孝子褒賞記事
年月日未詳 / 冊子 915頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2489
河辺郡加世田郷大浦村の市兵衛・次郎兵衛・志摩右衛門は、母を養い助け合って暮らした。兄市兵衛の病死後、二弟が母と兄の遺児を養い、志摩右衛門は母を馬に載せ自ら轡を取って鹿府へ赴き、寺院を訪れて亡兄を弔い母の願いを満たした。元禄七年十月二十日、綱貴が母と兄弟を召し、二子の孝順を賞して青銅三千疋と耕田十斛の丁役免除を永く与えた。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 915頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2489
河辺郡加世田郷大浦村の市兵衛・次郎兵衛・志摩右衛門は、母を養い助け合って暮らした。兄市兵衛の病死後、二弟が母と兄の遺児を養い、志摩右衛門は母を馬に載せ自ら轡を取って鹿府へ赴き、寺院を訪れて亡兄を弔い母の願いを満たした。元禄七年十月二十日、綱貴が母と兄弟を召し、二子の孝順を賞して青銅三千疋と耕田十斛の丁役免除を永く与えた。
安永九年二月五日(願書自己月日)、同月十七日取次(朱注) / 冊子 594頁/原整理番号 1673/整理ID 1673
松平薩摩守の願書。参府の節には供の家老二人を連れ、御礼を申し上げる際に御目見を仰せ付けられてきたと述べる。前年に伺った趣旨があり、留守に置いた家老は前年に御目見を仰せ付けられた者であったが、先格のとおり供の家老と一緒に御目見するよう、去冬の伺いどおりに仰せ渡されていた。しかしその家老がこの節に病死したため、以前から参勤の御礼時に家来二人を御目見させてきたことを踏まえ、前年中に留守へ置いた年寄の者が参府した上で、御礼を申し上げる際に供の家老と一緒に御目見するよう願う。以上と結び、二月五日、松平薩摩守の署と安永九年の朱年注を付す。扣正文在右筆所とする出典注がある。朱書の御付紙には「可為伺之通候」と記す。別の朱注は、本文日付の当日に御用番板倉佐渡守へ差し出して置いたところ、同月十七日に同人から、御取次熱海多宮を通じて御付札のとおり仰せ渡されたという経過を記す。従前の二人同伴の慣例、去冬の取扱い、病死による変更願、付紙の指示、十七日の取次経過を別の段階として示し、病死家老と新しく同伴を求める年寄を同一人物にしない。
安永九年三月朔日(本文同年・目録) / 冊子 596頁/原整理番号 1680/整理ID 1680
重豪公御譜中の記事。同年三月朔日、重豪が従行家老島津仲久健と菱刈大炊実祐を伴って大家に朝し、旧例どおり朝礼を行ったと記す。注は、従行家老二人が大家へ奉見するのは先例であり、この年の重豪の江戸行きには従行家老を一人減らして前年の留任家老をその数に充て、大家へ見えることを願い、すでに許可が下っていたと説明する。さらに重豪の江戸到着時の事情として、留守家老山岡久澄の病死と、菱刈実祐をその数に充てて大家へ奉見させるよう願ったことを記す。実祐は当時大目付で年寄と称し、官に告して江府邸に留任していたとする注も付す。本文は二人を従行家老として列挙し、注は実祐の当時の役を大目付・年寄と説明するので、本文の呼称と役職注を分けて保持する。三月朔日の朝礼と、それまでの家老人数変更・病死・代役願の経緯を記す記事で、本文と人物経緯注を一体として示す。
享保四年十月十一日 / 冊子 422頁/整理ID 1097
琉球在番の附役や在番人の病死を受け、交代要員の派遣、琉球側との相談、書付の取扱いを指示する島津側からの申渡書。
辰九月20日報告、去る18日死亡 / 冊子 599頁/原整理番号 779の2/整理ID 779-2
一番隊兵士の椋松善次は、疫症で病院に療養していたが養生がかなわず、去る十八日に死亡したと報告する。遺髪はこの節に一緒に送るので、国許に届いたら親類らへ渡すよう求める。病死ではあるが、それまで多日連戦した働きを取り計らい、戦死者と同様の取扱で葬式料等を与えるよう依頼する。辰九月二十日、会津在陣の御軍賦役から御国元陸軍所・京都本営役所宛。原の病死を戦場での即死へ変更せず、待遇上の戦死同様という要求を分けて示す。
