島津伊久系図
年月日未詳 / 冊子 226頁
島津伊久について、貞和三年二月朔日生、応永十四年四月六日に六十一歳で没し、法号を久哲道観としたことを記す系図記事。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
129 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
年月日未詳 / 冊子 226頁
島津伊久について、貞和三年二月朔日生、応永十四年四月六日に六十一歳で没し、法号を久哲道観としたことを記す系図記事。
年月日なし(目録は安永元年十二月) / 冊子 348頁/原整理番号 976の8/整理ID 976-8
浄岸院の血脈法号を、生前と逝去後に分けて記した書出。生前の法号は「浄岸院殿信譽祐光大姉」で、祐天大僧正から差し上げられた血脈法号と注記する。逝去後の法号は「浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼」で、増上寺の当住大僧正から差し上げられた血脈法号と注記する。最初は祐天から授与された血脈で済ませるはずであったが、増上寺が使僧を通じ、法式について当住から差し上げなければ法式が欠けると伝えたため、改めて差し出されたという。既存の血脈で足りるとの考えと、当住からの授与を必要とする寺側の法式を併記する。
文政3年4月22日(本文。目録4月20日) / 冊子 576頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0104
印刷「の3」の書状。別紙に御法号・御中陰御日割を掲げ、近衛家から届いたので差し上げると記す。入棺は明廿三日戌刻、葬送は五月六日酉刻に決まったとの知らせを受けたため、その旨を報告する。江戸へは別に差し上げるとの但書がある。本文末は辰四月廿二日、京都志岐正左衛門から御家老中へ。年は近衛基前薨去一件の文政三年の表紙による。入棺と葬送は書状時点での予定として記録する。目録は四月廿日とするが、本文の四月廿二日を保持し、両者の相違を要確認とする。
文政3年(近衛基前薨去一件の別紙。本文月日なし) / 冊子 576頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0105
印刷「の4」の別紙。近衛基前の法号として「證常樂院大圓正覺禪定殿下」と記す。法号の全文と「別紙」の表示を保持する。独立した日付・署名・宛名は記されず、御法号・御中陰日割を添える無番号_0104の書状に続く法号書として整理する。法号の記載だけから授与日や葬送実施日を補わない。
文化12年7月19日(照会)/8月20日(朱書の下付・帳留) / 冊子 476~477頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1447
白木御文書七番箱中七十一番。表紙は大御前の流産した子の納所等に関する江戸詰家老衆の問合書写。川上右近(久芳注)が四人へ照会する。子は納所の一所へ納めたが、法名と石塔を設けるかについて当時吟味があったことを踏まえ、流産であるためそれらには及ばず、後年混同の恐れもあるので法号の沙汰・石塔建立はしない方がよいとする。ただし心入をもっての事なら思召次第としてよいという、大御隠居の沙汰を承知したことを記す。御隠居へも、流産の子であるから石塔・位牌等の沙汰に及ばない旨を側用人平嶋平八が申し出た。江戸の記録奉行には申し聞かせてあり、この件を国元の記録奉行にも伝えて取計うよう依頼する。七月十九日、町田監物・嶋津安房・新納内蔵・鎌田典膳の四宛。各実名は久視・久備・久命・政與の注。朱書は文化12年亥八月廿日、安房殿からこの一通が下され、帳留する旨を木場次右衛門が承知したことを記す。流産の日付や子の名、法号・墓碑の建立実施は補わず、照会・沙汰・伝達・記録の段階を分ける。
文化11年8月25日・26日・27日(年は目録) / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1379
