高崎能乘書状
閏七月七日 / 冊子 75頁
高崎能乘が新納仲左衛門尉に、相手の書状の趣旨を披露し、祈念入具の件を物奉行へ申し渡したと知らせた書状。使者を待機させておくこと、八左衛門が当朝出仕しなかったため自ら返答したことを伝える。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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閏七月七日 / 冊子 75頁
高崎能乘が新納仲左衛門尉に、相手の書状の趣旨を披露し、祈念入具の件を物奉行へ申し渡したと知らせた書状。使者を待機させておくこと、八左衛門が当朝出仕しなかったため自ら返答したことを伝える。
天和三年七月七日 / 冊子 118頁/原整理番号 29-2
諏訪兼時・鎌田政辰が物奉行へ、二之丸の御知行方を惣郡座の差引とした決定に沿って引き継ぎを行うよう命じる。これに伴い、江戸詰物奉行の加扶持を停止し、御蔵入方の筆者・井手代も不要とする。
(寛永15年)正月9日 / 冊子 585頁/原整理番号 623-2
島原陣用の鍛冶炭を必要量に応じて出水で調達し、物奉行へ引き渡すよう命じる賦所達。
寛永二十年五月十四日 / 冊子 237頁
島津光久が留守中の政務処理を定めた条書。金銀の出入は物奉行と相談し、江戸役人や屋敷内の者を遠慮なく吟味すること、小事は家老衆へ逐一尋ねず処置することを命じる。火事などの騒動時には人員を指揮し、御城で新たな動きがあれば直ちに報告する一方、確定しない雑説は注進しないよう定めている。
文化2年10月5日(目録。関連817本書朱注の日付) / 冊子 253~254頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0816
寿国寺末寺千眼寺の廃寺再興の内願があり、大幻自身の自力で建立することを命ずる。先年屏風迫の信解院様御仮屋跡地面を御用地としておいたので、そのまま寺地として下す旨を追って申し渡す。信解院には綱貴女お栄の注。再興に当たり御物・御構は及ばず、諸材木等を申し受ける場合は他の諸寺院と同様とする。金300両について、再興は自力なので永録・身才覚によることとするが、御隠居から志があり隠居料の内を寄附するので、利付で物奉行方へ借り入れ、毎年利足を渡すよう取計う。さらに金50両を諸修甫料として寄附し、同様に借入れて利銀を物奉行方へ置き、実際の修甫の際に渡すとする。出典は全上、扣正文在家老座。本文自体には日付・独立署名列がなく、文化2年10月5日は目録と関連送付書による。寄附300両と修繕料50両を区別し、再興の自力原則と御隠居の志による寄附を併記する。
文化2年の預納~天保4年春・11月28日・12月(年次月日本文) / 冊子 989頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2721
重豪公御譜中の記事。文化二年、重豪が千眼寺へあらかじめ木主を納め、側役黒田嘉右衛門清躬に死後も忌日と位階を記すよう命じた経緯を記す。天保四年、寺主となった清躬が官へ願い、忌日・位階を記し、十一月二十八日に点眼供養を行い神主として崇めた。その日斉興は家老島津但馬久風を使い、大官香一把を献じ拝礼させた。別条は、その春に江府瑞聖寺へ重豪の木主を納め、祠堂金二百両を付したと記す。十二月、瑞聖寺と相談して金を薩府の官庫に蔵し法事費用の元とし、毎年七部の子銭を法事の用に充てる仕組みを定めた。在邸物奉行重田郷左衛門正武が証書を付した。千眼寺での預納・死後の追記と点眼供養、瑞聖寺への木主と資金、官庫での元金保管と利金による供養を分け、七部を別単位へ換算しない。
辰十一月23日 / 冊子 618頁/原整理番号 798の4/整理ID 798-4
