国分友次起請文
慶長十二年四月廿六日 / 冊子 113頁
慶長十二年四月二十六日、国分友次(平蔵)が別府舎人佐に提出した起請文。長年懇望していた弓箭に関する相伝を受けるにあたり、伝授された秘事を決して他言しないことを誓う。違反した場合は、梵天・帝釈・四大天王をはじめ、日本六十余州の神祇、新田八幡・開聞・大隅正八幡宮・霧島・白鳥・妻万五社・諏訪・稲荷・春日・愛宕山などの神罰・冥罰を受けるとする。
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慶長十二年四月廿六日 / 冊子 113頁
慶長十二年四月二十六日、国分友次(平蔵)が別府舎人佐に提出した起請文。長年懇望していた弓箭に関する相伝を受けるにあたり、伝授された秘事を決して他言しないことを誓う。違反した場合は、梵天・帝釈・四大天王をはじめ、日本六十余州の神祇、新田八幡・開聞・大隅正八幡宮・霧島・白鳥・妻万五社・諏訪・稲荷・春日・愛宕山などの神罰・冥罰を受けるとする。
(元和元年)閏六月四日 / 冊子 599~600頁
酒樽一荷を贈り、書信を交わして無事を知らせ、今後も別府舎人助に諸事を依頼した書状。索引表題は島津家久書状だが、本文署名は伊勢兵部少輔貞昌。
(慶長十九年)九月廿五日 / 冊子 551頁
島津家久の咳気を案じ、その快復を願う。使者を介して伝えられた女性に関する案件について、自分たちの分別で処理せず、家久の意向に従うと回答した書状。
慶長十九年十一月吉日 / 冊子 561頁
膳配の奉公を入念に勤め、計策があれば隠さず報告し、不届きがあれば処罰を受けることを神々に誓う海老原為重の起請文。
慶長十九年九月十三日 / 冊子 548頁
伊尻祐存が島津義久・義弘への奉公を願い出た書状。兄弟六人が朝鮮・京都で戦死して後ろ盾がないことを訴え、自身を召し抱え、長刀を帯びて奉公することを許すよう三原らに取り成しを求める。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日の横川城攻防に参加した島津方の従軍者と働きを列記する交名。箕匂舎人佐・村田雅楽助・瀧聞美作守・本田刑部丞らを挙げ、濱田民部左衛門が敵七人を切り捨てたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
神戸久五郎が、八月朔日の伏見落城時、松丸口で父松岡勝兵衛が五代舎人と先頭に立ち、矢狭間を開いて槍で戦ったことを記す。勝兵衛は草摺を鉄砲で撃ち抜かれて瀕死の深手を負い、財部傳内は門内で敵と組み討死した。勝兵衛は島津義弘(惟新)の毎日の見舞いと薬により助かり、大柿への供を望んだが歩けず、のち大坂で米六十石を与えられたという。
(慶長七年)十二月廿三日 / 冊子 867頁
島津忠恒が伊集院久治へ、別府舎人佐の上洛時に贈られた巻台を喜び、大切にすると礼を述べる。内府が近日上国するので、目見えを済ませ次第吉報を知らせるとし、印籠と香箱を贈った。
(慶長十七年)後十月九日 / 冊子 380頁
慶長十七年後十月九日、五代舎人助と日高藤右衛門尉が、七十四石七斗五升四合分などに対応する銀子七十四匁七分五厘四毛を皆済として受け取った連署請取状。
年月日未詳 / 冊子 391頁
島津家久譜に、家久が駿府へ参府しようとして別府舎人を本多正純へ遣わし内意を尋ねたところ、在国せよとの命を受け、用事があれば速やかに上洛するよう告げられた記事。
八月廿一日 / 冊子 66頁
新納忠清・肥後盛行・大寺政安が、大脇舎人佑の知行高十四石の算入先について連署した書状。当初は相手方の高へ籠めるよう伝えたが、改めて山田民部少輔を通じて当地の高へ算入せよとの命が出たため、その処理を通知する。
九月廿日 / 冊子 75頁
