天草江移百姓人数並馬道具帳
寛永十九年十二月三日 / 冊子 431~434頁/原整理番号 544
天草の明地へ移す百姓について、出身村、家長、男女人数、馬匹、農具・鍋釜・桶・種などを戸別に列記する。全三十戸の人数は男女計百五十六人、馬は四十五疋である。冒頭の一戸では鋤一丁・まんが一つ・鍬三具・鎌三具などを明記し、後続戸は同断または個別の道具を記す。編者は寛永十九年七月十六日の奉書による移住とみなし、帳末は相良権兵衛頼員・島津中務少輔久茂が同年十二月三日に署判する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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寛永十九年十二月三日 / 冊子 431~434頁/原整理番号 544
天草の明地へ移す百姓について、出身村、家長、男女人数、馬匹、農具・鍋釜・桶・種などを戸別に列記する。全三十戸の人数は男女計百五十六人、馬は四十五疋である。冒頭の一戸では鋤一丁・まんが一つ・鍬三具・鎌三具などを明記し、後続戸は同断または個別の道具を記す。編者は寛永十九年七月十六日の奉書による移住とみなし、帳末は相良権兵衛頼員・島津中務少輔久茂が同年十二月三日に署判する。
目録年月日記載なし / 冊子 117~118頁/原整理番号 1-11
高輪への移住と町人らの願い、家臣の役務・御座敷の備えについて述べる書状を収める。さらに伊地知家の祖先と古系図を照らし、家の由緒を書き付けて伝える書信が続く。
(万治二年)一月十一日 / 冊子 376~377頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0823
島津光久が総高七十二万八千七百石余を前提に、領国内の公平な検地と知行配分、私心・贔屓の禁止、琉球国司領等の扱い、地頭所への配分、境目移住者と新開田の処置を定めた袖判条書。
天文十九年八月廿八日 / 冊子 782頁
伊作三郎左衛門尉久氏が京都で将軍の御代官を務め、天王寺合戦で京方が敗れた後も退かず、皇居を遥拝して辞世の和歌を書き、切腹したとする後胤伝承。家臣三名の殉死、遺族の薩摩移住、伊作に居住して系統を継いだことまで記す。
年月日未詳 / 冊子 125頁
『島津国史』の至徳元年(南朝元中元年)の記事。二月二十七日の改元を記し、今川了俊が宮内大輔三雄を肥後二見へ派遣し、秋にも諸将が二見へ向かったこと、久哲公が前年に子守久を派遣していたことを述べる。続いて今川了俊の執事人である六郎左衛門尉や、至徳元年十二月九日付の薩摩・大隅・日向地頭御家人宛文書を検討し、相国寺領三俣院の守護・忠節命令と発給者を斯波義将に比定する。末尾では、父氏久以来の居所である志布志から鹿児島へ移るため、清水に川・谷を利用した城郭を築き、妻子を移住させた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 125頁
島津元久譜として、父氏久以来の居所である志布志から鹿児島へ移るにあたり、東福寺城・城脇などを検討した後、清水を新たな宅地に選んで城郭を築き、妻子とともに移住したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作家の元祖・久長が伊作庄を領して同地に長く居住し、のちに日向国樺間院を与えられて移住したことを記す伊作島津久逸譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 631~632頁
樺山長久一族が外敵の脅威と所領問題を避けるため、北原・伊東氏の領域へ移住した経緯を記す。樺山宗栄・島津忠兼らとの関係、野野三谷などで認められた居住・知行、旧領と新所領の処理を追い、主家・地域を移った一族の生存と所領継承を示す。
年月日未詳 / 冊子 773頁
