島津元久譜
年月日未詳 / 冊子 225頁
島津元久譜が、川北・宮崎・田嶋・木脇・川南・土持の諸氏や縣・岡富・財部の三勢力が元久へ帰服した後、元久が軍勢を率いて山東へ進み、伊東祐堯・久豊らと対陣したが、和議を受け入れ、久豊の長子虎寿丸の来謁後に薩摩へ帰陣した経過を記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 225頁
島津元久譜が、川北・宮崎・田嶋・木脇・川南・土持の諸氏や縣・岡富・財部の三勢力が元久へ帰服した後、元久が軍勢を率いて山東へ進み、伊東祐堯・久豊らと対陣したが、和議を受け入れ、久豊の長子虎寿丸の来謁後に薩摩へ帰陣した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 123頁
高知尾へ派遣された宮崎衆の田中筑前が帰還し、入田氏の薩摩方帰属は確実だと報告した島津義久譜の記事。これを受け、十一月二十四日に豊後方と対峙し、梅口・佐伯口から同時に薩摩軍を進発させる計画を記す。入田氏の帰属判断が豊後方面への二正面作戦へ直結したことが分かる。
弘安四年五月一日 / 冊子 308頁
異国警固の宮崎番役について、弘安四年二月二日から五月一日まで島津久時が比志嶋代河田右衛門尉を勤仕させたことを覆勘した文書。
弘安七年後四月廿一日 / 冊子 317頁
満家院内比志嶋分の宮崎石築地役五丈一尺四寸について、島津久時が比志嶋太郎へ勤仕させたことを覆勘した文書。
弘安八年五月一日 / 冊子 324頁
宮崎警固番役について、弘安八年正月一日から四月晦日まで勤仕を終えたことを証明した覆勘状。
応永廿五年十一月廿八日 / 冊子 310頁/原整理番号 146
沙弥得仏が、新御堂・宮崎八幡へ薩摩国山門院内の井貝居の田七段を寄進した寄進状。得仏は守久の法号と注され、田地名と宛先にも校注を伴う。
永仁元年九月晦日 / 冊子 376頁
笠崎の警固番役について、代官鶴丸が三箇月勤仕したことを島津忠宗が確認し、なお履行せよと命じた国分氏文書。
天保4年3月22日~4月27日(年次目録、月日本文) / 冊子 970~971頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2704
重豪公御譜中の記事。三月二十二日に奥平昌高の使者黒瀬市兵衛が下町会所へ、四月四日に松平美濃守斉溥の使者山内仁太夫ほか計三十四人が上町会所へ来館した。重豪葬送の日、両方の使者が福昌寺に香奠銀を献じて焼香し、斉興は各使者に銀十枚を贈って労をねぎらったと記す。使事の後は各々の本府へ帰った。四月十三日から二十七日まで福昌寺で中陰仏事を行い、初日は斉興が島津安藝忠喬、斉彬が島津啓之助忠剛を遣わして祭文を献じ焼香・拝礼し、斉宣も家老を遣わし白銀十枚を献じた。十五日夜の儀礼と宮崎成市の法筵への助力、十六日の諸有司、十七日の諸士・組与力による献祭文と木主への礼を記す。末尾には松平刑部大輔の代として土岐平太夫政守が焼香し、銀十枚を附して木主を拝したことが続く。来館・弔問、褒賞銀と供え、各代参者と法事の順序を分ける。後続の無番号附属祭文は別行として扱う。
年月日未詳 / 冊子 250~251頁/原整理番号 199の4
種子島久時口上覚の別紙副書。入江七郎右衛門・宮崎弥兵衛らの使者が到来したこと、殿下嶋の老衰と鹿児島への帰還、迎船を下すこと、上下十余人を当地から召し付けたことを記す。
建治三年正月廿七日 / 冊子 293頁
宮崎役所の築地役について、満家院内比志嶋・西俣・河田・前田など四か所の名分、計五丈壱尺肆寸を覆勘し、比志嶋太郎に勤仕させるよう命じた島津久時の覆勘状。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁
