島津忠朝書状
二月廿一日 / 冊子 339頁
島津忠朝が島津忠良へ、新春を賀し、前年以来南方が平穏で、島津実久と渋谷氏が和融したとの風聞を喜ぶ書状。弓矢の覚悟と勝利・落着に触れ、詳細は金吾から伝えるとして忠良側の動静を尋ねる。
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二月廿一日 / 冊子 339頁
島津忠朝が島津忠良へ、新春を賀し、前年以来南方が平穏で、島津実久と渋谷氏が和融したとの風聞を喜ぶ書状。弓矢の覚悟と勝利・落着に触れ、詳細は金吾から伝えるとして忠良側の動静を尋ねる。
八月廿日 / 冊子 339頁
飛鳥井雅孝が島津忠良の懇望を受け、蹴鞠に用いる葛袴の着用を特別に許した伝授状。子細はあるものの、忠良の希望を重んじて別儀なく免許すると述べる。
永禄十一年十二月十九日 / 冊子 205頁
島津貴久が父日新の荼毘に際して捧げた祭文。日新を儒門の君子・島津家の英傑として、その至徳至誠、薩摩・大隅・日向三州の統治、忠貞な者の登用と不肖の退け、文武と仏法への通達をたたえ、没後の冥福と西方浄土への往生を祈る。
永禄十一年十二月廿一日 / 冊子 206頁
幼少時から養育され、文武二道を教えられた祖父日新の死を悼み、島津義久が永禄十一年十二月二十一日に捧げた追悼文と和歌。「けさは日のあらたなりつる影もはや/西なる空に雲かくれつゝ」と詠み、日新を日の光になぞらえて西方への逝去を悲しむ。
永禄十一年十二月廿一日 / 冊子 206頁
本文書はNo.468と同文のため省略され、日新を日の光になぞらえた島津義久の追悼和歌だけを異本の表記で掲げる。「今日ハ日の新なりつる影もやゝ/西なる空に雲かへれつゝ」とする。
永禄十二年正月末(四十九日) / 冊子 207頁
日新の死から四十九日となる正月末、島津貴久が「南無地蔵菩薩」の各字を句頭に置いて捧げた八首の追悼和歌。避けられない別れ、残る面影、親の慈愛、日数の移ろい、煙となった人の行方を詠み、乱れない最期だけを慰めとしている。
永禄十二年正月末(四十九日) / 冊子 207~208頁
No.472と同じく、日新の四十九日に島津貴久が「南無地蔵菩薩」を句頭に置いて詠んだ八首を、別写本の異同を含めて掲げる。後世の注記は、古い写しには伝写の誤りが多いため御譜中から改めて写したと説明する。
大永六年八月十八日 / 冊子 662頁
島津忠良が一乗院に、田布施内十穀園の門について本物を返して請け取るまで一乗院の所領とする旨を認めた証状。
十二月五日 / 冊子 663頁
島津忠良が一乗院に、虎寿丸の登山に際して厚い配慮を受けたことへ謝意を述べ、自ら参上して礼を申し述べたいと伝えた書状。
大永六年八月十八日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2039と同文のため省略された島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
大永六年八月十八日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2039と同文のため省略された別伝本の島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
大永七年二月廿一日 / 冊子 675頁
島津忠良が樺山信久に、世上がいかに転変しても二心なく頼り、助成を受けたうえは和議に背く者を取り締まることを誓い、日本国大小神祇に起請した契状。
年月日未詳 / 冊子 734~735頁
島津忠良に関する系譜記事として、幼名・通称・官途・入道名と、天文四年七月五日の出生、母方を掲げる。
天文八年正月日 / 冊子 769~770頁
島津忠良・貴久が連署して諸士・地頭・領主へ示した領国統治の掟書。主君・父母への忠孝、文武鍛錬、軍役、領地と農業の管理、訴訟手続、家臣統制、犯罪者の処置を定め、私闘や非法を抑えて家中と村落を安定させる基本規律を示す。
(永禄七年)四月 / 冊子 131(本文省略)頁
本文はNo.315と同文につき省略される島津忠良書状案。日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜び、国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとして、わずかな進物を添えて披露を求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
年月日未詳 / 冊子 313~315頁
島津忠良(日新)を中心に、春・花・霞・雨風・旅・月・涙などを題材として詠み交わされた和歌・返歌を集めた詠草。仁禮右京所蔵本や清敷衆平田大圓坊の記載を含み、貴久以下多数の詠者名を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 328頁
