後村上天皇綸旨
正平十九年二月一日 / 冊子 32頁
後村上天皇の意向を奉じ、渋谷能登守に、御方へ参じて一族を勧誘し軍忠を尽くせば本領を安堵し、忠節には恩賞を与える旨を伝えた綸旨。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
450 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 9
正平十九年二月一日 / 冊子 32頁
後村上天皇の意向を奉じ、渋谷能登守に、御方へ参じて一族を勧誘し軍忠を尽くせば本領を安堵し、忠節には恩賞を与える旨を伝えた綸旨。
応永十九年八月廿三日 / 冊子 266頁
島津久豊が称寝能登守に、大隅国指宿内原田八町を由緒に基づく新所領として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。
文安六年 / 冊子 418~419頁
持家が薩摩国山門院三百五十町のうち、先々高小野分を亀太郎丸へ譲り、末代まで相違がないよう定めて能登守へ進めた譲状。
至徳二年十月十一日 / 冊子 128頁
能登守基久が冠嶽山社壇の宝殿造営のため、馬一疋を奉加した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 55頁
指宿能登守を祖として、忠篤から忠泰次郎・忠勝能登守・忠元左京亮・忠平掃部介へ連なる系譜を示した指宿氏系図。
年月日未詳 / 冊子 785~786頁
天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて川南を押領したため、伊東義祐が北郷忠相らの加勢を得て討伐した経過を記す。島津忠広の援助、両軍の布陣、戦闘と長倉方の処置に及び、地域領主の離反が伊東・北郷・島津各勢を巻き込む戦役となったことを示す。
七月廿五日 / 冊子 790~791頁
伊東義祐が北郷氏に、長倉能登守らの謀心を挙げ、勝敗の理由を問い合わせるとともに、兄上の意向に従って忠節を尽くすよう求めた書状。
文安六年二月九日 / 冊子 419頁
平家教が亀太郎丸へ、横峰村・くきさこ・芝引・しもたかう・上原などの所領と屋敷を列挙して末代の財所として譲った譲状。
寛政6年閏11月(本文。日なし) / 冊子 83~84頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0274
斉宣が拝借金二万両のうち一万両を請け取った旨を記す請取状と老中裏書。外の一万両は江戸御金蔵から請け取る積りとし、No.273とは請取場所と宛先を分ける。用費の重なりと先頃の上納金後の難儀を理由に拝借を命じられ、書面の通り受領し、来る巳年から十ヶ年賦で上納する旨を約する。寛政6年寅閏11月、松平豊後守御印、大坂町奉行松平石見守・大坂御金奉行坂部能登守宛。裏書は表書の金一万両を渡すよう認め、本文がある旨を注する。對馬・備中・采女・伊豆の四官途を記し、對馬には病気による無加印の注がある。
文化8年10月11日(朱年注) / 冊子 376頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1177
全御譜中・扣正文在右筆所。公方・大納言の機嫌がよいことを喜び、自分の湯治御暇が願いどおりになった恩をありがたく述べる。昨日、摂州有馬に到着したため報告するとする。文化8年朱注、10月11日、伊豆・牧野備前・土井大炊・青山下野・西丸能登の五宛。独立した署名はなく目録の島津重豪書状を採る。昨日到着を10月10日の到着報告として読み、1164旅程の10月10日有馬到着とも一致するが、本書日付11日と到着10日を分ける。
文化8年10月12日(朱年注)。参詣日は本文「去十四日」 / 冊子 378頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1184
重豪公御譜中・扣正文在文庫。公方の機嫌がよいことを喜び、今回増上寺で文照院(照に昭注)の百回忌法事が執行されたこと、去十四日に御霊屋へ参詣したと承知したことをありがたく述べ、この旨を報告するため飛札を送る。原表記の文照院の照に昭との注を付す。文化8年朱注、10月12日、松平榮翁署、伊豆・牧野備前・土井大炊・青山下野・西丸能登の五宛。御霊屋参詣は承知した事柄であり、榮翁自身の参詣実績として断定しない。本文の去十四日は月を明示しないため、文書日から10月14日と補って逆転させず原表示を保持する。