『西藩野史』所収の島津久経伝。母・相馬小次郎左衛門尉胤綱女との系譜、鎌倉奉仕、狩猟や宮崎津鎮守、所領・家督の経歴を記す。久経が歌道を好み、大府中橘諸兄らに和歌を学び、勅撰集・私撰集へ多数入集したこと、忠宗の歌とともに後世へ伝わったことを収録和歌と撰集名を挙げて述べる。
年月日未詳 / 冊子 317頁
島津久経が弘安七年閏四月二十一日に筑前州宮崎役所で卒し、享年六十一、法名道忍、浄光明寺殿としたことを記す短い伝記事。
永仁六年七月廿日 / 冊子 384~385頁
宮崎要害所の石築地について、入来院分の裏加佐・追切木俣・小松原崎・国塚・倉野・楠本など各区画の長さを丈尺寸で示した配分目録。
年月日未詳 / 冊子 646~647頁
建武三年正月、肝付八郎兼重・弟息金童丸らが日向国宮崎池内城へ入り、伊東方の浮田城・猪見城・高浮田城等を攻めた経過を記す『日向記』。土持宣栄・矢野小次郎らの攻防、放火、追撃、城郭占拠、浮田庄新兵衛尉の抵抗と敗退を具体的に述べる。
建武三年三月十五日 / 冊子 653頁
筑前国宮崎合戦で大平平次郎が忠功を尽くし、手負・討死があったことを賞し、神妙であるとして抽賞を約した足利直義感状。
応永廿五年十一月廿八日 / 冊子 307頁
沙弥得仏が、薩摩国山門院内の井具居田七段を新御堂宮崎八幡へ寄進した文書。
年月日未詳 / 冊子 327頁
油津周辺で伊東方の守備と輸送を遮断するため、島津久豊方が船団・騎兵を動員した戦闘記事。平田重宗・伊地知久安・大寺美作守らが海路と陸上の陣地を分担し、宮崎・油津間の船運を押さえながら敵の補給と援軍を妨げようとした攻防を記す。
天正十二年五月一日~二十一日 / 冊子 885~890頁
天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定版標題は『土井覚兼日記』だが、本文標柱は『上井日記』である。
天正十二年五月二十二日~二十九日 / 冊子 894~897頁
天正十二年五月二十二日から二十九日までの日記。折宇迫湊口の普請後に宮崎へ帰り、吉野牧の駒を拝領した。秋月種実から龍造寺との和睦仲介に関する弁明書状を受け、返書を作成したほか、築地上屋普請のため諸地頭を招集する命令、御頭役、山伏の護摩・入峯をめぐる紛議、上洛者の通行依頼などを記す。
天正十二年十月一日~晦日 / 冊子 942~951頁
天正十二年十月一日から月末までの日記。小代・隈部・辺春らの降伏と所領・質人を処理し、宇土・合志の諸将を饗応した。龍造寺・秋月との和睦と大友陣への対応を協議し、黒木援軍要請に対して使者による撤兵要求を選んだ。和睦成立後、諸軍は高瀬から八代へ移り、覚兼は佐敷・飯野を経て宮崎へ帰国し、各地で帰陣祝賀を受けた。
天正十二年十一月一日~晦日 / 冊子 951~956頁
天正十二年十一月一日から晦日までの日記。宮崎帰着後、名護八幡・瓜生野八幡・海江田伊勢の延引した祭礼、狩猟、参詣、茶湯や連歌を記した。豊後勢が十月二十八日に撤陣すると約したとの帰国僧の報告、鹿児島での談合や諸役徴収にも触れる。月末に鹿児島へ赴いて島津義久・義弘・歳久らの饗応に列し、有馬から届いた水鳥二十羽と南蛮犬を進上した。
天正十二年十二月一日~晦日 / 冊子 959~968頁
天正十二年十二月一日から晦日までの日記。義久・義弘・歳久らの鷹狩、秋月・龍造寺・彦山の使者と蔭涼軒の正式な拝謁・饗応、肥後諸氏の使者の進物を詳記する。中旬には新田宮再興、御船・隈庄方面の戦況、豊後勢の在陣を協議し、琉球渡海船へ印判を与えた。下旬は村田経定の赦免、年頭連歌、所領・鷹をめぐる相談を経て、加治木・宮内・財部を通り宮崎へ戻る年末の動向を記す。
明治7年3月19日鹿児島県庁 / 冊子 939頁/原整理番号 1190の4/整理ID 1190-4
地券発行に伴い、管内に他管轄の地所を持つ者は関係役所へ地券相渡しを願い出る。別紙の高・反別・帳面等に基づく印税を期限内に納め、地券方へ申し出るよう命じる。外案文は省略されている。
応永20年4月29日 / 冊子 423頁/原整理番号 26
