横川衆中名寄帳奥書
寛永十一年二月十六日 / 冊子 411頁
検地後に家中の知行支配を改め、知行地の遠近と衆中各人の石高を踏まえ、地頭・衆中が相談して親疎なく公平に配当するよう命じた名寄帳奥書。
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寛永十一年二月十六日 / 冊子 411頁
検地後に家中の知行支配を改め、知行地の遠近と衆中各人の石高を踏まえ、地頭・衆中が相談して親疎なく公平に配当するよう命じた名寄帳奥書。
年月日未詳 / 冊子 520頁
同日、加治木右衛門佐が横川から祁答院へ出軍して合戦となったが敗れ、一族の次民部少輔・彦二郎・鍋倉五郎らが討死した経過を記す譜記事。
(文明十八年)十月五日 / 冊子 538~539頁
島津忠昌が本田殿に、横川の敵陣が後巻勢の奔走によって退散したことを喜び、今後も敵境へ進み帖佐方面から加勢する意向を伝えた。城内の人々の尽力をねぎらい、引き続き協力を求める。
(寛永二十一年)二月十六日 / 冊子 15~16頁/原整理番号 8
山奉行方の仁礼藤左衛門ら四名が横川・栗野の曖衆中へ、算用のため行司衆がまだ参上しないことを催促する。六度の御狩の代銭と鹿皮の受取、以前算用に合わなかった時の目録を持参させ、速やかに精算するよう求める寛永二十一年二月十六日付の達書である。
年月日未詳 / 冊子 670~671頁
大永六年霜月二十八日の宮内社頭焼失後、加治木の統治が絶えたため、新たな領地・守備配分を行った経過を記す樺山玄佐自記。新納・北郷・吉松・本田・北原氏らに拠点防衛を分担させ、横川や越前守領などを処置した。火災を契機に島津勝久方が地域支配を再編した具体策を示す。
(寛永二十一年)六月五日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 11
山奉行方の新納久親らが横川から日州表穆佐までの曖衆・行司衆へ、前年から地頭狩の夫役を公儀に召し上げたことを受け、十五歳から六十歳までの在郷の人々を新しい改札帳に記すよう命じる。曖衆と行司衆が奥書・連判し、翌月十五日までに鹿児島山奉行所へ差し出す。病者を別扱いする申し立てを認めない旨の追而書が付く。
正保二年二月廿九日 / 冊子 20~21頁/原整理番号 20
山奉行方が横川から倉岡まで十五か所の行司らへ、講狩で差した杉の本数・場所、狩立ての旧作法を調べ、卯刻までに集合するよう命じる。遅参者は未進として記録し科物を扱う。本文末に「外ニ五ケ条略す」とある。
正保三年九月朔日 / 冊子 24~25頁/原整理番号 26
山奉行方が横川から倉岡まで十五か所の曖衆へ、六度御狩のうち一度を当月十日までに行い、獲物の皮を十五日までに上納するよう命じる。皮は御用のむかはきに使うため、遅延を禁じる九月朔日付達書。
正保三年九月二日 / 冊子 25頁/原整理番号 27
北郷久加らが横川以下十五か所の曖衆へ、六度御狩には今後百姓を出さず免除する一方、御持夫は従来どおり毎回召し出すよう命じる九月二日付達書。
万治二年十月七日 / 冊子 27頁/原整理番号 30
山奉行方が横川から穆佐までの曖衆・行司衆へ、各見廻の山鹿倉数について六月十九日の廻文で報告を命じたのに未提出であるとして、急ぎ差し出すよう催促する。あわせて御用木改留帳の提出も求め、遅延を戒める。
「寛永廿年」二月廿四日 / 冊子 229~230頁
島津久通・川上久国が、金山から両使が帰国したことを報じ、金山停止後の処置を指示した連署書状。北郷佐州と相談のうえ、曾木・横川の衆から四人ほどを金山番手として移し、扶持と山衆屋敷を与えて山内を朝夕巡回させること、金山停止に伴い他国人約二千人を早々に帰国・退去させることを求める。さらに高麗人の取扱責任者を為善から左衛門佐方へ付け替える件を関係者へ申し渡すよう伝えている。
年月日未詳 / 冊子 651頁
旧記から抄出した島津庄大隅方寄郡の田数注文。寄郡田数を七百十五町八段三丈とし、その内訳として横川院三十九町五段三丈が安楽寺天満宮御寄附であることを記す。
正保二年五月十日 / 冊子 446~447頁/原整理番号 559-2
当春の札改めで新年号を「慶喜」と書いた札について、その年号は風説にすぎないため、札を作成した筆者へ命じて年号部分だけを寛永へ書き直し、諸帳も訂正するよう十五外城へ回覧する。新札の書き直しに要する間の飯米は各所の役負担とする。目録は正保二年五月十日だが、本文には「正保元年」とある。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日の横川城攻防に参加した島津方の従軍者と働きを列記する交名。箕匂舎人佐・村田雅楽助・瀧聞美作守・本田刑部丞らを挙げ、濱田民部左衛門が敵七人を切り捨てたことなどを記す。
慶長期、元和年間・元和8年9月ほか / 冊子 280頁/原整理番号 110