建徳元年11月21日(1370) / 冊子 456頁/原整理番号 14-13
征西将軍宮の令旨を前中納言が指宿能登守へ伝え、知覧美濃権守忠泰に、亡父忠平の譲状どおり薩摩国知覧院および河辺郡を支配させるよう命じた建徳元年十一月二十一日付文書。指宿能登守は鮫島下野守と現地へ赴いて忠泰へ下地を引き渡し、異論があれば起請の文言を記して注進するよう求められた。
文安6年(己巳。月日なし) / 冊子 660頁/原整理番号 139
文安六年、持家が薩摩国山門院三百五十丁のうち、先々から高小野の分であった土地を亀太郎丸に譲り、末代までこの所領に相違がないよう定めた譲状。持家が花押を据え、末尾に『能登守殿進之候』と記すため、進達先の能登守と譲受人の亀太郎丸は別人である。月日・具体的な坪付は本文にない。
年月日未詳 / 冊子 231頁
指宿氏について、能登守忠勝から郡司正忠・女子師犬・指宿郡司忠合・近江守頼忠・朝忠らへ至る系譜関係を図示した略系図。
応永十七年六月 / 冊子 240~241頁
将軍足利義持が島津元久の在京屋形へ御成りになった際の御目見人数と進上物を列記した注文。北郷中務少輔、樺山安藝守、加治木能登守、野邊右衛門大夫ら一門・家臣が太刀・銭などを献じたことを記し、将軍接遇における島津家中の序列と役割を示す。
年月日未詳 / 冊子 786~787頁
天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて河南を押領したため、伊東義祐方が北郷忠相へ援軍を求めた合戦を記す『庄内平治記』。島津忠広も長倉方を支援し、清水城周辺で両軍が攻防を重ねた。各勢の布陣と進退を追い、長倉兄弟が敗北して地域支配を失うまでを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
天文九年頃、伊東氏に背いた長倉上総介・能登守兄弟が島津忠広へ援軍を求めた事件を記す。北郷方を含む諸勢の出陣、清水城周辺での攻防、双方の戦死者と部隊の退却を追い、伊東領内の内紛が島津・北郷勢の軍事介入へ発展した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
伊東氏と長倉上総介・能登守兄弟の争いに際し、島津忠広方が福島・志布志などの諸勢を集めて出陣した経過を記す覚書。清嶽・鬼山周辺での兵配置、城攻め、戦死者、援軍到着、撤収までを追い、伊東方支援に動員された大隅・日向国境軍の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 789~790頁
島津忠朝の系譜と事績をまとめ、忠広方と伊東義祐方の戦争を記す。長倉上総介・能登守兄弟をめぐる争いから忠広方が出陣し、清嶽・鬼山などで戦闘を重ねた経過、島津貴久らの仲介を含む交渉を追い、最終的に伊東方との講和へ至ったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 790頁
天文九年、伊東義祐が長倉上総介・能登守兄弟を討つため北郷忠相へ援兵を求めた経過を記す。忠相方は川南へ出陣して長倉方と戦ったが、戦後の処置をめぐって伊東方と不和になった。援軍派遣が両氏の関係悪化へ転じた過程を示す。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194~195頁
小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は退いた。
(元禄二年)八月十八日 / 冊子 839頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2220
島津綱貴が関所担当の四名へ、家来の母と下女の計二人を国元へ送るにあたり、関所切手を調えてもらったことへの礼を述べた書状。
天明六年十二月五日 / 冊子 906頁/原整理番号 2488/整理ID 2488
同氏又三郎の元服が命じられるにあたり、先例どおり自ら御礼を申し上げたいが、病気のため当分登城できないので、稲葉能登守を名代として御礼を申し上げたいと伺う。付札には願いどおりにするよう許可が記される。朱書注記によれば、五日の当日、留守居澁谷五郎右衛門が御用番松平周防守へ差し出し、即日留守居が呼び出され、五郎右衛門が出向いたところ、この付紙を渡された。
