島津貴久書状
天文八年閏六月十五日 / 冊子 778頁
島津貴久が本田紀伊守に、孫らの消息と近況を尋ね、音信を寄せるよう求めた書状。本文は本田作左衛門尉宣親所蔵の正文。
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天文八年閏六月十五日 / 冊子 778頁
島津貴久が本田紀伊守に、孫らの消息と近況を尋ね、音信を寄せるよう求めた書状。本文は本田作左衛門尉宣親所蔵の正文。
天文十一年十一月十三日 / 冊子 807頁
島津貴久が本田紀伊守らに、互いに隔心なく相談し、他者の讒言を受け入れず、諸家の出頭時にも忘却せず、無二の奉公を求めることなどを神々に誓った起請文。
(天文十二年)十月十三日 / 冊子 814頁
島津貴久が本田紀伊守らに、珠玄・与風の来訪への謝意を述べ、今後も隔意なく連絡し、時宜に応じて人を送るよう求めた書状。
(天文十三年)五月十三日 / 冊子 818頁
島津貴久が本田紀伊守に、珠玄の来訪が延引していることを案じ、今月中の来訪を頼むとともに、相手方の情勢や来月の対面予定を尋ねた書状。
(天文十三年)十月十三日 / 冊子 819~820頁
島津貴久が本田紀伊守らに、珠玄・与風の来訪への謝意を述べ、今後も隔意なく連絡し、時宜に応じて人を送るよう求めた書状。本文はNo.2461と同文のため省略される。
天文十四年四月十八日 / 冊子 825頁
島津貴久が本田紀伊守に、大隅国の牛称三町・城村辺田三町・二川三町・堺三町、計十二町を宛行い、奉公と忠節を求めた宛行状。
天文十四年四月十八日 / 冊子 825~826頁
島津貴久が本田紀伊守に、大隅国東郷六町と日當山城用富名六町、計十二町を宛行い、奉公と忠節を求めた宛行状。
(天文十五年)二月廿九日 / 冊子 835頁
近衛稙家が本田紀伊守に、前年依頼した左大辨宰相との調整への謝意を述べ、貴久の忠功を称え、引き続き周旋を求めた書状。
二月廿八日 / 冊子 836頁
近衛稙家が本田紀伊守に、去年の書信と奔走への謝意を述べ、日野中納言の件などを頼んだ書状。
二月廿九日 / 冊子 836頁
日野町資将が本田紀伊守に、前年の下国時の厚意へ謝意を示し、家門再興のため諸事の周旋を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 836頁
日野町資将が本田紀伊守に、便宜ある命令と報告への謝意を述べ、今後の助力と取り計らいを求めた書状。本文年紀は三月二日だが目録年月日は空欄。
(天文十六年)九月九日 / 冊子 842頁
近衛稙家が本田紀伊守に、贈られた芳墨・段子・茶碗などへの謝意を伝え、今後も連絡を求めた書状。
(天文十六年)九月十五日 / 冊子 842~843頁
近衛稙家が本田紀伊守に、久しく音信がなかったことを述べ、段子・白髪などの贈物への謝意を伝えた書状。
(天文十六年)九月十五日 / 冊子 843頁
日野町資将が本田紀伊守に、万徳寺の上洛と芳札を受けたことを述べ、染筆や委細の報告を求めた書状。
(天文十六年)九月十五日 / 冊子 843頁
日野町資将が本田紀伊守に宛て、万徳寺上洛の際に受け取った芳札への謝意を述べた書状。万徳寺の寺領と公事負担、武家との折衝で生じた問題を説明し、寺院の権益が損なわれないよう関係者への働き掛けと具体的な取り計らいを求める。
(天正16年)4月21日 / 冊子 384頁