重豪公御譜中、斉興公御譜にもありとの注。今秋8月25日、蘭窓公(島津忠治注)の三百年忌法事を鹿児島郡吉田郷津友寺で修し、重豪も家老川上右近久芳を遣わし香奠金200疋を進献して拝したと記す。同月26日に竹千代君が薨じた(法号玉樹院殿注)ため、翌27日に重豪は留守居を老中及び水野出羽守忠成(西丸側用人注)の邸へ遣わし、大家と諸君の起居を伺わせた。年は目録文化11年。忠治の遠忌供養と竹千代の薨後の機嫌伺いを分け、香奠金を竹千代への献上へ移さず、竹千代の実名や死因を補わない。
安永五年丙申三月十五日出生、七年戊戌六月十三日天亡 / 冊子 490頁/原整理番号 1356/整理ID 1356
安永五年丙申三月十五日、市田氏が芝の邸で女子を産み、厚姫と称したと記す。続いて七年戊戌六月十三日に天亡したこと、法号を翠黛院殿松屋惠吟大禪童女とすること、惠燈院と江府大圓寺に墓を建てたことを記す。
文化5年戊辰10月6日生、文化8年辛未正月8日死去(系譜本文) / 冊子 306頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0965
大信公御子、女子富姫を掲げる系譜抄。文化5年戊辰10月6日、江府で生まれ、母は松平藤十郎の家臣谷周右衛門政相の女とする。八年辛未正月8日に死去し、法号は麗岱院殿紅露雪顔童女、墓は惠燈院・大圓寺に建つと記す。八年の年記は、文化5年から続く記事の文化8年と読む。父の呼称は抄の大信公を保持し、母の家臣関係、出生地、死亡年次と法号・墓所を分けて採録する。
文化6年己巳11月21日生・文久2年壬戌5月16日没 / 冊子 337頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1048
大信公御子・女子の見出し、寿姫・孝姫・柔正院と掲げる。文化6年己巳11月21日江府に生まれ、母は松平藤十郎家臣谷周右衛門政相の女。松平越中守定和の夫人となり、夫には初奥州白河城主・後勢州桑名城主との注。文久2年壬戌5月16日死去、法号は柔正院殿通響端相慈好大姉と記す。出生・母の関係、夫と城主移動、死去日・法号を採録し、次1049の近江守表記とは出典別に保つ。御子の見出しは大信公、1049は重豪。後出1246は大信公に島津重豪の注を付すので、見出しは呼称差として保持する。
年月日未詳 / 冊子 489頁
豊州島津系図として、島津久豊の三男秀久の出生、帖佐瓜生野での居住、文明九年八月六日の死去と法号などを記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 551頁
豊州家三代島津忠廉が延徳二年八月二十日に摂州天王寺で没し、法号を雲溪忠好としたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 563頁
伊作家九代善久について、応仁二年の誕生、明応年間の没年と法号などを記した家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 574頁
島津国久が明応七年七月二十九日に二十八歳で没し、法号を桂林国久、菩提寺を保泉寺としたことを記す薩州家譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 655頁
島津忠興が大永五年十月九日に没し、法号を隆岳興公としたことを記す記事。
元亀二年六月十二日 / 冊子 246頁
豊州島津忠親が元亀二年六月十二日に都城で死去したことを記す。法号は崩永鬱居士とする。
年月日未詳 / 冊子 70頁
薩州家の島津義虎が天正十三年七月二十五日に没したことと、子女・妻の系統を簡潔に示す譜記事。 法号や妻が母川上上野守忠克の娘であることなどを掲げ、薩州島津家の親族構成と後継関係を確認できる。
年月日未詳 / 冊子 403頁
天正十六年七月十四日、喜入季久が五十七歳で没し、法号を昌円季久としたことを記す譜記事。 没年月日・享年・法号を簡潔に伝える、喜入氏人物史の基本記録である。
年月日未詳 / 冊子 499~500頁
川上経久が正月二日に八十四歳で没し、法号を祥翁芳麟居士としたことを記す譜の記事。本文は年号を天正十九年壬辰と記す一方、「即文禄元年也」と注記しており、年次表記に注意を要する。