文化7年6月廿七日(朱年注) / 冊子 354頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1100
全上。今朝、鰑1箱を献じられた件を披露したところ、一段の御仕合であったと返す。6月廿七日、乘保判、松平榮翁宛、朱口裏に松平能登守乘保、文化7年朱注。品名は魚偏に昜の鰑という掲載字形で採録し、外部の品名知識から別字や現代名へ置換しない。差出人自身が献上したという主体の取り違えを避け、1098内書受取通知とは用件を分ける。
文化7年7月6日(年注) / 冊子 354~355頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1102
全上。生見玉の御祝儀として黄金10両を献じられた件を披露したところ、一段の御仕合であったと返す。7月6日、乘保判、松平榮翁宛。文化7年朱注、次頁に続く宛名・朱口裏の松平能登守乘保を連結。祝儀名生見玉と金額・日付を保ち、本文に記されない祝儀対象の実名や奉祝理由を補わない。
文化7年12月16日(朱年注) / 冊子 359頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1118
全上。今朝、鰹節1箱を献じられた件を披露したところ、一段の御仕合であったと返す。12月16日、乘保判、松平榮翁宛。朱口裏に松平能登守乘保、文化7年朱注。差出人自身を献上主体とせず、歳暮御内書と同一文書にまとめない。
文化8年正月7日(朱年注) / 冊子 360頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1122
全上。若菜祝儀として鯛1折を献じられた件を披露したところ、一段の御仕合であったと返す。正月7日、乘保判、松平榮翁宛。朱口裏に松平能登守乘保、文化8年朱注。文化7年歳暮に続く翌年の文書として記録し、年注を前件から転用しない。
文化8年正月11日(朱年注) / 冊子 360~361頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1126
全上。年頭祝儀として使者により太刀1腰・御馬代黄金10両を献じられた件を披露し、一段の御仕合であったと返す。正月11日、乘保判、松平榮翁宛、朱口裏に松平能登守乘保、文化8年朱注。正文から次頁の署日・署判・宛名へ連結する。差出人自身が献上したとせず、若菜祝儀鯛1折の書状と区別する。
文化8年6月4日(朱年注) / 冊子 369頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1150
全上。今朝、鰑1箱を献じられた件を披露し、一段の御仕合であったと返す。6月4日、乘保判、松平榮翁宛、朱口裏に松平能登守乘保、文化8年朱注。品名の魚偏に昜という掲載字形を保ち、現代品名へ補充しない。差出人自身を贈り手とせず、端午祝儀返書と混ぜない。
文化8年7月6日(朱年注) / 冊子 371頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1158
全上。生見玉祝儀として黄金10両を献じられた件を披露し、一段の御仕合であったと返す。7月6日、乘保判、松平榮翁宛、朱口裏に松平能登守乘保、文化8年朱注。祝儀名と金額・日付を保持し、本文にない奉祝対象の実名を補わない。
文化12年6月18日(朱年注) / 冊子 475頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1439
全上。松平能登守乘保から松平榮翁への書状。今朝、鰑一箱を献上されたので披露したところ、御仕合との意向だったと伝え、恐々謹言で結ぶ。六月十八日、文化12年は朱年注。乘保判、口裏にも松平能登守乘保の記載がある。同日同品の別書状として保持し、数量を二箱へ合算せず、鰑を鰯や鯛へ置き換えない。
文化12年7月6日(朱年注) / 冊子 476頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1445
全上。松平能登守乘保から松平榮翁へ、生見玉の祝儀として黄金十両を献上されたので披露したところ、一段の御仕合との意向だったと伝える。恐々謹言で結び、七月六日、文化12年は朱年注。乘保判、宛名・口裏の松平能登守乘保は下段に続く。同日同名目の別書状で、金額を二十両へ合算しない。生見玉を馬代等の別名目へ置き換えない。
