島津義弘武功略記
年月日未詳 / 冊子 686~687頁
島津氏の祖忠久から家久まで約二十代の継承を述べ、義弘が歴代の教えを守って忠節を尽くし、国内の戦いや朝鮮出兵で功を立て、天下泰平に至った自身の武功の概略を記したもの。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 686~687頁
島津氏の祖忠久から家久まで約二十代の継承を述べ、義弘が歴代の教えを守って忠節を尽くし、国内の戦いや朝鮮出兵で功を立て、天下泰平に至った自身の武功の概略を記したもの。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年、島津貴久が清水に布陣した際、新納忠元が諸将とともに城攻めと防戦に加わり、武功を挙げた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 737~738頁
長谷場越前が、島津勢の勇武と軍兵の士気、京都から渡海して朝鮮軍を追討した戦況を記す。多数の敵兵に対し、島津勢が寡勢ながら戦いを挑み、敵を敗走させた様子を具体的に描く。 秀吉の軍令や渡海後の戦闘を武功談として伝える自記で、島津軍の自己認識を知る上でも興味深い。
年月日未詳 / 冊子 214頁
慶長三年六月、朝鮮から帰った毛利秀元・宇喜多秀家らが伏見で豊臣秀吉への謁見を求めた。秀吉は諸将の軍忠、蔚山救援の遅滞、順天城を退こうとした議論の是非を調べ、責任を問うて当初は謁見を許さなかった。その後、秀元を召して軍功を慰労し、加藤嘉明には連年の武功を賞する感状を与えたと記す。
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津義弘(惟新)・豊久が大垣城外の陣屋にいる際、石田三成が来訪して同席していた。参着した者たちが順に目見えし、赤崎丹後について義弘が国元で武功を立てた者だと紹介すると、石田三成は十分に働いて討死せよと激励した。
年月日未詳 / 冊子 109~110頁
新納忠元が若年期に高崎伊豆守能乘から和歌を贈られたことや、武功・奉公の経歴を記す勲功記事。七十八歳の忠元が唐津城主寺沢志摩守正成を訪ね、旧交や贈答、忠元の働きを回想する。
年月日未詳 / 冊子 168頁
慶長十三年、新納忠元が年頭祝儀のため加治木へ参上し、八月には家久へ月毛の馬を献上した。家久は帷子三領・酒二樽を与え、忠元の長年の武功と忠勤を称賛して、八十三歳の老齢をいたわったことを記す勲功記。
(慶長十三年)八月十日 / 冊子 182頁
慶長十三年八月十日、島津家久が新納為舟から贈られた見事な月毛馬を秘蔵すると喜び、長年の武功・忠勤を称えて老齢の養生を勧め、返礼として帷子三領と酒二樽を贈った書状。
慶長十四年十二月七日 / 冊子 248頁
慶長十四年十二月七日、島津龍伯が新納忠元に、先年の合戦で格別の忠勤を尽くしたことを今も忘れておらず、今回提出された武功条目を一覧して、数度にわたる粉骨を比類ないものとして称えた感状。
慶長十五年十一月廿六日 / 冊子 303頁
慶長十五年十一月二十六日、島津義久(龍伯)が島津忠長を追悼した記事と和歌。忠長が若い頃から国法の整備や武功に尽くし、茶・和歌・連歌にも通じた人物だったと称え、山寺の木葉と灯火に寄せてその死を悼む。
(寛永十五年)二月廿六日 / 冊子 759~762頁
父・島津家久の病と死去、葬儀に至る経過を漢文で述べ、その徳業・統治・武功を称え、父を失った悲嘆と追慕を表す。供物を捧げ、福昌寺での法会・追善に際して霊前へ奉告した長文の祭文。
年月日未詳 / 冊子 69~70頁
絶同が島津久元(鉄心宗崑大居士)に関して作った賛。弓籙の賛、久元の肖像をたたえる寿影の賛、鞍馬の賛からなり、武功・忠節、文武兼備、為政や参禅の歩みを述べ、弓馬に託した偈を付している。
年月日未詳 / 冊子 523–524頁/整理ID 1800
佐多久達が主君綱貴へ献じた祭文。綱貴が武江で病み、訃報とともに遺体が千里を越えて帰国して福昌寺で葬られたことを述べ、英徳・武功をたたえながら家臣として深い哀悼を示す。
