新納忠元軍労忠清申状
年月日未詳 / 冊子 826~827頁
伊集院方が伯囿らを夜襲した際、新納忠元が城内で応戦し、敵を退けた軍労を申告した文書。川上十郎左衛門らとともに守備を続け、危急時の忠節と戦功を具体的に述べる。No.2495-2は同文のため本文を省略すると注記される。
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年月日未詳 / 冊子 826~827頁
伊集院方が伯囿らを夜襲した際、新納忠元が城内で応戦し、敵を退けた軍労を申告した文書。川上十郎左衛門らとともに守備を続け、危急時の忠節と戦功を具体的に述べる。No.2495-2は同文のため本文を省略すると注記される。
年月日未詳 / 冊子 919頁
天文二十三年十二月二日付の参考記録として、岩剣合戦に従軍し軍労を立てた者の名を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 426~427頁/原整理番号 173
丸田が武蔵守から拝領した鬼神太夫の刀と、自身の軍労を記す。庄内の初太刀の褒美として龍伯から刀を与えられた。矢崎では敵七人を追い、五人を討ち留めたが、二人の死骸を武蔵守に、さらに二人分を敵に取られたため残りを捨て、のち本陣に戻ったという。會木天道川で武蔵守が見つけた際には、大閣から拝領した甲も与えられた。末尾に武蔵守への奉公、短尺、全昌との軍事のやり取り、黒馬と居所を記す。
正保二年四月十四日 / 冊子 11~17頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0020
新納忠清が父祖・新納忠元の軍功をまとめて提出した覚書。忠元が島津氏に属して以来、吉田・大口・湯之浦・水俣・高城・豊後など各地の籠城・合戦・追討・降伏交渉に従事した経歴、負傷・知行・召状等を年代順に詳述する。
年月日未詳 / 冊子 335頁/原整理番号 19
忠清の申状が、伯囿の伊集院在城時、八月七日の夜に神殿から郡山城へ忍び入り攻めたと記す。敵が強く城戸で抵抗する中、南郷・市来・拙斎らが先に走り込み、城戸を破って内城へ迫った。伯囿が火矢を用いて攻めた後、川上・阿弥・野村らと拙斎が心を合わせて戦い、拙斎は山口という者を刀で切り合って討ち、その首を伯囿へ見せたという。
(天正元年)十一月五日 / 冊子 320~321頁
島津義久が在陣中の伊集院忠棟・平田昌宗・村田鑑定に宛て、軍労をねぎらい、勝利が肝要であると述べる。遠境の動静が不明なため飯野へ赴いて相談したことを知らせ、安心するよう伝える。
天正四年八月十九日 / 冊子 489頁
天正四年八月十九日の高原城合戦に従軍・軍労した者を、竹崎表・霧島越山路などの大将と各地域別に列挙する交名。北郷時久、新納忠実、上井覚兼、樺山久高、柏原勝監らの名を載せ、後の戦死地などを注記する。
天正六年十一月十三日 / 冊子 558~559頁
島津義久が島津家久へ、大友軍が高城へ着陣した難局で昼夜軍労を尽くし、本懐を遂げた高名は比類ないと賞した。その忠節に対して領地を宛行い、今後も戦功を尽くすよう命じた感状。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。
天正十一年四月十六日 / 冊子 755頁
島津忠平が帖佐彦左衛門尉へ、長期にわたり現地へ滞在し籠城の窮屈に耐えた軍労をねぎらった書状。海陸の交通が不自由で連絡が途絶えたが疎意によるものではなく、今回の軍功を今後も忘れないと伝える。
天正13年11月6日 / 冊子 121頁
島津義久が新納忠元の度重なる軍労と敵境での長期在陣を「神妙」と評価し、今後も忠節を尽くすよう求めた感状。知行について年寄衆へ申し渡して加増し、他所での客人待遇も整えると約束しており、軍功評価が具体的な恩賞へ結び付くことを示す。
年月日未詳 / 冊子 122頁