高奉行所・物奉行所をはじめ諸座の引付合は取締りを第一に行き届かせるべきところ、近頃は扱いが等閑で、各蔵の手伝に任せている向きもあると聞くと述べる。今後は各奉行・頭人が一層注意し、厳重に速やかに処理して、成行を勘定局へ答えるよう命じる。なお等閑の知らせがあれば沙汰に及ぶ旨を告げ、向々へ周知するよう求める。辰十一月廿三日、龍衛。等閑・手伝任せは達が聞いた問題認識として示し、横領の認定や処罰済みとはしない。
明治2年二月22日(目録。本文日付不記) / 冊子 642頁/原整理番号 820の2/整理ID 820-2
藩治職制の治定に伴い、御作事奉行、御高奉行、物奉行、道奉行、産物方掛、三嶋方掛の役所を廃し、役々以下筆者まで従来の職務を免じると告げる。出納方の米穀取扱はもとの物奉行所に、生産方はもとの産物方に、生産方諸嶋掛はもとの三嶋方に、営繕方はもとの作事方跡に設ける旨を伝える。本文には日付・署名がなく、目録は明治二年二月廿二日の知政所達書とする。旧職免除と設置場所の指定を記し、実移動や業務開始の完了は補わない。
正月15日 / 冊子 708頁/原整理番号 736
舟奉行一人を天草へ、もう一人を兵糧輸送に当て、物奉行と相談するよう指示する。二十日分の飯米支給、出水・加世田方面の御蔵米、船と人数の手配、輸送完了後の舟の帰還を求める。天草陣にも便ごとに連絡し、奉行間で事情を通じて調整することを重視する。正月十五日、次飛脚で送る書状。原史料に欠字が多く、数量・対象の欠落部は補わない。
正月15日 / 冊子 709頁/原整理番号 738
山田民部少輔が有馬にいることに触れ、出水の曖衆に文箱を開け、物奉行などへ遣わした書状を渡すよう求める。御老中の書状は有馬へ早く届けるよう指示する。正月十五日、次飛脚で送付。欠字のある奉行名・前後の語句は推補しない。
正月16日 / 冊子 724~725頁/原整理番号 751
海上が穏やかなうちに天草へ順次渡海し、船を送り戻して兵糧を運ぶよう求める。船の往来が途切れると兵糧不足となるため、物奉行・舟奉行との相談を重視し、加世田・出水からの米輸送に関する連絡も記す。正月十六日、次飛脚で送る書状。欠字は推補しない。
正月18日 / 冊子 751頁/原整理番号 789
軍衆二万ほどの予定が水手と合わせ三万ほどになり、すでに二十日分を渡した米が不足すると警告する。人数を減らすか肥前・肥後で米を借りるかを急いで物奉行と相談し、日向庄内・肝付・根占などの衆を留め、余分な大勢を帰すことも協議するよう求める。上使に進める米にも触れ、物奉行が出水の仕事を仕上げられない状況を伝えて、兵糧の重要性を強調する。
正月19日 / 冊子 759頁/原整理番号 804
島原表への出陣に伴い出水に赴く市来八左衛門に、諸事を当地へ逐一相談していては遅れるため、物奉行と相談して直接調えることが肝要だと伝える。そのため書物を送っておくとする。正月十九日付。欠字部分は推測で補わない。
二月四日 / 冊子 69頁/原整理番号 109
川上久国・三原重庸が各筋の継所へ、次飛脚の付状を物奉行衆の用務の際には物奉行衆から出すので、遅滞なく次へ渡すよう命じた廻状。高岡筋・加世田筋・出水筋・祁答院筋ごとに鹿児島から各地を経る継送経路を列記する。
二月四日 / 冊子 69~71頁/原整理番号 111
差出人不詳の人物が山田有栄・島津久元へ、琉球から山川へ来た三艘の船を米之津へ回し、米・焼酎・莚類や南蛮人の荷物を送る手配を報告する。南蛮人への対応、銀子の扱い、薩州様の到着前の人数差配と兵糧、若輩衆の配置、川内筋・祁答院筋の道橋と宿泊、物奉行衆への用意指示について相談・回答する。
二月五日 / 冊子 75~76頁/原整理番号 121
川上久国・三原重庸が江田市右衛門尉へ、御用のため参上するよう昨日物奉行から伝えたのに未着であるとして、必ず今晩到着し、渋谷与左衛門尉と物奉行衆に会うよう急命する。遅延を禁じ、次飛脚で送った。