年月日未詳 / 冊子 524–525頁/整理ID 1801
島津久晃が主君綱貴へ献じた祭文。綱貴が江戸で病み、百薬も効かず没したこと、遺骸を薩摩へ迎えて福昌寺で正儀を営んだことを述べ、三国と琉球を治めた徳・武功をたたえて哀悼する。
宝暦十一年六月十七日 / 冊子 828頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2478
重豪が祖父継豊の追薦に献じた諷誦文で、三宝や僧衆への敬意を述べ、自然の感応と、迷いや沈淪にある者への仏の救済を説く。継豊の仁義による内政と武功、三州の民に及んだ恩をたたえ、孝孫として慈恩に報いきれない悲しみを述べる。高野の霊場に五輪の石塔を建て、五十人の僧による大曼荼羅供を営み、供物・香花・音楽を捧げる旨を記す。英魂が六趣を離れて仏の国へ帰ることを願い、領地・子孫・一切の生き物に恵みが及ぶよう祈り、六月十七日に孝孫重豪が謹言する。
本文4月;添書・外包:安政6年4月16日 / 冊子 214~215頁/原整理番号 290/整理ID 290
新納駿河に対する宰相の沙汰。先祖武蔵忠元が天文・慶長の戦国期五十余年に武功を重ね、危険な境目の大口地頭となり八十五歳まで警衛・領地の安定に尽くしたこと、先代の朝鮮出陣中には鹿児島の勤番をしたことを回顧して顕彰する。先年大口に忠元霊社を創建し、駿河も大口の職務を精密に吟味して勤め、忠元の遺志と家訓に違わぬことを評価する。京都吉田家へ忠元霊社の神階加級を進め、忠元明神・大明神への加級を不日とする記載があり、駿河が今後も御奉公の心掛を励むよう諭す。添書は、昨日玉里御休息所で宰相が駿河を呼び、取次がこの沙汰を伝えたので、後年の参考として御記録所へ書き留めるよう指示する。安政六年四月十六日、永江休之丞から御記録奉行へ。外包も同日、永江から佐多徳八郎へ渡し白木御文書十番箱に収納した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 526頁/原整理番号 541
『旧伝集』の記事。老年の島津光久が東目通行の際、四元縫殿を綾江へ移して近習に掛け置き、のち遊興を許したことを記す。若年に武功がありながら長く蟄居した者、伊集院に住む者らが扶持・加増を願い出ると、光久がそれぞれの事情を聞いて処遇した逸話を収める。
正月14日 / 冊子 692~693頁/原整理番号 719の2
年賀と無音の詫びを述べ、天草で弓によって手柄を立てたと内々に聞き喜びを伝える。面談を望み、兄の同名三右衛門も肥州で無事に使番を務め、天草での武功によって加増を受けたと報告する。当地で用事があれば承ると申し出た、正月十四日付の三原左衛門宛書状。
二月十一日 / 冊子 116頁/原整理番号 185-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が島津久元・山田有栄へ、当地には一所衆や鹿児島衆など若輩が多く、武功ある者が少ないため、召し寄せられた皿良善介・蒲川内蔵允の両人をこちらに置くよう求める。事情に応じて相談の上取り計らうよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 227~232頁/原整理番号 333-11
細川勢・長岡佐渡勢・黒田勢・黒田美作勢・有吉頼母組などの原城攻めを、多数の個別武功、負傷・討死、証人、進退命令とともに記す長文記事。冒頭では細川勢の北村甚十郎・財津市兵衛らの敵討ち取り、長岡佐渡勢の働きなどを列挙し、諸勢が二の丸・本丸方面へ進む過程で、鉄砲・石火矢・火攻め・柵などを用いた激戦と、先走りや隊列混乱を抑える命令を記す。各隊は攻撃と退却を繰り返し、深手・討死を出しながら城内へ押し入った。末尾では、長岡佐渡の備えが三の丸へ動くのを見た有吉頼母組が、米田与七郎らを先頭に組勢を残らず乗り込ませ、この時に三の丸一番と差し出した者たちがいたとして、後続文書へつなぐ。
年月日未詳 / 冊子 302~306頁/原整理番号 339-1
