 冊子 966~969頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2700
重豪公御譜中の記事。同日夜酉刻、客殿から霊棺を下ろして葬場へ出し礼式を行ったと記す。葬馬二疋、灯籠、幢、香炉、茶・湯の碗、花瓶、燭台、松明、茶湯提子などの役と供人を列記する。島津内匠久徳が斉宣の代として神主を奉じて棺前に並び、三回拝礼した。棺の前後の轅、太刀・脇刀・天蓋の役、一門・家老・若年寄・大目付・近侍の供奉を記す。奠茶は長年寺台巖、奠湯は津友寺董宗、導師は福昌寺崑山で下炬の文を唱え、維那は大翁軒寛山。諸宗派・本山、三州の諸士、在館琉球人、親族と使者が墙外で拝し、葬礼後は涅槃門から廟所へ葬った。六頁に続く法語は、重豪の勇威・仁慈、文武・治政・教化、八十九年の寿と功徳を讃え、無量・自性・生滅を超える禅の教説を茶・湯・下火の儀礼に結び付ける。役列・名列、参列範囲、葬送の順序、讃辞と禅の比喩を分けて精読記録に保持する。前項の八日の法筵に続く同日夜の葬送として記録し、No.2695・2696の六日夜の内葬予定をこの日に置き換えない。
天保5年(本文、月日未記載) / 冊子 994頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2731
重豪公御譜中の記事。御臺が額一面と銀鷹一置を高輪福寿亭の大信公廟殿前へ献じ、斉興・斉宣・斉彬・英姫らは石燈籠八基を献じたと記す。斉宣の額一面、古代鈴・短刀・硝子燈籠、唐銅香炉、木製の器物などを挙げ、島津久命・久昵・報七郎や孝姫・親姫・淑姫らの一族、奥平昌高、松平斉溥・定穀・斉敏らが石鳥居・石獅子等を廟前へ置いた。島津忠徹・忠施は柳一本を置き、一門・一族・城代・家老・若年寄・大目付・側用人・側役・在邸近侍・奥女中・御城坊主・大坂銀主らも石燈籠や懸盤等をそれぞれ献じた。奉献物の種類と奉献者層を分け、前号棟札の作事担当者一覧や次号の御臺供養料とは混同しない。小字の続柄注が重なる一部の女性名は推測で補わない。
年月日未詳 / 冊子 625~628頁
久景流の久雲・久智・時央・時意の生没年と母方を記した後、新納忠臣の五男忠時を祖とする別支流へ移る。忠時の飫肥鴎峯での戦死、忠定が廻城主となり志布志落城後に守護方へ近侍したことなどを記す。
天正5年、天正13年、文禄元年、慶長5年3月28日、慶長11年、寛永4年8月14日、寛永14年3月5日、寛永17年10月7日、明暦2年10月5日、寛文7年11月28日、延宝6年、延宝8年、天和元年、享保11年正月11日、延享2年7月11日、元文4年4月24日、元文6年3月12日、寛保元年7月20日、寛保3年6月7日、明和8年6月27日 / 冊子 30~34頁/原整理番号 10
田布施士・篠原諸左衛門政盛家の庶流にあたる鎌田政香家の略系図。鎌田氏四代清重の二男・篠原清時から十代、篠原政明の二男に発する一流とし、政実は嗣子のない鎌田家へ婿養子として入り、実は上井薫兼の五男で上井覚兼の弟だったと記す。政徳・兼安以下の出生・没年、鬼塚・鎌田・曽木・義岡・伊集院諸家との養子縁組、婚姻をたどり、馬越・清水・小林、田布施・串木野、郡山・平松・中郷・坊津・清敷・帖佐などの地頭職、御使役・近習役を列記する。政親は島津綱貴・光久に近侍し、政興は島津吉貴から名・詞花集・伽羅三種と二重十文字紋を拝領して大御目付役を務め、寛保三年の隠居時に政恒が家督を継いだ。
年月日未詳 / 冊子 73~74頁/原整理番号 323
伊東氏に近侍した十六人の一人、大脇源四郎民部左衛門尉親為(斎号自庵)の伝記。正月十一日の御所的で荒武氏と争い、代々の文書・系図を焼いて為和・為綱を伴い周防国山口へ退去した経緯、残留した妻子との再会、伊東氏からの帰参命令、晩年と法名相阿弥を記す。日付欠。