正月18日(寛永15年か・傍注) / 冊子 567頁/原整理番号 67
川上久国が豊後守・喜入摂津守・北郷佐渡守・渋谷石見守・山田民部少輔・新納加賀守へ、今回の軍勢賦課を約二万人とする一方、軍勢と水手を合わせれば約三万人にもなり得るとの見積もりを伝える。手元の米はわずか五千石で、一か月分の兵糧に関わり、すでに二十日分を渡したと記す。兵数を抑えるか、肥前・肥後などから借用するか急いで判断すべきだとの物奉行の言葉を伝え、日向・庄内・肝付表・根占などの衆を召し留める案を含め、招集する衆を選ぶよう相談する。正月18日付で、寛永15年は本文外の『か』付き傍注。欠字が複数あり、人数と米の数量は本文の見積もり・報告として扱う。
十月朔日 / 冊子 25頁/原整理番号 6-23
御物座から前々の書付どおり品を渡すとの指示を受け、表紙百冊分を見本に合わせて京都へ注文し、真筆二十対は夏毛・冬毛を半分ずつ、草筆五十対は御物奉行を通じ江戸から取り寄せるよう手配した十月朔日付の書状。
目録年月日記載なし / 冊子 510頁/原整理番号 50
寺社方支配に関する協議で、国中の相掛かりや銀の差引、帳面の照会、御物奉行との調整を記す。
正月9日 / 冊子 585頁/原整理番号 623-1
親見出し『島原立ニ付万覚書留帳』所収の賦所達。島原陣用の鉄十二斤を調達し、石神善吉・木場源左衛門尉ら物奉行へ引き渡すよう命じる。
明治2年巳二月10日被仰渡の末記 / 冊子 627頁/原整理番号 807の3/整理ID 807-1
原807の三。勅使の供方は杉之間・菊之間の両番所へ宿泊し、茶人は山吹之間へ詰めるよう命じる。雉子之間を朝夕の賄・料理の配所とし、横目は滞在中桃之間に詰める。鷲之間は町役・料理人・給仕の扣所とし、火焚道具も置き、取締目付横目を割り当てる。料理担当の指揮、出張海軍所役々の滞在中の担当、雉子之間・鷲之間縁側の幕張りや通筋・番所の飾り等も役所別に命じる。末記は龍衛の差図で命じられた旨と、明治二年巳二月十日に仰せ渡されたことを記す。宿所・配所と実入宿完了を区分する。
正月13日 / 冊子 684頁/原整理番号 696
御蔵入の代定に関わる奉行三人の分担と協議について指示し、違背があれば後日調査・沙汰する旨を述べる書状。正月十三日付で川上久国が関係衆中へ送る。
明和七年五月(日無記載) / 冊子 260~261~262頁/原整理番号 694/整理ID 694
結納・婚姻に向けた警固、支度、室内飾り、食事、祝いの手順を定める。時触は例どおり、表門押番二人、張番所物頭一人、兵具所肝煎、小番・大番・打込番は麻上下、足軽は羽織袴とし、御勝手御書院の掛物・生花・棚飾を整える。見舞客のため五、六人前を御末の仕出しで用意し、付使者があれば鳩之間で二汁三菜、菓子、薄茶を出し、出入医師も同様とする。出座して見舞う馬廻二人を置き、物奉行は十人前を手当てする。使者の格式によって取次の間へ案内し、用人が返答、相手の格式に応じ甲用人・留守居が伝達し、広間詰小姓も適宜命じる。御中奥は寿老人の掛物・立松・棚飾・丁子風呂を整え、在土は原島津久柄室と注す葦殿へ参上するよう、先に年寄から文で伝える。中奥に太守様・御前様が着座し、熨斗は白木三方で、茶、式三献、雑煮、差味、塗三方の土器、挟肴、銚子、吸物・掛盃、簡の銚子を順に出す。夫妻は葦殿で相伴し、意次第で二汁五菜の料理、御肴の居付、銘々の盃、銚子、肴を出す。続いて吸物、島臺、挟肴、銚子、湯、菓子、濃茶、後菓子、薄茶、時節に応じた間の吸物・肴・菓子、意次第の後段を用意する。年寄・若年寄・表使・中臈・若女中へは吸物・銚子を、以下へは取肴・酒を下す。納殿役人は年寄と同様、葦殿供の年寄は若年寄と同様、供女中は取肴・銚子とする。表家老には中奥で吸物・取肴・酒を、御前様からは盃を戴いて肴を下し、側用人・表用人・近習・納戸奉行には近習の吸物・酒を配る。中奥の側用人・近習・納戸奉行・納殿役人にも同様に出し、側廻・奥勤の者には席で取肴・酒を、年寄・若年寄・表使・中臈・若女中には酒を通す。樽肴は太守様・御前様の年寄から浄岸院様へ内々に進める。御守殿その他へも祝いを伝え、役人の祝儀が済んだら家老へ挨拶し、諸士は当日または後日の精進日間に帳面へ記して退出する。末尾は明和七年の朱注、五月、左京の署で、手当てを命じ、日限は追って知らせるとする。
