尼聖興譲状
応安七年八月廿二日 / 冊子 70~71頁
尼聖興が子の左近蔵人兼久に、薩摩国山門院内成川村の田園を、兵衛五郎・かなめうひめへの譲分を除いて子孫まで譲与し、所領支配と公事負担について定めた譲状。
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応安七年八月廿二日 / 冊子 70~71頁
尼聖興が子の左近蔵人兼久に、薩摩国山門院内成川村の田園を、兵衛五郎・かなめうひめへの譲分を除いて子孫まで譲与し、所領支配と公事負担について定めた譲状。
応永六年十一月三日 / 冊子 184頁
島津元久が中馬左近蔵人へ、大隅国姶良庄西俣村内五町を祈祷所として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。
二月十日 / 冊子 153頁
鎌田政統らが本田蔵人に、上使下向に伴う石原での宿泊施設と振舞いの準備を指示した連署書状。宿は仮設程度に軽く造り、数百人の供衆には五、六か所で簡素な食事を供し、普請では前方衆の大工を使わず加治木の使衆と相談して整えるよう命じる。
閏二月十六日 / 冊子 156頁
喜入忠続と川上久国が本田蔵人に、去々年分の煙草出銭がいまだ未納であることを厳しく咎めた連署書状。延引は重い曲事であるとして、三日以内に全額を揃えて当地の蔵衆へ渡し、少しも猶予しないよう命じる。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87頁
足利将軍家が、島津周防五郎左衛門尉範忠の播磨国布施郷公文職について、亡父忠兼が貞和二年六月二十一日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87頁
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷地頭職に関する岩間四郎の件について、亡父忠兼が貞和五年七月二日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87~88頁
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷下司職などについて、亡父忠兼が観応二年正月二十四日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
天授三年六月卅日 / 冊子 108頁
島津伊久が本田左近蔵人兼久に、山門院西方内にある祖父兼阿の跡の村々と散在田園などを、証文と先例に従って知行するよう命じた宛行状。
延享二年三月廿八日 / 冊子 803頁/整理ID 2109
継豊が種子島蔵人に「久」の一字を与えた一字状。本文は一字「久」を中心とする簡潔な形式で、三月廿八日付の継豊の花押があり、正文は種子島蔵人所蔵と記される。
永正十七年六月十五日 / 冊子 624頁
蔵人左少弁藤原頼継が奉じ、藤原忠兼を修理大夫に任ずる旨を伝えた口宣案。
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
天正二年八月一日 / 冊子 342頁
天正二年八月一日、入来院重豊の使者村尾蔵人が祝詞と太刀を東郷氏に次いで献上しようとしたところ、島津家老衆が東郷・祁答院・入来院は同姓で序列に上下を付けるべきでなく、東郷氏の次は禰寝氏とすべきだとしたため、使者が承服せず帰った経緯を記す。
(文禄2年)3月6日 / 冊子 677頁
大刑少殿宛の荷物を滞りなく陣所へ届け、鎌田蔵人への伝言も届いたか確認する。唐人が「しおん」という場所に集結したとの情報を二度得たため、内々に警戒を固めるよう義弘へ知らせる。 唐人を発見した場合は昼夜を問わず連絡すれば、人数を率いて出動すると約束し、捕虜を得た際は事情を尋問するよう求めた警戒・情報書状。
年月日未詳 / 冊子 736頁
兄・久保の死を知った忠恒が号泣し、日々悲嘆を深めたことを記す。 その後、石田三成が吉岡蔵人を遣わして上洛を促したため、忠恒は十一月に栗野を発ち、日向赤江浦から乗船したが、冬の北風に妨げられ諸所の海岸で日を送った。
