近衛信尹書状
(慶長四年)七月四日 / 冊子 396~397頁
近衛信尹が、伊集院忠棟の死後、北郷弥右衛門尉らを介して忠真・又八郎に君臣の道をわきまえて武庫に従うよう勧めた経過を述べる。庄内方がなお籠城しているため、龍伯と相談して過失なく処置し、内府徳川家康の使者とも現地の状況を熟談するよう求める。また、忠真兄弟と母の処遇、上井神五郎の上洛、出水表の配当帳や国元での糺明にも言及する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
65 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
(慶長四年)七月四日 / 冊子 396~397頁
近衛信尹が、伊集院忠棟の死後、北郷弥右衛門尉らを介して忠真・又八郎に君臣の道をわきまえて武庫に従うよう勧めた経過を述べる。庄内方がなお籠城しているため、龍伯と相談して過失なく処置し、内府徳川家康の使者とも現地の状況を熟談するよう求める。また、忠真兄弟と母の処遇、上井神五郎の上洛、出水表の配当帳や国元での糺明にも言及する。
(慶長八年)正月廿三日 / 冊子 878-879頁
島津義弘が忠恒へ、帰国の暇が正月六日に下され、参詣後に在京して二十日頃出船する予定だと竹内弥右衛門から聞いたことを喜ぶ。私用で帰国を遅らせず、一刻も早く帰途につくよう求め、家臣一同にも知らせるよう依頼した。
(慶長十一年)六月十一日 / 冊子 76頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒(陸奥守)に、長期逗留の労をねぎらい、人質出立の日取りが決まったことを知らせた書状。自身の体調は大きく変わらないものの膝痛などが続き、脈は少し良くなっており、祐乗法印から土用を過ぎれば快方へ向かうと診立てられたため心配しないよう伝える。さらに高橋家中の者への書状が届いたこと、平田五次右衛門尉が下着して忠恒からの音信を伝えたことを述べ、詳しくは弥右衛門尉が申すとする。
(慶長十三年)四月十二日 / 冊子 167頁
慶長十三年四月十二日、理性院観助が島津家久に、太元堂が美麗に完成し一山にも比類ない伽藍となったこと、両奉行が尽力したことを喜び、上洛時の拝観を勧め、詳細を税所弥右衛門尉に託した書状。
年月日未詳 / 冊子 247~248頁
新納忠元譜の記事。慶長十四年、島津龍伯が税所弥右衛門を介して、忠元が少年期から老年まで戦場で立てた武功を記録するよう命じ、忠元が証人のある十九度の合戦だけを一紙にまとめて提出し、十二月七日に感状を受けたことを記す。
(元和元年)五月廿四日 / 冊子 585頁
海路の無事と堀弥右衛門尉の口上・山口直友の書状を受け、大坂の戦いが大野治長の策に端を発して決着した事情を述べ、戦後処理と上洛について伝えた島津惟新の書状。
寛永十一年六月廿九日 / 冊子 432頁
伊地知左衛門の弟弥右衛門尉を羽月衆として召し移し、当初の二十石ではなく京都からの指示どおり三十石を支給するよう奉行衆へ達した連署達書。
年月日未詳 / 冊子 248頁
新納忠元勲功記。龍伯の命により忠元が若年から老年までの戦功を記し、証人のある総計十九度の合戦だけを提出し、証人のない戦功は多くても省略したこと、その提出を受けて十二月七日に感状が下されたことを説明する。
「寛永十七年」五月廿三日 / 冊子 113頁
宮原景之ら三名が伊地知弥右衛門・谷口次郎左衛門へ、求麻表に変化がなく、佐敷・水俣の番手衆も従来どおりであると伝えた連署書状。相良内蔵の死去を聞いたこと、ある遺骨を高野山へ上らせるため前日に鹿児島を出て阿久根から出船したことを知らせ、追而書では相良喜平次の妻が京都から船で水俣へ到着したと報じている。
「寛永十七年」七月十日 / 冊子 128~129頁