島津義弘が本多因幡守・比志島紀伊守へ、度重なる上洛命令を受けながら、家中の資金が払底し、供回り・乗船者・装備を整えられず困窮している実情を訴えた書状。それでも上洛を遅らせれば御家のためにならないとして四月二十六日の出立を決めた。又一郎兄弟や在京衆の費用にも触れ、龍伯下向後も両名が京都にしばらく留まり、武具所の関係者らと諸事を協議して上聞に達するよう依頼する。島津家の上洛準備を財政面から示す重要史料。
(天正17年)11月20日 / 冊子 455頁
島津久保が、京都にあって相手の懇切な書状を受け取り、国元の様子を知らせてくれたことに礼を述べた書状。 疎意はないと強調し、今後も国元の諸事に心を配って忠節を尽くすよう比志島紀伊守へ求めている。
(文禄元年)7月17日 / 冊子 586~587頁
島津歳久(晴蓑)が、「晴蓑めが魂の在り処を人が尋ねても、白雲の行方のように分からないだろう」と詠んだ辞世。 死後の魂の行方を白雲に託した簡潔な歌で、追討を受けて死を迎える歳久の覚悟と無常観を直接伝える。白浜次郎左衛門・比志島紀伊守宛の形で残る。
(文禄元年)9月28日 / 冊子 605~606頁
島津久保が比志島紀伊守へ、通路が危険で報告が遅れたと断ったうえで、梅北国兼の反乱、歳久の自害、細川幽斎の薩摩下向と領国処置について所感を述べる。 薩摩勢に先立って朝鮮へ渡ったのは義久と島津家を守るためだったと弁明するが、国元から兵船が来ず借船で渡海し、兵・船とも不足して軍役が立たない窮状を詳述する。追加渡海と兵站整備を求める長文書状である。
(文禄元年)9月28日 / 冊子 606頁
『雑抄』に収められた島津久保書状だが、本文には「本書は九六八号文書と同文につき省略」と注記され、内容は掲載されていない。 No.968と同じく、梅北一揆・歳久自害・幽斎下向と、朝鮮での兵員・船舶不足を比志島紀伊守へ伝えた書状の別伝・重複記録である。
(文禄2年)9月29日 / 冊子 606~607頁
島津義弘が比志島紀伊守へ、朝鮮では百姓の一部が帰住したものの武士は山中に潜み、道路で待ち伏せするため、使者一人にも百~二百人の護衛が必要だと報告する。 薩摩から兵船が来ず、借船と少人数で渡海した結果、軍勢・船・物資が不足し、連絡も軍役も立ちゆかない窮状を列挙する。国元から人員と船・諸道具を早急に送るよう求めた、前線の兵站危機を具体的に示す書状である。
(文禄元年)9月28日 / 冊子 607頁
島津義弘が比志島紀伊守へ、国元に滞在して朝鮮へ着陣しないとの風聞を厳しく問いただし、直ちに渡海して自分のもとへ来るよう命じる。 命令に従わなければ石田正継に知られて身上処分となり、国元へも詳しく報告すると警告する。遠征参加をめぐる主従間の緊張と、豊臣奉行の処罰権を背景にした強硬な督促状である。
(慶長十年)八月十五日 / 冊子 29頁
松浦鎮信が比志島紀伊守と島津図書入道に、琉球船漂着について上方から届いた返書と下知を送り、早く確認して対応するよう求めた書状。船の荷物を九月中旬までに江戸へ進上する必要があるため、荷物を速やかに上せる準備を依頼する。
(慶長十三年)九月十一日 / 冊子 187頁
慶長十三年九月十一日、伊勢貞知が比志島紀伊守に、飯隈山別当先達職をめぐる南光坊との異論を説明し、家久の以前からの願いを受けて新宮が同意し補任されたことを喜び、家久から新宮へ礼を述べるよう求めた書状。
閏六月十五日 / 冊子 353頁
島津貴久が本田紀伊守へ、贈られた品を祝着し、先方からの音信に感謝した返書。こちらは無事であり、詳しいことは後便に期すと伝える。
(天文十三年)四月廿一日 / 冊子 817頁
島津貴久が音書への謝意を述べ、替わりのない交誼を喜び、日谷山への移動と参会の都合を知らせた書状。
