高麗入日々記自文禄四年十二月一日至三十日
年月日未詳 / 冊子 929~936頁
文禄四年十二月一日から三十日まで、高麗再渡海を控えた島津義弘周辺の日々を記す。天候、寺社参詣、連歌・茶・舞、贈答、使者・書状の往来に加え、船・馬・人員・武具・衣類・兵糧の手配、家臣への給付や知行処置、出仕・帰館を日次で列挙する。 比志島紀伊守・寺沢志摩守・伊集院幸侃・上井仲五らの動向も現れ、軍役準備と島津家中の日常が交差する様子を連続的に追える重要な日記。
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年月日未詳 / 冊子 929~936頁
文禄四年十二月一日から三十日まで、高麗再渡海を控えた島津義弘周辺の日々を記す。天候、寺社参詣、連歌・茶・舞、贈答、使者・書状の往来に加え、船・馬・人員・武具・衣類・兵糧の手配、家臣への給付や知行処置、出仕・帰館を日次で列挙する。 比志島紀伊守・寺沢志摩守・伊集院幸侃・上井仲五らの動向も現れ、軍役準備と島津家中の日常が交差する様子を連続的に追える重要な日記。
(文禄四年)七月十三日 / 冊子 34頁
本文はNo.80と同文につき省略。島津義弘が島津又八郎(忠恒)へ、国元の知行沙汰・家中の勤仕・帰朝および渡海後の処置を指示した書状である。検地目録の給付と七月の御打立を根拠に、本文を文禄四年成立とする注記を付す。
年月日不記(天正八年・文禄四年などは系図内記事) / 冊子 642~644頁/原整理番号 116
平姓祢寝氏の略系図で、重盛から高清・沙弥行西・清重へ続く系線を示す一方、清忠から重弘までの間に十五世を欠くと明記する。重良の条には文禄四年に祢寝を去り、吉利村三千二百石を賜って移ったとあり、重常は姉とともに近衛信輔の薩州からの帰京に従い上洛したと記す。後代の清雄は家老職に任じられて役禄二千石を賜り、島津大蔵久春の二男・清香と三男・清行については、吉貴の命で清行が清香の養子になった経緯を載せる。清行が表御用人や大御番頭を務めた記事も記す。
文禄四年六月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 246
米良勝右衛門尉が、高麗での見次・引渡し、久保による銀子借上げ、上地・寺領などの石高を列挙した差出。惣都合三百三十九石二斗七升一合、うち上地七十四石七斗九升三合と集計する。文禄四年六月廿八日付。
文禄四年八月廿八日 / 冊子 478頁/原整理番号 80
小西行長・寺沢正成が島津又八郎へ送った連署状。唐島の移動に伴う現地の奉行として両人を任命し、十分に取り計らうよう求め、唐人への対応のため遊撃官人一人を派遣した旨を伝える。文禄四年八月二十八日付。
文禄四年二月二十二日 / 冊子 263頁/原整理番号 16
義弘が伊集院下野入道の神前での誓約を喜び、自分と忠恒父子への忠節を今後も尽くすよう頼む文禄四年二月二十二日付書状。
年月日未詳 / 冊子 68頁
吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。
文禄4年正月15日 / 冊子 858頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、年頭の祝儀として白鳥一羽が届いたことを喜び、受領の謝意を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から伝えさせるとしており、文禄四年正月の豊久と秀吉の贈答関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 858頁
文禄四年正月十五日付で仰せ渡された高麗国への動員人数帳から、島津勢に関わる一隊一万八千人の記載を抜き出したもの。 全体の余部は省略される一方、島津家の石高を五十五万九千五百三十三石と付記し、軍役負担の根拠をうかがわせる。
年月日未詳 / 冊子 863頁
文禄四年正月二十日、近衛龍山公の東山邸で和歌会が催され、島津義久が参加して詠草を残したことを記す。 豊臣政権下の京都で、義久が近衛家の文化的な交遊圏に加わっていたことを示す短い記事で、次の詠草の成立事情となる。