『平塞録』を引き、二月二十八日辰刻に板倉主水が原城攻撃を開始し、上使の制止や相談を顧みず本丸へ進んだ経過、板倉勢・佐渡勢・細川勢らの戦闘と死傷を詳述する。細川方が柵を越えて本丸へ攻め入り、佐左衛門(本文表記)が四郎居宅に踏み込んで首を取った顛末を記し、籠城中の辛苦による四郎の痩せた首を上使が実見し、四郎討取りを抜群の武功と賞したと結ぶ。
寛永十五年五月廿七日 / 冊子 392頁/原整理番号 492
島津久慶は、村尾源左衛門尉が南蛮宗徒の籠もった筑紫有馬の城の落城に居合わせ、鑓の働きに加えて他国衆とも証拠を取り交わす武功を立てたと聞いたことを述べる。少し鑓疵を負ったものの日々平癒していることを喜び、自身も近日帰国して詳しく申し達すと伝える。
11月6日(慶長3年の傍注) / 冊子 575頁/原整理番号 78
龍伯が羽兵庫頭・又八郎へ、防戦の大勝と二人が自ら働いて挙げた武功を、比類ない名誉として祝う。老中・奉行衆にも喜びを伝え、戦場に稲荷が現れたとの報告や野狐に関する前代未聞の出来事に触れ、鹿児島・富之隈・京都の稲荷に礼を申し祈念すると述べる。現地の様子を取り次いで早く知らせてほしいと求める。11月6日付で、慶長3年の年次は本文外の傍注。欄外には『旧記雑録後編三』556号との同文推定注記がある。
年月日未詳 / 冊子 335~336頁/原整理番号 20
重朝の家譜が、重朝は近年多くの城邑を取って武功を挙げたが、東郷・祁答院以下の国人が多く背反し、重朝にも同意の疑いがあったため、貴久はたびたび戒めたと記す。改心しないとされ、翌天文十四年八月八日に郡山城を攻めた。郡山城は先に勝久が重朝へ与えた城だったという。
正月14日 / 冊子 688~689頁/原整理番号 708
吉田久馬助が三原佐右衛門へ年頭の祝意を述べ、相手の無事を尋ね、天草で弓による手柄を立てたと聞いて喜ぶ。自分の兄・同名三右衛門尉が肥州で無事に過ごし、天草での手柄によって使番などを命じられ、加増などを拝領したことも伝える。末尾で、こちらで用事があれば申し付けてほしいと申し出る。正月十四日付。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 15
大中様が伊集院にいた時、入来院重朝の背反により神殿村から兵を繰り出し、郡山城を攻めたと記す。援軍が出された後、忠元は郡山へ進んで山口某と戦い、その首を取り、折那山で献上した。十九歳の初陣で首級を挙げ、功名が認められたという。
年月日未詳 / 冊子 89頁
永禄四年七月十二日に廻城近くで戦死した島津忠将(心翁大安居士)を追善するため、嫡子が戦死地に七宝の塔を建立したことを記す碑銘。天正三年八月の日付を持ち、忠将の武功と供養の趣旨を漢文と偈で述べる。
天正四年八月十九日~九月三日 / 冊子 488頁
北郷時久が一万の兵を率いて江平へ進み、高原城南口を攻めて家臣数十人を失ったこと、三山・須木・奈佐木が降伏したことを記す。戦後、上井覚兼が三山へ来て時久の武功を賞し、田野城攻略の人数・敵情と神慮を探るよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 701頁
矢崎の陣で拙斎が敵から島津家久の標識を奪い、丸田休右衛門に急いで城へ登るよう促されて横入りし、城を落としたという武功譚。丸田休右衛門は当時十六歳で、敵三十六人を討ち取ったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 245~246頁
新納忠元勲功記。忠元が十六歳から島津氏に仕え、多くの合戦で先陣・一騎討ち・首級獲得などの武功を重ね、身体に十九か所の傷を負ったこと、子孫も軍功を立てたことを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 247~248頁
新納忠元譜の記事。慶長十四年、島津龍伯が税所弥右衛門を介して、忠元が少年期から老年まで戦場で立てた武功を記録するよう命じ、忠元が証人のある十九度の合戦だけを一紙にまとめて提出し、十二月七日に感状を受けたことを記す。
