島津道鑑譲状
延文四年四月五日 / 冊子 12~13頁
島津道鑑(貞久)が京女子へ、大隅国寄郡内西俣村を譲り、京女子の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
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延文四年四月五日 / 冊子 12~13頁
島津道鑑(貞久)が京女子へ、大隅国寄郡内西俣村を譲り、京女子の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 718頁
「光久公御譜中」の系譜に、光久・忠朗・久直と並ぶ女子について、元和五年十月二十日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、寛永十一年八月十八日に十六歳で早世したと記す。島津光久本人の出生記事ではない。
延文四年四月五日 / 冊子 13頁
島津道鑑(貞久)が女子祖鑑房へ、大隅国本庄内岩河村南方を譲り、祖鑑房の一期後は氏久へ返付すると定めた譲状。
建徳二年十月十五日 / 冊子 58~59頁
渋谷重門が死後の家政と所領処分を定めた置文。後家・帯刀左衛門尉への扶持、虎五郎丸による家の取り計らい、薗野・内山などの知行を指示し、長王・虎王・くり犬ら女子にも所領を配分して、親族間の相続と扶養の秩序を整える。
年月日未詳 / 冊子 247頁
島津元久と仲翁和尚を中心に、福昌寺住持や女子らの系譜・年齢・没年などを図示した略系図。人物ごとの注記を系図上の配置どおり保持する。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
年月日未詳 / 冊子 677頁
島津光久の家族関係として忠朗・久直・女子を掲げ、女子は元和四年九月十三日に忠朗と同腹の母から生まれ、寛永十四年三月二十四日に二十歳で早世したと記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 187頁
島津光久の女子が寛永八年正月六日に生まれ、ほどなく死亡したことを記す光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 269~270頁
寛永九年五月十三日、島津光久の女子が誕生したこと、母は家村重治の女で、後に入来院石見重頼の室となり、承応二年十一月二十日に早世したことを記す光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 358頁
島津光久譜の記事。光久の子女の系譜中、寛永十年三月十二日に女子が誕生し、ほどなく夭亡したことと、その母について記す。
貞治二年四月十日 / 冊子 266頁/原整理番号 39
島津道鑑が祢々女子分として薩摩国鹿児島郡中村・郡本両村の郡司職を譲り、一期の後は氏久が知行するよう定めた譲状。
永和四年二月廿二日 / 冊子 115~116頁
武光心賢が新兵衛尉兼我に、薩摩国高城郡本方得名の惣領職・弁済使職、宮里郷の田地園、薩摩郡別符前田地四段などの所領・所職を証文とともに譲り、永代知行と女子・後家分の後日の継承を定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 560頁
村田肥前守経房を中心に、太守立久公の簾中となった女子や経安ら、村田氏の系譜関係を図示した系図。
年月日未詳 / 冊子 285頁
島津忠宗の譜中記事。久長について、伊作と号し、初名を忠長、通称・官途を彦三郎・左衛門尉・下野守・大隅守としたことを記し、子孫は別紙に記すとする。女子の記載もある。
文化4年12月6日(朱年注) / 冊子 288~289頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0918
