島津久元・比志島国隆連署手形
寛永二年四月十二日 / 冊子 824~825頁
島津久元と比志島国隆が樺山美濃守へ、感応寺修理のため、出水野田村長谷山にある風倒木の松三本を、記載された長さ・太さの手形と相違がなければ引き渡すよう命じた連署手形。
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寛永二年四月十二日 / 冊子 824~825頁
島津久元と比志島国隆が樺山美濃守へ、感応寺修理のため、出水野田村長谷山にある風倒木の松三本を、記載された長さ・太さの手形と相違がなければ引き渡すよう命じた連署手形。
(寛永四年)七月廿七日 / 冊子 39頁
喜入忠続・比志島国隆が、京都で調達すべき御用品の注文書を荷方衆から持たせたので、渋谷四郎左衛門・上井東市正へ渡して調達させ、主君の上洛を待つよう命じる書状案。
四月廿七日 / 冊子 155頁
喜入忠続と比志島国隆が本田源右衛門に、京都で調達すべき御用物の注文を御荷内衆に持たせたと知らせた連署書状。注文を渋谷四郎左衛門と上井東市正へ渡して品物を調達し、上洛を待つよう指示する。
(元和九年)十月廿三日 / 冊子 799~800頁
島津久元ら四名が桂山城守へ、徳川家光への将軍職継承の祝儀使者に任命されたことを伝え、町田図書頭と相談して進物を持参するよう命じた。以前申し渡した使者は江戸在府衆から選ばれ、詳しくは面高主馬首が伝えるとした連署状。
元和九年十一月八日 / 冊子 800頁
島津家中の高野山宿坊を蓮金院と定め、頴娃・指宿・肝付・根占・志布志など従来窪坊を宿坊としていた地域も、今後は蓮金院の沙汰に従うよう命じた。ただし庄内は北郷讃岐守の現領分のみ窪坊に付属させるとした四名連署の書下写。
(寛永四年)八月六日 / 冊子 39~41頁
伊勢貞昌が、出水の神主中野村兵部少輔をめぐる不審事を報告する。屋敷から本尊・看経道具・霊剣などが掘り出され、矢先が城へ向けられていたことから、地頭への悪意や呪術的行為を疑い、本人を厳しく尋問して上意を仰ぐよう求める。
(寛永四年)十一月廿八日 / 冊子 47~48頁
島津久元・伊勢貞昌が、島津家久の到着と将軍の鷹狩、江戸での勤務交代、狩野永甫をめぐる処置、参勤時に必要な乗馬衆の人数と配置、霧島からの材木手配など、江戸滞在中の諸案件を詳しく協議・指示する。
年月日未詳 / 冊子 634頁
島津家久が江戸で越年する予定であったところ、幕府から在国のまま翌年初夏まで参府を延ばす許可が下り、比志島国隆を使者として本多正純へ謝意を伝えた経緯を記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 777頁
島津家久が徳川和子の入内祝賀と将軍家への年賀のため正月上旬に鹿児島を発って上洛し、二十八日に喜入忠政・比志島国隆を先に江戸へ遣わして賀礼の幣物を献じたことを記す。京都滞在中、今年は在国してよいとの老中奉書を受け、二月二十九日に京都を辞して帰国した。
(寛永元年)二月十二日 / 冊子 805頁
松平定綱が島津家久へ、江戸下向のため返書が遅れたことを詫び、女御・姫宮誕生への祝賀はもっともだと述べた。不在のため使者比志島国隆に対応できなかったこと、当年の普請状況を知らせること、松材木と兵糧を多量に贈られたことへの礼を伝えた書状。
(寛永二年)四月廿四日 / 冊子 826~827頁
喜入忠政と伊勢貞昌が比志島国隆・島津久元らへ、又三郎の腹痛により十八日の予定が延び、二十三日に両御所への礼を済ませたことを急報した連署状。家久が子らを伴って来たため両御所の機嫌が格別で、兄弟も御前に召されて褒められたと伝えた。
寛永三年三月廿三日 / 冊子 3~6頁
島津久元・喜入忠政・比志島国隆が連署し、御台所の運営と物資管理を定めた条書。日常の献立、魚類・味噌・塩・酢・醤油・米・薪・野菜などの調達、納殿衆による判と帳簿、振舞・祈祷・旅行時の支給、女房衆や小者への食米、使者への振舞など、多岐にわたる手続と数量・責任分担を規定する。
年月日未詳 / 冊子 6頁
寛永三年四月二十日、島津家久が向島で狩りを行い、子の忠朗らが鹿を多数捕らえ、家久が国老へ分け与えたことを記す。翌日、島津久元・喜入忠政・比志島国隆が三原重長へ礼状を送ったとする三原氏の譜記事。
寛永三年四月廿一日 / 冊子 6頁
島津久元・喜入忠政・比志島国隆が三原重長へ、前日の向島で又八郎ら兄弟が多くの鹿を捕らえ、自分たちも鹿を拝領して賞味したことへの謝意を伝えた連署書状。寛永三年卯月二十一日付。
七月朔日 / 冊子 155頁
