井黒又左衛門尉宛知行坪付
天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
新宮領上地のうち、灘木勘解由先・お津田・海老原筑前守先・牛畠など計一反三段を井黒又左衛門尉へ示した知行坪付。本田親貞が署判する。
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天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
新宮領上地のうち、灘木勘解由先・お津田・海老原筑前守先・牛畠など計一反三段を井黒又左衛門尉へ示した知行坪付。本田親貞が署判する。
正平十三年三月六日 / 冊子 8頁
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
正平十四年四月十九日 / 冊子 14頁
島津氏久が野崎太郎左衛門尉の忠節を受け、柏原保東方を兵粮料所として預け置き、先例どおり領知してさらに軍功を尽くすよう命じた文書。
正平十四年十一月廿七日 / 冊子 17頁
島津氏久が田代新左衛門尉の格別の忠節に報い、大隅国鹿屋院の地頭・弁済使職を宛行い、さらに軍功を尽くすよう命じた宛行状。
貞治六年六月廿七日 / 冊子 47頁
島津氏久・基久が河上次郎左衛門尉に、申談の内容に基づいて市来院内河上村地頭職を安堵し、領掌に相違がないよう定めた連署安堵状。
応永元年十一月廿六日 / 冊子 155頁
島津元久が岩元清左衛門尉に、島津庄日向方三俣院の相国領内にある下地五町を給分として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。
応永六年十二月十九日 / 冊子 186~187頁
島津元久が岸浦勘解由左衛門尉へ、大隅国姶良庄西俣村内五町を祈祷所として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。
応永十一年三月五日 / 冊子 213頁
島津元久が、薩摩国鹿児島郡河上村について、父上野入道の存生中はその知行を認め、後には嫡子三郎左衛門尉へ給恩所として宛行い、親類兄弟の違乱を禁じた宛行状。
応永十一年三月廿七日 / 冊子 213頁
山田久興が島津元久の命を奉じ、薩摩国谷山郡延命寺の寺務職について、元久の御判による沙汰に基づき末代まで領掌するよう河上三郎左衛門尉へ伝えた奉書。
応永廿年十一月廿二日 / 冊子 282頁
島津久豊が河上三郎左衛門尉に、薩摩国河辺郡内の泊津を給分所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。
三月十三日 / 冊子 567頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、横川へ出張した敵へ早々に馳せ向かい勝利した働きを賞し、今後も油断なく対処するよう求めた書状。
(明応四年)六月廿九日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、加治木方が帖佐城へ攻め寄せたとの報を伝え、社家衆・本田氏・日置美作守らとともに防戦へ加わるよう求めた書状。
(明応四年)七月三日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、城之坂口での合戦で敵七人を討ち退けたこと、なお敵勢への備えが必要なことを伝え、加勢を求めた書状。
明応八年三月廿八日 / 冊子 574~575頁
沢永観が、水田四段などの所領処置と代替地、年貢・役負担の扱いを定め、土屋次郎左衛門尉へ伝えた仮名書きの証状。
永正七年十月廿日 / 冊子 596頁
島津忠治が北郷源左衛門尉に、各地への使者派遣と軍事上の奔走を求め、今後も忠節を尽くすよう命じた書状。
(大永五年)六月十六日 / 冊子 652頁
島津忠朝が田所勘解由左衛門尉に、近年の弓矢・争乱と奉公の状況を述べ、忠節を尽くすよう求めた書状。
「大永六年」九月廿一日 / 冊子 663頁
島津忠兼が三郎左衛門尉に、疎略の意はないと釈明し、庄内の情勢について若年の自分へ今後も思案と指導を加えるよう求めた書状。
大永八年六月廿日 / 冊子 694頁
島津勝久が北郷左衛門尉の軍忠に報い、大隅国財部院を宛行った書状。
十一月六日 / 冊子 786頁
義忠と称した島津勝久が前田四郎左衛門尉に、肝付越前守や局へのたびたびの厚意を喜び、今後も変わらぬ好意を寄せるよう依頼した書状。
十一月吉日 / 冊子 820頁