蓮金院秀伝が相良権兵衛尉・伊地知弥右衛門尉へ、大和守島津久章が七月十日申刻に高野山へ来るとの内報を受け、一人を遣わして事情を確かめたので、詳しい返事を求めた書状写。久章を蓮金院へ直接付けることも心得として伝え、まずは急ぎ連絡したとしている。本文傍注には右の原本表記に関する系譜上の注記がある。
(元和三年)十月廿五日 / 冊子 660~661頁
江戸普請、翌春の上洛、借銀返済などの費用増大を理由に、当秋の出銀を高一石につき一匁四分から二匁へ増額し、翌正月までに皆済させるよう命じた連署状。
年月日未詳 / 冊子 241~242頁
琉球在番の初代・二代の担当者と、寛永八年以降に那覇へ入津・出帆または琉球へ派遣された武士・町人・医師らの氏名、役目、在番時期を列記した注文。
11月21日 / 冊子 384~385頁/原整理番号 354の2
五枚帆一艘の水手六人に、二十日分の海上飯米として赤米九斗を配分する送状である。一人一日七合五勺の算用を示し、主取弥右衛門尉へ渡して是枝喜左衛門が扱う。
七月八日 / 冊子 461頁/原整理番号 582
鎌田大炊助ら3人は福之江出物蔵衆に、山田民部少輔の下知に従って諸所の軍衆へ飯米を渡すよう命じる。本手形は後で送るとし、福之江の米が払底した場合は向田で市来五兵衛へ相談するよう指示する。
「寛永十七年」四月廿六日 / 冊子 107~109頁
北郷久加・伊勢貞昌・山田有栄が国元の重臣らへ、祁答院長野金山の弥右衛門尉から確実に金が出るとの報告と砂金・吹金が届き、島津光久へ披露したところ大いに喜ばれたと伝えた連署書状。産金が続けば詳細を公儀へ披露するため再報を求め、金掘の人数と上納条件は産出状況に応じて協議し、性急に催促して掘手を立ち退かせたり、成果確定前に大事として扱ったりしないよう慎重な運営を指示している。
年月日未詳 / 冊子 568頁/原整理番号 587
『旧伝集』所収の逸話。寛永十五年の島原出陣時、鎌田弥右衛門が大剛の武篇者東郷萬左衛門を討ち、武運を試そうとした企てと、その後の顛末を記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 272-2
小原織部の取払留。池上内膳正へ、正月十六日夜から二月十九日まで三十三日分の一かたけ分として真米一斗六升七合五夕を支給した。伊地知弥右衛門が野津安右衛門を振る舞うため、白米五合(真米六合二夕五才)と酒五合代五分を用意したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 272-3
伊地知季安の記事。重政の弟・伊地知弥右衛門重延は加久藤の小頭で、家僮六人を率いて島原へ出陣し、兄重政に従ったため、陣屋では兄の物資で振舞を行ったと説明する。
年月日未詳 / 冊子 367頁/原整理番号 437
伊地知重政付衆小原織部佑の取払留は、三月五日の御振舞方として、伊地知弥右衛門尉へ白米二合を振る舞ったと記す。
寛永十七年七月十一日 / 冊子 425頁/原整理番号 532
米良頼貞・菱刈重信は三原重庸らへ、相良清兵衛を江戸へ召し登せるとの上意を相良壱岐守から受け、清兵衛が前月二十日に当地を出立したと報告する。その留守中、大童半兵衛らが同心して逆心を起こしたため討ち果たし、残るところなく鎮定したので安心するよう伝える。去る八日の当地の状況は伊地知弥右衛門尉を介して注進したと追記し、使者への口上に詳細を委ねる。
年月日未詳 / 冊子 428頁/原整理番号 538
伊地知季安は、寛永十八年二月十二日に提出された三通を記録する。第一は谷口次郎左衛門尉・伊地知弥右衛門による地頭伊地知杢右衛門尉重政主従三十二人の有馬陣立差出、第二は加久藤衆中の人躰・被官・夫丸九十五人の同断差出、第三は検地寺領衆自力立・一向宗寺領衆自力立の差出である。三通は寛永十五年正月十六日の箇所にすでに掲載したため、ここでは省略するとする。目録年月日は空欄のため、両日付をB列へ補入しない。
「寛永十七年」七月十一日 / 冊子 129頁