文禄4年5月21日 / 冊子 882~883頁
伊勢貞成が、前年正月に在所を出て渡海を企てたものの船が整わず、三月初めまで待機したこと、帰国した使者の指示や木付の京衆への対応で一度引き返し、再出航後も無風・降雨・潮や寄港地の違いに悩まされた経過を詳しく報告する。 後半では、長陣中の弟弥九へ人物を派遣したこと、蔵人殿・長寿・大坊主らの関係や検地時の出来事を伝える。渡海時の船団運用と、伊勢家周辺の人間関係を併せて知る書状である。
年月日未詳 / 冊子 209頁
慶長三年四月中旬、敵方の唐人龍海が和平使として晋州の番所へ来たため、島津義弘・忠恒が面会して饗応した。しかし敵方が和平の約を翻して大軍を出すとの報により、晋州・猿羽見の番衆を泗川新城へ引き入れた。また小西行長との内談のため鎌田蔵人・敷根藤左衛門を夜船で順天へ遣わしたところ、船が瀬に乗り上げて両名は死亡し、船頭らは新城へ帰還したと記す。
(寛永三年)八月廿八日 / 冊子 18頁
牧野清兵衛が島津家久の中納言任官を祝い、上様と又三郎様が息災であること、当地に異状がないことを知らせる。詳しい当地の様子は仁礼蔵人と鎌田左京から申し上げるとする。
(寛永八年)二月 / 冊子 191頁
蔵人が下向した折に迎えたこと、ある人物が近ごろ体調を崩していること、自身は元気であることなどを伝え、相手を気遣った島津家久とみられる仮名書状案。
(寛永八年)五月十一日 / 冊子 213頁
庄内北郷氏について、年頭礼や公儀への連絡の遅延、祝儀使者の手配不足、内之浦の殿役未履行などを列挙する。公儀と領内を別扱いし、仁礼蔵人の妻の祈祷を頼む使者を善財坊へ取り次がなかった事例などを挙げ、北郷領の役人・統治慣行を問題視した覚書。
十二月七日 / 冊子 399頁
島津家久の袖判条書。内談衆の協議、人事・知行、仁礼蔵人・山田民部少輔らの配置、沙汰の手順、検地・立野・南蛮宗などの案件を条項ごとに定める。
寛永十年正月三日 / 冊子 405頁
児玉利実が、寛永十年十二月初七日付の江戸書状を翌十一年正月二日に受け取り、筑後守が始良(姶良)の地頭職と毎年八木(米)三十石を拝領した旨を確認した記録。同夜の兵法初めは式部大輔邸での実施が延期され、仁礼蔵人の宿所で若衆によって行われた。寛永十一年正月三日付で藤原氏利実が署名し、追記では同月二十三日・二十五日の市来八右衛門らによる地頭拝領関係の連絡・進物を記す。本文日付は寛永十一年正月三日で、索引の寛永十年正月三日とは相違する。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
三月廿五日 / 冊子 114頁
前年の国分下馬で起きた衝突を江戸へ報告し、関係者の処分を伝えた連署書状。本田蔵人ら五人は知行・屋敷没収と遠方への追放、下馬始の中間隼人ら三人は死罪とし、市来・左衛門への処置も命じる。
四月廿九日 / 冊子 449頁
国中の支配を近日中に完了させるとの報告を喜び、苦労ではあるが万事に念を入れて速やかに決着させることが肝要だと命じ、詳しくは蔵人に述べさせるとした島津光久直書。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
(万治元年)七月廿一日 / 冊子 370頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0796
松平定行が鎌田蔵人へ、島津綱久から使者を通じて母儀の遺物として天鵞絨十巻入り一箱を贈られたことに礼を述べ、綱久本人にも書状を送ったと伝えた書状。
(万治元年)八月廿九日 / 冊子 371頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0801
伊勢貞昭が鎌田蔵人へ、曹源院(光久夫人・伊勢氏との刊本注)の葬礼における位牌持は御子様のうちでもよいという内意だったが、自分に命じられたと伝える。この事情を適当な折に耳へ入れ、上聞に達するよう求める。
(万治三年)九月朔日 / 冊子 426頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0891