年月日未詳 / 冊子 899頁
島津彰久が文禄四年七月五日に朝鮮で病死し、享年二十九、法号を天宗慈雲大禅定門としたことを記す。 家臣の安田次郎兵衛が主君の死を追って殉死した逸話も載せ、朝鮮在陣の人的損失と主従関係を伝える。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁
島津忠長譜の記事。忠長が病床にあり、諸医の治療や祈祷も効かず、慶長十五年十一月九日に六十歳で死去したことを記す。法号・墓所を掲げ、家臣尾辻次郎兵衛尉と藍田分太が追跡殉死したことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 540頁
島津家久の三女で、家臣島津弾正久慶の室となった女性の譜。慶長十九年八月五日の出生、生母、慶安元年正月九日に三十五歳で没したことと法号を記す。
年月日未詳 / 冊子 777~778頁
島津光久の子女について、万千代丸と称した忠紀、重永、久雄らの出生、官位・拝領、母、養子縁組、没年月日と法号を列記した系譜記事。忠紀は家光らから刀剣を賜り島津久敏の家を継ぎ、重永・久雄もそれぞれ家臣家の養子となった。
年月日未詳 / 冊子 95頁
島津光久の男子のうち貞昭と久尚について、生母・養家・出生年月日・没年・法号などを系譜形式で記す。貞昭は伊勢貞昌の養嗣となり寛文三年に江戸で没し、久尚は正保三年に十八歳で早世したとする譜記事。
安永三年十二月二十七日生、天明元年閏五月養女、文化九年正月十一日卒(八日を忌日とする注) / 冊子 447~448頁/原整理番号 1231/整理ID 1231
重豪の御養女として女子の系譜を抄記し、明姫と雅姫の名を併記する。安永三年甲午十二月二十七日に鹿児島で生まれ、実父は一門の島津兵庫久徴、母は島津采女久芳の女であると記す。天明元年辛丑閏五月に重豪が養って子とし、島津淡路守忠持の夫人となったとする。忠持には日州佐土原城主の注がある。文化九年壬申正月十一日に卒したと記し、別に八日を忌日とする注を付すため、死亡日十一日と忌日八日を区別する。法号は英祥院殿香譽清薰履操大姉で、末尾は次の段に続く。明姫・雅姫を別人として分けたり、両名の改名順序や年月を補ったりしない。養女となった天明元年閏五月を婚姻の年月へ転用せず、安永三年の出生と養女・婚姻・文化九年の死亡を分けて整理する。冒頭の御養女・女子の記載も系譜内容に含む。
安永四年五月二十六日(年は朱)、包紙も未五月二十六日 / 冊子 456~457頁/原整理番号 1266/整理ID 1266
高百五十石ずつ、浄國院・有邦院・慈德院・圓德院の菩提のため、それぞれの名で寄付し、その所務を年々福昌寺・浄光明寺へ相渡すことを述べる。各法号には吉貴・継豊・宗信・重年の注がある。また寛陽院・大玄院の寄付高も同前と仰せ付けられたとし、光久・綱貴の注を伴う。近日、御判物・御書付は大御目付の御使者によって各寺へ渡し、家老中の書付は御馬廻をもって同日に渡す予定を記す。この先例に従って首尾を整える旨を寺社奉行へ申し渡し、御記録奉行やほかの関係者にも漏れなく例の通り伝えるよう求める。ただし日限は追って申し渡すと付す。末尾は朱の安永四年五月二十六日、仲、重豪公御譜中の写で正文は文庫。包紙には朱の七十五、未五月二十六日、白木御文書五番箱へ郡山主右衛門が納め置いたとの注がある。文書の種類ごとの交付役と年々の所務を分け、交付日を五月二十六日と補ったり、五番箱を五箱の数量にしたりしない。有邦の原表記は先行の宥邦表記へ一律に改めない。
七月(本文末)、包紙は安永四年未七月十日渡・同十三日納置 / 冊子 468頁/原整理番号 1282/整理ID 1282
