石田三成書状
(慶長三年)十一月廿三日 / 冊子 288頁
石田三成が鹿児島・富隈・帖佐の代官へ、島津三殿の蔵入年々算用が進まないのは代官の油断によるとして、三方役人・奉行の指示に従って出頭し、怠慢な代官名を報告するよう命じる。後日、義久・兵庫頭との談合で処分するとし、当年貢も定めた免合と期限どおり皆済するよう厳命する。
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(慶長三年)十一月廿三日 / 冊子 288頁
石田三成が鹿児島・富隈・帖佐の代官へ、島津三殿の蔵入年々算用が進まないのは代官の油断によるとして、三方役人・奉行の指示に従って出頭し、怠慢な代官名を報告するよう命じる。後日、義久・兵庫頭との談合で処分するとし、当年貢も定めた免合と期限どおり皆済するよう厳命する。
慶長元年七月六日 / 冊子 31頁
西国へ下向していた近衛信輔が京都へ帰るにあたり、大隅国富隈でたびたび和歌会を催し、慶長元年七月六日に帰京の途についたことを記す島津義久譜の記事。出立に際して近衛信輔と龍伯(島津義久)らが和歌を贈答した経緯を伝える。
慶長三年十月一日 / 冊子 250頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文。鹿島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八千七百十七とする。これとは別に、戦場で切り捨てた者の数は不明であると付記する。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文の異本。鹿児島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八百十七とする。首数が他本より少ないものの、参考のため収載したと注記する。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、鹿島・帖佐・富隈の各方衆などによる討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 272頁
慶長三年十月朔日の泗川表における討捕首数を隊別に記した注文。鹿児島方一万百八、帖佐方九千五百二十、富隈方八千三百六十、伊集院源次郎手六千五百六十、北郷作左衛門手四千百四十六とし、合計欄には三万八千七百十七、ほかに切捨は数知れずと記す。なお、記載された内訳の算術合計は三万八千六百九十四となる。
(慶長七年)八月十一日 / 冊子 835-836頁
島津忠恒が龍伯へ、富隈衆の制止を退けて上洛するのは島津家への忠節と龍伯への奉公のためであり、龍伯に背く意図はないと弁明する。忠孝を欠くとの叱責に驚き、家の長久を願って意見を申し上げたと述べた書状案。
(慶長七年)九月五日 / 冊子 845-846頁
島津惟新が忠恒へ、伊集院忠真成敗の事情を京都へ報告する使者として旅庵を立てる案を検討する。和久某や富隈衆が旅庵の過去の不首尾を理由に反対する一方、伊集院源次郎成敗の様子をよく知る旅庵が適任とも述べ、別人選も含め慎重に定めるよう進言した。
年月日未詳 / 冊子 947頁
島津義久譜は、慶長九年に義久が大隅国府に宅地を定めて普請を行い、十二月に富隈から新しい居所へ移ったと記す。
八月十一日 / 冊子 159頁
富隈衆中に強く引き留められながらも、島津家への忠節と龍伯への奉公のため上洛したのであり、龍伯に背いて自身の身上を図る意図はないと弁明した。誓紙案を見せた際に不忠不孝と叱責されたことに驚き、国事について意見を述べずにはいられない心中を理解してほしいと納得を求めた書状案。
(慶長六年比カ)八月五日 / 冊子 167~168頁
急用のため三原合人佐を派遣して事情を口上に託し、富隈と帖佐の留守衆へ相談して油断なく対応するよう命じた書状。
八月十一日 / 冊子 835頁
島津忠恒が龍伯へ差し上げる書状案。本文はNo.1681と同文であるため原本掲載では省略され、同文書を参照する旨だけが注記される。
慶長三年十月一日 / 冊子 254~255頁
『御譜雑抄』に収められた慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、部隊別の討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。
正月九日 / 冊子 23頁
勢田掃部入道の上京に際し、道中の伝馬・人足を十分に用意して便宜を図るよう、鹿児島・帖佐・富隈の留守居衆へ命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 33頁
近衛信輔が西国から帰洛する折、大隅富隈で催した和歌会の懐紙。「当座薄露」「寄鏡神祇」などの題で近衛信輔と島津家臣らが詠み、慶長元年七月六日の帰京出立時の歌も収める。公家と島津家中の文芸交流を示す和歌資料。