島津忠良が法華経一部を板刻し、完成した版で二千部を摺って諸宗に授けた記事。百余人の僧侶を営中に招いて二百余部を分配し、各僧が一部ずつ真読を終えると経巻を与え、彫刻版木は常潤院へ寄附したという。
年月日未詳 / 冊子 329頁
島津忠良の存生中の行事をことごとく記録したとの編纂記事。記載順序は必ずしも正確ではないが、脱漏を避けて収録しており、後世の閲覧者が前後関係を考証するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 335~336頁
島津忠良自筆の正文が指宿助左衛門に伝わったとされる『白毛十首之和歌』。白髪を題に、老い、鏡に映る姿、染めても戻る白髪、死への覚悟などを十首に詠む。
年月日未詳 / 冊子 336頁
島津忠良の『法楽之詠冠於大悲権現七首和歌』。神慮、正直の道、迷いを照らす神光、熊野、月、神幸などを題に、神仏への帰依と衆生救済への願いを七首に詠む。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁
島津忠良の『佛法参得之詠』。迷いを断つ主体と対象の不二、形と心、雲雨・蓮葉・月、旅と夢、念仏、極楽往生などを題に、仏法参究による空・無常・救済の境地を和歌に詠む。
年月日未詳 / 冊子 338頁
島津忠良が松島で舟遊びをした際の詠歌。再び立ち帰って眺めたい松島の姿と、沖に立つ波への名残を一首に詠む。
年月日未詳 / 冊子 339頁
御文庫二十二番箱所収の島津忠良詠草。本文はNo.809『白毛十首之和歌』と同文のため省略され、出典注と同文省略の注記のみが掲げられる。
年月日未詳 / 冊子 343頁
島津忠良が一乗院の同宿衆へ、虎寿丸の登山に際して格別の厚意を受けたことを謝し、いずれ自身が参上して礼を述べたいと伝えた書状。万事は次の機会に譲るとして結ぶ。
八月十日 / 冊子 344~345頁
島津忠良が摂州忠俊へ、唐船着岸の件で先に格別の取り計らいを受けた礼を述べ、返礼が遅れたことを詫びた書状。水母巻を贈り、今後の音信を期して結ぶ。
十二月十四日 / 冊子 345頁
島津忠良が忠俊へ、伊集院で約束した川野での千句興行を来る七日から行うので、五日頃に来れば六日から相談できると伝えた書状。発句ができれば示してほしいと求め、再会を期す。
五月廿三日 / 冊子 345頁
島津忠良が陣取り決定の報を喜び、正宮の吉兆にも触れた軍事書状。岩切の参上や船の回航を急がせ、合戦の統率を徹底し、下知に従わない者は厳しく成敗することが肝要だと命じる。
(永禄八年)四月 / 冊子 140頁
日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜んだ書状案。国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとし、わずかな進物を添えて披露を求める。
年月日未詳 / 冊子 337~338頁
『日新記』所収の六字和歌。長寿、念仏、無生、悪業、阿弥陀仏、極楽往生、四十八願などを題に、六字の名号に託した信仰と救済への確信を詠む。
年月日未詳 / 冊子 338頁
『日新公御譜』および『日新記』に、琉球国中山王の渡貢船が上表し、慶賀を奉頌したことを記す記事。中山王からの書状本文へ続く導入に当たる。
年月日未詳 / 冊子 338頁
『日新公御譜』および『日新記』所収の記事。毎年渡来する大明・南蛮船の入貢品や破船貨物を納め、それを孤独で救済を求める者、飢餓に瀕した者、帰国途上の貧者らのために用いたことを記す。
二月廿日 / 冊子 357頁
『旧記雑録』所収の別文書と同文であるため、本文は省略されている。本文冊子では正文の所在と同文注記のみを確認できる。
年月日未詳 / 冊子 561頁
島津忠良が明応元年九月二十三日に生まれ、母が新納是久の娘であったこと、島津善久に実子がなく忠良が家を継いだことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 561~562頁
『島津日新譜』が、島津忠良(日新斎)の人物像を、仁愛と剛毅、主君・父母への忠孝、神仏への信仰、学問・和歌と武芸の修養から描く。これらの徳が家臣統率、領民への教化、子孫繁栄の基礎になったとして、後世の理想的領主像を示す。
年月日未詳 / 冊子 561~562頁
『島津日新譜』が、菊三郎丸と称した島津忠良の年齢・成長過程、母から受けた教訓、親族との関係を記す。のちの日新斎による家督継承と子女の系譜へつなげ、幼少期の養育と家の継承が人物形成に与えた経緯を伝える。
年月日未詳 / 冊子 562~563頁