正月14日 / 冊子 693頁/原整理番号 720
欠字を多く含む書状。十二月十日以来の喉の腫れ、痰血、横になって眠れない病状を伝える。島原出陣と米の用意、伊東殿の天草警備、大口の人数三千、有馬の城がまだ落ちていないこと、翌十五日の城攻めに言及する。末尾では使衆・物奉行衆との相談を求める。正月十四日付で仁禮蔵人に宛てる。
正月16日 / 冊子 731頁/原整理番号 767
有馬では当面城攻めがなく、十四日から天草へ人数を順次渡しているとの情報を伝える。十四日付書状への返答として、黄門の気色は変わりなく、高崎伊豆守が上洛するので口頭で聞くよう述べる。雑説や伊東殿の内通の噂にも触れる。船五、六艘と米調達、物奉行への相談、上方での借銀がないことなどを記す。正月十六日付、仁蔵人宛。欠字は推補しない。
正月18日 / 冊子 746頁/原整理番号 775
軍衆は二万ほどの割当だったが各自が大勢を召し連れたため、水手を合わせ三万ほどとなり、米は五千石しかないと伝える。一か月分の兵糧のうち二十日分は既に渡しており、人数を減らすか、肥前・肥後などから米を借りるかを物奉行と相談するよう求める。日向庄内・肝付・根占など後続の衆は呼び留め、残っている大勢の扱いも相談するよう命じる。正月十八日付、久賀ら六名宛。
12月14日 / 冊子 473頁/原整理番号 467の1
天草一乱に伴う加世田表の船取仕立のため、三原源右衛門・永山覚兵衛から真米四斗二合を御物米の替米として受け取ったので、送付の引付を下すよう御物奉行衆へ求めた案文。
明暦元年十二月廿六日 / 冊子 358頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0760
挿入された御条書抜。十八条は犬追物用務で上る福屋助左衛門につき、江戸在府の伊賀守側で馬を貸し、国元から主従八人を馬を立てず上らせる指示である。原注は正保二年ならん・酉十月十五日。十九条は慶安三年ならん・寅三月十五日の衣装節約、二十条は役人の賄賂・進物受取禁止、年一度の神文と遠方勤務の沙汰を記す。
寛文五年十月十五日 / 冊子 508~510頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1132
島津久通が鎌田蔵人らへ、新田開発と水廻しの費用調査、金山の火災・採鉱と吹金、新川開削・移住者、百姓と奉公人、逃亡・死亡・欠勤者、御座所経費など複数の領内案件について、調査・帳簿・処置と報告を求めた書状。
正月17日 / 冊子 732頁/原整理番号 769
軍衆と水手が合計三万近くになり、兵糧が続かず手持ちの米も少ない状況を伝える。先に二番立の者の帰還を検討し、後続人数を呼び留めるよう相談する一方、有馬城攻めが急に始まる場合への備えも必要とする。当面は城攻めの沙汰がないため先発人数を戻すことが重要と述べ、関係者間の協議を求める。正月十七日付。米数量などの欠字は補わない。
正月20日 / 冊子 761~762頁/原整理番号 810
黄門の咳・横臥困難と十八~二十日の粥や膳の摂取量を詳記し、琢庵の診察と上洛希望、松平伊豆守らへの病状連絡を扱う。軍勢の兵糧が一か月分しかないことに驚き、後続人数の留置、江戸廻米や山川の琉球船を利用した米の出水回送、一色杢頭からの借米などを協議するよう求める。馬の削減、上使への米・大豆の贈答、天草へ三老の一人を向かわせる件も記す。正月二十日、吉田次郎兵衛が使者の際の伝達事項。
