島津氏久宛行状
天授二年八月廿日 / 冊子 99頁
島津氏久が田代肥前守に、大隅国串良院内の本知行分を失った場合には新たな所領を宛行うとし、先例に従って沙汰するよう定めた宛行状。
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天授二年八月廿日 / 冊子 99頁
島津氏久が田代肥前守に、大隅国串良院内の本知行分を失った場合には新たな所領を宛行うとし、先例に従って沙汰するよう定めた宛行状。
文明十三年六月廿三日 / 冊子 497~498頁
島津武久が村田肥前守に、三か国が変転しても父重豊以来の厚い志を踏まえ、今後も忠節を尽くし、内外の重要事を隠さず相談するよう誓った契状。
天正15年8月27日 / 冊子 353頁
島津義弘が伊集院肥前守の忠節を比類ないと評価し、今後も忠勤を尽くすよう求め、褒賞として青毛の馬一疋を与えた感状。家臣の奉公を具体的な贈り物で顕彰したことが分かる。
(天正16年)11月25日 / 冊子 423頁
島津義久が、在京中から長く音信が途絶えていることを案じ、京都での御用や国元の状況を知らせるよう松浦肥前守へ求めた書状。 自らは満足して帰国したと述べつつ、今後も連絡と尽力を頼み、年末の進物を添えて関係維持を図っている。
(慶長十八年)八月八日 / 冊子 407頁
慶長十八年八月八日、島津家久が松浦法印・肥前守へ、年頭の祝意と贈答に謝し、太刀一腰・馬代二千疋を贈り、船や港に関する取次を頼んだ書状案。
文明十三年八月 / 冊子 499頁
渋谷重聡が、三か国の変転時にも親類への忠節を守り、外部の事を隠さず、讒言・凶書があれば証拠を提出することを神名に誓った起請文。
「永和三年」三月廿一日 / 冊子 108頁
今川了俊が渋谷虎五郎の注進を了承し、菊池肥前守以下の凶徒を蠣打で討ったことを伝え、肥後対治のため今川兵部大輔とともに忠節を尽くせば本領知行を保障すると述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 519頁
修理亮忠廉が庄内から平山へ帰り、二月十一日に鹿島内の川田城を攻めたが、川田飛弾守らが籠城して抵抗したこと、村田肥前守らの援軍と退却を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 536頁
文明十七年九月、修理亮・村田肥前守・下野守・東郷右京亮らが入来・山崎・大村方面へ進み、祁答院方と交戦した経過を記す。伏兵、囮陣、集落への放火を用いて連日攻防し、帖佐勢・薩摩守方も加勢した。内山田への進撃後、各隊が帰陣するまでを追う島津忠昌譜記事。
年月日未詳 / 冊子 536~537頁
文明十七年九月五日以降、匠作・村田肥前守らが祁答院山崎へ進軍した戦闘を記す。東郷・帖佐勢に加え、大村・黒木・中津川諸勢と合流し、古城・山崎・内山田方面で敵陣を攻略した。集落・陣所への放火と追撃を重ね、二十四日に各軍が帰陣するまでの作戦日程を追う。
年月日未詳 / 冊子 560頁
村田肥前守経房を中心に、太守立久公の簾中となった女子や経安ら、村田氏の系譜関係を図示した系図。
八月廿六日 / 冊子 589頁
島津忠昌が本田兼親に、造営の辛労をねぎらい、肥前守を召し寄せて造営を協議し、詳細は平田から伝えるよう命じた書状。
大永三年五月日 / 冊子 642頁
高城重興が山口九郎右衛門尉に、先の文書に関する用件と肥前守への伝達を頼み、返事を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 485~486頁
十二月六日、島津義久が京都を発って鳥羽から川舟に乗り、大坂へ着いた帰国行程を記す。近衛前久から馬を贈られ、松浦肥前守の使者とは宝刀と所持の刀を交換した。さらに東国の逆徒蜂起を受け、大和大納言・石田三成・増田長盛らが発向するとの報にも触れ、帰国途上の贈答と政情を併記する。
(慶長四年) / 冊子 376頁