横川士上原氏の祖・上原少監物(のち奉膳兵衛か)から藤右衛門・藤左衛門へ続く系図。少監物は龍伯公が国分にいた時期に慶長高帳で食禄六十石、元和年間には七十五石七斗六升三合を食み、元和八年九月に東郷重位の秘訣書を受けたほか、龍伯がその宅を訪れて刀を与え、その刀を八幡宮へ寄進したと記す。藤右衛門は光久公から名を与えられ、喜入丹波が国分地頭であった時に関わる由緒を持ち、のち横川へ移ったという。藤左衛門は綱久公に従って芝邸へ上り、藤左衛門の名を賜り、二十四歳で横川の役人となった。
寛永14年10月28日 / 冊子 291頁/原整理番号 249
島原へ着船して城中の急変を注進せよとの命を受け、城下焼失と城内兵糧不足を報じる道家清蔵書状。横川助右衛門の注進、加勢人数と船の手配を求め、十月二十八日付で結ぶ。
正保二年一月十日 / 冊子 1頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0001
新納忠清が、金山外垣の縄結いと朽木の取り替えを二十日までに修理するよう各地の役人へ命じた廻状。定番衆の指図に従い、普請衆が欠けないよう主人を付けて堅固に施工し、鹿児島からの検分にも備えるよう求める。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
二月十五日 / 冊子 141頁/原整理番号 238
川上久国・三原重庸が沿道諸地域へ、薩州様が今明日中に阿久根へ着き川内筋を通って鹿児島へ向かう予定なので、自有馬を整えて道橋を補修し、夜道に備えて各所で松明を用意するよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 539頁
文明十八年、忠昌が自ら隈之城の賊を討ち、本田兼親は横川で軍を率いた。十月一日、忠昌が隈之城から兼親へ書状を送り、その軍務をねぎらったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 539頁
本田兼親が横川にあって敵の後方を攻撃する策を立て、敵を敗走させた。十月五日、忠昌が再び書状を与えてその軍務をねぎらったことを記す。
三月十三日 / 冊子 567頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、横川へ出張した敵へ早々に馳せ向かい勝利した働きを賞し、今後も油断なく対処するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
永禄五年、伊東義祐・肝付兼続の攻勢で島津忠親が飫肥・志布志を失った情勢と、真幸院北原氏の家督争いを記す。島津方は北原兼親の飯野復帰を支援し、横川城を攻略して菱刈氏へ与え、栗野・飯野方面の支配を固めた。
年月日未詳 / 冊子 103頁
永禄五年三月四日から福昌寺で国家太平を祈る一万部法華経が行われ、代賢が焼香し貴久が檀那となったことを記す。さらに飫肥の伊東方への引渡し、忠親の反攻、六月三日の横川城攻略、義久の栗野越年を載せる。
年月日未詳 / 冊子 104頁
永禄五年の郡山および六月三日の横川城合戦などで戦死した島津方の武士を列挙する殉国名簿。尾辻佐左衛門尉、貴島図書助をはじめ各地の従軍者名を伝える。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日、横川城の北原伊勢介・新介を討つため義弘・歳久を大将として攻撃した。新納忠元・伊集院久春らが奮戦し、歳久も負傷しながら城門へ攻め入り、北原父子を討って城を陥落させ、横川を菱刈氏へ与えた。
年月日未詳 / 冊子 107~109頁
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
年月日未詳 / 冊子 109~110頁
北原兼守死後に真幸院の家中が分裂し、白坂氏らが島津方へ従った経過を記す。島津方は六月三日に横川城を攻め、北原伊勢守・新助が妻子を自ら討ったのち城外で戦死し、島津勢が城を落として横川を菱刈氏へ恩賞として与えた。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
年月日未詳 / 冊子 111~112頁
永禄五年六月三日、島津義弘・歳久を大将として横川城を包囲した戦いを詳記する。新納忠元・伊集院久春らが攻め、北原伊勢介・新介が戦死して城が陥落し、横川は菱刈氏へ与えられ、北原兼親は栗野を島津方へ献上した。
年月日未詳 / 冊子 112~113頁
樺山玄佐が白坂氏らと協力して球磨の北原兼親を真幸院へ戻し、飯野へ入れた工作を中心に記す。横川城攻略後は菱刈氏に城を与え、白坂下総介らを説得して栗野を島津方へ献上させ、飯野の守備を薩隅兵へ切り替えた。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、横川城に拠って島津方へ背いた北原兼正を討つため、永禄五年六月三日に義弘らが出陣した。新納忠元は伊集院久春と先登し、城門で槍を振るって負傷しながら城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 113頁