文久2年壬戌10月(日不記、再掲書付) / 冊子 283頁/原整理番号 395の2/整理ID 395-2
五条の書付。詩歌や諸遊技にのみふけり士に似合わない所業をしないこと、知行高に応じた軍役人員と兵器・糧食の不足に注意すること、衣食住に贅沢を用いないこと、組合中に長病または死去者があれば同位から速やかに物主へ申し出ること、仕伍の組合は互いに和睦することを求め、堅固に守るよう命じる。文久二年壬戌十月、御名乗御判と記すが姓名は記さない。前後の申渡に挟まれた再掲書付であり、本文に記された年・月を保持する。
年月日未詳 / 冊子 69頁
天正十三年七月十三日以降、吉利下総守らが上井覚兼へ伝えた諸方の軍事情報をまとめた『島津義久譜』の記事。羽柴筑前守の軍勢が四国で戦い、七、八百人を失って敗れたとの風聞、甲斐宗運が病死したとの情報が届くが、謀略の可能性も疑っている。続いて島津図書頭忠長・伊集院忠棟らが宮崎・高知尾方面の作戦と兵器輸送を協議し、花山城をめぐって阿蘇・甲斐方の大軍と交戦した経過を記す。未確認情報を吟味しながら救援・守城策を組み立てる島津方の情報活動が分かる。
(文禄2年)2月5日 / 冊子 670頁
No.1046の豊臣秀吉朱印状抄と同文であるため、原資料では本文を省略している。高麗へ派遣した船頭・水夫の過半が病死したことを受け、領内各浦から十五歳以上六十歳以下の代替要員を渡海させる命令。 同一命令が別の伝来・収録箇所にも残されたことを示す重複記事。
年月日未詳 / 冊子 727頁
町田久倍の子・忠綱が文禄二年春に朝鮮へ出陣し、旧都で島津義弘・久保に拝謁した後、両公に従って巨済島の唐島へ移った経過を記す。 忠綱は唐島の陣中で病死し、享年二十九歳だったという、若い家臣の朝鮮在陣と最期を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 760頁
文禄の役において朝鮮で戦死・病死した島津家臣を、死亡日とともに列挙する。伊地知左近将監重治、佐藤太郎五郎家元、土持三九郎清綱、津曲小左衛門兼祐、北郷讃岐守忠虎らの最期を記す。 合戦死だけでなく陣中の病死も含み、朝鮮出兵が島津家中に与えた人的損失を一覧できる記録。
年月日未詳 / 冊子 768頁
秀吉が公武を率いて大坂から吉野へ花見に赴いた一方、朝鮮在陣の長期化で丹波少将秀勝・東郷侍従・長谷川秀一・加藤光泰ら諸将が病死し、残る兵も疲弊したと記す。 華やかな吉野の花見と朝鮮陣中の死病・疲労を同時に伝え、文禄の役をめぐる中央と戦地の落差が鮮明な島津義弘譜の記事。
文禄3年8月5日 / 冊子 803~804頁
義弘が前年以来の在陣者のうち帰朝者・病死者・病人が相次ぎ、新たに参陣する者もないため手元が極端な人手不足になったと訴える。国元では百石につき五人の軍役と聞いていたが、実際には渡海していないと批判する。 伊集院忠棟・比志島国貞らが連れてきた者以外はほとんど役に立たず、帰国した兵を再派遣するよう石田三成側へ求める。朝鮮在陣軍の消耗と補充停滞を義弘自身が具体的に告発した重要書状。
年月日未詳 / 冊子 811頁
九月二十九日、数十艘の朝鮮水軍が唐島の福島正則らの陣を襲うと、正則は伏兵と軽兵で誘い込み、義弘は伊集院抱節斎を援軍に送った。正則が敵船一艘を焼き、敵は退却したが、十月一日には義弘の城下へ迫って銃撃し、八日に唐島から撤収したと記す。 また嫡子久保の病死、次子忠恒の朝鮮渡海願いを秀吉が許可し、忠恒が同月晦日に義弘の唐島陣へ到着したことも記す。戦闘と家督継承が重なる重要記事。
年月日未詳 / 冊子 864~865頁
文禄四年中に戦死・病死した島津方の家臣を、日付と所属を添えて列挙する。北郷忠虎の臣・鶴田市右衛門尉貞明、松下源二郎、島津義弘の臣・山本勘左衛門親臣や鬼塚三蔵らの最期を記録する。 個々の戦功記事では見えにくい人的損耗をまとめた名簿で、朝鮮出兵期の島津家臣団の犠牲を追える重要史料。
年月日未詳 / 冊子 899頁
島津彰久が文禄四年七月五日に朝鮮で病死し、享年二十九、法号を天宗慈雲大禅定門としたことを記す。 家臣の安田次郎兵衛が主君の死を追って殉死した逸話も載せ、朝鮮在陣の人的損失と主従関係を伝える。
年月日未詳 / 冊子 175~182頁