松平定行が鎌田蔵人へ、島津綱久の奥方が八月十五日に湯治の暇を許され、二十一日に熱海へ向かったと聞いたため、道中無事に到着して入湯したか尋ねた書状。先に綱久と家老らから書状を受け、鎌田が無事に江戸へ在府していることも喜ぶ。
(万治四年)一月二日 / 冊子 434~435頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0920
島津図書久通が鎌田蔵人へ、金山は出入りが多く節季には山中五千人ほどになるとの見込み、近国からの米の流入、山中米六十五匁・肥後肥前七十匁ほど、芹ケ野山と長野山下の金脈・入人の状況を報じる。島津大膳の喜入名跡・知行千五百石と屋敷、養父死後の扱い、弾正の下総養子・知行千七百石余と別給三十斛等を述べる。馬は相良蔵允の好み、馬場貴の見立、鼠の痩せた様に足長く筋細い形、星栗毛曲の馬と当分乗料として申し受け置くこと、乗方評価の相談を記す。年内の鷹御免を喜び、鎌田源左衛門・町田勘解由も同断とする。極月十八日の琉球衆振舞と珍味、長命寺・三井寺・養老の湯等で結ぶ。
(寛文三年)正月八日 / 冊子 459~460頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1006
千世松の祖母が鎌田蔵人へ、北郷名跡について千世松の喜入摂津守との縁組・名字免許・家相続が上意で認められたことに安堵したと申し上げる。屋敷へ移ること、北郷又次郎へ家伝刀と少々の知行を添えること、買地・開地の事情を見て三百石を渡す案、承引しなければ北郷掃部と相談すること等を述べ、家督と奉公継続を願う。摂津守の祝言に別儀はないとし、風邪で出向けないため、回復後に御前で口上する予定を記す。卯正月八日、千世松ばゝ署。
(寛文三年)七月三日 / 冊子 466~467頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1032
町田久則が、琉球船の不参と道之島からの便船、功労者への褒賞、江戸での銀不足、国元留守中の知行・銀米処置、松崎采女便による指示、須木・小林の山林・材木問題などを鎌田蔵人らへ報告・協議した書状。
寛文三年七月十九日 / 冊子 467~468頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1033
町田久則が、高崎四郎兵衛・蒲生正左衛門を国元の見分役に任命すること、旱魃と井戸・用水、琉球船不参、銀不足、知行・扶持米、借銀と金山資金などについて鎌田蔵人らへ指示・協議した書状。
寛文三年七月晦日 / 冊子 468~470頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1034
島津久通が、金山経営に伴う銀・米の借用、山掘り・山師・山功者への給付、家老衆や奉行との相談、扶持・知行・褒賞などについて鎌田蔵人へ報告・協議した書状。
寛文五年十月十五日 / 冊子 508~510頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1132
島津久通が鎌田蔵人らへ、新田開発と水廻しの費用調査、金山の火災・採鉱と吹金、新川開削・移住者、百姓と奉公人、逃亡・死亡・欠勤者、御座所経費など複数の領内案件について、調査・帳簿・処置と報告を求めた書状。
貞享五年三月廿七日 / 冊子 810頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2131
家老連署の覚に、公儀流人とその一類との通路を禁じ、やむを得ない事情があれば伺うという江戸老中の命令を、預かる流人にも堅く伝えるよう記す。難渋があれば申し出、本人や当国の同類その他から密かな書状の取替えなど不審があれば早速披露し、緩慢なら預主の越度とする。種子島蔵人および金武按司・三司官への伝達として掲載される。
元文二年十月朔日 / 冊子 472頁/整理ID 1139
島津継豊が種子島蔵人に偏諱の一字『久』を与える。
辰二月11日内田仲之助、紘様宛 / 冊子 514頁/原整理番号 671の3/整理ID 671-2