島津貴久が内山九郎左衛門尉からの請文を受け、こちらも疎略にしないことを約し、梵天・帝釈から当国の鎮守諸神までの神罰を掲げて誓った起請文。
永禄十一年二月吉日 / 冊子 191~192頁
川上忠智・有川貞則が、日向国真幸院内の大河平所について皆越六郎左衛門尉に示した連署の知行目録。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234頁
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
天正七年二月吉日 / 冊子 628頁
忠春が前田兵部左衛門尉へ、薩摩国加世田のうち船越迫の三反を記して示した坪付。
天正八年二月吉日 / 冊子 646頁
加世田の御所之前・大坪・中島などにある田地を列記し、合計五反を前田兵部左衛門尉の知行として示した坪付。
天正八年閏三月吉日 / 冊子 652~653頁
大隅国蒲生の久末名・北村名などにある公田・浮免、合計一町三反余を御重恩として浜田民部左衛門尉へ宛行った坪付。確定版年月日は『月間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
〔慶長五年〕正月廿六日 / 冊子 709頁
新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。
天正十一年四月十六日 / 冊子 755頁
島津忠平が帖佐彦左衛門尉へ、長期にわたり現地へ滞在し籠城の窮屈に耐えた軍労をねぎらった書状。海陸の交通が不自由で連絡が途絶えたが疎意によるものではなく、今回の軍功を今後も忘れないと伝える。
天正18年12月28日 / 冊子 487頁
入来院家の所蔵文書として、市比野名のうち納拾八谷津殿先に関する知行方を東郷助左衛門尉へ示した目録。入来院領内における土地の所在と給付先を短い記載から確認できる。
(天正19年)2月 / 冊子 501頁
島津義久が伊地知勘解由左衛門尉へ、在京中の厚意を謝し、大坂から日向細島へ渡海したものの、途中で虫気を発し、唐人の薬も効かず療養中だと伝える。平野某の処遇と玄法印への取次を頼み、紅糸一斤と紫貝十個を贈った書状案。帰国海路・異国薬・贈答が一通に記される。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関係する一か所について、春口屋敷用として「三十三反こたか先地石」を勝田平左衛門尉へ遣わすことを認める。 同日付の宛行状の中でも、屋敷用途と土地・数量の表現を具体的に示す文書。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、三十石を勝田源左衛門尉へ遣わすことを入来院重時が認める。 百石・屋敷用土地の宛行状と同日に出された一通で、受給者と石高の違いを比較できる。
天正21年正月23日 / 冊子 666~667頁
白下・赤下・上之原・田島山畑などに散在する田畠・屋敷を、地目ごとの面積とともに列挙して東郷助左衛門尉へ与える。 合計は二町一反二畝一分、米高二十石二斗五升三合三夕二才と算定されており、入来院重時家中の知行を面積と収穫高の両面から確認できる目録。
文禄2年5月28日 / 冊子 700~701頁
薩摩国大口内の「かつけの門」ほか多数の田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙し、合計四町九反余を濱田民部左衛門尉へ与えた領知目録。 島津義久が袖判を加え、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署しており、大口地域の土地配分と給付規模を具体的に確認できる。
年月日未詳 / 冊子 769~770頁
伊勢貞知が、長期在陣中の相良五郎左衛門尉を見舞えなかったことを詫び、久四郎への奉公に油断はないと伝える。正月十四日付の書状への返礼、久四郎の在京と健康、灸治・服薬、前年の敵船来襲時の手柄にも触れる。 帰朝が近いとの噂を喜び、必要な用向きがあれば参上すると申し出た、朝鮮在陣者と上方を結ぶ詳細な近況報告。
文禄3年11月16日 / 冊子 827~828頁
島津忠恒は平田豊前守と川東善左衛門尉に、奥方に関する事情を二人に特に頼んでおいたと伝え、女房の法度に反する者があれば身分に関わらず厳格に処置するよう命じる。 男女の私通や家中の風紀を厳しく取り締まり、たとえ親しい女房でも例外にしないと記す。忠恒が在陣中から国元の奥方と家政を統制した書状。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