日向国宮崎郡後丹跡について、御下文の旨に任せて領知するよう椛山安藝守に命じる。応永二十年四月二十九日付で島津久豊の御判がある。
永享8年8月3日 / 冊子 439~440頁/原整理番号 68
日向国臼杵院の上杉左馬助跡、宮崎郡内の戸次丹後守跡などを樺山美濃守に宛行い、領知を認める。永享八年八月三日付で陸奥守御判を据える。
目録年月日記載なし / 冊子 444頁/原整理番号 82
文安三年六月二十日に宮崎城を攻め落とし、同日に石塚城も落とし、同月二十九日に細江城を攻略したと記す。
目録年月日記載なし / 冊子 444~445頁/原整理番号 83
宮崎の支配が藤北殿から伊東・縣殿へ移った経緯を述べ、佐土原と同心して文安三年六月二十日に宮崎を攻め落とし、二十三日に細江城へ陣取り、二十九日に攻略したと記す。
明治8年6月29日 / 冊子 955~956頁/原整理番号 1225の1/整理ID 1225-1
薩摩・鹿児島・宮崎管内の士族家禄は、旧藩以来、禄米を基準に給付され、荒蕪地開墾や家禄売買など独自の慣行がある。廃藩後の現米相場・券書・印税・売買手続を全国制度と整合させるため、家禄売買券書の交付や禁止範囲、旧券書の交換方法について大蔵卿へ照会する。
弘安九年十月日 / 冊子 326頁
蒙古用心のため新田八幡宮の洲崎石築地用途を配分した支配状。勢方六町二段廿中に分銭七百十四文、益丸十三町五段中に分銭一貫五百四十文など、郷・名ごとの負担を記す。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
正応二年八月廿三日 / 冊子 173~174頁/原整理番号 76
『上井覚兼日記』三月三~八日の田野御狩の記事。行司との日程調整を経て、覚兼は周辺諸所に人数を出すよう伝え、六日に田野で準備した。七日は吉利・福永・樺山などの衆と狩り、猪鹿十二、三頭を得た。八日は海江田への帰路に鹿倉で再び狩り、鹿五、六頭を得た。狩人は七日に約千人、八日に約五百人と記す。
年月日未詳 / 冊子 221~222頁/原整理番号 157
『上井覚兼日記』天正十二年の記事。春山野の馬を藩主の所望に応じて牽き出し進上したこと、吉野の取駒をめぐる連絡や贈答を記す。馬の献上には使者を介した申し入れと返答が伴ったことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 324頁
道忍公(島津忠宗)の官途・法名等を掲げ、弘安八年の宮崎警固番役の勤仕、薬寿丸による神代郷・伊作庄等の領知など、同年の関係事項を年代順に記した『島津国史』記事。
建武三年三月五日 / 冊子 652頁
式部三郎忠能が宮崎合戦で軍忠を尽くし、異子細がないことを証して披露を求めた島津道鑑挙状。
建武三年十一月廿一日 / 冊子 673~674頁
大隅国弥寝孫四郎重種が、伊東藤内左衛門尉祐広・肝付八郎兼重以下の凶徒追討のため日向国へ参陣した着到状。大田城・宮崎城・南郷等で味方と合戦し、家人の被疵・討死を伴いながら軍忠を尽くしたとして、披露・証判を求める。
応安二年八月日 / 冊子 53頁
樺山資久(明見・島津安芸入道)が、多年の軍忠・奉公によって宛行われた日向国臼杵院・宮崎郡、肥後国山鹿庄・尻無村などについて、御下文の旨に任せた御教書の発給を求めた申状。
応安八年六月七日 / 冊子 80頁
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道へ、島津安芸入道明見(樺山資久)の所領回復を依頼した書状。肥後国山鹿庄内の筑後守頼尚跡、同国尻無村、日向国宮崎郡内の戸次丹後守跡地頭職を対象に挙げる。京都へ吹挙して正式な沙汰を得るよう求め、遠隔所領の権利確認を働き掛ける。
応永七年三月二日 / 冊子 193頁
島津元久が島津美濃守へ、日向国臼杵院内の左馬助跡と、同国宮崎郡内の戸次丹後守跡について、御下文の旨に任せて領知するよう命じた書下。