文化12年12月16日(朱年注) / 冊子 486頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1469
全上。松平能登守乘保から松平榮翁へ、今朝鰹節一箱を献上されたので披露したところ、一段の御仕合との意向だったと通知する。恐々謹言で結び、十二月十六日、文化12年は朱年注。乘保判、口裏に松平能登守乘保を記す。同日同品の二書を別々に保存し、数量を二箱へ合算しない。
文化13年1月11日(朱年注) / 冊子 489~490頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1481
全上。松平能登守乘保から松平榮翁へ、年頭の祝儀として使者をもって太刀一腰・馬代黄金十両を献上されたので披露したところ、一段の御仕合との意向だったと通知する。恐々謹言で結ぶ。正月十一日、文化13年は朱年注。乘保判、宛名と口裏の松平能登守乘保は次頁へ続く。同日同品の別書状として保持し、太刀二腰・黄金二十両に合算しない。
文化13年4月7日(朱年注) / 冊子 492頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1491
全上。松平能登守乘保から松平榮翁へ、今回の転任・兼任にあたり祝儀として使者をもって太刀・馬代を献上されたので披露したところ、一段の御仕合との意向だったと伝える。恐々謹言で結ぶ。四月七日、文化13年は朱年注。乘保判、口裏に松平能登守乘保を記す。太刀の数量・馬代の金額は本文にはない。同日同名目の別書状として保持し、前記事1489の一腰・金一枚をこの本文へ転用しない。
文化13年6月13日(朱年注) / 冊子 493頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1498
正文在文庫との挟注。松平能登守乘保から松平榮翁へ、徳川式部卿が紀伊殿の嗣養子と仰せ出されたことへの祝儀として、鯛一折を献上されたので披露したところ、一段の御仕合との意向だったと伝える。恐々謹言で結ぶ。六月十三日、文化13年は朱年注。乘保判、口裏に松平能登守乘保を記す。同日同品の別書状として保持し、鯛を二折へ合算しない。
文化13年6月27日(朱年注) / 冊子 494頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1501
全上。松平能登守乘保から松平榮翁へ、今朝鰑一箱を献上されたので披露したところ、一段の御仕合との意向だったと伝える。恐々謹言で結ぶ。六月廿七日、文化13年は朱年注。乘保判、口裏に松平能登守乘保を記す。鰑一箱の品名・数量を保持し、鰯や鯛へ置き換えず、同日同品の別書状を二箱の献上として合算しない。
天授2年7月25日(1376) / 冊子 456~457頁/原整理番号 14-15
指宿能登守忠勝が、多年の軍忠により安堵の令旨を受け、自ら知行していた薩摩国指宿郡惣地頭職を、嫡子正忠へ永代譲与した天授二年七月二十五日付譲状。正忠は以後、安堵状の趣旨を守って知行し、相違があってはならないと定める。併載系図には忠合(指宿郡司・近江守)・頼忠らを掲げるが、譲状本文の譲受人は正忠一人である。
年月日未詳 / 冊子 40頁
『島津国史』が貞治三年(南朝正平十九年)の南北朝情勢を記す。後村上天皇方の綸旨と渋谷重門の南朝帰属、藤原実秀ら関係者の動向を掲げ、島津氏久・元久らがどのように対応したかを家譜・文書と照合して編年上に位置付ける。
応永十六年二月十八日 / 冊子 231頁
近江守平忠合が子息平頼忠へ、父祖以来の証文に基づく薩摩国指宿郡五か名の重代相伝所領を譲与した譲状。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
永正十一年十一月十四日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十四日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十一年十一月十九日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
天正元年三月~天正二年十二月 / 冊子 304頁