年月日未詳 / 冊子 864~865頁
文禄四年中に戦死・病死した島津方の家臣を、日付と所属を添えて列挙する。北郷忠虎の臣・鶴田市右衛門尉貞明、松下源二郎、島津義弘の臣・山本勘左衛門親臣や鬼塚三蔵らの最期を記録する。 個々の戦功記事では見えにくい人的損耗をまとめた名簿で、朝鮮出兵期の島津家臣団の犠牲を追える重要史料。
年月日未詳 / 冊子 867頁
文禄四年三月二日、島津義久が近衛邸の糸桜を見て和歌を詠んだことを記す。当時、近衛信輔は薩摩に滞在しており、邸の主人が不在だった事情も付記される。 近衛家と島津家の往来を背景に、義久が京都の邸宅と花見文化に親しんだ様子が分かる。
年月日未詳 / 冊子 911頁
忠長譜は、文禄四年に島津忠恒が談合衆へ誓紙を与え、忠長もその一員として受領・保存したと記す。 続く誓約文の伝来事情を説明し、忠恒の当主権力と家中合議層との関係を知る手掛かりとなる記事。
年月日未詳 / 冊子 921頁
文禄四年十月、島津義久が下向して濱市へ家を移し、同年十一月に「武庫」こと島津義弘が上洛したと記す。 義久の本拠移動と義弘の上洛を同じ年代記条で伝え、帰国後の島津家中枢の動きを時系列で確認できる。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、文禄四年分の石田治部少輔蔵入目録に関する米高と、同年四月から閏七月まで五か月分の利平銀を算出して示した証状。一貫目につき一か月三十匁という利率も記す。
七月七日 / 冊子 550頁
伊集院元巣久信が、文禄四年十一月に伊作地頭職を命じられ、慶長五年まで四年間、公儀から選任されて御宝物の虫干しを自ら勤めたこと、慶長五年に伊作へ移ったことを、後日の証拠として書き残した申状。
(文禄4年)1月15日 / 冊子 78頁/原整理番号 63の16
文禄四年正月十五日付の高麗国動員人数帳の第二番から、羽柴薩摩侍従(義弘)の八千人を抄出し、その他を省く。当時の御高頭55万9532斛との張紙注を添える。人数と石高は別項目として記す。
(文禄四年)二月廿八日 / 冊子 384頁
島津龍伯が新納武蔵入道に、三ヶ条について神載をもって心底を示したことを当家への神妙な態度として認め、春日・八幡・天満天神に照らし、同心を決して忘れないと誓った請書案。
(文禄四年)三月七日 / 冊子 134頁
相手方の無事を喜び、書状と音信の品々の到来に謝した。堺に変事はなく明からの使者も来ないため長陣になると見込み、吉田美作・喜入大炊ら多数からの音信も届いたことを伝え、在京する供衆の辛労を別紙でねぎらうよう頼んだ書状。
年月日未詳 / 冊子 858頁
島津義弘が栗野から帖佐へ移り、同地を居城としたことを記す。あわせて阿多長寿院・上井次郎左衛門・伊集院肥前入道一雄を家老として掲げる。 義弘の本拠移転と、その時期の家老構成を同時に確認できる記事である。
文禄4年正月19日 / 冊子 863頁
北原勘右衛門尉が持参した書状と口上を受け、石田三成にも披露して返答させたと伝える。伏見城普請は前年十二月二十日まで行い、正月三日から再開したという。 朝鮮在陣の労苦をねぎらい、高麗から返納する米や蔵米の処置にも触れる。中央政権の普請と朝鮮在陣側の兵糧処理を結ぶ実務書状。
文禄4年正月20日 / 冊子 864頁
東山歌会で、島津義久(龍伯)が「庭松契久」を題として詠んだ和歌。植えてから幾代もの春を経た松が、変わらぬ緑の陰をつくる情景に永続性を重ねる。 近衛家の歌会に参加した義久の文化活動を、本人の署名と作品から確認できる。
文禄4年2月7日 / 冊子 865頁
近衛前久が便宜に託して島津又八郎へ送り、現地が無事であることを喜ぶとともに、望みどおり早く春中に帰陣することを待つと伝えた書状。 長期在陣の苦労を察し、伏見の女房衆への急便に合わせたため詳細は省くとしている。近衛家と家久の私的な連絡が分かる。
文禄4年2月17日 / 冊子 865頁
平田豊前守が度々の合戦で挙げた軍功を忘れないとし、その娘が長年京都に滞在して夫婦で数年奉公したことも高く評価した感状。 軍功だけでなく、家族ぐるみの在京奉公を忠節として認定し、今後も忠貞を尽くすよう求める。