川上久國が新納仲左衛門尉・市来備前守に、大脇主馬丞の子息舎人佑へ肥後内膳正の知行の一部を分け与え、当地へ移すよう御老中が命じたことを伝えた書状。山田民部少輔が使者を務め、詳細は主馬丞から伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 211頁
近況を尋ね、願成寺と相談する案件のため別府舎人助を派遣した機会に書状を送り、到来品の焼酎一壺を音信のしるしとして贈った書状案。詳細は使者の口上に託した。
六月廿一日 / 冊子 211~212頁
祈念に関する用件で別府舎人助を派遣し、事情は口上で述べるので十分に理解して懇意な対応を求めた。綾子十端・季節品二つ・焼酎一壺を進上した書状案。
年月日未詳 / 冊子 644頁
十三年に及ぶ在京の人質生活を終え、島津忠恒から衣を拝領した感激を、衣の香に触れて我が身を尊く感じる趣旨の和歌に詠み、使者別府舎人助を通じて上覧に供した新納忠元の詠草。
(慶長七年)十二月廿六日 / 冊子 868頁
No.1750の島津忠恒書状と同文のため本文を省略した文書。『伊集院譜』所収本では日付が十二月二十六日とされ、No.1750の十二月二十三日と異なることを注記する。
正月廿九日 / 冊子 212頁
新年を祝い、かねて頼んだ事柄に対する懇祈の霊験が奇妙なほど現れたことへ深謝し、礼は使者に託した。一種二荷と銀子三十枚を贈り、酒は国元で用意した自身が日常飲む品なので賞翫してほしいと述べた書状案。
(天正元年九月廿七日頃) / 冊子 318頁
友野元真が早崎陣詰めの際、枝元神左衛門を討ち取り、女性一人を捕虜とした戦功を記す。その女性は中江主水佐の継母であり、合戦の証人として伊集院久治・箕輪舎人佐・木藤日向守・上原長門守・伊地知伯耆守を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 233頁/原整理番号 333-17
二月二十七日、長岡右馬助組の有吉舎人佐が、二之丸で槍・長刀を持つ二人に向かい、一人を突き伏せて打ち捨てたと申し出たもの。その様子の証人に田中又助を挙げる。
月日 / 冊子 368頁/原整理番号 442
池袋九左衛門と壱岐舎人佑が野村五郎左衛門尉へ、甑島の船頭清左衛門の十三端船一艘に原記『立五十帖』を積んだので、その津で受け取るよう求めた三月六日付の送状。積荷には小字で『楯板ナラン』と注記する。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 153~154頁
永禄九年十月二十六日の小林三の山攻めに参加した将兵を、戦闘配置や戦功とともに列挙した交名。城口から二之丸までの攻撃に加わった市来・加世田など各地の武士を掲げ、阿多中務丞、末弘又左衛門尉、本田治部少輔らには戦死の注記を付す。
年月日未詳 / 冊子 17頁
島津常久の動向をまとめた譜記事。五月四日の端午祝礼で単衣二領を賜ったこと、十四日に町田勝兵衛尉とともに福島左衛門大夫を訪ねて贈物を届けたこと、十八日に伊勢貞昌の案内で本多上野守へ太刀・馬代・段子を進上したこと、六月朔日に警衛のための宅地を与えられたことなどを記す。
弘安十年二月日 / 冊子 331頁
守公神御侍の神役負担を記した注文。長畳・小畳の帖数、村ごとの負担、小舎人の幣束・膳、浜殿借屋の畳・酒・什器、橋皮・庭草などの品目と数量、調所から出す分を列挙する。
文政11年8月2日(記事。年次は目録と周辺年次) / 冊子 790頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2230
重豪公御譜の記事。秋八月二日、大家が使番小野舎人を遣わし、重豪に御鷹の雲雀を賜う。織田大和守秀陽が重豪に代わって受け取る。目録は文政十一年の記事として掲載する。小野舎人に続く名は原本で「忠一芝郎」と見えるが、名と訓点等の分節は確定せず、拡大画像を根拠として字形留保を記録する。本文にない鳥の数や献上元の実名は補わない。