No.23と同文の宛行状が外中馬十郎左衛門尉・市来豊前入道にも存在したことを記す雑抄記事。先年の川内出向時に御輿を担いだ働きに対する恩賞知行である。
文禄五年九月十五日 / 冊子 46~47頁
伊集院右衛門入道幸侃が大迫五郎左衛門尉へ、薩州伊集院の飯牟礼之村にある余分のうち高五斛を割り付け、加増として与えた書状。
慶長二年八月廿二日 / 冊子 133~135頁
五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光が川上四郎兵衛尉・枇杷権左衛門尉へ、袈裟菊殿内の宇多与右衛門尉が安宅殿へ提出した申状に関する聞取り結果を報告した連署覚書。宇多の知行配当、使者の往来、奉公・武具・書状、相良五郎左衛門尉らの証言を照合し、宇多父子の切腹を命じる書状の有無をめぐる袈裟菊殿母側の主張など、当事者間で食い違う言分を詳細に列挙する。
慶長三年六月吉日 / 冊子 218頁
上井神五郎里兼が川上次郎左衛門尉に交付した加増分の知行方目録。薩州隈城西手村内の山下・山崎・中田・柿木原・瀬戸山などの田畑について、場所ごとに石・斗・升・合・勺で石高を列記する。
(慶長三年)十月六日 / 冊子 256頁
竹内実吉が(慶長三年)十月六日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。敵首三万人を揃え、ほかに切り捨てた者は数知れないと戦果を報じ、治介が七人、島津義弘(武庫)が五人を討ったことを伝える。出陣時の厚意に謝し、源五や伊福小内記・町田仲左衛門らにもこの内容を知らせるよう求める。
十月二日 / 冊子 256頁
竹内実吉が十月二日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。本冊では本文がNo.509の文書と同文であるため省略されており、敵首三万人や治介・島津義弘の討取を報じる同書状を参照する。No.509とは日付を異にして掲げられている。
十月六日 / 冊子 257頁
竹内実吉が十月六日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。本冊では本文がNo.509の文書と同文であるため省略されており、敵首三万人と治介・島津義弘の討取を報告する同書状を参照する。
(慶長四年)七月廿八日 / 冊子 409頁
樺山久高が平田太郎左衛門尉に示した覚書で、城内の普請、間仕切りや竹坂、諸口の番衆、板城戸、城近辺の山林伐採禁止、弓鉄砲、城屋敷、蔵米・財部・福島に関する事項などを箇条書きにする。普請と警備・物資管理を怠らず、諸事を監督するよう命じる。
(慶長四年)七月晦日 / 冊子 410頁
入来院重時・平田宗増・新納為舟が阿多甚左衛門尉に、書状を拝領し、当地での勤番について特別に言葉を掛けられたことを謝する。内府の上使から庄内の件を島津方の存分に任せる旨が示されたのは大慶であり、今こそ軍勢を差し寄せる時機ではないかとして、この意向の披露を求める。
慶長四年十月廿八日 / 冊子 465頁
島津忠恒が執印吉左衛門尉に対し、薩州郡隈城西手村の屋敷一か所と、高七十石一斗六升八合五夕のうち五十石を寄進する。当家繁栄・武運長久のため、神前で祈祷するよう命じる。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が指宿清左衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十一月二日 / 冊子 609頁
島津忠長ら四名が本田助左衛門尉へ、薩州知覧の西別府村百二十三石六斗八升五合と、庄内末吉の深川村七十六石三斗一升五合、合計二百石を加増として宛行う。
(慶長五年)十一月十三日 / 冊子 613-614頁
島津忠長が伊勢平左衛門尉に対し、水俣方面の敵情と備えを詳報する。敵勢は黒田・加藤・鍋島らで、柳川・筑紫は残留したとの情報を伝え、少人数での下向は内応への期待によると分析する。宇土の又介探索・討ち取り、地下衆からの重ね人質、鹿屋三右衛門の内情報告、敵来襲時の慎重な出撃、矢羽不足への対応などを指示・報告する。
慶長六年正月廿四日 / 冊子 744頁
八幡新田宮執印吉左衛門尉の知行二百石について、各田地の坪付を列記した文書。このうち百石は京都・高麗で忠節を尽くした功による恩賞として与えられたことを記す。
(慶長七年)十月十五日 / 冊子 852頁
新納旅庵が、忠恒の兵庫到着、福島正則・安芸少将との会見と饗応を報告する。秀頼への目見得や惟新に関する取成しも協議され、上洛交渉が進んでいることを伊勢左衛門尉へ知らせた。