先祖の仏餉高について江戸へ伺ったところ、別紙の通り返答があったとする。五代目に当たる先祖の仏餉高を百五十石ずつ付す扱いとし、浄國院・有邦院・慈德院・圓德院にそれぞれ百五十石ずつ、都合六百石を御判物により寄付したと記す。法号には吉貴・継豊・宗信・重年の注がある。他方、かつて中納言に三百石を付していた分は銀三百枚に替え、寛陽院・大玄院に百五十石ずつ付していた分は銀百五十枚ずつに替え、泰清院の百石は銀百枚に替えるとする。中納言・寛陽・大玄・泰清には家久・光久・綱貴・綱久の注がある。以後もこの扱いに準じ、六代目となった時は高を銀に替える手順を整えるよう述べる。六百石は万々年まで済むよう仰せ出され、別紙の趣旨を帳面に詳しく記し、六代目になる時には家老中から間違いなく申し出るよう命じる。末尾は七月、主馬・帯刀・伊織・市正・仲の五名連署と各人名注。包紙には朱の七十七、安永四年未七月十日に主馬から渡されたこと、同十三日に白木御文書五番箱へ一条原善兵衛が納めたことを記す。原の有邦を宥邦へ改めない。新たな四法号の高と、別の旧高を銀へ切り替える額を分け、石と枚を同じ数量として合算しない。将来の六代目の手順を当日の銀切替完了へ移さず、渡日・納置日と本文の発給日も区別する。
天明四年二月二十八日~天明六年四月十一日(系譜中の日付) / 冊子 737頁/原整理番号 2079/整理ID 2079
重豪の四男亀五郎は天明四年二月二十八日に江府で生まれ、同年七月二十九日に亡くなった。法号を香樹院殿秋露幻清大禅童子とし、恵燈院および江府大円寺に葬る。五男は天明五年八月十七日に江府で生まれ、母は亀五郎と同じと記され、天明六年四月十一日に亡くなった。法号を義光院殿天真祐明大禅童子とし、墓は前と同じと記す。
寛政6年9月(本文は9月、年次は配列による) / 冊子 79~80頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0264
亡くなった年月や法号が不知であった七霊について追号を与え、寺の祭引次に附祭とし、位牌・厨子・仏具等の安置を済ませたので帳面に記すよう命じる申渡書。忠昌公夫人を天眞妙幸大姉、久豊公後夫人を無染了心大姉、立久公先夫人を鏡堂妙圓大姉、立久公三人目夫人を芳雲慈光大姉、忠治公夫人を玉蓮元香大姉、勝久公夫人を天室眞光大姉、師久公夫人を得祥玄瑞明一房と列挙する。忌日は新たに追選しない旨を記し、忠隆公の夫人は元来不知として今回の位牌安置には及ばないという。9月、播磨の署名と伊勢貞矩の人物注を伴う。包紙は忠昌公夫人と師久公夫人の追号・位牌安置の書付一通、四十九号とするが、師久夫人の法号末尾を二房と記し、本文一覧の一房と異なる。立久夫人は本書三人目、No.204では第二夫人と記し、双方の表記を残す。
寛政10年6月21日生、寛政11年7月20日夭亡(本文) / 冊子 155頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0495
大信公御子と掲げる蓬之進の系譜。寛政10戊午年6月21日に江府で生まれ、母は浪人杉浦作左衛門政信の娘と記す。翌11己未年7月20日に夭亡、法号は蓬窓院殿惠旭秀光大禅童子候補と読み、院号首部の字形を留保する。墓は惠燈院および江府大圓寺に建てたと記す。出生と翌年の夭亡、母の出自、法号・二か所の墓所を分けて整理する。前494は重豪男と注し、本件は大信公御子の原表記を保持する。
享和2年11月28日生、文化元年3月3日卒・3月2日忌日(本文) / 冊子 211頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0680
大信公御子・豹治郎の系譜。享和2年壬戌11月28日に江府で生まれ、母は杉浦氏。文化元年甲子3月3日死亡、3月2日を忌日とする注を伴い、法号は寶臺院殿瑤琴幻調大禅童子と記す。墓を恵燈院及び大圓寺へ建てたとする。目録は豹次郎重豪系譜抄で、本文の豹治郎と字を区別して保持する。死亡日と忌日の異同を一日に統一しない。
文化6年己巳:於幹正月晦日生・8月14日没、範之進2月6日生・8月12日没(系譜) / 冊子 311頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0983