この頃、伊集院大和守が鹿児島の上之山を手に入れて自ら移住したことを、千秋万歳の吉兆として記す。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
元亀元年春~元亀二年正月一日 / 冊子 232頁
元亀元年春、渋谷党の降参後、入来院・東郷両氏から差し出された諸地を義久が再配分し、家久を隈城地頭に任じ、串木野も与えて移住させた。翌年元旦、家久は家臣全員を甲冑姿で出仕させ、敵が祝日の油断を狙うことに備えた。
天正二年十一月廿日~閏十一月十九日 / 冊子 347頁
天正二年十一月二十日、義弘の旅館で重臣らに肝付氏への使者、下大隅の所替え、市成城の保持を評議させた。閏十一月十八日には上井為兼を江月斎の宿所へ遣わして滞在中の不行届を詫び、薩隅日三州の支配確認を求め、翌十九日には伊地知重興が南林寺を通じて下城から他所または鹿児島港への移住を願ったことを記す。
天正四年八月十九日 / 冊子 500頁
天正四年八月十九日、島津方が高原城を攻め取った後、上原長門守尚近を地頭とし、衆中三百五十人を付けて移住させたことを記す。後に日向一国領有時には尚近を飫肥地頭としたが、豊臣秀吉の下向時に飫肥城は伊東氏へ与えられた。
(天正16年)8月29日 / 冊子 409頁
薩摩和泉・肥後水俣から、侍・百姓が男女を問わず薩摩・大隅や近隣国へ移住していると指摘する。 法度に従って早急に召し返し、元の居所へ還住させ、命令に背く者は厳しく成敗するよう命じた、領民移動統制の朱印状。
年月日未詳 / 冊子 440頁
島津忠倍が、父・島津忠長に薩摩国東郷が与えられたことを受け、串良を離れて島津征久の館で越年し、翌年二月に忠長に従って東郷へ移った記事。 島津一門の所領替えに伴う家族単位の移住経路と時期を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 916頁
義久は帰国後、大隅国富隈に新たな宅地を定め、鹿児島を忠恒へ譲った。 家臣・領民を動員して土石工事を完成させ、富隈へ移住しようとした経緯を記し、島津家の本拠再編と忠恒への継承過程を示す。
(慶長五年)四月八日 / 冊子 530頁
島津義弘が忠恒に、庄内平定を祝し、家中女性の病状が快方に向かっていると伝える。西国大名の伏見番や諸大名の大坂移住の状況、増田長盛・大谷吉継らの動き、伊那図書頭の奥州下向を報じ、薩摩から人員を上らせる必要があるので油断しないよう注意する。
年月日未詳 / 冊子 912-913頁
島津以久譜は、以久が徳川家康に拝謁して秘蔵の肩衝茶入「奈良柴」を献上し、その返礼として日向国那珂郡佐土原三万石を与えられ、佐土原へ移住したと記す。
年月日未詳 / 冊子 921頁
島津久元譜は、嗣子のなかった新納四郎忠実が島津久元(初名忠在)を猶子として家統を継がせたと記す。慶長八年十二月、久元は日向国真幸院木永村へ移住し、領内一千石を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 45~51頁
慶長十年の国府衆中を家ごとに列記した大規模な交名。町田縫殿助(後の駿河守)をはじめ、各家の当主・子・兄弟・養子・婿・被官らの姓名、入道名、役職、親子・養子関係、居所・移住先、出仕・死亡などの注記を収める。
年月日未詳 / 冊子 279頁
島津久元譜の記事。慶長十五年六月に馬越から宮城へ移り、翌慶長十六年十月には鹿島へ移住したことを記す。
(元和六年)閏十二月廿九日 / 冊子 739~740頁
喜入忠政・伊勢貞昌が国元の重臣に、出水・長島から百姓二十余人が逃散した件、風水害後の収納・荒地・移住・開発を調査し、良地悪地を区別して御蔵入の後年負担を避けるよう協議を求めた連署状。
(寛永五年)四月十七日 / 冊子 61頁
亀山家の兄弟に五十石・三十石、藤野に五十石を与え、町田勘解由次官は加増して計三百石とする。弟子丸越後入道を真幸吉田へ移して五十石、村田刑部少輔を穆佐へ移して旧知行から三百石を返付するなど、知行配分と移住を定める条書。