「殉国名数抄」として、慶長の役で戦死・病死した島津家の家臣、諸士、従者らを列挙した戦没者名簿。氏名だけでなく、所属地・役職、親子・兄弟・孫などの家系関係、戦没地や年月日、蔚山・泗川・南原などでの戦死、船中・陣中での病死といった事情を小字で付記する。無姓氏の兵や朝鮮陣没者を含む、多数の犠牲者を家ごとに記録した史料である。
慶長四年六月上澣 / 冊子 388~389頁
島津義弘・忠恒が、慶長二年八月十五日の南原表と同年十月朔日の泗川表で討ち取られた明軍、ならびに海陸で戦死・病死した敵味方の軍兵を等しく仏道へ入れるため建立した供養碑文である。南原では島津勢の討取四百二十人、泗川では大明軍八万余の敗亡を記し、度重なる朝鮮の戦場での死者を弔う。
(慶長十年)十二月廿八日 / 冊子 44頁
本田親存が本田助允に、書状と下緒一具・唐墨を贈られた礼を述べた返書。勝吉の所持品を拝見したことに触れ、勝吉が懸命な療養にもかかわらず十二月二十日に三十三歳で病死したことを悼み、後の処置について相談している。
年月日未詳 / 冊子 268頁
新納忠元勲功記の記事。忠元の妻で種子島修理亮時興の娘が慶長十四年二月十四日に病死し、法名を笑蓮妙欣大姉としたこと、赤塚某の書留に辞世の和歌が残ることを記す。
年月日未詳 / 冊子 273頁
島津以久譜の記事。慶長十五年四月九日、以久が伏見で病死し、享年六十一、法名を高月院仁雄宗恕居士とし、洛陽四条寺町の大雲院に葬ったことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 291頁
島津家久譜の記事。中山王尚寧の弟具志頭が駿府の邸で病死したため葬礼を行い、本多正純の命により平田阿波介宗衡が具志頭の従者らとともに棺を運び、正純がその経過を家久へ報告したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 303~304頁
新納忠元勲功記。慶長十五年三月、忠元が春の老いを詠んだ和歌と、同年十二月三日に大口で病死し、翌日に火葬されたこと、法名・葬所などを記す。
年月日未詳 / 冊子 575頁
宇喜多秀家の旧臣本郷義則が、秀家の八丈島配流後に薩摩へ来て島津家久の師範となった経緯を記す。本郷義則が元和元年三月二十五日に病死し、家久が深く哀惜したとする家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 606頁
元和元年七月十八日、桂忠昉が隅州高山で病死し、享年五十八、法号を龍泉道活としたことを記す譜伝記事。
年月日未詳 / 冊子 787頁
島津家久の庶女松は伊集院氏の女性を母とし、柔順で容姿にも優れていたが、家久に従って江戸へ赴いた際に病死した。家久が深く悲しみ、六字名号を記し六首の和歌を詠んで追善したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 479頁
喜入美作守忠高が寛永十二年三月五日に病死し、訃報を受けた島津家久が五月十四日に島津久慶の母へ自筆の仮名書状を送り、婿にあたる忠高の死を慰めたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 480頁
島津久慶の妹で喜入忠高の妻であった女性が、忠高の死後の四月十八日に病死し、島津家久が久慶側へ弔慰書状を送り、書中で夫妻の死を繰り返し嘆いたことを記す系譜記事。
延宝二年十二月晦日 / 冊子 642頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1595
島津久通が延宝二年十二月晦日に病死し、享年七十一、法名を沽水院徳源道智大居士としたことを記す譜中記事。
延宝三年一月十五日 / 冊子 644頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1600
島津光久が琉球国司へ、官位昇進を祝い、中城王子が病死したため遠境から贈答品と弔意が届いたことを悦び、後慶を期すと伝えた書状。
(貞享四年)十一月十日 / 冊子 803頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2111