川上因幡守久国が国元の重臣らへ、高野山蓮金院から大和守島津久章が七月十日に到着したとの注進があったことを報じた書状写。一乗院も高野山に滞在しており、和州役人伊地知大蔵允に御蔵奉行衆の一人を付けて高野山へ上らせ、久章へ帰国を促すこと、なお帰国しない場合は三光院や一乗院を同道させる案を相談し、江戸へも飛脚で報告したとしている。
「寛永十七年」七月十一日 / 冊子 130頁
菱刈美濃守重綱と米良三左衛門尉が国元の重臣らへ、相良清兵衛を江戸へ召し出すよう相良壹岐守から命じられ、清兵衛が先月二十日に出立したことを報じた連署書状。その留守中に清兵衛方の者と犬童牛兵衛が同心して逆心し、勝手な振舞いをしたため討ち果たしたが、すでに残党なく事は収まったとして安心するよう伝え、詳しくは使者の口上に委ねている。
宝暦十年十月七日~十一月朔日 / 冊子 794~795頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2432
十月七日、継豊の病気急変を知らせる飛脚が江戸へ続いて到着し、驚いた重豪は幕府の許可を得て官医村田寿菴を薩摩へ派遣した。八日に家臣税所小右衛門篤見、道役の歩行士十一人、軽卒十三人と出発したが、十二日に継豊の訃報が江戸へ届いたため、浜松宿へ早使を出して呼び戻し、寿菴は二十一日に江戸へ帰った。十月七日には家治と家重がそれぞれ継豊の病気を尋ねる奉書を下し、酒井忠寄に託して薩摩へ送った。細江弥右衛門直香・大山源右衛門、歩士二人・軽卒二人が夜に江戸を発ち、東海・山陽・西海の道を経て十一月朔日に鹿児島へ着いた。
〔天保八年〕四月十一日(年は目録による) / 冊子 4~5頁/原整理番号 10の2/整理ID 10-2
近藤隆左衛門が央様に、島津斉興の代替わりの誓詞差出に関する伺書を提出した経過を報告する。御用番の代理を務める水野越前守の用人柴田勝右衛門に伺書一通を持参し、説明して提出したところ、受領された旨を用人から聞いた。追記では、前夕に半田嘉藤次が越前守の用人松元弥右衛門へ伺い出たが思し召しがなかったため、今朝近藤が動いたことを説明する。四月十一日付。
11月21日 / 冊子 389~390頁/原整理番号 355の2
『浦水手送状』は、十一月二十一日、船頭弥右衛門・隼人佐・与四右衛門・次郎左衛門以下の浦水手を人名列記する。末尾では、合計二十二人を小湊から立てる浦水手として受け取るよう、永山覚左衛門・三原源右衛門へ命ずる。
11月21日 / 冊子 390頁/原整理番号 356の1
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、鮫島惣次郎・窪田越右衛門・小田原弥右衛門・石塚伊左衛門・吉峯覚左衛門・藤田大学助の各主従へ真米・赤米各三斗五升を割り当てる。末尾では、天草一乱の加勢で小松原・大崎から仕立てて出水へ送る船の上乗加世田衆中へ、同日以後三十日分の飯米として銘々に渡すよう三原源右衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
11月21日 / 冊子 392~393頁/原整理番号 356の10
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、小浦から立てる五枚帆四艘の主取弥右衛門尉・隼人佐・与四右衛門尉・次郎左衛門尉へ各赤米一石二斗、四枚帆一艘の主取大蔵右衛門へ赤米一石五升を割り当てる。末尾では、同日から二十日分の海上飯米を一人一日七合五勺で算用し、天草一乱に伴う加世田内小浦出船用として銘々に渡すよう三原源右衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の1
十一月二十七日、舟頭次右衛門と平兵衛尉・伊左衛門・長三郎・対馬・弥右衛門の合計六人を掲げる。市来湊から立てた浦水手として受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ申し送る。前文書の次右衛門船の舟頭・加子の人数と対応する。