(天正17年)2月16日 / 冊子 441頁
島津義弘が屋形造営と旧来の借物返済、又一郎夫婦の在京費用を整理するため、鎌田出雲守を国元へ派遣すると伝えた書状。 関係者間で帳簿と負担を突き合わせ、双方に遺恨が残らないよう精算することを三名の奉行へ求めている。
(文禄元年)4月1日 / 冊子 540~541頁
島津義弘が、渡唐に必要な米・船・人員などの処置を示し、国元の重臣四名に相談のうえ速やかに実行するよう求めた書状。軍船・兵粮・人員の調達遅延が出陣と家中の体面に関わるとして、各所への催促と役割分担を厳しく督促する。
(天正20年)4月2日 / 冊子 541頁
落合重次が、長く書状を送らなかったことを詫び、鷹之巣の件で朱印を受けたものの、椎葉山に以前からの主張があるため下向を延引していると伝える。先に使者を遣わして根拠を調べ、前年に置いた鳩もこの便で渡してほしいと頼み、朱印を持参したので受け取るよう四名へ求めた。
慶長十三年七月廿一日 / 冊子 176~177頁
慶長十三年七月二十一日、蓮金院全秀らが、高野山の屋敷・院領・建物・仏具等を銀子二十貫目で永代売却した売券。敷地寸法と堂宇・門・庫蔵などの施設を列挙し、国中の念劇や寺内騒動があっても違乱しないと保証する。
四月廿一日 / 冊子 110頁
上洛費用となる反銭・屋別銭が集まらず、借銀に頼って二十六日に出立する窮状を訴え、太守下向後も二人が一、二か月残って後始末を熟談し、上方での家政を支えるよう強く依頼した長文書状。
二月十日 / 冊子 169頁
鎌田出雲守宅で龍伯と忠恒が振舞を受けた際、庭先へ鶯が来て鳴かずに通り過ぎたため、龍伯が『軒ちかくこと問ひきてもうぐひすの―』と詠むと、鶯がすぐ鳴いたという珍事を伝えた書状。
十月六日 / 冊子 186頁
筑後へ派遣した者が帰着し、幕府上使が二日に柳河、三日に高瀬へ到着し、当日は佐敷付近まで進み翌日には当地へ着く見込みだと知らせた急報書状。
五月廿八日 / 冊子 189頁
薩摩使節の琉球到着時に書状を受け、祝儀として青銅三百貫を頂戴したことへ深謝し、返礼として薄蕉布十端を進上した円覚寺周航書状。
正月十一日 / 冊子 192頁
新春を祝い、恒例に従って賀草と扇二本を祝儀として進上し、その旨を披露するよう頼んだ北郷忠能書状。
三月廿四日 / 冊子 749頁
十八・十九日に伊東勢が東少々まで来たが、洪水で味方は川を渡れなかったと報告する。敵退却時に足軽が追撃し別府治部少輔ら七人を討ち、負傷者四人を残した後、伊東勢が意外にも深追いせず退いたことを伝えた島津忠庚書状。
慶長三年十一月廿三日 / 冊子 288~291頁
石田三成が島津三殿の蔵入支配を総合的に定めた覚書。台所飯米等を除く米の払い出しを止め、旧来の納入実績が低い代官は所領物成を押さえて交代対象とし、納入実績に応じ口米・勘米を与える。人身売買の禁止と売られた者の返還、奉行・代官の職務と算用の徹底、京都借銀の米による返済と借状回収、上様蔵入・浮知・三殿物成の別蔵・封印を命じる。さらに破損船と他国商船の扱い、銭の唐国流出禁止、大豆販売、諸夫割付、用木伐採の許可制まで規定する。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 291頁
八十島助左衛門佐が旅庵の来訪に礼を述べ、算用・免合について石田三成へ詳しく申し入れ、条書を送ったので関係者へ伝えるよう依頼する。朝鮮では帰国船出発予定の十・十一日ごろ、小西行長の居城が敵船約五百艘に包囲されたため、島津義弘が播州飾磨の古城を引き払い、十七・十八日に後詰へ向かい、諸将も救援したと報じる。結果は未詳ながら勝利を期待し、続報を約す。