御系図中、斉興・男女15人の表示に続いて女子於幹を掲げる。文化6年己巳正月晦日生、母は島津仲久建の女との原表記。3月、島津安藝忠厚の嫡子島津三次郎忠皎との約婚を命じ、忠厚の家で養育された。8月14日に死去し、法名を華質幻(末字舞・舜候補で留保)と記す。近秘野呂の注も同日死去とし、香雲院殿に続く同法名・大禪童女の法号と、安主寺・惠燈院の表示を掲げる。もう一人の範之進は同年2月6日生、母は林安右衛門昌世の妹、島津圖書久儔の養子となり、8月12日に死去、法名滴露幻素。近秘野呂では瑤桂院殿滴露幻素大禪童子の法名と、安主寺・惠燈院の表示を付す。二人の出生・母・約婚後養育と養子・別々の死去日を分け、同じ人物や婚礼済みとしてまとめない。於幹の法名末字は600dpi局所像でも判読を留保し、母の父の姓名区切りも原表記を保つ。
文化8年辛未3月朔日出生。明治20年3月7日没 / 冊子 361頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1130
大信公御子、御九男、長溥。白木七番箱62号の桃次郎様御九男届によるとの注。初長溥、斉溥、桃次郎、官兵衛、美濃守の名乗りと、従四位、宰相、従三位、従二位の表示を掲げる。文化8年辛未3月朔日、母は松平藤十郎家臣谷周右衛門政相の女、松平備前斉清(筑前福岡城主注)の養子となったと記す。明治20年3月7日卒、神道祭のため法号を用いないとの注。任官・位階の個別年月日は本件に記されず補わない。次1131は重豪公御子の見出しなので、父公表示を各出典別に保持する。後出1246の大信公への島津重豪注を根拠に、見出しの父公呼称差の疑義は解消。
文政3年5月(表紙の年月) / 冊子 575頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1734
白木御文書八番箱中三十六番、文政三年辰五月の表紙・記録概要。近衛前左府基前の薨去に伴う各人の忌掛り、法号、中陰の日割について、京都御留守居からの申越書付を留めると記す。また御簾中の維君が薙髪して維學心院と称した旨につき、同家の御用人の手紙を添え、京都御留守居へ申し送った書付を留めるとする。この記録内容は一冊の表紙にあるとの注を伴う。表紙の五月は一件の整理・記載年月として保持し、基前の薨去日や維君の薙髪日へそのまま当てはめない。個々の忌掛りや中陰日割は後続の書付で別に確認する。
天保4年2月14日(年次朱書、月日本文) / 冊子 957頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2690
諏訪治部が調所笑左衛門へ送った、重豪の法号の伝達と法式についての書状。本日家老座で寺社奉行へ法号を渡し、松之間で福昌寺に引き渡したと記す。住持が拝守し、先例通りの取扱いを申し渡したうえ、寺社奉行の跡上から福昌寺へ持参し、毎朝仏餉・茶湯を供えて回向し、初めての忌日には先祖の忌日と同様の霊膳等の法式を行うとする。御内證へ申し上げ、法号は大目付以上の家老座での拝見を命じ、一門を初め役人に限って詰所で写しを拝見させ、女中にも伝達した。組中、諸郷、琉球、諸嶋、佐土原仮屋守へも申し渡したので、関係者へ知らせるよう求める。二月十四日付、朱書天保四年、諏訪治部署。法号の引渡し、寺院での供養、閲覧対象と広域の伝達を区別する。
天保十二年十月十三日~天保十三年正月廿四日(忌日は十月十四日と注す) / 冊子 47頁/原整理番号 68/整理ID 68
斉宣の死去と帰葬、葬礼・法事を記す記事。天保十二年十月十三日に江戸高輪邸で病没し、享年六十九、法号は大慈院殿舜翁渓山大居士とする。脇注は十月十四日を忌日とする。二十七日に幕府が牧野山城守を遣わし香奠銀五十枚を贈った。十一月十七日に霊柩が江戸を発ち、翌十三年正月八日に出水、十二日に鹿児島の福昌寺へ入り、十五日に葬送を行う。斉興は福昌寺で焼香したが、霊柩が客殿から葬場へ出る際には病気のため神主を奉じられず、一門島津安藝忠剛が代行した。忠剛が神主を奉じて棺前から葬場を三回巡り、終えて木主を僧へ渡すと記す。斉興は斎主として発心門の側の茅筵に座った。御代の太刀の扱いなど、斉興が在府・在国で自ら神主を奉ずる場合との式の違いには筆者の考察を付す。二十一日から二十四日には福昌寺で中陰法事を行う。末尾で筆者宗高は、病中に礼の詳細を記録できず文献もないため、大事の記録が略されることを嘆く。