寛永18年2月12日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 747の3
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右衛門の署名がある。
(寛永15年)正月17日 / 冊子 729頁/原整理番号 759
加久藤衆の島原立人数として人躰五十人、内衆四十二人等を記し、残る二十九人を伊地知弥右衛門ら十一名の人数に分けて列記する。十七日夜に米津へ到着したので飯米を引き渡してほしいと求める。伊地知杢右衛門尉から村田郷左衛門尉・猪俣猪右衛門尉宛。副本は加久藤地頭役屋に所在すると注記する。
年月日未詳 / 冊子 188頁/原整理番号 309-1
伊地知季安の記事。二十四日、伊地知杢右衛門重政が、新納加賀守忠清、三原大蔵介重朗、市来五兵衛家昌、西田市左衛門、伊地知弥右衛門重延の五人を有馬の陣屋で饗応したと記す。
年月日未詳 / 冊子 188頁/原整理番号 309-2
伊地知重政付衆中・小原織部の取払留。御振舞方として、日付を欠字を含む「同廿□」と記し、真米一升三合を白米にして一升七合五夕とし、新納加賀守、三原大蔵介、市来五兵衛、西田市左衛門、伊地知弥右衛門尉の五人への振舞いに用いた。買物方は二月二十四日付で、長さ一尺六寸の鯛一つ(二匁)、鮑三盃(二匁)、別の鮑三盃(一匁八分)、豆腐二丁(六分)、せんもと一把(一分)、ささい五つ(四分)、ゑひかね三盃(七分)、くらげ一つ(三分五厘)などの代価を列記する。末尾に「以下切損無之」、使八右衛門、杉原紙等の記載がある。
寛永廿一年四月四日 / 冊子 235頁/原整理番号 172-7
四月四日付の廻状。沢原野御馬追を四月十六日に行う予定で、御奉行衆も当日に着くと伝える。先の廻状の内容を早急に関係各所へ知らせ、参集に支障が出ないよう求める。
(明暦三年)二月三日 / 冊子 321~323頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0696
鎌田政有が国元役人五人へ、大火後の公方の無事、日光関係の例年儀礼でも登城がないこと、火付警戒・捕縛、六月七月参勤に伴う六月の使者を報じる。借屋は一宿八九人で畳も不足し、機嫌伺いは小荷駄・歩行衆程度の使者を当地で騎馬に仕立てる。屋敷割・買添地五百両の相談、材木高騰と国元の長屋材調達、飯米二月、金山資金難と江戸仕銀継続、焼跡番小屋、衣類・人員節約、鍋島の屋敷と新網町屋敷の交換も伝える。
(明暦三年)二月十日 / 冊子 323~325頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0697
鎌田政有が国元役人六人へ、大火で衣類を失った評定所筆者の替人急召上、上屋敷・鍋島の買添屋敷の内証と図面不備を報じる。下屋敷の騎馬四人・歩行衆十五人の召下、南戸・小姓・酒部屋等の減員を伝え、金掘七八十人の召出には難色があり、金子三千五百両ほどを借りて屋敷用達は済んだとする。伊東源次・川野善兵衛の人事と放火企図拘束、城普請による材木不足と国元の長屋材準備も求める。大名・江戸市中は節約と沈静の様子で、末注に先月十八九日の焼跡絵図を送ったと記す。
(明暦三年)四月廿三日 / 冊子 335~336頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0722
久茂が国元役人六人へ、伊角に節約の意を伝えて返詞をさせること、伏見院息女の城中輿入、大猷院七年忌法事と将軍の正忌参詣を報じる。在国大名の機嫌伺使者の頻度を相談し、薩州様の誕生に伴う血忌と法事参詣の差合いを伝える。類火した伊角への縮緬等、太守の実名がなく名乗のみの書状への注意、久世息女への祝儀、老中取次への年例巻物辞退、土持段右衛門の到着と奉書・帰国の取扱いも述べる。
(明暦三年)八月十日 / 冊子 347頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0744