慶安四年十二月二十六日 / 冊子 207~208頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0413
中務勝残去殺陳善閉邪愛荘達邦・武功累代等の由緒を掲げ、源朝臣綱久を従五位下から従四位下へ昇叙した位記。
元治元年6月創建;同年7月と19日戦闘の叙述(御系図記事) / 冊子 356~357頁/原整理番号 507/整理ID 507
御系図「忠義公」の記事。元治元年六月に開成所を創建したとし、外患が迫る中、海陸の軍事を学んで武備を充実し、器械・航海・測量等を明らかにすることが急務だと述べる。続く同年七月の叙述は、長州勢が京都へ迫って帝闕を脅かしたとして、在京諸藩と自軍が防禦・討伐に当たり、十九日の黎明に天龍寺を攻め、禁門への砲撃と官軍退却の後、自軍が兵を合わせて進撃し敵を破ったという。残兵追撃、日野・鷹司等の党与の探索・掃討を記し、平定で結ぶ。長賊・夷賊と呼ぶ評価、勝敗と自軍の武功は系図の叙述として読む。開成所創建の月と七月戦闘の経過を別に保持し、実際の死傷者数は記載されない。
7月勅書写/元治元年甲子8月慶喜の感状 / 冊子 374頁/原整理番号 536/整理ID 536
十二番箱中、包紙に勅書写とある文書を収める。七月の勅書写は、去十九日の禁闕下の大きな混乱に諸藩兵士が直ちに出張して命を懸けて防戦し速やかに鎮静した忠勤と、その後も暑熱の中で終夜警衛した苦労を称える。続く感状は、松平大膳太夫の家来の入京・禁闕砲撃と乱妨に際して薩摩勢が速やかに出張・接戦し、蛤御門・公卿門での防戦追退と天龍寺出張等の働きが抜群だったと記す。元治元年甲子八月、慶喜判、薩摩少將殿宛。朝廷の賞賛と慶喜の感状を別に示し、敵方の行動・勝敗・武功は各文書の叙述として整理する。
8月帯刀(本文);去月19日戦闘への言及 / 冊子 376~377頁/原整理番号 540の1/整理ID 540-1
金子三両宛の賞賜を記す名書。吉利群吉組の一組表示と安藤八郎左衛門・知識源之丞、川上右膳組と伊地知徳四郎・國分一郎右衛門らの名を列記する。去月十九日、長州勢が禁闕・九門内へ入り諸藩の人数が崩れかけたところ、速やかに防戦して追い退け家の面目を示したとして、さらに忠勤するよう優賞を与える八月帯刀の通知。名書には十五名を記すが、組の人数や一組表示の適用範囲は独立に扱い、全支給総額を算出しない。武功評価は通知の叙述として読む。
元治元年8月7日優證;去月19日の戦死報告 / 冊子 377頁/原整理番号 540の2/整理ID 540-2
野村勘兵衛が去月十九日の長州勢の襲来時、隈之城一組の物主として公卿御門前を警衛し、多数の敵と遭遇して担当の堅場でよく防戦し戦死したとする報告を称える優證。詳細を両殿が聞き、当座の優證として与えると記す。元治元年八月七日、忠鑑・久治の二御判を掲げ、野村勘兵衛殿宛。原注は両名を久光の男とする。忠鑑の文字を他の人物名へ独自に置換せず、戦死・武功の評価はこの優證の叙述として示す。
8月帯刀;去月19日戦闘・子8月21日二本松で拝見・後日写置注 / 冊子 378頁/原整理番号 541/整理ID 541
去月十九日の長州勢の襲来で諸家の警備が崩れ公卿御門が危うかった際、軍勢が駆け付け、鳥丸通で戦って敵を退け天朝の危急を救ったことへの勅書を伝える八月帯刀の通知。家の面目を示す功労に満足し、今後の軍功への賞も考えているが、在陣中は軍功に応じた賞を個別に定めにくいため、後で取り調べるとして心得るよう求める。子八月廿一日、二本松御屋敷で一統へ拝見を命じ、後日写したとの注を持つ。武功評価と今後の賞賜方針を伝える文書で、ここには各人の確定軍賞額を収めない。
10月但馬の通知;当7月19日の功への言及 / 冊子 390頁/原整理番号 554の2/整理ID 554-2
町田民部が在京中の当七月十九日、長州勢が禁闕を侵した際に諸隊を指揮して尽力し、賊徒を退散させ危難を救ったことを称え、御刀一腰を褒賞として拝領させるとの通知。さらに忠勤を求め、表方と奥掛御勝手方へ伝達するよう命じる。正文末は十月但馬で、町田民部に久成、但馬に川上久連の注がある。武功の評価は通知の叙述として示し、刀の具体的銘や実受渡日は記されない。