(寛永九年)四月廿五日 / 冊子 265~266頁
島津久元が、加治木からの使者木脇三右衛門を帰国させること、新納織部佑の子将野介の鹿児島移住希望等の情報、国絵図の取り寄せ、惟新様に殉じた御供衆の氏名・知行高・道号を調べて妙円寺に石塔を建てる計画などを、喜入摂津守・川上左近将監へ報じた書状。
七月十六日 / 冊子 131頁
本文では「二六七号文書ト同文ニツキ省略ス、但シ年季ノ注ナシ」として全文を省略した連署書状。No.267本文を再照合し、島原・天草領の百姓不足を補うため薩摩領から百姓を移住させる命令と確認した。No.154本文自体には年紀の注がないが、対応するNo.267は寛永十九年七月十六日である。
「寛永十九年」七月十六日 / 冊子 204~205頁
松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が、島原・天草領は先年の一揆後に荒廃して百姓が不足しているため、薩摩領から百姓を移すよう命じた連署書状。兄弟・親子が三人から五人いる家から一人を選び、田地の少ない村などから移住させ、幕府への奉公として速やかに差し越すよう求めている。
「寛永十九年」七月廿一日 / 冊子 207~208頁
島津久通ら三名が、荒廃して百姓の少ない島原・天草へ隣国から百姓を移すとの幕命について、薩摩も百姓に余裕がなく田畠が荒れる懸念はあるが、天下の下知であるため従わざるを得ないと伝えた連署書状。使者の到着後すぐに相談し、隣国の様子も聞き合わせて移住の手配に尽力するよう求めている。
「寛永十九年」七月廿五日 / 冊子 208~209頁
島津久通ら三名が、鍋島信州の家老衆から知らされた『かれうた船』への警戒と通報手順を指示した連署書状。船が甑島方面に現れた場合は鹿児島を経由すると遅れるため、長崎および高力家へ島から直接急報し、早飛脚を用いるよう新納勘解由らへ申し渡すことを求める。あわせて島原・天草への百姓移住の使者派遣を知らせている。
承応三年七月九日 / 冊子 422頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0875
川上久運が町田勘解由・島津中務へ、川上家が代々仕え、上野騎射の術を伝え、吉野原に牧を開いて馬を養育してきた由緒を述べ、老齢で遠方からの出仕が難しいため、吉野・吉田の地を拝領して移住し、騎射・大追物の伝授を続けられるよう取り成しを願った口上書。
元文四年十月 / 冊子 549頁/整理ID 1367
十月、郡奉行・山奉行らが重富へ赴き、帖佐・吉田両郷の役人を集めて図に基づき境界を定めた。壮之助の家臣が将来移住するときは役所に告げ、定めた境界を失わないよう証書を作成した。
独立日付なし(906の1への行間朱返答) / 冊子 279~280頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0061
本書の趣旨を委曲承知して申し談じ、当分は期限を定めず従来どおり召し置くこと、国許へ遣わす命があれば永の暇は申し上げ難く、先例もないので容易に請い難いと返す。浄国院・有邦院の子様出生時に実母を引越させた例を照合し、実母が縁付となった例は見えず、子を御前が養う件や家の継続・扶助との関係も考える。下屋敷などへ一世召し置く取計いは先例がないが、許容されればありがたいとし、取締りが難しくない点や当分在宿療養中であることも検討する。他女中との跪伏等の釣合いにも触れるが、生涯宿許のままもどうかという問題を残す。各評議どおり当分これまでのままとしたい旨を伝え、記録奉行へ照会した書付を添えるとの記載がある。独立日付はこの写では確認できないため別写793の12月29日を移さない。国元移住・永暇・縁付・養子・住居の先例と、現在据置きの評議を分け、永暇許可や後縁実施とはしない。
辛未2~3月太政官・知政所 / 冊子 804頁/原整理番号 1023の2/整理ID 1023-2