正月九日 / 冊子 30頁
正文が山田市郎兵衛家に伝わる、No.62と同文のため省略された書状。勢田掃部入道の上京に必要な伝馬・人足の用意を命じる内容である。
天福二年十二月廿八日 / 冊子 166頁
源篤家が富隈西限・東限等にある田地を代価を受けて売り渡した仮名売券。土地の境界と沽却を簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 858頁
豊臣秀吉は島津家当主の居城を大口に定めたが、当主は富隈へ移り、町田存松が大口城代を命じられた。存松は文禄四年に大口へ移って長年守備したという。 のちに石谷の市山一所、一之宮村・長羽村などを加増された経緯も記し、城代任命と知行褒賞を結び付ける。
年月日未詳 / 冊子 916頁
義久は帰国後、大隅国富隈に新たな宅地を定め、鹿児島を忠恒へ譲った。 家臣・領民を動員して土石工事を完成させ、富隈へ移住しようとした経緯を記し、島津家の本拠再編と忠恒への継承過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 920頁
本文はNo.1607の記事と同文として省略されている島津義久譜の記事。 義久が富隈に新居を構え、鹿児島を忠恒へ譲った本拠再編の記事を重出として収録したもので、具体的内容はNo.1607を参照する。
(慶長三年)十一月六日 / 冊子 277頁
島津竜伯義久が(慶長三年)十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。泗川防戦の大勝と父子自身の働きを祝い、老中・奉行衆の感状を送る。戦場に白狐・赤狐が現れたことを稲荷神の霊験とし、鹿児島・富隈・京都の稲荷へ礼と祈念を行ったと伝え、上方の命令に従って早急に帰朝するよう促す。
年月日未詳 / 冊子 354頁
島津義久が慶長四年二月に殿下から帰国の暇を得て、同月二十八日に摂津大坂を出帆し、三月初めに日向細島へ着船、同月十三日に大隅富隈の私宅へ到着したことを記す。帰途、日向の「とまり」で満開の桜を見て、遠路を急ぎつつも花の木の下に留まり見たいとの歌を詠んだ。
年月日未詳 / 冊子 364頁
本文はNo.664と同文のため省略されている。内容は、島津義久が慶長四年二月に帰国の暇を得て大坂を出帆し、日向細島を経て大隅富隈へ帰着した経過と、帰途に日向で満開の桜を見て詠んだ和歌を記すものである。
年月日未詳 / 冊子 371頁
慶長四年三月、島津豊久が中務大輔・侍従に任じられ、同月廿九日に佐土原へ帰着した。四月二日には富隈で龍伯に会い、幸侃誅殺を深く恨む忠真が庄内の十二外城を構え、兵と武器を集めていたため、和議に従わなければ太守が軍勢を発して討つとの密議を行い、佐土原へ帰ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 427頁
『児玉氏乳後利昌譜』が、慶長四年の庄内の乱で、島津義久が富隈から平田狩野介宗応に兵を率いさせ、成渡瀬の守備へ派遣したこと、児玉実相・新納忠陸・平田宗次・吉田清家らが備えたこと、忠恒の帰国後の親征と八月十七・十八日の使者・檄の往来を記す。
(慶長五年) / 冊子 495頁
島津義久が起請文の前書として、伊集院幸侃成敗後の三郎五郎の進退は上意に従うと誓い、古弾正忠の奉公一筋を理由に家が断絶しないよう願う。富隈・鹿児島・帖佐三か所で忠貞を尽くし、親子・兄弟・縁者・知音であっても背反に同意せず、異変があれば直ちに報告すると誓約する。
年月日未詳 / 冊子 526頁
三月十四日に伊集院忠真が富隈の島津義久邸へ降参し、翌十五日に義久・忠恒が庄内の都城へ入り凱歌を挙げたことを記す。十八日に軍勢を帰陣させ、二十日に義久が富隈へ、二十二日に忠恒が鹿児島へ戻り、忠真の降参を徳川家康へ報告して返書を受けた経過をまとめる。
(慶長五年)九月廿一日 / 冊子 583~584頁
伊勢貞成が大井七右衛門尉・酒匂式部少輔へ、奥様の下向に伴う御番衆として富隈の人数を留め置いたことを伝える。佐方の船手には水主を欠く船が多く世間体にも関わるため、両人に他の人数と同様の手配を頼み、有川助兵衛尉の手元にある二百石の米から百五十石分を渡すよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 587頁
十月三日、島津義弘(惟新)が大久保村を発して富隈へ到着し、直ちに登城して法印龍伯に謁したと記す。長年の別離を経て互いの無事を喜び、龍伯から懇ろな言葉と暇を受けたのち、船で帖佐城へ帰った。
十月八日 / 冊子 589頁
鎌田政近・比志島国貞が、豊後へ差し遣わす鉄砲衆について、富隈・鹿児島方・北郷殿・右馬頭殿などから出す人数を列記する。ほかに鹿児島から五人を加え、合計三十挺を早急に召し集めて豊後へ派遣するよう命じる。
(慶長五年)十一月十五日 / 冊子 615頁