天正元年三月、島津義久が肝付氏攻撃へ向かうと北郷時久も平松に陣を構えた。陣営造成の鍬初・地破・鎮定・地神供・幣・幕・武具などの役割を北郷家臣へ割り当て、天長寺・西生寺が愛染明王・青面金剛の秘法で勝利を祈った。最終的に義久と肝付氏が和睦したと記す。
明和二年二月十七日 / 冊子 61~62頁/原整理番号 181の11/整理ID 181-11
大目付が二月十七日、松平右近将監から渡された書付の写二通を諸家の留守居へ送る。書付を承知し、遅滞なく順達した後、池田筑後守のもとへ返却するよう指示している。宛先は松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋嶋摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十家の留守居。
明和二年三月二十六日 / 冊子 76頁/原整理番号 181の40/整理ID 181-40
大目付が三月二十六日、松平右近将監から渡された書付の写し二通を送り、その趣旨を承知して滞りなく順達するよう命じる。最後の受取人から池田筑後守方へ返却するよう指示する。宛先として松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋島摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十名を掲げる。朱書には、当日の朝に大目付池田筑後守から廻状と写し二通が届けられ、書付を有馬中務大輔へ順達して写しを差し出した旨を記す。
明和二年四月十三日 / 冊子 82~83頁/原整理番号 181の60/整理ID 181-60
四月十三日付の大目付廻状。日光山御法会に伴う紅葉山御宮での法会日割を、十五日卯上刻、十六日午上刻、十七日寅上刻と示す。阿部伊予守から渡された書付の写し一通を送るので、順廻の最後の受取人から大井伊勢守方へ返すよう指示する。宛先は御名の家と有馬中務大輔、真田伊豆守、秋月山城守、毛利能登守、堀田梅之丞、松平陸奥守、伊達遠江守、鍋島摂津守、大田原出雲守、織田丹後守の留守居。朱書には、今朝大井伊勢守から借り受けたため、本書を有馬中務大輔方へ順達し、写しを差し上げたと記す。法会の時刻通知、写しの送付・返却指示と、朱書による受領・本書順達・写上の記録を分けて示す。
文化8年10月13日(朱年注) / 冊子 377頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1179
全上。公方・大納言が健勝であることを喜び、自分は有馬に入湯してありがたいと述べる。機嫌を伺うため飛札を送り、機会に御前で適宜取り成すよう依頼する。文化8年朱注、10月13日、上段末の伊豆・牧野備前・土井大炊の三宛に、下段冒頭の青山下野・松平能登の二宛が続くため、五宛を一件の宛先として採録。目録は島津重豪書状、独立署名なし。入湯中の礼・機嫌伺であり、到着報告1177と区別する。
文化10年9月4日(朱年注。本文拝領は先月15日) / 冊子 410頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1287
重豪公御譜中・扣正文在右筆所。公方・大納言の機嫌を喜び、先月15日に上使山口勘兵衛から御鷹の雲雀を同氏修理大夫が拝領した旨の知らせがあり、自分もありがたく思うので、御礼の飛札を送り、御前への然るべき取成を依頼する。文化10年朱注、9月4日、五宛を採録。独立差出人署はなく、重豪書状の名義は目録による。拝領者修理大夫と礼を申し上げる自分を分け、山口の実名・雲雀の数量は補わない。1285の礼伺・付紙飛札指図と本書の飛札御礼を別に保持する。
文化10年9月13日(朱年注。本文の今日という到着告礼) / 冊子 413頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1292
重豪公御譜中・扣正文在文庫。公方・大納言の機嫌を喜び、湯治御暇を願いどおり許され、御羽織を拝領し大納言からも拝領した恩に謝意を述べる。今日、同氏豊後守の国元に到着したので、御礼として嶋津内膳をもって目録のとおり献上し、然るべく披露するよう求める。文化10年朱注、9月13日、松平榮翁署、五宛。豊後守国元は榮翁の到着先で、豊後守本人の帰着記事とはしない。羽織の数量と献上目録の内訳は本文にない。13日付の今日という報告と1266実帰着14日・告官13日注を区別して保持する。