甲子3月写之(編成図後記) / 冊子 349~350頁/原整理番号 496の3/整理ID 496-3
長州征伐に付く御備立の図で、甲子三月に写したと記す。中央に御旗本・御名代嶋津周防を置き、六つの物主隊と、北郷数馬・仁禮舎人・田尻務・嶋津織之介・川上右膳・嶋津權五郎の一~六番号隊を配置する。物主隊には小銃・大砲の区分と各百七人、番号隊には各百五十六人の記載がある。大目附町田民部、小荷駄奉行市来次十郎、喜入摂津等も示す。末尾は御城下人数七百六人、惣合二千五十二人と記す。図の配置・役割別人数と末尾総人数をそれぞれ原記載で示すが、内訳の重複や集計範囲は明示されないため、合計を組み直して実出陣人数とは確定しない。山田の名は前条の大炊に対し図では司と記す。
子8月26日(割当書) / 冊子 378~379頁/原整理番号 542の1/整理ID 542-1
子八月廿六日、長州討手の先陣惣督を嶋津又六郎、副惣督を主殿、一陣惣物主を隼人とし、一・三・六番の物主に刑部・織之介・登を割り当てる書付。大口の山田司、志布志の福崎助七、国分の川上左太夫、清水の武宮十五衛門、二番の仁禮舎人、田布施の喜入雄次郎、末吉の川田掃部、高城の長束十郎、阿多の柳半之丞、帖佐の伊集院喜左衛門、大崎の益滿與右衛門を列記する。末尾にこのとおり長州討手を命じた旨と三原傳左衛門の名がある。担当・役職・組の対応を示し、各組の実出兵人数は記されない。
辛未7月18日知政所 / 冊子 831頁/原整理番号 1047の1/整理ID 1047-1
月三回の参内について、二の日を定日として十時に参仕し、政府宮内省へは舎人を通じて届け出るよう定める。また二十四日に東京へ出頭するよう命じ、継続して承知するよう申し渡す。辛未七月十八日知政所。
二月廿一日 / 冊子 176頁/原整理番号 295-2
市来宗友の覚書。陣屋の外廻番衆として、本野大学助・垂野源左衛門・尾方対馬守・馬渡四郎兵衛・赤塚源太左衛門・同名主水佑・村田五右衛門・帆芦舎人佑・池田源蔵・川嶋杢丞の十人を列記する。本文日付は二月二十二日で、目録日付の二月二十一日と異なる。
年月日未詳 / 冊子 233頁/原整理番号 333-18
有吉舎人佐・澤村宇右衛門・築紫大膳・萩図書(編者注『薮カ』)の各組について、軍功衆の氏名を列記した人名書上。年月日・宛先や各人の具体的な働きは本文に記されない。
年月日未詳 / 冊子 252~255頁/原整理番号 333-40
小笠原備前組を中心に、二月二十七日の原城総攻撃で各組が二之丸・本丸へ突入した経過と、軍功・死傷を列挙した記事。前夜の仕寄場当番を終えて組士が休息中、城乗りを聞いて出動し、番頭有吉舎人が真先に二之丸へ攻め入って一揆二人を突き留め、妙解公から高名を与えられたこと、七十三歳の藤本勘助と河村伊右衛門らが備前旗を進め、諸番頭・組士が石垣・升形を攻めて多数の討死・手負を出したことなどを記す。末尾の『伝曰』以下では、寄手が本丸を包囲しても一揆側は決死で防戦すると述べ、先祖・主君・上使らを意識して一同で乗り崩せとの評言を掲げ、その言葉で総勢が突入し、病中の志水伯耆に代わる嫡子新之丞の組にも死傷者が出たとする。
年月日未詳 / 冊子 303頁/原整理番号 119-5
薩摩国図田帳から前内舎人康友の所領と職掌を抜き出した抄録。牛屎院内の木崎十五町では名主、同国鹿児島内の府領社七町五段では下司、公領百九十七町では郡司として康友を掲げ、文治から建久頃に領主となったと記す。鹿児島の箇所には『郡』字脱落かとの傍注があり、『旧記雑録前編一』205号文書と同一とされる。
慶長十二年六月吉日 / 冊子 121~122頁