市来次左衛門が、紀州から長崎へ送られた呉国船の乗員を召し出して漂着事情を聞き、病死者・生存者、船の図、航路や処置について長崎奉行側と確認した経緯を記す覚書。
(元禄九年)七月十三日 / 冊子 963頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2652
前年九月朔日に領内の永良部島へ漂着・破損した福州船について、唐人百十人のうち一人が病死し、残る百九人と荷物を警固付きで長崎へ送り、長崎奉行が無事に受け取ったことを幕府へ報告した口上覚。
元禄十七年二月十六日 / 冊子 464頁/整理ID 無番号_0002
島津綱貴が小笠原佐渡守長重へ、領内へ送られた無宿流人六十八人のうち、江戸から大坂までの籠中で十三人が病死し、大坂町奉行から受け取った五十五人のうち船中で八人が病死して、残る四十七人が十二日に領内へ到着したと報告した口上覚。
元禄十二年正月十二日 / 冊子 97–98頁/整理ID 337
南京から来航した唐船一艘に三十八人が乗り、一人が病死したのち、十月朔日に領内七島の諏方之瀬へ漂着した件を報告する口上覚。先に詳細を報告したうえで唐船に警固を付けて長崎へ送り、正月三日に異状なく引き渡されたと伝える。
元禄十二年二月十四日 / 冊子 102頁/整理ID 358
綱貴公御譜中に収められた書状。近藤備中守・丹羽遠江守へ、前年に領内の屋久島で破船した朝鮮人五十二人と所持道具を領内の船に乗せ、警固を添えて送ったと伝える。別に二人が病死したこと、遺骸と破損船具は家来が受けた指図どおり処置させ、詳細を家来が報告することも記す。
元禄十二年二月二十九日 / 冊子 104頁/整理ID 366
丹羽長守・近藤用高が松平薩摩守へ、屋久島で破船した朝鮮人52人と所持道具が日本船で送られ、警固付きで前日28日に長崎へ無事着岸し、相違なく受け取ったと報告した連署状。別に病死した2人の遺骸と破損船具について薩摩藩家来と相談した指図が実施されることを承知し、詳細は使者と相談すると答える。
元禄十二年三月五日 / 冊子 105頁/整理ID 368
島津綱貴が、屋久島で破船した朝鮮人52人を長崎へ送り、先月28日に長崎奉行が受け取ったと報告した口上覚。別に病死した2人は朝鮮人の希望どおり土葬していたが、遺骸と破損船具を長崎へ送るよう奉行から指図があり、そのとおり送ったと述べる。
元禄十二年三月五日 / 冊子 105頁/整理ID 369
島津綱貴が、屋久島で破船した朝鮮人52人を長崎へ送り、先月28日に長崎奉行が受け取ったと報告した口上覚。別に2人が病死しており、船具などは長崎奉行の指図があれば、そのとおり処置する用意があると述べる。No.368と異なり、土葬や遺骸・破損船具をすでに送ったとの記載はない。
元禄十三年三月五日 / 冊子 206頁/整理ID 702
島津綱貴が、前年十二月八日に屋久島一湊へ漂着した朝鮮人五十二人を長崎へ送り、二月二十八日に長崎奉行が受け取ったと報告する口上覚。別に病死者二人がおり、その遺骸と破船船具は長崎奉行の指図どおり処置した。
元禄十二年三月二十日~正徳二年十一月三日 / 冊子 212頁/整理ID 720
島津久東(虎房・権七)は元禄十二年三月二十日に江戸芝邸で生まれ、母は江田五兵衛国重入道道用の娘で、第二十代島津綱貴の六男と記す系譜抄。翌十三年四月朔日、綱貴の命で島津久當の養子となり、正徳二年十一月三日に十四歳で病死した。
元禄十七年二月十六日 / 冊子 464頁/整理ID 1604
島津綱貴が稲葉丹後守正通へ、領内へ送られた無宿流人六十八人のうち、江戸から大坂までの籠中で十三人が病死し、大坂町奉行から受け取った五十五人のうち船中で八人が病死して、残る四十七人が十二日に領内へ到着したと報告した口上覚。
元禄十七年二月十六日 / 冊子 464頁/整理ID 1605
島津綱貴が丹羽遠江守長守へ、領内へ送られた無宿流人六十八人のうち、江戸から大坂までの籠中で十三人が病死し、大坂町奉行から受け取った五十五人のうち船中で八人が病死して、残る四十七人が十二日に領内へ到着したと報告した口上覚。
宝永元年九月二十五日 / 冊子 506頁/整理ID 1768