島津久元・伊勢貞昌・比志島国隆が本田源右衛門に、御船の帆柱を蒲生米丸内の牧神山口から運び出すよう命じた連署書状。三百人ほどで曳く材木であるため、蒲生・吉田両所の衆中を動員して四、五日の間に帖佐口まで下ろし、急用に備えるよう指示する。
(元和二年)十二月六日 / 冊子 634~635頁
本多正純が島津家久の在国継続と参府延期を認め、冬季の海陸の難儀を避けて翌年四月中に江戸へ着くよう伝え、今後も用向きを支援すると述べた書状。
(元和八年)五月三日 / 冊子 779頁
井上正就が島津家久へ、今年は在国するようとの上意に従うのはもっともであること、太刀一腰・馬代銀子二十枚への礼、又八郎の無事を伝えた。追伸では島津久元が将軍へ首尾よく目見えしたので安心するよう知らせた書状。
年月日未詳 / 冊子 803頁
前年十二月十九日に中宮が皇子を出産したとの慶報を受け、島津家久が比志島宮内少輔国隆を使節として祝賀の幣物を献上させたことを記す。祝幣の内容と受領謝書は別に掲げるとした島津家久譜の記事。
寛永元年五月八日 / 冊子 815~817頁
寛永元年五月八日、島津家久が市来惟清宅へ御成りの際に催された「賦何船」連歌。夏の空、雲、雨、春風、月、雪、旅、山、恋などを題材とし、家久・惟清・利昌・久元・重長・有栄・国隆・政喬らが百韻を連ねた作品。
(寛永八年)閏十月廿五日 / 冊子 246~248頁
伊勢貞昌が、比志島宮内国隆の処罰を受けて断絶した比志島家について、比志島紀伊国真と鎌田出雲政近が伊集院忠棟事件や関ヶ原後の国難で尽力した忠節を詳述し、国隆の子を退けて忠節の系統から後継者を立てるよう進言した長文書状。
六月廿四日 / 冊子 154頁
喜入忠続らが諸所の地頭・衆中に示した連署の法度。近年、衆中が生活難などから方々へ離散しているため、地頭へ届けず在所を離れた者は知行を召し上げて御内から離し、私に御内を離れて他人へ奉公する者は重罪とする旨を命じる。
十月廿三日 / 冊子 799頁
桂忠康所蔵の島津久元・喜入忠政・伊勢貞昌・比志島国隆連署状。本文は次号No.1825と同文であるため、本冊では省略したと注記されている。
元和八年六月廿四日 / 冊子 769頁
本文は『一七七八号文書ト同文ニツキ省略ス』との編集注によって省略されている。参照先のNo.1778と照合すると、喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、無届で他所に住む者は知行を召し上げ、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭へ徹底するよう命じた連署書下。
元和八年六月廿四日 / 冊子 769頁
喜入忠政ら五名が本田源右衛門へ、近年生活が成り立たず各地へ離散する者がいるとして、地頭へ届けず他所に居住する者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者は重罪に処すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。
元和八年六月廿四日 / 冊子 783~784頁
喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、生活難から各地へ離散する者がいるため、地頭へ届けず他所に住む者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。
寛永元年八月廿日 / 冊子 818~819頁
島津久元ら三名が琉球側へ、三司官以下の扶持は国王の判断とし、死罪・流罪は薩摩へ伺わず処置できること、日本名字と日本風の支度を禁じること、祭礼日程を耕作に支障がないよう調整すること、外国人の来訪を禁じないことなどを定めた連署掟書。江戸へ人質を出す件と褒美についても指示した。
寛永元年八月廿日 / 冊子 819頁
島津久元ら三名が琉球側へ、上布、黒つく・赤つく、棕櫚皮、焼酎、注文品、芭蕉布・芭蕉、綿、菜種などを他国へ持ち出してはならないと定めた連署掟書。違反なく法度を守るよう命じた。
寛永十一年十二月晦日 / 冊子 462~463頁
島津家久が、少年期の家督継承と朝鮮出兵、義久・義弘の補佐、伊集院忠棟の謀反への対応、家臣の忠不忠、賞罰と家老登用について回顧し、忠功を後世へ伝えるためにまとめた覚書。
年月日未詳 / 冊子 50頁
家老の比志島国隆は驕奢で不忠、家臣へのえこひいきや庶民からの収奪、独断によって政道を妨げたため、島津家久が罷免した。河辺の保福寺に入れ、所領・財産を没収し、種子島へ流したのち自害を命じたと記し、後世への戒めとする。
(寛永五年)二月晦日 / 冊子 54頁