文禄4年2月21日 / 冊子 865~866頁
平田豊前守が七年間京都に在住し、夫婦で重ねた辛労を島津義久が「感悦」と評価した感状。 長期の在京奉公を今後も忘れず、いっそう忠勤に励むことを求める。直前の感状とは、軍功よりも七年間の夫婦の奉公を中心に顕彰する点が異なる。
文禄4年2月22日 / 冊子 866頁
伊集院下野入道が神前で示した決意を、島津家と義弘父子への忠節として評価した感状。神々の照覧を掲げ、今後も心変わりなく奉公することを求める。 本田六右衛門尉宛の前文書と同系統で、義弘が有力家臣に忠恒への支援を誓わせた主従再編の一例となる。
文禄4年3月11日 / 冊子 869頁
小西行長が、島津義弘が当地に滞在して虎狩りを行い、二頭を仕留めたことを「奇特」と称賛した書状。義弘から鹿の枝角二十を贈られたことにも謝意を示す。 詳細は七右衛門尉に伝えさせるとしており、虎狩りの成果が朝鮮在陣中の大名間で共有・祝賀されたことが分かる。
文禄4年3月11日 / 冊子 870頁
小西行長が島津家久からの書状を読み、虎二頭を仕留めたとの報告を「奇特」と称賛し、家久の満足を推察した返書。 詳細は後日あらためて伝えるとして簡潔に結ぶ。直前の家久譜に記された虎狩りが、当事者間の書状でも確認できる。
文禄4年3月20日 / 冊子 872頁
遠国のため音信が途絶えたことを詫び、寺沢志摩守が下国前に指示した「実用方」の件は、柏原殿をはじめ関係者が油断なく進めていると報告する。 義久自身も当地と国元の代官へ命じており、寺沢がいつ上洛するかを尋ねて待っている。国元行政と中央取次の連絡を示す書状。
文禄4年3月28日 / 冊子 872頁
義弘が、四名の者について朝鮮での在陣以来の辛労は比類なく、島津家への奉公としてこれ以上ないものだと評価した書状。 祢占七太郎に対し、今後はその功績を十分に心得て処遇するよう求める。個人名を列挙せず、四名をまとめて顕彰・取次した点に特徴がある。
文禄4年4月13日 / 冊子 876頁
島津義久が、豊臣秀吉から早々に帰朝するよう命令が出たため、義弘に速やかな判断と帰国準備を求めた書状。 詳細は藤島右衛門尉から伝えさせるとしている。秀吉の朱印状を受け、国元の義久が朝鮮在陣中の義弘へ帰朝を督促した短い連絡文書。
文禄4年4月14日 / 冊子 877頁
島津忠清が二月十日付の書状を受け取り、島津家の両殿が健勝であることを喜んだ返書。忠清側も無事で、国元から多数が上洛して異変がないと伝える。 詳細は鹿右衛門から申し上げるとしており、家族・主君の健康と国元・上方間の人の移動を確認する短い近況報告である。
文禄4年4月15日 / 冊子 877頁
近衛前久が、義弘に帰朝命令が出たと聞いて大いに喜び、積もる話は対面して述べたいと伝えた書状。 久四郎も帰国を喜ぶだろうとして安心させ、詳細は友枕斎から伝えるという。長期の朝鮮在陣から戻る義弘を、近衛家側が私的に待ち望んだことが分かる。
文禄4年9月23日 / 冊子 915頁
永吉領主所蔵の秀吉朱印状であるが、本文は別文書と同文として省略されている。 この頁では伝来情報と日付のみ確認でき、宛先・具体的命令の確定には省略注記が指す本文との照合が必要である。
文禄4年10月26日 / 冊子 920頁
忠恒は友枕斎の無事な帰国を祝うため、本田治右衛門尉を使者として遣わした。 長期の在京を終えて帰国したことを喜び、使者を通じて今後の用件や関係者への連絡を取り次ぐ、帰国祝いの書状。
文禄4年11月10日 / 冊子 923頁
永吉領主所蔵の秀吉朱印状だが、本文は別文書と同文として省略されている。 この頁からは日付と伝来情報のみ確認でき、宛先・命令内容は注記が指す参照文書との照合を要する。
文禄4年11月24日 / 冊子 924頁
島津忠恒が新納武蔵入道(新納忠元)へ、その進退については図書頭へ口頭で伝えており、穏当な決着を見込むので詳細を「秘書」と熟談するよう知らせる。 その後連絡が途絶えるなか、明春の「奥入」が命じられて諸人が準備している一方、島津家中の仕置が整わず軍役を調える体制もないとして、国元の留守居に格別の注意を払うよう強く求めた書状。
文禄4年12月24日 / 冊子 928頁