琉球国王からの尊書を拝見し、当春御女子が出生して於都殿と名を進められたことへの祝儀を隠居様へ紙上で述べられた件を、江府へ到着後披露した旨を伝える。12月6日、嶋津将監・頴娃信濃連署、実名判の表示。次頁右端に讀谷山王子・三司官の宛名と実名判表示が続く。文化4年の朱年注があり、出典は重豪公御譜中、写正文在琉球国司。本文は御女子出生と命名への国王尊書・紙上祝儀を伝える返書で、女子の父を斉宣と明記する文言や贈品の数量はない。
文化5年戊辰10月6日生、文化8年辛未正月8日死去(系譜本文) / 冊子 306頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0965
大信公御子、女子富姫を掲げる系譜抄。文化5年戊辰10月6日、江府で生まれ、母は松平藤十郎の家臣谷周右衛門政相の女とする。八年辛未正月8日に死去し、法号は麗岱院殿紅露雪顔童女、墓は惠燈院・大圓寺に建つと記す。八年の年記は、文化5年から続く記事の文化8年と読む。父の呼称は抄の大信公を保持し、母の家臣関係、出生地、死亡年次と法号・墓所を分けて採録する。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 358頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1116
全上。国王様の尊書を拝見し、去歳に女子が誕生して富姫と名付けられたことへの、大御隠居様宛の祝意を申し上げた件を述べる。富姫には重豪女の注。江府へ届き披露したと返す。11月9日、四署の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化7年朱注。去歳の誕生と現在の返書日を分け、富姫の掲載名を別の出生記事の名に黙って替えない。贈品の具体品名・数量は記されず補わない。
文化11年12月15日(朱年注) / 冊子 449~450頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1396
全上。国王の尊書を拝見し、去歳御隠居の女子が出生し閑姫様と称することへの大御隠居への祝儀について、紙面の趣旨が江府へ到来したので披露したと返す。文化11年朱注、12月15日、第一頁新納内蔵署から次頁上段の嶋津安房・町田監物・川上右近各實名判表示と讀谷山王子・三司官宛へ連結する。本書は紙面之趣の披露で、贈品名・数量、使者名、満悦の思召は独立に記載されず補わない。1395は斉宣女注を伴う閑姫縁組祝儀、本書は御隠居女子出生という関係表示なので、同名を理由に同一人物へ強制統一せず原関係を保持する。
明治2年三月24日知政所、出産は当日未上刻 / 冊子 654頁/原整理番号 845の1/整理ID 845-1
通達留。御前が今未上刻に出産し女子が誕生、格別に健やかであると伝える。一門方、諸大身分その他任職の者、諸士から座附まで、各席で相謁して祝儀を申し上げるよう命じ、向々へ周知するよう求める。明治二年己三月廿四日、知政所。健康はこの時点の通知の表現とし、後続の容体悪化・逝去の通知と分ける。母子の姓名や出生時刻の現代換算、祝儀実施人数は補わない。
辛未10月鹿児島県庁 / 冊子 849頁/原整理番号 1071の1/整理ID 1071-1
人間交際と教化の基礎として学問を広く奨励し、女子学校も設置する。男女とも教育を受け、身分・職業を問わず学問に努めるよう説き、希望者は本学校へ願い出れば入学を許可する。辛未十月鹿児島県庁。
元和元年 / 冊子 206頁/原整理番号 70
祢寝山城坊の女子から亀山又兵衛妻へ至る関係と、岡村伊織家の由緒を記す系図・由緒書。女子は近衛信輔公の側に召し置かれ、上京に供奉したのち、岡村伊織との縁組を命じられたとする。伊織は元和元年に豊臣秀頼方へ味方し、落城後は牢人として籠居したが、のち松平下総守に召し仕えた。伊織の子は十六歳の時、国許にいた母を見舞うため岡村新左衛門を伴って下り、亀山又兵衛宅に滞在した。その後上方へ戻ったところ父伊織が死去したため、母を介抱する目的で再び国へ下って居住し、札改めの際には亀山家の預りとして親類札に登録されたという。系線には岡村新左衛門―岡村市兵衛も掲げる。
年月日未詳 / 冊子 358~359頁