島津家久が、比志島国隆は過ちを改めず再び奉公できる人物ではないとして、寺領から種子島へ人を付けずに厳しく移送するよう命じる。異議や抵抗があれば厳罰に処し、少しも処置を緩めないよう指示する。
(寛永五年)三月朔日 / 冊子 55~56頁
島津久元・伊勢貞昌が、比志島国隆を寺から出して種子島へ移送する手配が整ったことを報告する。国隆が銀子を使って逃亡を企てる可能性を警戒し、種子島で番衆を付けて昼夜監視し、往来する船に紛れて逃げないよう厳重に申し渡すことを求める。
(寛永五年)三月十二日 / 冊子 56~57頁
比志島国隆の処分に関連する調査事項を列挙した覚書。新納越後との往来、国隆の蔵や金銀・家財の封印、京都での貸銀、種子島移送前後の様子、松本主膳の関係、国隆と親密な者の名簿を調べ、秘密裏に報告するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 58頁
比志島国隆の所領・家財は没収されたが、父国貞が島津義久・義弘・家久に忠勤したことを家久が追慕し、没収財産から祭田三十石を買い求めて国貞の神主寺へ付した。また国貞の未亡人の所領は没収せず、そのまま与えたと記す。
寛永五年四月十二日 / 冊子 58~59頁
比志島国隆の妻子の居所、後室の知行、国隆と親密な者の調査、家財中の金銀・米の算用と借銀返済、寺への三十石寄進、福昌寺住持、知行替えなどを指示する。さらに御蔵入百姓の調査、高岡への命令、書院普請、唐船来航時の取扱い、作事奉行の人選など複数の行政事項を列挙する。
寛永五年四月十二日 / 冊子 60頁
島津家久が、高岡地頭職を島津久元へ申し渡し、久元が帰国するまで現地の者が諸事を慎重に処理するよう命じる。また比志島国隆の不行跡を条書で周知し、旧家臣が他所で奉公することを認め、隣国との紛争を起こさないよう指示する。
(寛永五年)四月十六日 / 冊子 60~61頁
出水を預かる椛山美濃守の休息、亀山家の次男・三男と藤野への知行給付、種子島にいる人物と比志島国隆との接触禁止、平田太郎左衛門の子の所在調査、七島、高岡の御蔵入、水引城付村の扱いなどを列挙した行政覚書。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。
寛永五年六月廿三日 / 冊子 64頁
親王の薨去により家久の暇が延引する可能性、江戸での大規模普請に伴う国元普請の抑制、仁礼景親への百石加増、祭礼への子弟参列を指示する。また比志島国隆の旧臣は当面の奉公を認めつつ行動を監視し、他国へ出ることを禁じる。
(寛永五年)正月八日 / 冊子 51~52頁
島津家久が、比志島宮内少輔国隆の重大な不行跡をこれまで表面に出さなかったが、今後は国家のためにならないとして処分方針を示す。一度の折檻で改まる人物ではないため、三名の担当者が遠慮なく協議するよう命じ、詳細は国分民部左衛門に伝えさせる。
寛永五年二月廿七日 / 冊子 53~54頁
比志島宮内少輔国隆の違法・不正とみられる行為を多数列挙する条書。度重なる命令不履行、独断的な裁判・人事、同僚との協議不足、賄賂や財物の扱い、縁者へのえこひいき、民衆への配慮不足、国政を乱す言動などを挙げ、家老として不適格であることを示す。
年月日未詳 / 冊子 54~55頁
不正行為を列挙する別の条書。度重なる命令違反、自己中心的な判断、人を苦しめる新法、国内外への中傷、不当な財物・旅人物品の扱い、根拠の乏しい訴訟判断、同僚との協議不足、下位者への思いやりの欠如などを問題とする。
年月日未詳 / 冊子 172頁
児玉利昌が正月三日に鹿児島を発し三月九日に江戸へ着いたこと、比志島宮内少輔国隆が民を害し、保福寺での謹慎後も乱を企てて種子島へ流され、なお徒党を求めたため誅殺された経緯を記す。九月二十四日の徒党状況の申告や子の出家にも触れる。
年未詳11月26日 / 冊子 273~275頁/原整理番号 107-15
霜月二十六日、上原大蔵尚演が上原源兵衛へ、先日の来訪時は病中で十分相談できず残念だったと詫び、系図について税所次郎右衛門へ尋ねて改めて報告し、正月の再訪時に詳しく話したいと伝えた書状。尚演は病状が日増しに回復していることも喜んで報じる。朱書の季安按は、この書状と休兵衛自記に系図がないことから、上原氏に系図が伝わらず、藤原流への接続や古文書中の中原姓も後世の誤りではないかと疑い、曽於郡止上権現の社家に古系図が保存されていたものの、季安自身が十六、七歳頃に上原形部へ頼んで見た内容を覚えておらず、古文書との整合も直接再確認しなければ評価できないとする。付属系図は尚敷・尚盛・尚朝・尚治・尚輔らの家督、養子、婚姻を記し、寛永九年の伊豆守の食禄百五十一石、尚敷の百二十二石、万治二年十二月の百三十八石八升などを掲げる。