島津義久の事書案で、冒頭を欠く。陣取の報告、加治木御蔵米の未進と複雑な出納、石田□蔵米の調査、内府と羽柴肥前守との間に生じた問題、財部境の軍事、江戸中納言の使者が未着であること、多数の書状を諸方へ送ったことを列挙する。
(慶長四年)九月廿八日 / 冊子 443~444頁
太田一吉が薩摩少将島津忠恒に、内府が羽柴肥前守を詰問するとの風説と、中村式部少将・堀尾帯刀を使者に立てる動きを伝える。出陣や海上輸送への備えを述べる一方、彦山座主職をめぐる黒田甲斐守・毛利壱岐守の争いが豊前との境で起きているため、上洛を見合わせたと説明する。
(慶長十年)九月十六日・十月二十八日 / 冊子 33頁
島津常久譜の記事。九月十六日、右松安右衛門尉が惟新の使者として上着し、伊集院肥前守を常久の代役とする旨の書状をもたらし、翌日返書を託された。十月二十八日には寅連房・伊地知利兵衛尉が使者として上着し、島津忠恒の書状により長旅の労をねぎらうとともに、伊集院肥前入道を常久の代役とする旨が伝えられたことを記す。
(寛永八年)五月九日 / 冊子 211~213頁
琉球・唐との取引奉行を務めた川上忠通と、航海中に公銀を救出した町田勘解由へ各知行百石を加増し、留守奥方に勤める東郷肥前守へ年米三十石を与えるよう伝える。父子で奉公する家々への扶持、上知行に伴う知行米半減の共通扱いも指示した伊勢貞昌の書状。
(寛永九年)七月六日 / 冊子 297頁
天寧寺が、東郷肥前守から音信として送られた小判金八両を確かに受け取り、国元へ書状で礼を述べるとした請取状。仁礼右近将監の使者である伊東志摩丞宛。
(寛永九年)七月廿七日 / 冊子 299頁
島津家久が仮名書きで、肥前守がこのほど到着して『たうらい』を聞いたこと、油断なく習い事を行い、来年の家久の帰国を待つよう述べた。また品を先に送り、近く近況を祝い直すため改めて使者を遣わすと伝え、女房衆にも心得させるよう求めた書状。
(寛永十年)十二月七日 / 冊子 398頁
島津家久が弾正大弼へ、大学助と内談し、国中の邪宗・不審者を探索したうえで、東郷肥前守ら関係者と協議して処置するよう指示した書状。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久慶と島津久元が、八朔に献上する太刀・馬の先後争いについて連署した書状。玄蕃頭との席次・進上順を黄門様が先例に基づいて裁定すること、双方が証文を提出し、東郷肥前守を介して決着させることを伝える。
三月廿一日 / 冊子 180頁
今川了俊が澁谷庶五郎に、前月十八日付の注進を承知したと返答し、菊池肥前守以下の凶徒を蛤打で討ち、肥後平定も間近であると伝えた書状。今川兵部大輔と協力して忠節を尽くせば、本来の知行に相違がないよう取り計らうと述べる。
七月五日 / 冊子 307頁
島津忠昌が、村田肥前守が多年自分たちに緩怠であったことを述べ、肝付氏に境目のことを頼み入れ、美作守も同意向であるとして、委細は使者から聞くよう求めた書状。本文の宛所は肝付三郎左衛門尉、上包は肝付二郎左衛門尉と記す。
卯月十一日 / 冊子 358頁
龍伯が、伊勢弥二郎・小世千兵衛尉らの処置、本田六右衛門尉の召還、大山肥前守との相談、土蔵での参会などを指示した書状。申置きが実行されない場合の処置も命じる。
十三日 / 冊子 330~331頁
岩母の病気が早く本復したことを喜び、秋母も見舞っただろうと述べ、薬と養生を怠らぬよう伝えること、翌月には暇が出るのを待っていること、母の屋敷普請を肥前守へ相談したことを知らせた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 337頁
島から帰ったことを知らせ、次の遊興をどう催すか母の意向を尋ね、茶はこちらで念入りに挽かせるので肥前守らへ頼む必要はないとし、来訪すれば琵琶・琴を弾くと誘った島津家久書状。
十九 / 冊子 340頁