添える書付一通は、王政一新に際して御領地の内十万石を御用途へ返献したいという御官名の願で、非蔵人鴨脚加賀を取次先とする。内田仲之助はその日に二条城内国掛へ出頭し、加賀に面会して演説した上で差し出したが、上下参与方が出動していないため預置きにすると聞いたと報じる。今日自分がこの用務を勤めたことを伝え、辰二月十一日に紘様へ首尾を知らせる。
辰五月17日、八時分の出頭記事、内田仲之助 / 冊子 574頁/原整理番号 746の6/整理ID 746-5
五月十七日八時分に辨事御役所から重臣が呼ばれ、内田が代理で出頭し廊下左側の席で正親町三條大納言に面会したと述べる。関東の情勢を受け太守が東海道へ進み総督宮と相談して鎮定する旨を、正式な表向きの沙汰は両日中だが先に内達すると伝えられ、請書を提出するよう求められたとする。右非蔵人口へ請書一通(御官名表示)を持参し、坊城侍従が出席したため事情を述べ、面談所で待つと辨事から奏聞すると聞かされたと記す。辰五月十七日、内田仲之助の署、右一通。
正月卅日 / 冊子 42頁/原整理番号 59
三原重庸・川上久国が仁礼蔵人頼景に、薩州様の下向に伴って各所から迎えの者が参るため、船元まで他領を通行できるよう通手形を発給するよう求める。
二月朔日 / 冊子 52頁/原整理番号 73
川上久国・三原重庸が仁礼蔵人頼景へ、薩州様の着船が近いと見込み、急なことで諸事が整いにくいため、細島から高岡までの振舞や送りを油断なく準備するよう命じた連署書状。
二月二日 / 冊子 55頁/原整理番号 81
川上久国・三原重庸が仁礼蔵人頼景へ、薩州様着船の知らせを尋ねる。三日続きの大雨で日州に洪水が起きることを懸念し、渡船への注意を求めるとともに、黄門様の病状が軽くなり、薩州様の到着でさらに快復することを願う。
応安七年八月廿二日 / 冊子 5頁/原整理番号 171
尼聖興が、重代相伝の薩摩国山門院実成河村の田畠等を、子息左近蔵人兼久へ一期を限って譲った譲状。子孫に至るまで他の妨げなく領知すべきことを定める。応安七年八月二十二日付。
年月日未詳 / 冊子 153~155頁
天正十四年三月二十七日の伊地知蔵人重増をはじめ、天正年間に豊後・筑前・筑紫・日向などで討死した島津方武士を、氏名・戦場・年齢・所属・同時戦死者とともに列挙する『殉国名藪』。岩屋城攻め、豊後陣、高城・赤城など各地の戦死者を収め、父子・兄弟・主従がともに戦死した例や遺族関係まで付記する。九州統一戦で島津軍が負った人的損失と家臣団構成を具体的に追える名簿史料である。
年月日未詳 / 冊子 736~738頁
久保死去後、石田三成の使者・吉岡蔵人が忠恒の上洛を促すと、竜伯は新納旅庵を京都へ派遣し、三成・細川幽斎へ家督問題を取り次がせた。 秀吉から忠恒の家督相続が認められるまでの交渉と、忠恒の名護屋・朝鮮方面への旅、旅庵がこれに随行して島津家の継承を支えた経過を詳しく記す。
年月日未詳 / 冊子 64頁
仁礼蔵人景親が長年江戸で島津家久に仕え、よく勤慎したことを家久が賞し、知行百石を加増したと記す系譜記事。
辰正月29日、新納嘉藤二から伊勢様 / 冊子 517頁/原整理番号 674の3/整理ID 674-1
御官名の書付一通として、豊後日田・長崎に出している兵隊の人数引揚げに関する件を掲げる。松室伊勢へ持参して面会し差し出すと、披露する旨を聞いたと報じる。今日自分たちが差支えたため留守居付役隈元敬一郎がこの用務を勤めたとして、辰正月二十九日に新納嘉藤二が伊勢様へ首尾を知らせる。
建仁二年十月日 / 冊子 97頁
大隅国臺明寺の寺領・住僧に関する訴えについて、先例と証文を調べ、妨害を停止するよう命じた蔵人所下文。
建仁二年十月日 / 冊子 97~98頁
臺明寺の僧・所領をめぐる争いについて、在庁官人らに調査と裁許を命じ、違乱を止めさせた蔵人所下文。
享保六年七月廿一日 / 冊子 473頁/整理ID 1268
伊集院蔵人が鳴津将監へ、六月九日以後の勤方、家老の座席順、隠居料壱万五千石に関する書付を伝え、記録所に控えを置くよう申し渡す。
享保六年七月十一日 / 冊子 482~483頁/整理ID 1292
伊集院蔵人が、吉貴の上総介への改名に伴い、佐之助らの名や家中での呼称変更を文書で通達するよう申し渡す達書。