11月20日 / 冊子 377~378頁/原整理番号 348の3
小松原・大崎から徴発する五枚帆・八端帆・七端帆などについて、船主、船頭、水手、上乗衆を船ごとに列挙した船賦状である。各船には加世田衆一人ずつを上乗として配置し、天草一乱への出船体制を整える。
享保二年八月十八日 / 冊子 321~324頁/整理ID 834
領知判物に付属する目録。薩摩・大隅両国と日向国諸県郡の村名・石高を列挙し、琉球諸島の高も掲げる。末尾に八月十八日付の判物奉行副状を収める。
慶長三年五月廿二日 / 冊子 211~212頁
石田三成と島津義久が上方の算用所運営について定めた連署書下。用事のない者や自分の算用を持たない代官の出入りを禁じ、呼出しに病気・他行を理由として遅参した者には知行高に応じた過怠銭を科すこと、算用中の悪口・軽率な振舞いを処罰すること、算用場の食事を一汁一菜とすること、万物奉行の下知に従うことなどを命じる。
寛永十年三月吉日 / 冊子 364頁
飯野白鳥権現の棟札。白鳥六所大権現宝殿一宇を再興し、島津家久を大施主・大願主、法印光盛を当座主、伊集院遠江守久族を物奉行として記した。
寛永十三年四月廿六日 / 冊子 537~541頁
島津久慶(弾正大弼)・島津久元(下野守)・川上久国・伊勢貞昌・山田有栄・三原重庸・鎌田政統が連署し、家中の政務処理を定めた「物定三十五条」。旧例・訴え・奉公上の申立ての扱い、家老衆・物奉行衆・賦衆・普請奉行等の職掌、知行・扶持・切米・納銀・欠米売買、江戸勤番・役人交替、訴訟・借銀・家中統制、年貢・諸役・蔵入などの処理を定める。末条では諸料物・調所の代物を別納し、神社・仏閣・橋の建立や給付の費用に充てることを定め、談合で決定した条々に違背しないよう命じる。本文は冊子537~541頁、日付は寛永十三年卯月二十六日。
「寛永十六年」七月十四日 / 冊子 28頁
島津光久が下野守へ、物奉行関係の支出を精査して不要な入用をなくし、役人の怠慢や物資の抑留を防ぎ、御物を損なわないよう厳正に処理することを命じた書状。用捨やえこひいきをせず、役人へ申し聞かせるよう求めている。
正保二年十月~十二月 / 冊子 28~29頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0041
島津光久が北郷久加を物奉行として諸役を総督させ、新納忠秀らに郡郷横目の配置・巡察を行わせた記事。十月十五日の措置と十二月の横目任命を記す。
正保二年十一月 / 冊子 30~31頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0049
北郷久加が暇を賜って帰国し、御物奉行として諸役を総括する命と御条書を受け、北郷吉左衛門忠郷を伴って下向した記事。
慶安元年七月三日 / 冊子 128頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0228
上使を介して御鷹の雲雀を拝領したことと、早々に消息を知らせるよう求めた旨を伝える。老中への書状での御礼、上使の乗馬衆・小荷駄衆への下知を依頼する。上使大久保平四郎が進物奉行であったこと、同日十五人が御鷹の鳥を拝領したことも報じる。
慶安三年七月朔日 / 冊子 172頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0322
又三郎の幼い姫が死去し、六月十八日晩に泉岳寺へ取り置き、幼少ゆえ特別な作法を行わなかったことを報じる。葬送に関わる三名への内談と国元からの書状、先物奉行の算用処理、松平右京方との御門番の出合・意見照会を述べる。さらに井上筑後守末の孫の不慮死と、井伊掃部頭の疝気・腫気を伝え、物沙汰や見舞いを慎重にするよう求める。