本文はNo.100の前半と同文であるため省略すると注記した島津義久譜の記事。新納忠元の軍労・長陣を賞し、知行加増を約した感状が義久の譜にも採録されたことを示す参照記事である。
(天正19年)12月 日 / 冊子 522頁
島津義久が、東国への二度の軍労をねぎらい、遠国ゆえ音信が途絶えたことを詫びる。名護屋へ向かう途中で虫気を発したため義弘と交替して上らせた事情を説明し、唐入りについては準備を怠らず奔走すると伝えた書状。
文禄3年4月14日 / 冊子 779頁
安国寺恵瓊が書状を拝見し、薩摩侍従を見舞うべきところ病気のため訪問を控えたと詫びる。代わりに同名の播州某を進め、直接返事を伝えるよう依頼する。 帰朝の命が出たことを知らせ、長期の軍労後は養生が肝要だと気遣い、詳しい口上を播州某に託した見舞状。
(慶長二年)三月十七日 / 冊子 93頁
島津義久が忠恒へ、長陣の軍労をねぎらい、義弘が渡海したので満足であろうと述べた書状。石田治部少輔から忠恒を速やかに帰朝させるよう命じられたと聞き、早々に上京するのを待っているとし、番船出動の風聞にも注意するよう伝える。
(慶長二年)七月三日 / 冊子 113~114頁
島津義久が伊集院抱節に、長期の軍労と赤国出勢への心遣いをねぎらった書状。又八郎が若輩であるため軍法について懇切に助言するよう頼み、義弘からも指示があるだろうが十分に力を添えるよう求め、茶一包を贈る。
(慶長三年)九月廿九日 / 冊子 240~241頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒に、長期の軍労をねぎらい、現地では速やかに引陣するはずだと伝えた書状。石田三成が筑前へ下向するため、諸事は現地で三成の了解を得ることが重要であり、忠恒自身の暇も直接申し渡されるのが望ましいとして、三成の在所まで赴き指示に従って判断するよう求める。図書頭をはじめ在陣衆にも苦労をねぎらうよう述べ、詳細は島津義弘(武庫)宛の書面に記したとする。
九月十一日 / 冊子 395頁
相良頼房が島津殿の肝付方面での長期着陣と軍労を慰労し、遠方ゆえ無音であったことを詫びる。現在の軍事行動を詳しく知らせるよう求め、詳細は定泉坊に託した書状。
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
天正十八年二月吉日ほか / 冊子 262~263頁/原整理番号 24の12
栗野宗廟正八幡の天正十八年二月吉日棟札写。大檀那島津義弘、地頭川上三河入道、奉行猿渡備後入道を記す。猿渡備後と越中の親族関係、信資が幼少で家督を継ぎ隈之城に住して諸所で軍労し文書を与えられた経歴を考証する。
年月日未詳 / 冊子 361~362頁/原整理番号 65
馬越から一山を見廻った時、大口の四千人ほどが二手に分かれて襲来したことを記す。小苗代原では肝付が諸隊に指示し、弓と鉄炮で戦った。一山地頭の忠元は白坂口へ出て的場五藤と戦い、大太刀を振るったが、五藤は負傷して退いた。続く諸隊の働きと忠元の鎧の損傷、敵の撤退を記し、三原・長谷場を使者として軍労に礼を述べたことを伝える。
記事成立日:未確認 / 冊子 67頁/整理ID KW1-G000053
下巻一軸の正文献は氏久公の簡牘から始まると述べる。 清有の多歳の軍労と功に対して修理亮氏久公から賜った簡牘は多いが、年号を記さないため事実の検討が難しいと説明する。 その他の書牘も同様であるとして、件々を後掲する。
(慶長四年)七月三日 / 冊子 395~396頁
島津忠恒が新納忠元に、現地へ赴いて軍務に尽力したことを賞する。老齢での在陣は大儀であると気遣いながらも、もうしばらく現地に詰めて動番を担うよう頼み、自身も近日出馬するので、それまで諸人に油断なく守備させることが肝要だと指示する。
五月六日 / 冊子 388頁
帰国後に会えないままであることを詫び、朝鮮在陣中の格別な辛労へ十分な礼を述べられないのは本意でないとして、改めて謝意を伝えるとした島津忠恒書状。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