北海道へ移住する者の箱館港上陸、管轄地方官の印鑑改定、開拓使直轄地への府藩県士卒の移住、横浜その他の外国人居留地の扱いを定める。箱館港も同様に心得、別紙どおり東京出張開拓使へ連絡するよう命じる。辛未二月太政官、三月知政所。
壬申4月鹿児島県庁 / 冊子 880~881頁/原整理番号 1095の3/整理ID 1095-3
全国人員取調について従来の方法に漏れや混乱があるため、県下諸郷を区画し戸長を置いて戸籍帳を整備する。出生・死亡・移住・旅行・寄留・病気等の異動を届け出させ、戸長・副戸長が証明して人員を継続的に把握する。
明治21年6月1日 / 冊子 1001頁/原整理番号 1320/整理ID 1320
華族として東京府の貫属であった島津忠義が、宮内省達に基づいて鹿児島への移住と鹿児島県への転貫属を願い、朝廷に許可されたことを系図に記す。
明応7年、永正8年10月21日、寛永15年正月11日、慶安元年11月18日、慶安2年7月20日、寛文2年冬、寛文4年12月11日・16日、寛文6年12月29日、延宝5年、延宝8年2月11日・3月4日、元禄元年9月13日・12月17日、元禄10~12年、宝永元~7年、正徳元年12月29日、享保5年正月28日、享保10年7月8日、享保11年、宝暦3年・6年・7年・11年・12年、明和4年・6年・7年、安永5年・7年、寛政2年9月15日 / 冊子 55~62頁/原整理番号 14-2
二階堂氏正統系譜の近世部分。行次の記事を受け、行治・行存の代に田布施の封邑と家勢が衰えたことを記し、定行が寛永十五年に島原の乱へ従軍した経歴へ続く。養子として正統を継いだ行格は、古系図・伝来文書を島津光久へ提出し、家の由緒を認められて寛文四年に田布施から鹿児島府下へ移住した。島津綱貴から扶助米を受け、御記録所で古系図・文書の総点検と新装・蔵函を施されたこと、御番免除や綱貴の御成を記す。行宅・行道は奥小姓・側小姓・小納戸・納殿役などを務め、家督・扶助米を継承した。末尾は行旦とその子女・養子・婚姻、家伝書留や長倉ト山覚書等の伝来を掲げ、安永七年生まれの子までを収める。
年月日未詳 / 冊子 117~120頁/原整理番号 23-1
中表紙『禰占氏略系』に続く禰占氏の家伝・系図。上祖未詳の兵右衛門が十八歳で忠政君に出仕を求め、府下の士となって与力を命じられたこと、寛永十二年の戸口改め後も家臣・与力として扱われ、田宅と廩米を与えられた由緒を記す。四郎兵衛は辺川へ移住したが火災で系図を失い、普請方役人として光樹君に仕えた。仁左衛門は南戸役から取次役兼目附役となり、江戸随行中に病死。勘右衛門は九歳で久亮君の小姓となり、のち兵具方兼馬役を務めた。以後、勘七・新次郎・新四郎・新助・助市・仙之助・新九郎・新五右衛門・四郎次らの出生・没年、法名、母方、婚姻・離別、子女を宝暦・明和・安永・天明・寛政・文化・文政・天保・弘化期まで系線で整理する。
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
慶長5年(1600)の記事(作成年不詳) / 冊子 363頁/原整理番号 164
羽島太郎次郎が『末吉衆中根元記』に記した家の由緒。祖父が川内山田から高山へ移り、さらに慶長五年に末吉へ移住して、地頭村田雅楽助入道に付いて奉公した経緯を述べる。作成年月日は記されず、慶長五年の移住を回顧する記事である。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
慶長4年夏 / 冊子 572~573頁/原整理番号 75
島津義弘の覚書として、先祖に関わる儀礼、殿中の作法、子ども・町人以下の扶持や食事などは竜伯が定めた方式を変えず、判断に迷う事柄は竜伯へ相談するよう列挙する。鹿児島・諸外城の居住や役人の配置、諸方からの用所への申出には早く対応し、無足衆の扶持・高麗への出物人数・京都への参詣や鹿児島への移住希望も扱う。殿中の番や掃除、奉公人・家臣の移動、家中の相談、裁きと知行の配分を定め、近習や特定の者への私的な取り立てを避けるよう求める。大酒を禁じ、食物その他の昼夜の用心、依怙の禁止、もてなしや座の興行を口実に近づく者の扱い、新田宮の再興、家中に制札を立てないことにも及ぶ。末尾は慶長4年夏。個別の命令が連続する形式で、宛名は記されない。