応永十八年十月九日 / 冊子 253頁
樺山道春が、日向国宮崎郡内の戸次丹後守跡三分一、樺山北方・南方の田島、仲牟礼・浦牧野の村など四か所を譲与し、教宗の下知に従って諸役を勤めるよう定めた譲状。
応永十八年十月九日 / 冊子 253~254頁
樺山道春が、幕府・探題・一族惣領の文書と所領を残らず子教宗へ譲り、日向国宮崎郡内戸次丹後守跡三分一だけは眞久へ譲るとして、両者に談合を求めた譲状。
応永廿年四月廿九日 / 冊子 279頁
島津久豊が樺山安藝守に、日向国宮崎郡の戸次丹後守旧跡について、御下文の旨に任せて領知するよう安堵した文書。
永享八年八月三日 / 冊子 375頁
島津忠国が樺山美濃守へ、日向国臼杵院内の旧領、宮崎郡内戸次丹後守跡、大隅国始良西俣の地頭代官職について、御下文どおり領知することを認めた安堵状。
(天正六年)正月廿日 / 冊子 537頁
島津義久が、正月十七日に宮崎方面で敵数人を討ち捕らえ、分捕りも多かったとの注進を喜ぶ。境目の警固と長期在番の労をねぎらい、今後も吉報を知らせるよう求める。本文には編年の誤りであろうとの注記がある。
天正六年十月中旬 / 冊子 553頁
大友父子が高城を包囲すると、北郷時久は子の相久・忠虎に数千兵を率いさせ先鋒として鬼山を経て宮崎城へ進ませた。城内の内通者が伊東勘解由左衛門に敵兵を招き入れる計画を知らせたため、都於郡の河原田道場へ走ってこれを捕らえ、北郷久盛が奮戦して大敵を退け城を守った。
天正十二年二月十四日 / 冊子 842頁
天正十二年二月十四日、日向宮崎城にいた上井覚兼のもとへ善哉坊真連房頼俊が訪れ、前年に公方家の上使として下向した布施治部少輔からの書付を示した記事。羽柴秀吉の尽力で足利義昭の当春帰洛が確実となったため、島津に一層の協力を求め、年内に春日局を先に上洛させたと伝える。
天正十二年八月十九日 / 冊子 923頁
北郷一雲時久が本田親貞へ、肥後出陣の件を承知したと答え、変事があれば改めて注進すること、宮崎へも直ちに書状の趣旨を伝えたことを報告した。
年月日未詳 / 冊子 69頁
天正十三年七月十三日以降、吉利下総守らが上井覚兼へ伝えた諸方の軍事情報をまとめた『島津義久譜』の記事。羽柴筑前守の軍勢が四国で戦い、七、八百人を失って敗れたとの風聞、甲斐宗運が病死したとの情報が届くが、謀略の可能性も疑っている。続いて島津図書頭忠長・伊集院忠棟らが宮崎・高知尾方面の作戦と兵器輸送を協議し、花山城をめぐって阿蘇・甲斐方の大軍と交戦した経過を記す。未確認情報を吟味しながら救援・守城策を組み立てる島津方の情報活動が分かる。
年月日未詳 / 冊子 70~71頁
天正十三年八月、宮崎・高知尾方面から相次いで届いた軍報と島津方の対応を記す。島津家久らが兵器・兵員を送り、花山城をめぐって甲斐宗運の子相模守が率いる阿蘇方の大軍と交戦した。敵味方に多数の死者を出し、城の包囲、救援、撤兵が繰り返されるなか、伊集院忠棟らが上井覚兼へ戦況を伝え、島津忠長らが守城・増援策を協議する。情報の真偽を確かめながら日向・肥後境目の防衛を進めた過程を具体的に追える。
年月日未詳 / 冊子 137頁
天正十三年十二月、島津家久・上井伊勢守らが宮崎方面へ進み、高知尾からの情報を受けて豊後勢と戦った経過を記す島津義久譜。敵兵を多数討ち取る一方、退路や補給に苦しみ、家久が高知尾へ援兵・兵糧を求め、入田氏にも働き掛けた。豊後方面の前線での苦戦と補給要請を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 143頁
天正十四年二月十六日、豊後の入田宗和が宮崎へ使者を送り、高知尾境の情勢と志賀道益の動きを報告した島津義久譜の記事。志賀方が大友方の拠点・所領を奪ったのち入田氏との盟約へ傾き、豊後国内へ進出しやすくなったと伝える。入田氏の帰属が豊後侵攻の足掛かりとして評価されたことが分かる軍情報である。