一乗院に伝来した文書として掲げられるが、この頁には「一作」とあるのみで本文が収録されていない。 日付・標題以外の宛先や具体的な用件は確認できず、別本または原文書との照合が必要である。
文禄四年九月三日 / 冊子 31~32頁/原整理番号 245
薩州伊佐郡羽月の柳瀬村・下殿村・宮里をめぐる知行替について、惣高三百五十九石二斗一升五合八勺九才から返上分三百三十九石二斗七升一合を差し引き、残る十九石九斗四升四合八勺九才を別所で宛行うと証した連署状。両殿の意向による処置で、正式目録は追って出すとする。文禄四年九月三日付。
年月日未詳 / 冊子 534頁
大田忠好が島津義弘・久保父子に従って朝鮮へ渡り、文禄四年の義弘帰国・上洛にも随行し、二年後の再渡海後も義弘の麾下を離れなかった経歴を記す。大明軍が朝鮮を攻めた際には強敵一人を討ち取ったとし、長期従軍と具体的戦功を併せて伝える。
年月日未詳 / 冊子 805頁
島津義久の代、京都から五十余人の検地衆が薩摩・大隅・日向へ下向し、文禄三年九月十四日に大口城麓で竿入れを開始したと記す。薩摩は黒川右近允、大隅は中小路典五、諸県は大塩氏が担当し、算用・筆者衆を三方に分けて昼夜を問わず調査した。 翌文禄四年二月二十九日に一行が帰京し、その後三国が静謐になったと結ぶ。太閤検地の開始地点・担当者・作業期間を具体的に伝える当事者記録。
年月日未詳 / 冊子 858頁
豊臣秀吉は島津家当主の居城を大口に定めたが、当主は富隈へ移り、町田存松が大口城代を命じられた。存松は文禄四年に大口へ移って長年守備したという。 のちに石谷の市山一所、一之宮村・長羽村などを加増された経緯も記し、城代任命と知行褒賞を結び付ける。
文禄4年正月15日 / 冊子 859~861頁
朝鮮へ動員する諸大名の軍勢を番組ごとに分け、小西行長・加藤清正・黒田長政・島津義弘・鍋島直茂・宗義智らの名と人数を列挙する。 各隊の構成に加え、高麗国内の城の留守衆や関白側近衆の人数も集計し、文禄四年段階の再動員計画を数量的に示す。朝鮮出兵の軍団編成を比較できる重要史料。
年月日未詳 / 冊子 867頁
文禄四年二月二十九日、薩摩・大隅・日向諸県の検地と境界確定が終わり、豊臣秀吉がその功績を聞いて土地支配の書を与えた経緯を記す。 さらに朝鮮在陣中の島津義弘を召還し、四月十二日付の台書を与えたとする。太閤検地後の領国支配と義弘の帰国命令を結ぶ記事。
年月日未詳 / 冊子 875頁
文禄四年四月二十六日、豊臣秀吉が数年の戦功を賞し、宗義智へ薩摩国出水郡一万石を加増したと記す。六月には島津義弘を朝鮮から召還し、忠恒に軍務を代行させたという。 さらに薩摩・大隅・日向三州の境界を正して帳簿を義弘へ与えたとし、朝鮮軍務の交代と島津領国再編を一続きに記録する。
年月日未詳 / 冊子 875頁
豊臣秀吉の命による薩摩・大隅・日向の島津領内の境界確定が完了し、文禄四年四月十二日付朱印状で朝鮮在陣中の島津義弘を召還したことを記す。 次の文書に朱印状本文を掲げるための導入記事で、太閤検地後の領国仕置と義弘帰朝命令の関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 878頁
文禄四年五月十日に朝鮮国巨済を出航し、六月五日に薩摩国大坂へ到着したことを記す。 島津勢の朝鮮からの帰航日程を、出帆地と到着地の双方から確かめられる短い行程記事。
年月日未詳 / 冊子 898頁
島津忠清は義弘の五男で、幼名を長満丸といい、天正十年に生まれ、文禄四年七月四日に十七歳で早世したと記す。 母を島津家久と同母とする系譜情報や葬地も載せ、忠清一流の出自と短い生涯を確認できる。
年月日未詳 / 冊子 899頁
島津彰久が文禄四年七月五日に朝鮮で病死し、享年二十九、法号を天宗慈雲大禅定門としたことを記す。 家臣の安田次郎兵衛が主君の死を追って殉死した逸話も載せ、朝鮮在陣の人的損失と主従関係を伝える。
年月日未詳 / 冊子 905頁
島津彰久が文禄四年七月五日、朝鮮巨済島の陣中で病没し、殉死者を伴って葬られた経緯を記す。 法号「天宗慈雲大禅定門」と、同年八月十日に義久が追悼文を贈ったことを掲げ、朝鮮在陣中の死と島津家の服喪を結びつける譜記事。