島津久茂が国元の役人らへ、石川・坂井・永井各氏の書状を取り次ぎ、将軍への挨拶、江戸屋敷の女房衆・奉公人の召寄せ、家臣の出仕・留守居と人員配置について指示した書状。
年月日未詳 / 冊子 332頁/原整理番号 307
十三日、兵糧を取り出すために出た島原方の人数が敗北し、足軽大将ら多数が討死した戦況を記す。翌十四日には四郎時貞が五千人を率いて天草へ渡海し、上津浦へ加勢した。
年月日未詳 / 冊子 379~380頁/原整理番号 350
平田宗直の船賦帳として、五枚帆・八端帆・七端帆など六艘について船主、船頭、水手、上乗衆を一覧化する。加世田の小松原・大崎から天草一乱対応のため出船させる船団編成を示す。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の3
十一月二十七日、市来湊町から立てた源太郎・茂兵衛尉・五右衛門の三人を記し、続いて同日付で彦次郎以下二十四人を列記する。後者は市来湊から立てた浜村の者として、三原源右衛門・永山覚兵衛尉へ受取りを命ずる。二十四人の名簿には久三郎が二度現れるが、別記のまま保持する。三人の先行記載と二十四人の合計を混同しない。
年月日未詳 / 冊子 694~699頁/原整理番号 725
村田市助家蔵本による、正月十三・十四日頃の島原出陣軍衆の人数と飯米処理の記録。川内百次・高城・中郷、阿多、恒吉、須木、水引、松山などの衆および個々の家の主従・人躰・小者・夫丸、到着日、米津・市来湊の兵糧支給や返上を列記する。合人数1799人を人躰550人・内之者1249人とし、別に鹿児島衆254人(人躰90人)、他者夫丸964人を記す。末尾には十四日の追加到着・出船を記し、十五日条へ読み継ぐよう注記する。
年月日未詳 / 冊子 703~704頁/原整理番号 733
国分士杢田十左衛門家蔵の島原出陣人数賦。町田甲斐守以下、各人の主従人数と鉄砲・鑓・弓・具足、鍬・斧などの携行品を列記する。末尾に合85人(うち18人自身立)、合134人披官と記し、杢田十左衛門景親に請うて採録したと結ぶ。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
寛永18年2月12日 / 冊子 715~718頁/原整理番号 747の4
有馬陣立人数差出として加久藤衆の人躰・被官・夫丸を主従95人と掲げ、帰還日別に氏名と人数・在陣日数を計算する。正月十六日から二月八日・十五日・十八日・十九日、三月二日・八日までの各組のほか、正月十四日出発者、夫丸11人、自力で参加した3人を記す。延べ日数3686日、うち66日は自力衆3人分とする。寛永十八年二月十二日付、谷口・伊地知連署。
寛永18年2月12日 / 冊子 718~720頁/原整理番号 747の5
加久藤の検地寺領衆と一向宗寺領衆が自力で有馬へ出陣した名簿・日数差出。萩原藤介以下を帰還日別に列記し、正月十六日から二月八日・十八日・十九日、三月八日までの日数を計上する。寛永十八年二月十二日付、伊地知・谷口連署。後半には「合4人・一人53日」に対し「合106日」と記すなど、人数と延べ日数が一致しない箇所があるため原記載を保持する。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
年月日未詳 / 冊子 746~747頁/原整理番号 778
伊地知重政付衆中の小原織部萬取払帳から、正月十八日の米請取と送夫への飯米支出を抜く。真米・赤米各一石五斗五升を載せ、赤米は主従三十一人の二十日分飯米とする。羽月から出水米之津までの送夫について、西田源七らへの七合五勺、西市之丞への一升、北ノ薗之後藤への一食分二合五勺、狩代の夫への八升などを列記する。真米の主従人数表記は原文どおり扱い、赤米条から補訂しない。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。