天正十二年九月二十九日~十月二十日 / 冊子 939頁
九月二十九日から十月にかけ、小代氏・隈部氏・辺春氏の降伏と出頭を受け、宇土顕孝・合志親重を饗応して軍労を賞した。義弘は上井覚兼から戦場救護に必要な金瘡医術を学び、宇土氏とも交歓した。龍造寺政家以下が和睦して旗下に属したため、十月二十日に高瀬から八代へ向け帰陣した。
(慶長二年)八月朔日 / 冊子 126頁
島津龍伯が奥地で軍労を重ねる忠恒を気遣い、頼直坊法印に祈念させた札七つ・守り二つ・巻数を送った書状。そのうち義弘へ渡す分を指定し、在陣中の無事と戦勝を祈る。
(慶長三年)二月廿二日 / 冊子 196頁
川上三河入道肱枕忠智が伊勢弥九郎へ、島津忠恒の前年十一月三日付書状を正月二十五日に受け取り、朝鮮の陣所が無事で、奥地での軍労と勝利が名誉であると喜んだ書状。龍伯や宰相殿以下の供衆も無事であると報告する。石治少が関東へ赴いたため、島津義弘の書状を伊集院久左衛門尉に持たせ、同人の帰還後に竹内兵部少輔が事情を聞いて渡海する予定だと伝える。
(慶長四年)六月廿七日 / 冊子 392~393頁
島津忠恒が中務大輔に、その方面で多数を動員して尽力し、山田城を切り崩した働きを賞する。討死・負傷した手勢の軍労にも言及し、さらに攻め詰めることが肝要であるため、川上左近将監と伊勢兵部少輔を派遣して協議させると伝え、慰労の印として刀一腰を贈る。
七月廿三日 / 冊子 556頁
有馬純房が宿許へ、伏見城に徳川家康の内衆が籠城し、諸軍勢が昼夜攻めていること、島津義弘(惟新)以下が軍労していることを報じる。自身は大坂に召し置かれていたが人数の一部を伏見へ寄せ、城際まで進んで鉄砲傷の者を出したものの自分は無事であり、奉公に励む覚悟を述べる。あわせて千代丸兄弟の手習いなど家中のことを頼む書状。
九月十一日 / 冊子 575~576頁
本田正親が旅庵老へ、濃州出陣と軍労を慰問し、長宗我部・立花両氏の軍役人数と薩摩方の人手不足に触れる。出水は国境ゆえ在国衆を置き、他方からの申入れには吉凶とも遠慮して上意を守ること、自身も出水に在宅すること、城普請・御蔵入方を油断なく進めることを報告する。追而書では庄内百日番衆への配当を主人十石・内者三石とする案を示し、惟新との談合と祈祷を頼む。
文化6年6月廿九日(朱年注)。来正月廿一日遠忌予定 / 冊子 326~327頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1023
重豪公御譜中・扣正文在家老座。来正月二十一日の貫明(島津義久)二百年回忌について、百五十回忌には寺役を勤めた先例があり、今回の取扱いを妙谷寺が申し出た。寺社奉行を通じ記録奉行に調査させると、寛政5年に、五廟に当たる先祖の遠忌には供物・法事を行い、六代以前の格別な功徳のある先祖については供物または寺役をその都度吟味するよう定めていた。貫明は軍労を重ね、天正15年の秀吉来攻で国家が危急存亡にあった際、敵勢を察して早く和睦に及び、堅城・要害を守って抵抗する諸将に下知して下城を命じた。自身も薙髪して水引泰平寺の陣所で関白に謁見し、腰物大小を与えられた。領内が無事となり、庶民が水火の苦を免れて末代まで太平に浴したことを貫明の知勇・功徳として挙げ、六代以前の先祖ながら法事を営むのが相当とする。名代・代参・香奠その他も先例による。恩赦については、明和7年寅年の大中(島津貴久)二百年回忌に奉伺したところ、遠忌の恩赦はかえって御仕置の障りになる旨の仰出があった。その後の天明7年未年、慈眼院(島津家久)百五十年回忌にも恩赦の記録が見当たらず、今回もその扱いとする。殉死者の子孫に関する件も先例どおり法事の際に相談するよう申し談じ、別紙を添えて両殿に相談し意向を返すよう求める。百回以上の法事は終了後に御能を命じる先例も記す。六月二十九日、朱年注は文化6年。朱記の差出人は島津登、宛先は島津安房・鎌田典膳・川上右近。