慶長十二年六月吉日、喜入久供ほか八名が別府舎人佑・高崎弥六に提出した連署起請文。弓箭の伝授を受けたことを身に余ることとしてありがたく受け止め、相弟子であっても重位の秘事を他言せず、日夜油断なく弓の修練に励み、指南者の中に別心の者がいれば知り次第言上することを誓う。違反時には、梵天・帝釈・四大天王以下、日本六十余州の神祇や新田八幡・開聞・霧島・稲荷・春日・愛宕山などの神罰・冥罰を受けるとする。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 238~239頁/原整理番号 333-22
二月二十七日の本丸乗取りで、益田才助が東隅から四人で一番に乗り込んだと有吉舎人へ申し出たもの。証人に石谷十蔵配下の浪人岡本八左衛門と寺尾左助組の鉄砲者を挙げる。乗込み後、槍を持つ敵一人を突き倒したが首は取らず、加藤安太夫を証人とする。また甥一人を伴って同じ乗口から入り、小屋へ放火した後に槍で戦い敵の首一つを取り、小野権十郎を証人とし、印は組頭に見せて捨てたと述べる。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
新納氏古日記の寛永十九年六月の記事。六月三日に島津光久が日光参詣へ出発し、新納右衛門佐以下の供奉者を記すほか、六月二十八日から七月十五日頃にかけて道具衆が持ち下ったことと、御曹子島津綱久の元服に関する事項を記録する。
慶長十二年六月吉祥日 / 冊子 122頁
慶長十二年六月吉祥日、白濱重昌が弓箭の古儀を守り、同僚を重んじ、秘密を漏らさず、上意に忠実であることを諸神に誓った起請文。
応長元年閏六月日 / 冊子 432頁
殿下御方蔵人所舎人のうち、光貞・末吉・成重・友行・友重・家弘・清行・重元らについて、響析饗差酒肴五五段を割り当てた請取文書。
明和二年(日付記載なし) / 冊子 79~80頁/原整理番号 181の49/整理ID 181-49
日光の副使衆の旅宿と宿坊を列記した書立。「御名」の項は遊成院とあり、編録にママの注記が付く。他家十五件は、藤堂和泉守が教城院、松平陸奥守が観音院、松平土佐守が禅知院、有馬中務大輔が華蔵院、上杉大炊頭が實教院、松平大膳大夫が観音院、伊達遠江守が観音院、松平阿波守が實教院、松平相模守が安居院、松平信濃守が照尊院、宗対馬守が藤本院、佐竹右京大夫が實教院、松平光丸が浄土院、松平筑前守が教城院、細川越中守が浄土院と記す。松平筑前守の名にも本ママの注記がある。旅宿・連絡先として、藤堂の項に本町・武井岡右衛門・教城院、土佐守の項に御幸町・小野伊兵衛、有馬の項に日光御目代山口惣兵衛の家来・出町壱町目・神山又助、上杉の項に稲荷町一町目・嶋田内蔵、大膳大夫の項に下鉢石御幸町・南間大助、伊達の項に善教坊、相模守の項に鉢石町・永井舎人、信濃守の項に鉢石稲荷町・勧徳房、宗の項に多門寺、筑前守の項に鉢石・申橋主計、細川の項に入町・高野七左衛門を掲げる。宿坊のみの項もあり、すべてに別の旅宿や町名を補うことはできない。日付と差出人の署名はない。
正月廿六日 / 冊子 10頁/原整理番号 6-1
『島原軍衆人数差出留』の正月二十六日条。上津浦の土持左馬権頭以下、船廻りなどで各地へ到着した者の主従・人鉢・忰者夫丸を列挙する。鹿児島衆は計四百四十三人(人鉢四十人、御道具衆四十九人、忰者夫丸三百五十四人)。喜入舎人を米之津から帰したため除き、三口の合計を千八百四十六人(人鉢百六十六人、道具衆四十九人、忰者夫丸千六百三十一人)とする。
慶長十一年八月吉日 / 冊子 148頁/原整理番号 88
慶長十一年八月吉日の犬追物手組。「二日二番」と題し、家久様、吉田治部左衛門尉、仁礼舎人佐、山田民部少輔、島津式部少輔らの射手と各人の犬数を列記し、検見・喚次の役を付す。
年月日未詳 / 冊子 101頁