元治2年丑4月21日三署・同日収納注/去る年7月の功への言及 / 冊子 398~399頁/原整理番号 563/整理ID 563
刀一腰を越中國則重無銘、長「弐尺三寸三部半」と記す明細。二重の金着の鎺、切羽、赤銅七子の縁や魚の細工をした三所、黒塗の角頭・鞘、鮫白糸巻の柄、藤原國正の小刀、下緒、袋、折紙一枚と桐白木箱などを列挙し、三所に後藤光晃の名を記す。去る年七月に長州家来が禁闕を乱した際、在京の人数が出張して烈戦し、諸事の救応や天龍寺の攻落などに抜群に働いたことを大樹家が満悦したため、茂公がこの品を拝領したと述べる。御納戸で護り、他の道具と同様に後年紛敷くないよう記すことを命じる元治二年丑四月廿一日、式部久美・但馬久連・右衛門久武の三署による御納戸奉行宛の通知。同日の外包注には但馬から伊藤整之介へ渡され、護置を承知し白木御文書十一番箱へ納めたとある。武功評価は通知の叙述とし、刀銘や寸法は原の記録として保持する。
年月日未詳 / 冊子 692頁/原整理番号 719の1
元日の城攻めで寄手が崩れた際、伊集院の四本縫殿忠綱が三原重庸の馬を引き返させ、弓の使い所は今だと攻撃へ向かわせたという。重庸は薩州の使者三原左衛門佐と名乗り、最後尾から退きつつ多数の矢を放ち、兜の前立を鉄砲で二か所射抜かれた。武功が諸陣や遠国に伝わり、射術の師家からこの日祝賀書状が届いたと記す。
年月日未詳 / 冊子 116頁/原整理番号 185-1
伊地知季安の記事。十一日、上津浦番手の島津久賀らには武功があり軍議のできる者がいなかったため、島原の島津久元らへ報せ、讃良善助貞賢と蒲川内蔵丞を上津浦に置くことを相談した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 193~195頁/原整理番号 318-1
伊地知季安が島原出陣時の薩摩軍を評した記事。薩摩軍は名目上およそ二万人の賦課であったが、各家が分限に応じて従卒を伴い三万人に達したとする。元日の攻城で官軍が敗走した際、薩摩の使者三原重庸が少隊で踏み止まり、軍勢を励まして退却を支えたため薩兵の勇名が諸陣や江戸に広まったと述べる。細川忠利が薩摩軍に肥後勢が圧倒されることを懸念し、薩兵を上津浦へ移すよう働き掛けたと推測する一方、松平信綱は重庸を厚遇して諸手への条書伝達や取次を任せ、出水衆から山元左近ら武功ある十八人を追加招集したという。諸侯が薩軍の島原在陣を嫌ったため、信綱は薩兵を上津浦へ回し、島津久元・三原重庸らを帰国させたと記す。二月十三日に世子島津光久が口之津へ着き、大軍を有馬へ集めて攻め口を受け持とうとしたが、既存の割付や父島津家久の重病により認められず帰国し、二十三日の家久死去まで看病したとする。その後の在陣数は、上津浦が士衆千八百八十二人・雑兵込み二千八百十八人、島原が士衆千五百五十八人・雑兵込み二千五百二十七人と区別して掲げ、攻城の触を待ったと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 218~223頁/原整理番号 333-1
『平塞録』所載の二月二十七日原城攻撃記事。翌二十八日の総攻めを評議するため、松平伊豆守ら諸大将が戸田左門の山手陣屋へ集まった。鍋島信濃守は、自陣前の二の郭枡形へ翌日の足次とする竹束を付けたいと上使衆へ申し、竹牌だけを寄せることを許された。ところが鍋島勢の者が出丸へ竹牌を付け、敵が退いたと見て鍋島安芸らが乗り込み、榊原左衛門佐職信や細川勢など諸勢も続いて三の丸・城内へ進み、鉄砲戦と混戦になった。記事は各隊の先陣争いと多数の個別武功を詳記し、末尾では非番ながら鍋島勢の城乗りを聞いて参加した松野縫殿之助・吉弘四郎太夫兄弟にも触れる。三の丸一番乗を書き出した者は四人いたが、明確な証拠がなく、その四人の差出が一通あると留保する。
清和天皇・源経基以降、慶長12年、寛文7年2月28日ほか / 冊子 281~290頁/原整理番号 112