送られた珍しい品を初めて見たと喜び、ある事件について大事ではないと聞いたので、早く収束して平静になってほしいとし、肥前守からの話も踏まえて安心するよう伝えた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 446~447頁
松平肥前守の隠居に伴う知行配分、城普請を担当する大名・旗本と加増高、城の石垣修築、諸大名が普請用に献上する材木・銅・漆・石材・板などの数量を列挙した諸覚。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
六月十三日 / 冊子 23~25頁
島津久元が、五月中に届いた四通の書状へまとめて返答した長文書状。上洛・知行・扶持、家臣や奉公人の処遇、諸役・贈答・縁組、船便など多数の政務について指示と見解を伝える。問題となった者は扶持を放して追放し、詳しくは摂州老の下向時に相談して返答するとする。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
十月廿三日 / 冊子 135~136頁
東郷重位が児玉筑州に、長らく音信がなく会う機会もないことを案じ、山陰での暮らしを迷惑に感じている心情を和歌に託して送った書状。末尾で歌を一笑して火中に投じるよう述べる。
年月日未詳 / 冊子 520~521頁
二月一日以降、祁答院・東郷方が鹿児島へ進攻した戦況を記す。水引城、市来、伊集院周辺で島津忠昌方と攻防を重ね、村田肥前守・吉田治部少輔らが援軍を送った。城の奪還と再占領、部隊の退却を繰り返し、薩摩中央部の戦線が拡大した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 650頁
大永五年、田代肥前守清隆が田代氏の家勢を支え、頴娃勢の侵攻を防いで戦死したことを記す記事。
五月十一日 / 冊子 369頁
現地に新しい問題がないかを案じ、兵部と内議したうえで七左衛門を使者にしたので詳しく相談するよう求める。自身は老齢で望みはないが家名を落とすことは無念だと述べ、疑念を招かぬよう肥前守らとも談合して対処するよう指示した島津家久書状。
十一月十八日 / 冊子 440頁
使者と琉球酒一壺への礼を述べ、将軍は機嫌よく、最近も数寄の催しで細川三斎・松平肥前守・立花立斎・酒井忠勝に茶を下されたので安心するよう報告した永井監物書状。
文政2年2月7日・14日・17日(各届書) / 冊子 548~549頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1662
出典は全上、扣正文は文庫にあるとする。松平豊後守斉興の叔父有馬肥前守は、持病の疝症があり、二月六日に用向で高輪の下屋敷の祖父榮翁方へ来たが発病し帰宅できず療養した。七日付の届書を留守居が御用番青山下野守へ持参して内見・提出し、御用人の受取りを確認した。のち止宿願を承知したうえで早く帰宅するよう指示された。同日付の有馬左兵衛佐の届も、実父榮翁方での療養を記す。十四日付では、養子肥前守の持病・不調に加え、養父の心底に応じず熟縁が難しいことを挙げ、養実両家の親類が相談し、実家松平豊後守方へ差し戻すことを有馬左兵衛佐が願う。豊後守も同日、引取りの届を出す。十七日付では、願どおり引取りを命じられ、本日引取り済みを届けるよう豊後守が命じ、豊後守内家村長兵衛が記す。各書の署名と日付を保ち、療養の止宿、養子離縁の願・届、実家引取り完了を分ける。離縁理由は病気と両家の熟縁困難をともに記している。
年月日未詳 / 冊子 369頁
永享七年、島津忠国・好久が伊地知・田代・山田・禰寝諸氏へ各地の所領を給与した国史記事。樺山孝久との盟約では安房君の保護・処遇を託し、秋冬にも諸家との盟書作成と家臣配置を進めた。山田忠尚・禰寝直清らへの具体的な給付を通じ、忠国方が同盟網と奉公体制を整えたことを示す。
宝徳二年十二月五日 / 冊子 422頁