吉貴公御譜中に、九月二十五日付で修理大夫が、病死した松平薩摩守の遺骸を棺に納め乗物で江戸から薩州鹿児島福昌寺へ送るため、箱根・今切両関所を滞りなく通す手形を求めた証状を載せる。遺骸について難儀があれば自分方へ知らせてほしいと述べる。
宝永元年十一月十三日(末尾付記:正徳二年七月二十八日) / 冊子 536頁/整理ID 1824
忠朗流内匠久連譜に、宝永元年十一月十三日、吉貴が家督御礼のため江城へ登った時、久連が一族として随従し、将軍へ太刀・馬代・時服を献じて初めて拝謁したと記す。末尾には正徳二年壬辰七月二十八日、加治木で病死、三十三歳と付記する。
正徳二年八月廿二日 / 冊子 23頁/整理ID 69
駒木根政方と大岡清平が薩摩守に、大島で漂着した唐船を修復し病死者を埋葬して三月十六日に出帆させたこと、琉球の大宜味間切へ漂着した別の唐船も修復して三月十日に出帆させたことを承知したと連署で返答する。
〈寛延二年〉正月十八日 / 冊子 141頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0389
島津宗信が幕府に、琉球中山王の使節に同行した使替官の渡嘉敷親雲上が旅中に病み、尾張国宮駅で正月十一日夜に病死したと届ける。十二日に同地の宗海国寺へ葬ったことも報告する。
宝暦十三年正月~十二月(本文。目録表題は宝暦十二年) / 冊子 972~973頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2765
重豪の宝暦十三年正月から十二月までの動静を列記する。翁舞の観覧、求馬の急病死、火災に伴う二万両の借入れと四千両の返納許可、二月の水痘、四月十五日の登城と二十八日の芝出発、六月十四日の出水到着・二十一日の府城到着を記す。御側御用人・御納戸奉行らの任免、老齢で多務の島津貴寧への政務免除と腰刀下賜、近寺士への弓砲訓練指示、鷹狩り・舟遊び・琉球踊り、九月二十六日の図書久完の死去も収める。十月朔日の玉川王子・豊見城王子への饗応、十一・十二月の射礼、十二月十八日の今泉濱亭訪問、二十三日の散楽・天狗舞による年忘れまで記録する。
明和八年六月(日無記載) / 冊子 288頁/原整理番号 761/整理ID 761
亡高祖父同氏上総入道(吉貴)の妹で、故松平隠岐守定英の妻だった者が離縁して国元に住んでいたところ、去る八日に病死したと知らせ、忌服はない旨を届ける。六月付、年は明和八年の朱注、署名表示は御名で、独立した宛所はない。控の正文は家老座にある。
宝暦六年子正月晦日(本文の前例年月日。末尾朱注は明和八年六月) / 冊子 288頁/原整理番号 762/整理ID 762
六代前薩摩守綱貴の妻信證院が国元に住み、宝暦六年子正月晦日に病死したため、忌服はないものの届けるという例書。末尾には明和八年六月の朱注があり、さらに「此六月トアルハ宝暦六年正月ノ誤カ」と疑問を示す朱注を伴う。署名・宛所はない。
安永二年閏三月四日(年は朱) / 冊子 364頁/原整理番号 1023/整理ID 1023
去年、帰国の暇を許された際に大叔父嶋津杢の仮相続を願ったところ、杢が去年病死したため、国元にいる従弟嶋津兵庫を、このたび初めて仮養子に願うと申し出る。この旨を承知して置かれるよう求める。末尾は閏三月四日、松平薩摩守、朱に安永二年とある。正文は右筆所にある。亡大叔父の仮相続に関する事情と、兵庫の仮養子の届を記す。
年月日明記なし(535一件内) / 冊子 167頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0033
二男を丈夫として届けた後に病死し、その後生まれた男子を三男と届けるか、男上りとして届けるかを問う。貼紙回答は三男のまま届けてよいとし、三男以下の末子も同断とする。次に、嫡子を届けた後、二男が虚弱または家中養子となり未届のまま、後の三男を届ける方法を問う。貼紙は虚弱な二男を届出に入れず三男を丈夫として届けられること、二男について問われれば虚弱である旨を口達回答してよいこと、養子へ遣わした場合も相応に扱うことを記す。問いと朱書貼紙回答を分け、未届の子と届けた子の順序を区別する。