横川城を攻め崩した際、新納忠元が伊集院玄集とともに内城の城戸口へ攻め入り、合戦で負傷したことを本人の奉公申上の形で記す短い記事。
年月日未詳 / 冊子 113頁
横川城攻略時に新納忠元が伊集院玄集と同心して城戸口へ詰め、槍を取って戦ったことを記す。貴久が溝辺に滞在中、両人が派遣された際の戦功として述べる。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、北原兼正が横川城に立て籠もったため、永禄五年六月に島津方が攻撃した。歳久を大将とする軍勢の中で、新納忠元は伊集院久春と先登し、城戸で槍を合わせて城を攻め落とした戦功を記す。
(永禄五年)六月四日 / 冊子 114頁
島津貴久が相良氏の計らいによって北原兼親を真幸院へ入部させられたことに満足を表し、横川城も容易に切り取れたのは相良氏の尽力によるとして謝意を伝えた書状案。
永禄五年六月十六日 / 冊子 114~115頁
島津義久が六月三日の大隅横川合戦で喜入季久が奮戦し、配下の者も多数粉骨したことを比類ない名誉であり神妙であると賞した書状。
年月日未詳 / 冊子 115頁
北原兼守死後、白坂氏・樺山玄佐らが北原兼親を球磨から迎えて家督を継がせ、踊・栗野・吉松などを島津方へ従わせた経過を記す。永禄五年六月三日の横川城攻めでは歳久が義弘と大将を務め、城門へ攻め入って負傷した。
永禄五年六月廿一日 / 冊子 115頁
島津貴久が歳久に対し、横川城戸口で太刀打ちして負傷しながら尽力したことを賞し、手負いの具合とその後の容体を案じて知らせるよう求めた感状。
永禄五年七月廿四日 / 冊子 116~117頁
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 154~155頁
飯野を境目として伊東・相良両氏と対抗するため、小林三之山城を攻撃した経過を詳述する。義久・義弘・歳久の軍が花立口・大豆別府口・寝谷口から攻め、義弘勢は二之丸まで進んだが多数が戦死・負傷したため退却し、追撃する伊東勢には伏兵で損害を与えた。帰陣後、横川側の不穏な振る舞いを諸将が訴え、成敗を求めたことも記す。
永禄十年十一月七日・廿四日 / 冊子 167頁
永禄十年十一月七日夜に福昌寺の直歳寮だけが焼けたことを記す。同月二十四日、伯囿貴久・義久が出陣して菱刈氏の馬越城を攻め落とすと、翌日に本城以下八箇所が放棄され、横川も数日後に島津方へ渡された。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 169頁
菱刈氏が島津家に背き相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ向かったことを記す。翌朝、義久が諏訪山に旗を掲げて総攻撃し、井手籠氏父子以下二百余級を討って馬越城を陥落させたため、周辺八城と横川が退去・献上された。
永禄十年十一月~永禄十一年正月十八日 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。
永禄十年十一月 / 冊子 171頁
菱刈氏が島津家に背いたため、永禄十年に貴久・義久が出陣して馬越城を攻め、横川城主菱刈中務少輔が同地を島津方へ献じて退去したことを記す。途中の詳細は省略される譜中記事。
永禄十二年五月六日以後 / 冊子 220頁
義久が馬越に在陣している間、翌年に家久が平泉戸神尾で大勝し、大口城の引渡しと球磨境の和平に至った経過を記す。その後の入来院・祁答院・東郷・千台方面の知行再編や、樺山家への横川・小浜堅利などの替地を述べる。玄佐は日新の死後、弓箭から離れて和歌に傾き、貴久隠退後の寂しさを舟を流した海人にたとえている。
永禄十二年 / 冊子 224頁
永禄十二年、菱刈・牛尿両院が島津方に帰したのち、樺山玄佐が小浜堅利との替地として横川を与えられたことを記す。玄佐は六十歳に至って戦場の勇を離れ、和歌の道に専念した。自身の歌を卑下しつつも、鳥や虫の自然な声にも歌があると述べ、義久の治世の恩恵が国中を潤すとたたえる。
天正二年十月二日~五日 / 冊子 345~346頁
天正二年十月二日、大乗院法印に法華経一千部を百十人の僧と十日間で読誦させたことを記す。続いて五日、菱刈氏の使者へ、蒲生救援、横川城・三山城・馬越城をめぐる過去の背反や義弘暗殺未遂を列挙して責め、再度の叛逆なら滅亡は免れないとして居所を替えるよう求めた。
天正八年三月吉日 / 冊子 650頁
大隅国横川院内の浮免田地を川田橋対馬守へ宛行った坪付。上井覚兼・平田光宗・伊集院忠棟が連署する。