牛屎院内光吉の水田について、せとくち門・三反井・小山下・山下のならひなど各所の面積を列挙し、合計を示した坪付。村田経房・大寺光貴・町田胤久が署判した。
文明二年九月四日 / 冊子 471頁
村田経安・丹波守義忠が、志布志大慈寺修造のため関所駄口米を充てる島津立久の命を施行し、先例どおり沙汰するよう伝えた連署施行状。
文明六年六月一日 / 冊子 479~480頁
村田経安・平田兼宗が、薩州から進上された節山の三か国相続に関する契約状二通と、小十文字の太刀をあわせて進上する旨を記した連署状。
文明十年三月六日 / 冊子 490頁
島津氏家老の村田経安・平田兼宗が、薩摩郡千畑名の荻原内水田五反を神事領として寄進した連署寄進状。
年月日未詳 / 冊子 698頁
享禄二年正月二十二日の帖佐新城攻防で伊地知重辰らが戦死したことを、村田氏系図など複数の系譜記事を引いて考証する。
天正六年正月十六日以後 / 冊子 589~591頁
日向が島津領となると、伊東方の残党が縁故に従って帰属し、従わない者は誅伐された。義久は正月十六日に都於郡へ入り仕置を進めるが、伊東旧臣らは豊後の義祐・大友父子に再興を訴えた。門川・塩見・山陰・三城の城主らが人質を出しながら豊後方へ内応し、大友軍を迎え入れる一方、人質の米良弥八郎らは警固を破って脱出し父のもとへ向かった。
(慶長四年)九月廿一日 / 冊子 437~438頁
島津惟新が羽柴少将に、帖佐・山田・蒲生・吉田の人数を庄内境へ移すとの風聞を案じ、出水は肥後・筑前方面の第二の城戸であるため守備を固めるよう説く。さらに内府が大坂で諸大名の上洛を規制し、強行時には越前・淡路で阻止するため兵を配置したとの情勢を伝える。
8月23日 / 冊子 215頁/原整理番号 143
京・堺の商人および阿蘭陀船の平戸での商売を相対次第とし、あわせて伴天連の法を厳しく停止するよう命じた四名連署の書状。
年月日未詳 / 冊子 222~223頁/原整理番号 158
『上井覚兼日記』天正十三年春の御馬追記事。向島や吉野などでの馬追に出向き、御桟敷で儀礼を行った後、捕えた駒を見分して分配・進上した。参加者への酒食や使者の往来も記し、御馬追の催しの様子を伝える。
「寛永廿一年」九月十四日 / 冊子 354頁
島津光久の書状。祭礼役を命じられた東郷肥前守の宿所で、斎籠前に禁制の相撲興行が度々行われ、宛所の人物も見物したと聞いたため、事実関係を問いただす。興行の経緯と見物人全員を漏れなく書き上げ、隠し立てせず報告するよう厳命する。
〈寛延元年〉十二月二十一日 / 冊子 132~133頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0362
十二月二十一日、嶋津右平太・伊勢兵部が、嶋津左衛門・樺山主計・嶋津矢柄へ、隅州様による御鷹の鶴拝領と御礼の取扱いを知らせる。先例に従って準備したところ、去る七日、上使の櫻井監物が鶴を届け、名代の水野肥前守に伝えられたという。上使が出向いた際には御門の外まで出迎えて案内し、大御書院中段の頭に着座させた。上意は肥前守が承知し、鶴を受け取って御勝手へ運び、上使には休息を勧めた。礼を申し上げ、熨斗・茶・多葉粉盆を用意したが料理は辞退され、退出時も迎えた時と同様に送ったと述べる。 同日、老中方へ御礼の名代として肥前守を回し、若年寄方へは御番頭高橋七郎右衛門を使者に立て、御側衆にも表方を通じて使者を申し達した。上使には先例どおり御太刀と金馬代を贈り、同日使者を遣わしたことを記す。付記では、太守様が承知したうえで三御所へ使札による御礼をし、愛宕御馬廻の内から使者を立て、書状での御礼も済んだと伝える。隅州様から公方・大御所・大納言への内證の御礼と、公方への書状による御礼も先例に従って取り計らうとする。 拝領に伴い、姫君様から隅州様へ祝詞を贈り、当日勤務の役人にも帳面を添えて祝儀を申し上げさせるが、忌中の諸事は追って扱うと記す。末尾では、鶴の拝領を喜んでこの事情を知らせる旨を述べ、御女中にも伝えるよう求める。