弘化元年十二月廿三日(本文辰年)。弘化二年正月十八日(蓋紙の到来日) / 冊子 65~66頁/原整理番号 105の1/整理ID 105
廣大院の法号を国元の菩提所へ安置し法事を行いたいとの願いについて、赤松主水と調所笑左衛門が五名へ経緯を知らせた書状。御用番阿部伊勢守からの伺に関する指示を踏まえ、法号等は久世出雲守に承合うよう求められた。十二日に礼をもって渡し、十四日に留守居付役淵邊仁右衛門から法号の別紙を受け取ったことを報告する。二殿・貴間・大奥その他へ申し上げ、御記録奉行にも伝えるよう求める。宝鏡院にも報告し、寺社奉行・福昌寺への伝達を取り計らうよう求め、伺書写等を添え、法号を一箱に入れて送ると記す。辰十二月二十三日付。前の蓋紙には、弘化二年正月、廣大院法号の国許菩提寺安置一件として、伺書一通・留守居首尾書三通・江戸詰家老衆の問合書一通写をまとめ、正月十八日に急飛脚便で到来したと記す。
弘化元年十二月三日(年は一件の日付と本文辰年から対応) / 冊子 66頁/原整理番号 105の2/整理ID 105-1
廣大院との特別な由緒により、その法号を国元の菩提所へ安置して法事を行いたいと伺う書付。十二月三日付で松平大隅守が記す。朱注は付札による応答として、法号等の詳細を久世出雲守へ承合うよう指示したことを記す。願いと応答を区別して収める。
弘化元年十二月三日・十二日・十三日(印刷枝番3~5の各通) / 冊子 66~68頁/原整理番号 105の3/整理ID 105-2
廣大院法号の国元安置に関する三通を収める。印刷「の3」は半田嘉藤次が辰十二月三日付で主水へ宛てる首尾書。阿部伊勢守・御用人山岡衛士の表示を付し、御勝手へ書付を持参して服部九十郎と相談し、御用人へ提出、帰宅後に結果を知らせる旨を伝え、西筑右衛門がその夕方に勤めたと報告する。「の4」は同じ半田が十二日付で主水へ報告する。御用人中の切紙により本日中に一人が出向き、付札のある御書付を阿部伊勢守の御用人町野平助を通して渡すこととなり、半田らと留守居付役川崎四郎左衛門が勤めた。追記で、その夜と翌朝の御請、御目付家への出向き、留守居付役名簿の備中守への提出、久世出雲守への法号承合も述べる。「の5」は十二月十三日付で留守居付役勤淵邊仁右衛門が半田へ宛てる首尾書。浅井傳八郎と出会い、久世への伺と前夜の付札を説明し、法号一枚を受け取って差し上げると報告する。追記では表方の使者を通した御請に加え、自分も勤めて帰ったため、別の御請使者は不要と伝える。
弘化元年十二月十三日(本文辰年) / 冊子 68頁/原整理番号 105の6/整理ID 105-3
「右之通」勤めて申し出たとして、法号を差し上げることを報告する短い添書。辰十二月十三日付で半田嘉藤次が主水へ宛てる。末尾に「右一冊トス」の表示があり、廣大院法号安置一件の冊子終端に当たる。
年月日未詳 / 冊子 392頁/原整理番号 493
二十九日辛卯、日高十兵衛正盛が、前日の二十八日の攻城で受けた石疵が治らず死去したと記し、法号を一雄宗勝居士とする。
万治2年6月2日~天保7年正月8日(寛文・元禄・正徳・享保・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・文政・天保期。年紀不明墓を含む) / 冊子 258~259頁/原整理番号 103
別紙として上原氏関係の石塔を調べ、法号・没年月日・俗名または親族関係を列記した書上。万治二年六月二日から天保七年正月八日までの年紀を含み、上原源右衛門尚益の法号「正岩祖覚居士」と、その妻「梅屋姓芳大姉」・妹「実峯妙相大姉」、尚治・尚清・尚伝・尚真・尚績・尚方ら本人および母・娘などの墓碑情報を収める。久圓妙長大姉の脇の石塔一基は損壊して法号等が不明とし、ほかに地蔵形の墓二基を早世者かと推測する記載、所在不明の墓もある。末尾では『上原氏譜牒』にみえる五郎左衛門尚盛を余家の次門とし、子孫を見ず、本府興国寺中に古墓があるとの考証を付す。
延元4年(1339)~明和3年(1766)の記事 / 冊子 398~402頁/原整理番号 4-1