(寛文十年)四月廿一日 / 冊子 563頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1328
町田忠代・島津久通が岡元千右衛門へ、高輪奥方の一年分の使用を八木九千俵(一俵三斗五升入)で調え、奥家老定役・相役が協議するよう定める。奥方常住・女房衆の賄い、酒肴・故実・炭薪・灯火、正月・五節供と一門中の祝物をこの内で賄い、表方は合力しない。奥家老役に十人之騎馬を賦し扶持米五十石を九千俵の内から出し、下役扶持も同断とする。年々物奉行所で勘定し、不足時も表方との協議で省略し、まず二年間定めどおり勤め、行当の際は申し出て調整する。
元文二年二月・三月 / 冊子 427頁/整理ID 1003
銀物奉行方から借銀した者は完済まで高直を許さず、持高のある者による親兄弟への附属高願も取り上げることを定める。
宝暦十二年二月十七日 / 冊子 901頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2649
高橋縫殿と菱刈藤馬が二月十七日、島津圖書・若狭・鎌田藏人へ、類焼後の当面の入用金が甚だしく不足するので相談し、穴藏の御金のうち五千両ほどを物奉行へ渡したと知らせる。参勤途中の重豪にも申し上げるが、関係者の心得としてこの処置を伝える。
正月7日 / 冊子 579頁/原整理番号 603
川上久国が上使との談合内容と陣図の扱いを報じ、必要な馬を早急に召し渡すよう求める。物奉行や浦役人にも手配を徹底させた正月七日付書状。
正月18日 / 冊子 747~748頁/原整理番号 783
新納忠清らの有馬渡海について、船不足なら先に天草へ渡り、千人が揃わなくても大口衆などを先行させるよう求める。吉田次郎兵衛の使者派遣、玉薬・兵具・大鋸大工の手配、出水の物奉行・船奉行らとの連絡を指示する。十三日の天草久田間着船を喜び、山狩と地下衆によるキリシタン探索を徹底し、捕らえた者を杖で問い相談するよう命じる。十八日付、重国ら五名宛。
正月18日 / 冊子 750~751頁/原整理番号 788
野州老と松平伊豆守との面談や江戸への御礼に関する連絡を受け、吉田次郎兵衛の出発時に伝える旨を述べる。天草への順次渡海、軍衆法度の交付、板倉・石谷の条書返上を扱い、有馬・天草の急用を物奉行・船奉行・市来八左衛門らと調整するよう求める。長嶋・高尾野・阿久根での道具や大鋸大工の手配にも触れる。末尾では死去・病気や多忙による人手不足、書状の重複・書き落しを詫び、万事の取計らいを頼む。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 815
市来八左衛門宗友を中取、岩切信尭・川上久康を物奉行、平田宗直・是枝快温を船奉行として米津に詰めさせたことを記す。川越三右衛門重能は京泊に詰め、舟手・兵糧を担当する。この日、高原士某が供夫一人を伴い米津に到着したと付記する。
正月22日 / 冊子 774~775頁/原整理番号 842
黄門の吐血後の食事や容態を詳報し、少し落ち着いたものの、琢庵の見立てや年初以来の衰弱からなお懸念があると伝える。御道具衆の一部帰還にも触れ、矢文や城攻めの風聞を照合して報告するよう求める。細川肥後守への書状・音信を評価する一方、兵糧の継続供給を憂慮し、市来の米と物奉行の岩切六右衛門・川上彦左衛門を通じた手配を促す。
(寛永15年)正月23日 / 冊子 775~776頁/原整理番号 845
久賀ら四人が鬼塚の来訪を受け協議し、大人数の兵糧負担を考慮して島原約千人・天草五千人、計六千人とする方針を久国へ報告する。物奉行・船奉行の分担と市来・出水・京泊の輸送手配を示し、山狩ではまだ切支丹を発見していないこと、細川勢の番手との交替を伝える。編者は案文帳の伝来を説明し、末尾に黄門重病の報と万一にも在陣を続ける指示を付記する。