二月十六日 / 冊子 109~110頁
屋形造営、借物返済、又一郎夫婦の在京処置を国元で相談させるため鎌田出雲守を下向させ、口上を聞いて老中とも熟談し、義弘自身の所務に不利益が出ないよう工夫することを求めた書状。
十月朔日 / 冊子 186頁
六月二十八日付書状を八月二十二日に受け、仲賢に関する問題を三司官と熟談し、諸人の目安をもって申し上げたと報告した。仲賢が王位は日本の代になり迷惑だと語ったとの嫌疑について、鹿児島で神文を提出した以上そのような発言はないと否定し、事情を理解するよう求めた書状。
四月廿八日 / 冊子 658頁
隈江匡久が山田安藝守に、本田紀伊守が伯耆方へ礼に赴いたことを伝え、清水の番に人衆を立てることや翌月の番役について指示した書状。
九月十五日 / 冊子 843頁
日野町資将が本田紀伊守に、万徳寺の一書を披見したこと、家門の儀や所領に関する取り計らいを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 850頁
天文十七年、本田紀伊守父子の崩落、北原衆の奔籠、清水新城の攻防など、当年の戦乱を日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 852~855頁
天文十七年、大隅国府の本田氏旧臣が起こした乱を島津貴久方が鎮定した経過を記す。本田紀伊守・北原方と伊集院忠朗らが清水城・姫木城を争い、放火で寺社が焼失する中、日新公方の援軍と城攻めによって反乱勢力を退け、地域支配を再建した。
年月日未詳 / 冊子 857~859頁
『貴久公記』が、天文十七年三月に本田紀伊守が姫木城を構えた後の大隅情勢を記す。島津貴久・伊集院忠朗方と北原・本田方が清水周辺で攻防し、戦火で神社・寺院が焼失したこと、諸勢が出兵と退却を重ねて戦線が変化した過程を追う。
年月日未詳 / 冊子 859~861頁
箕輪伊賀が天文十七年の清水城・姫木城争乱を記した覚書。本田紀伊守・北原方と島津貴久・伊集院忠朗方の出陣、城への攻撃と救援、周辺への放火、軍勢の進退を日を追って述べ、大隅の複数城を連動させた戦線の推移を伝える。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 598頁
袈裟菊丸らが宮之城に籠城した際、義久が比志島紀伊守や福昌寺・龍雲寺の僧を派遣し、袈裟菊丸の家督と知行を保障して下城を促した交渉経過を記す。 袈裟菊丸の母は、歳久と同様に処断されるなら助命に意味はないと一度は拒むが、重ねて身上・知行の保全を約束され、最終的に下城して入来へ移った。歳久家存続の具体的条件が分かる覚書である。
文禄3年正月25日 / 冊子 762頁
豊臣秀吉が、島津方で建造した五百石船五艘を青木紀伊守へ、三百石船五艘を寺沢志摩守へ引き渡すよう命じる。水夫は両人から割り当てるため、諸道具を揃えて確実に受け渡せと指示する。 朝鮮出兵の海上輸送に用いる大型船十艘の配属を具体的に定めた朱印状。
文禄4年3月18日 / 冊子 870~871頁
城の兵糧として米二千石を博多で渡し、山中山城守・石川紀伊守が受け取って蔵へ納めるよう命じる。船頭の飯米は百石につき四石と定める。 釜山浦の貯蔵兵糧も各城へ配分し、寺沢志摩守の指示で蔵へ保管すること、非常時以外の流用を禁じる。朝鮮在陣軍の兵站管理を数量と担当者まで示す重要命令。