建久八年の薩摩国図田帳の抜書とされる記録。牛屎院・鹿屋院などの田地、名主、給分を列記する。
宝永元年九月四日 / 冊子 497–498頁/整理ID 1742
長岡是康ら六人が島津中務ら五人へ、江戸へ向かう島津玄蕃が領内を通過した際、宇土町近くで町田五郎左衛門の家来が人馬を傷つけた件に返答した連署書状。乱心による行為と聞いて心配したが、負傷者と馬は治療を受け日ごとに快方へ向かっていると伝える。
甲子8月26日軍備・27日写/8月25日家老座・26日勝手方周知注 / 冊子 380~382頁/原整理番号 542の4~5/整理ID 542-4
原の4は旗本の惣督又六郎・副惣督主殿、一陣の組と番号隊を配置する軍備図。高山・大口・大崎には五百目弐挺を示し、国府・高城・清水・志布志・阿多・田布施・伊集院・末吉・帖佐、三・四・二・一・六番の各隊へ中軍・左右備・先手・遊兵・跡備と砲種・挺数を対応させる。五百目・六百目・七百目・二封度などは砲の原表示で、人員数ではない。甲子八月廿六日の長州征伐の軍備、同廿七日の写とする後記を持つ。原の5は九州討手の四順と、七月廿四日の指示どおり人数を繰り出し、八月下旬から九月十日までに筑前へ集会して指図を待つよう命じる書付。状況によっては指図前に進むことも認め、家の高に応じて精兵を選び雑人を省き、大小の船も用意するよう求める。子八月廿五日の家老座通知と廿六日の勝手方・中村新介取次を収める。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
二月十日 / 冊子 113~114頁/原整理番号 177
『国分賦所日記』。国分役所が、楯板十枚・熊手十挺を出水米之津の竹内宮内左衛門らに注文して長櫃へ収め、正月十七日付の季安らの書状により公儀の命として島原へ渡すよう調えた経緯を記す。二月十日、楯十五枚・熊手十挺の調達・搬出に関わる者を任命した。
年月日未詳 / 冊子 183~184頁/原整理番号 307-3
水野日向守が二十六日の総攻めの触れを聞き、子の美作守と孫の伊織助に、鬨だけを上げて控えるのではなく先手として働く覚悟を問う。美作守は、伊織助の初陣でもあり、軍法に背くことになっても先手が乗り込むのを見物することはできないと誓う。日向守は家老・組頭・足軽大将・武者奉行・旗奉行・馬印奉行らを呼び、鍋島勢が塀へ攻め掛かって損害を受け人数が減る時を見計らい、後方から二の丸へ押し入り本丸を第一に乗り取る作戦を命じた。本丸を落とせなければ自分を駕籠ごと塀内へ投げ入れよと述べ、父子討死の覚悟と若者の奮戦を促し、旗・馬印奉行の心得を特に重視した。しかし二十四日夕方から車軸を流す大雨となり、触れを出すまでもなく攻城はいったん中止された。
七月二日 / 冊子 471頁/原整理番号 604
壱岐秀晴は、切通番衆からの報告として、水俣に割り当てられた水主が前日酉刻に出発して松橋に集まり、船奉行が加子70人を召し連れ、佐敷からも70人が来ると聞いた旨を御曖衆へ伝える。変化があれば追って知らせるとする。
慶長十二年八月廿七日 / 冊子 148頁/原整理番号 89
慶長十二年八月二十七日の「初日一番四角之外」の犬追物手組。家久様八疋、比志島宮内少輔三疋、島津善四郎三疋などを配し、検見を島津十郎左衛門尉、喚次を島津雅楽助とする。
正月十一日 / 冊子 147~148頁/原整理番号 258
伊作の国分戸左衛門が、山川地頭十右衛門のもとで島原一揆出兵に伴う兵站と帰国供奉を務めた経緯を述べた訴状。上之川伝左衛門と山川勢百五十人を率い、米之津で兵糧米百五十人分を受け取ったが、島津光久の帰国により返納し、山田松巌の書付で収納を実現した。その後、川内から鹿児島へ急行する一行のため兵部殿の乗物を調達・運搬し、日高安右衛門・内田権兵衛らの自力騎馬参陣も披露したことを述べる。