島津義弘(惟新)が、白坂与竹・有馬次右衛門尉の帰着と、立花方の使者がもたらした情勢を忠恒に伝える。その内容は島津方に有利と見込まれ、事態の決着に関わるため、翌朝早く富隈へ赴いて談合するよう求める。伊勢兵部にも立花方の意向を聞かせて富隈へ向かわせるとし、強風時は陸路を使い油断しないよう戒める。
四月二日 / 冊子 757頁
島津義久(龍伯)が惟新に、国家の行末に関する返答を受ける以上、隠居の身でも急ぎ帰るべきだと述べる。鹿児島で相談する意向を示し、自身も時機を見て赴くので、富隈へ逐一知らせるよう求める。
四月四日 / 冊子 758-759頁
島津忠恒(家久)が惟新に、龍伯の書面を受け、上方使者を迎える宿を富隈に設け、準備は忠恒側で行うと報じる。念のため再度使者を送り、前夜下着した旅庵から情勢を詳しく聞く意向を伝える。
(慶長六年)四月六日 / 冊子 759頁
島津義久(龍伯)が惟新に、旅庵の下着で上方事情を聞けるだろうと述べる。和久甚兵衛を今回は富隈に泊められず、鹿児島逗留も不都合なら別の場所を選ぶよう求め、富隈宿泊は難しいと重ねて伝える。
(慶長六年)八月六日 / 冊子 772頁
島津義弘が島津忠恒に、談合のため富隈へ来るとの意向を喜び、風が強ければ義弘のもとへ直接来るよう伊地知主計助を介して伝える。面談して相談すべき事柄が多いため来訪を待つとした書状案。
慶長八年六月七日 / 冊子 897頁
伊勢貞成が、鹿児島・富隈・帖佐三方の公用以外の物資差押えを禁じ、廻船規定を超える押買いをさせず、違反者を拘束・報告するよう命じる。地下人への喧嘩・狼藉にも処罰を定めた三か条の申渡書。
十月朔日 / 冊子 910頁
島津惟新が忠恒へ、公方や諸方への進物一覧と上方からの書状を送る。喜入摂津守を使者に任じ、休復への使者も公方への使者と同時に上らせるよう調整し、富隈での談合や黒田長政への書状取次も指示した。
七月廿八日 / 冊子 113頁
樺山久高の覚書。普請、竹尻・板城戸、諸口番衆、弓・鉄炮、城屋敷、鹿屋周防介が担当する八木、富隈御蔵米、秋月殿の財部への移転、福島周辺の諸事など、領内の軍事・普請・配置・蔵米関係の懸案を箇条書きにする。
正月八日 / 冊子 115頁
京都へ申し上げた案件がほぼ不首尾に終わったため、五日以内に羽柴越中守へ使者を立てて将来の無事な調停を頼むよう勧め、富隈からではなく川東善左衛門尉を派遣するよう求めた書状。
二月六日 / 冊子 161頁
春雲を題に龍伯が詠んだ和歌と富隈の人々の詠草が届いたため、返歌なしでは済まないとして現地の者にも詠ませ、自作の『武士の心ひかるる梓弓―』を添えた。漢詩も加えて和韻を返すよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 202頁
源二郎が他国からの謀略書状を右馬頭へ届けて逆心を露見させたこと、鹿児島諏訪社前で龍伯に背く誓紙を作り帖佐では惟新の殺害を唱えたこと、惟新の富隈訪問前日に謀議したこと、少将書状を龍伯へ別様に説明したことなど、表裏ある行動を列挙した老臣覚書。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
十一月六日(年不詳) / 冊子 30頁
十一月六日(年不詳)、島津龍伯が又八郎・羽柴兵庫頭に、防戦の大勝と両人の高名を祝し、老中・奉行衆からの感状を送った書状。戦場への稲荷出現の報告を受け、『戦場野狐斬付死候事』という前代未聞の出来事を稲荷の霊験として、鹿児島・富隈・京都の稲荷へ礼と祈念を行ったと述べる。命令どおり早く引き取るよう伝える。
年月日未詳 / 冊子 17~19頁/原整理番号 5
本田市郎左衛門家の略系図。清寧天皇から親峯・親正・親満・親定へ続く系線を掲げ、善光を天竺の月蓋長者・聖徳太子の過去世の師とし、難波浦で得た阿弥陀如来を信濃へ奉送したとする善光寺如来縁起を詳記する。続いて薩州出水郡山門院の本田氏について、平氏下向時に近衛家へ参って藤原氏を称したとの伝承、親森(道観)以下の系譜を記し、親治の大隅西原での戦死、正親の高麗留守・出水衆頭・富隈での老名役、親貞の家督相続、加治木板井口の戦闘と日州高城での戦死記事へ続き、末尾を「以下略」とする。
天保5年7月24日 / 冊子 71~77頁/原整理番号 17-1
天保五年七月二十四日、伊地知季安が松崎采女貞悦の自撰系図を整理・書写した覚書と系図。原系図は貞悦が延宝四年九月から同五年十二月まで、山田聖栄の自記二冊をもとに作成し、延宝二年までの記事を収めたものと説明する。季安は横長の小冊をいったん解体して順番を付け、本来の形へ継ぎ直した。系図本文は輪の内違鷹羽紋を掲げ、清和天皇・貞純親王・源経基以下の清和源氏祖系から頼光・頼政らを経て松崎氏諸流へつなぐ。後半は島津元久上洛への供奉、島津忠昌の飫肥攻め、日向国福島・肥前国島原などでの戦死、婚姻、出家、没年・法名を記し、秀吉から召し出された快真大和尚ら僧侶の履歴も収める。末尾では文禄四年、島津義久の富隈移居に伴い、貞悦が阿多から浜市へ移され六十石を加増されたことを記す。