源姓松本氏の系譜を、人皇五十六代清和天皇・貞純親王・源経基から源満仲・満快らを経て、伊那・林・芳美・松本などの諸支流へ展開して記す。松本氏部分では、行光・忠公・時光・満治・光家・光則・光信・貞行・光尚・景康・光後らの親子関係に、官途、居住地、法名、婚姻、養子、早世などを付記する。紀伊国雑賀庄湊の松本刑部については、武功により島津龍伯・惟新から恩顧を受け、上方との連絡や島津氏上洛をめぐる交渉に関与し、紀州帰還後も松本六郎左衛門を名代としてたびたび下向させたこと、長宗我部との連携、豊臣方の紀州攻め後の一族退去、藤堂和泉守・浅野紀伊守のもとでの知行・召出しを記す。別系の松本彦太郎は慶長十二年紀州生まれで、妙寿院大禅師に儒学、啓迪院陶室玄治法印に医術を学び、島津光久に供奉して病者を療治し、銀子や年々の台方米百俵を受け、江戸で三十年間、身分を問わず診療したとする。末尾は伝次郎・与右衛門・学之助・源右衛門・源之丞・弥一兵衛らへ続き、相良家への養子、四本・桑波田家との婚姻を載せる。
正平六年八月三日 / 冊子 478頁/原整理番号 282
後村上天皇の綸旨。武功を挙げた者を賞し、事情を報告するよう伝える。正平六年八月三日付。
年月日未詳 / 冊子 408~409頁/原整理番号 142
十一月上旬、久峯観音堂に集まった武功者が、川原陣へ忍び入り高城を救う策を立てた。義久への報告と諸将の軍議を経て、十日夜、雨の中を百四十五騎が進み、別府村には三百人が待機した。翌日、帰還する豊後の番衆を襲い、七十三人を討ち取り荷駄を追い落としたと記す。敵の反撃と家久の動静、味方の士気の高まりも述べ、続く高城への進撃は省略する。
巻二/冊子 14~15頁
弘治二年、貴久が蒲生氏の本城と松坂の要害を攻めた戦いを記す。城は険阻で守りも堅かったが、義久に続く若い忠平(後の義弘)が城門へ迫り、敵と組み合って初めて首級を得た。鎧には五本の矢を受けていたとされ、二十二歳の忠平の武勇を強調する。蒲生を支援する菱刈氏に対しても、貴久・義久・忠将・尚久らが出陣し、山地の要害を攻めた。敵の矢で島津方にも損害が出たが、諸軍の奮戦と策によって蒲生城を圧迫し、周辺勢力の連携を崩していく。義弘の初陣的武功を中心に、蒲生退治の軍事過程を描く。
巻二/冊子 22~23頁
渋谷一族が領地を挙げて島津方へ降参し、隈城・平佐・高江・水引・湯田・西方などの支配と地頭配置が再編されたことを記す。元亀二年には貴久が五十八歳で死去し、法号を掲げる。翌年、伊東義祐の大軍が飯野・加久藤へ侵攻すると、忠平は少数の騎兵で木崎原に迎撃した。伊東又次郎・落合源左衛門尉ら主要将を討ち、田原陣も破って伊東軍を三山へ敗走させる。忠平自身も鬼塚原で強敵二人を討ったとされ、島津方の戦死者も列記される。少数軍が大軍を破った戦いを項羽の故事になぞらえ、天の助けと忠平の武功を強調する。渋谷降伏、貴久死去、木崎原合戦という政治・軍事上の大きな転機をまとめた記事である。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。
巻五/冊子 73~77頁
慶長二年、義弘・忠恒父子が朝鮮沿岸の敵船団を攻撃し、続いて南原城を攻略した経過を記す。巨済付近で日本軍の往来を遮断していた朝鮮水軍に対し、夜襲で百六十余艘を焼き、多数を海際まで追撃したとする。この戦果に秀吉は朱印状で賞し、明軍が進出した場合は軽挙せず対陣して注進せよと命じた。八月、諸将が南原城を包囲すると、義弘は久保を失った経験から忠恒に血気の勇を戒めるが、自ら三首を得たことで忠恒も単騎で城へ突入し、敵が退いた後に戻る。島津勢は首四百二十一を得て鼻を切り、日本へ捷報とともに送ったとされ、秀吉から再び賞状を受ける。その後、父子は泗川の旧館城・新城へ移る。後半には秀吉政権の在番・講和方針を示す朱印状、諸城から釜山浦へ兵粮・鉄砲・玉薬を集める命令、朝鮮王子や貢物を条件とする撤兵案、徳永寿昌・宮木長次の起請文などを収める。海戦・南原攻略の武功と、戦争終結を見据えた講和・撤兵の実務が併記された記事である。