系図全体は無年次(寛文11年・延宝6年・元禄6年などの没年を記載) / 冊子 599~601頁/原整理番号 103
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加世田居住、官職・法名・没年、藤崎・馬場・島田・岩切・吉井・有馬などへの婚姻を付し、寛文・延宝・元禄期の記事と末代の出生までたどる。前項の前田茂右衛門家系図とは、兼政の弟兼定から分かれた谷山移住系統である。
〔元禄十四年〕五月 / 冊子 241頁/原整理番号 13の2
猿渡信安が藤原姓拝受の根拠としてまとめた家の由緒覚。元祖猿渡藤三郎を比企能員の甥とし、源頼朝への奉仕、建仁三年の比企氏滅亡、子孫の薩摩移住を記す。猿渡越中信光が近衛龍山から藤原姓を許されたこと、歴代が合戦で軍功を挙げたことを述べ、近衛家の証明を願う。
享保八年二月 / 冊子 133頁/原整理番号 45
種子島久基が大御支配に際し、作人の多い外城から人手の足りない土地へ百姓を移す命令について、桜島からの免除願いを退ける。一方、桜島では近隣より夫仕が少ないことから、移住を免じる代わりに現用夫一人につき月二日を近名や御普請方の仕事へ出し、御普請では一人赤米五合を給すると定める。
年月日未詳 / 冊子 365~366頁/原整理番号 70
馬越城を攻め落とし、五百余騎を討ち取ったとする覚書。その日のうちに周辺の八城が島津方へ参じたが、大口は求麻から入った八千余騎とともに籠城した。翌年五月六日の戸神の戦いで相良方の入番兵を破ると加勢も引き退き、籠城側は薩摩へ城を下した。忠元が大口の地頭を命じられ、各地から兵や移住者が集まったことも記す。
年月日未詳 / 冊子 378~379頁/原整理番号 91
長峯の諏方大明神について、忠元の勧請、男女二体の神体、社殿と附属社、祭礼の運営を記す由緒調帳。大口への移住年と建立年には記載の食い違いがあるとし、古帳を参照している。嘉永三年の火災で神体と古札を失い再興したが、延宝年間の棟札写は残った。七月十八日の祭礼、前夜の夕祭、祭米三十五升の下付、五月朔日の頭屋・諸役の決定、地頭代参、神馬などを伝える。末尾には古帳の社殿寸法と神主の勤務由来、萬延元年六月の由緒調を載せる。
巻八/冊子 120~121頁
光久の江戸参府、嗣子虎寿丸の改名、天草・島原への農民移住、甑島での南蛮人捕縛を記す。病床の島津久元は、参府に随行する子久通へ、主君に身を尽くし友人には信を守るよう遺訓した。光久は江戸で家光と嗣君へ進献し、六月二十八日、虎寿丸は又三郎久平と称した。島原・天草一揆後の荒廃を受け、松平信綱の奉書により、農夫三十人を妻子合わせ百五十五人・馬四十九匹とともに天草へ、別の農夫三十人を妻子合わせ四十八人・馬四十四匹とともに島原へ移し、農具も与えた。七月十一日、甑島の漁民が磯に隠れる南蛮人九人(うち日本人三人)を発見し、島役人が捕縛して鹿児島・長崎奉行を通じ幕府へ報告した。家光は島役人を賞し、捕縛者の所持品を与えた。末尾では将軍家の男子誕生を祝う宴と、寛永十九年の大飢饉による多数の死者を記す。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
年月日未詳 / 冊子 125頁
近世略系図として、至徳年間に島津元久が志布志を去って鹿児島本城へ移ったことを記す記事。本城は大興寺後山、また清水城ともいうとの注記がある。
年月日未詳 / 冊子 428~429頁
北郷持久が島津忠国の命により享徳二年四月二十九日に三俣高城へ移り十二年間居住し、寛正六年六月二十九日に子の敏久とともに高城を去って安永古江村薩摩迫へ移った経緯を記す。