島津忠良(日新斎)と伊作道場・西福寺の関係を記す寺院保護の記事。忠良や新納殿・伊作殿・勝久らの時代に、寺院建立、寺領・扶持の設定、証文や什物の授与が行われた経緯を追い、当家の庇護によって道場と寺の経営基盤が整えられたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 588頁
島津忠良が十五歳の時に観音の霊夢を得て供物を捧げ、伊作城が攻撃された際にも観音の加護を受けたとする伊作観音の由緒記。
年月日未詳 / 冊子 658~659頁
大永六年四月、島津忠良が鹿児島から生別府へ渡り、十四歳の千代鍋を元服させて太郎と称させ、虎寿丸の弟として遇するよう命じ、奉公を誓わせたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 659頁
島津忠良が出家して日新斎と号し、生別府で十四歳の千代鍋を元服させ、太郎(樺山玄佐)と称させた記事。太郎を島津貴久の弟の列に加え、樺山氏の後継として位置付ける。あわせて忠良の次女が伊作浦から市来湊を経て生別府へ移った経路を記し、一族の身分編成と移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 665頁
島津実久が忠兼の継嗣となることを企てたため忠兼が憂慮し、大永六年十月に国政を島津忠良へ委ね、同年十一月四日に本田兼親へ曽於郡城を与えた経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 668~669頁
大永六年、島津忠良が桑波田氏の奉公に報いて南郷を与えたことから、勝久が忠良の勢力拡大に驚き伊集院へ赴いた経過を記す。両者の協議で貴久・虎寿丸を勝久の養子とする約束が進み、所領給与を契機に守護家の後継問題が動いた。
年月日未詳 / 冊子 669頁
大永六年初秋、島津実久が太守勝久に背いたことから始まる家中対立を記す。島津忠良が調停・軍事介入し、新城・本城をめぐって両勢が動く中、岩永寿斎・伊集院氏らが使者となって条件を調整し、勝久と実久の関係修復を試みた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 672~673頁
大永七年二月、樺山信久と梅岳君(島津忠良)側の盟約、肝付兼演らの起請を中心に、守護家と領主層の帰属変化をまとめた国史記事。伊集院・加治木・帖佐をめぐり、島津勝久方と忠良方が対立し、諸氏が同盟・離反した経過を諸系図・旧譜から集成する。守護権力再編の基礎史料。
年月日未詳 / 冊子 676頁
大永七年三月中旬以後、島津勝久が福昌寺から退き、伊集院・加治木・帖佐諸勢が動いた情勢を記す。島津忠良は軍事・交渉で対応しながら家中の混乱を収めようとし、四月十九日に剃髪して日新と称した。出家後も貴久を支える政治的立場を示す。
年月日未詳 / 冊子 678頁
伊地知周防介父子らの謀叛企図を受け、島津忠良が大永七年五月に加治木へ進発し、関係者を誅した経過を記す『貴久記』。島津勝久方は忠良を伊作から誘い出して勢力を弱めようとし、加治木・帖佐・鹿児島方面で両陣営の攻防が続いた。家臣処罰を契機に守護家対立が軍事化したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
大永七年、伊地知周防介父子の謀叛から始まる島津忠良方と勝久方の攻防を記す。加治木・帖佐・伊集院方面で諸勢が交戦し、忠良方が鹿児島へ進攻すると勝久方が退避した。城と街道をめぐる軍勢移動、諸将の帰属・離反を追う。
年月日未詳 / 冊子 684~685頁
樺山信久が島津勝久の御座へ奉仕し、加治木・鹿児島方面の戦闘に関わった経過を玄佐が記す。村田越前守ら家臣の処遇を調整し、島津忠良方との関係を踏まえて、新納・本田・北原諸家の所領と帰属を再編した政治・軍事上の対応を伝える。
(享禄二年)六月 / 冊子 702~704頁
享禄二年六月十一日以降の島津忠良・貴久方の軍事・外交を日次で記す。隈江匡久、本田紀伊守、山田安藝守らの使者派遣、指宿・市来・串木野・清水方面の軍勢と物資の移動を追い、祢寝・肝付・豊州方との贈答・交渉内容を具体的に記録する。
享禄四年八月廿三日 / 冊子 711~712頁
島津忠良・貴久・忠朝、伊集院忠朗らが父子・一族間の合意を守ると誓った連署起請文。互いの知行・所領を侵さず、重要事項を協議し、軍事・家政で相互に協力することを定め、違反時には梵天帝釈・八幡大菩薩など諸神仏の罰を受けると誓約する。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁
天文元年、世情が不穏となるなか、島津忠良・貴久方と伊東・北原方が高城をめぐって対立した経過を記す。樺山信久・北郷忠相・島津忠朝らが城郭と交通路を確保し、敵方の進出を防ぎながら攻防を進めた。高城支配が諸勢力の同盟関係を左右したことを示す。