後醍醐天皇第六皇子・征西将軍宮懐良親王を祖とし、良純・良政・良方・良張・良音・良央らへ続くとする近世薩摩在住家の系図。各人の出生・死没・法号、実子・養子・婚姻、松熊八郎・喜兵衛・喜右衛門・勝三郎などの通称と改名を記し、江戸・国元での勤役、府城での太刀一腰・馬代の献上と拝謁、高崎地頭職、船奉行・供奉、知行・褒賞銀などの奉公履歴を寛永から明和年間まで載せる。末尾の別紙は、平十兵衛家系図では同家を伊豆国伊東祐親―工藤祐経―祐明の後裔とする異説を示し、この別紙が『後醍醐院正統系図』中に収められていたと注記するため、懐良親王後裔説と伊東氏系譜説が併存する点が特徴である。
桓武天皇代~近世の記事 / 冊子 403~409頁/原整理番号 5
桓武天皇から葛原親王・高見王・高望王を経る桓武平氏の系線を起点に、良文流、千葉氏・村岡氏などの分岐を示し、秩父武基・武綱から畠山重忠とその後裔へ続ける略系図。武綱が源義家の奥州征討に従って白旗を賜ったこと、重忠が源頼朝の挙兵以来諸戦に功を立てながら北条時政の後妻牧御方の讒言により武蔵国二俣川で一族・百五十余騎と討死したこと、その子孫が畠山・横瀬・長野・本田などへ分かれたことを注記する。後半は子孫とされる季随・貞久以下の鎮西下向と島津氏への奉公を詳述し、合戦で島津氏久を救って博多林香庵に匿し、扁舟で本国へ帰した忠功、薩摩・日向での地頭職・戦死・法号、婚姻・養子・改名を季弘・季豊ら近世の代まで記す。皇胤から東国武士、さらに九州の島津家臣へ接続する家伝的系譜で、重忠の悲劇と島津氏久救出譚を中心的逸話とする。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 490
島津内記家中の肝付曽兵衛家系図。宮之城肝付与兵衛兼武の二男兼貞を祖とし、兼貞が延宝九年霜月四日に没して法号を旭山了輝居士としたことを記す。以下、曽兵衛兼弘、伝左衛門兼常・兼全らの出生、女子の婚姻、母方を列記する。
応永廿五年十一月廿八日 / 冊子 310頁/原整理番号 146
沙弥得仏が、新御堂・宮崎八幡へ薩摩国山門院内の井貝居の田七段を寄進した寄進状。得仏は守久の法号と注され、田地名と宛先にも校注を伴う。
安政三年二月彼岸 / 冊子 332~333頁/原整理番号 10
久仰が先祖の聲貞閑一大姉のために建てた墓碑の銘。大姉は周防守久友の娘で加賀守祐久の室となり、子女を生んだ。祐久に従って志布志へ移り、天文年間の騒乱では家人と田布施へ避難し、子の梅岳が十三歳で奉公を始めた。梅岳が国の柱石となって大口に住むと大姉も従い、六月廿一日に没して専念寺に葬られたという。墓石の式心門一大姉・家譜の門一房・神主の聲貞閑一大姉という法号の異同、旧碑の文字磨滅と子孫の継続を記し、安政三年の新碑建立を述べる。
安政三年二月彼岸 / 冊子 333頁/原整理番号 11
聲貞閑一大姉の墓碑の裏面銘。加賀守祐久の室で忠元の母であり、六月廿一日に没したが年は伝わらないと記す。碑の法号は式心門一大姉、家譜は門一房と異なるとし、昔から二斛を香資として寄進していたこと、長年で碑が壊れたため新たに建て、さらに香資を付したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 333頁/原整理番号 12
時升が杜年に大口を訪れて寺僧の案内で石塔を拝し、式心門一大姉と記されていたと述べる系譜の抜書。文政十三年には久仰と再び参詣したが、寺は荒廃して塔をようやく見つけても文字が磨滅し法号を確認できなかった。寺の什物帳には大姉への銭六貫六百六十四文の月牌料を新納武蔵守が寄進したと記される。天保十四年には寺が再び焼け、住持も不在だったため、家の領分にある石塔の法号や古い事情を確定できないとする。
元亀三年三月廿三日 / 冊子 265頁
平田治部少輔純貞入道純喜が、島津貴久(大中良等庵主)の後世菩提を弔うため日本六十六州を巡歴した。翌元亀三年に帰国して、三月二十三日、貴久を追慕して鹿児島の海に身を沈め殉死し、廉州純貞禅伯と号したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 916頁
島津義久の息女に関する系図記事。天文二十年八月二十二日に生まれ、母は島津忠良の息女で、島津義虎の室となったこと、慶長八年十一月十二日に上井で五十三歳で没したことを記す。