島津久雄譜の記事。忠将流系図として、久雄が寛永十年三月四日に生まれたこと、母、幼少で父を失ったのち将軍徳川家光の命により父の遺領を安堵され、江戸城で拝謁して刀を献じたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 359頁
島津久雄譜の記事。忠興流系図として、久雄が寛永十年三月二十一日に佐土原で生まれ、幼名・官途と母を記し、寛永十四年に将軍家光の命で父忠興の遺跡を相続したことを述べる。
文化6年己巳11月21日生・文久2年壬戌5月16日没 / 冊子 337頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1048
大信公御子・女子の見出し、寿姫・孝姫・柔正院と掲げる。文化6年己巳11月21日江府に生まれ、母は松平藤十郎家臣谷周右衛門政相の女。松平越中守定和の夫人となり、夫には初奥州白河城主・後勢州桑名城主との注。文久2年壬戌5月16日死去、法号は柔正院殿通響端相慈好大姉と記す。出生・母の関係、夫と城主移動、死去日・法号を採録し、次1049の近江守表記とは出典別に保つ。御子の見出しは大信公、1049は重豪。後出1246は大信公に島津重豪の注を付すので、見出しは呼称差として保持する。
十一月十八日 / 冊子 216頁/原整理番号 148
『御当家由来』からの抜書。島津家が日向国の島津荘にいた時代の伝承を述べ、薩摩へ下向した後、山門院の地や瀬崎野の牧と結び付く経緯を記す。古い牧の由来を説明するために採られた記事。
弘安五年九月日 / 冊子 313頁
正八幡宮領薩摩郡万得内河原田について、親父の譲状に基づく枝名女子の相伝知行を認め、万雑公事・臨時役を勤める条件で後日の違乱を禁じた正八幡宮司尊重の安堵状。
年月日未詳 / 冊子 655頁
建武三年三月廿六日、足利尊氏が禰寝郡司と別府女子代へ、肝付兼重以下の凶徒追討に関する軍勢催促状を各一通与えたことを記す伴氏譜の記事。
建武三年三月廿六日 / 冊子 656頁
新田義貞与党追討の院宣を受け、肝付兼重以下の凶徒が横城郭に籠るため島津道鑑を派遣したとして、別府女子代に軍忠を尽くすよう命じた足利尊氏軍勢催促状。
康永三年二月三日 / 冊子 757頁
渋谷重棟が女子平氏と孫子重興らへ、薩摩国入来院内の所領、肥前国佐嘉下領・三根西郷、筑前国の屋敷田畠などを配分し、子孫への相伝、奉公、違乱停止を定めた譲状。
寛永十八年二月廿四日 / 冊子 149~150頁
島津光久が留守中の火災対応と江戸への注進方法を定めた条書。火災時には門外へ人を出さず、屋根に見張りを置き、延焼が近づけば家財を搬出すること、奥方では混乱の有無に応じて女子衆を整然と避難させることを命じる。江戸の様子は年六度ほど報告し、将軍からの命令や緊急の注進は随時伝え、城内で誕生があればその夜から急報する一方、未確定の雑説は報告せず、改易など落着した事実に限るよう定め、新納右衛門佐久詮と相談して処理させている。
年月日未詳 / 冊子 369~370頁
出典見出し「綱久公御譜中」の系譜記事。綱久の子女として女子三人と久統を掲げる。久統はのち久定と称し、又作次郎・左衛門と名乗った。正保元年十二月二十二日生まれで、母については島津美作久憲室と同母と記す。家臣北郷式部大輔久直の後嗣となり、寛文二年七月五日に早世した。
年月日未詳 / 冊子 243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0508
島津綱久の女子が承応三年七月十八日に生まれ、のち若狭小浜城主酒井忠隆の室となり、天和二年十二月十二日に江戸で二十九歳で没したことを記す記事。
元禄十一年正月十七日 / 冊子 55頁/整理ID 178
綱貴公御子の女子として於莵・於榮の名を掲げ、元禄十一年正月十七日に武州芝第で、江田氏を母に出生したと記す系譜記事。松平飛騨守定英に嫁ぎ、一男を生んだ後に離別した。同一女子の別名列として扱い、二人の女子や実際の兎の記述とはしない。
元禄十二年九月二十一日 / 冊子 160頁/整理ID 561
島津綱貴が松平修理大夫へ、先月二十四日に女子が誕生し七夜の祝いまで首尾よく済んだとの知らせを喜び、祝儀として二種・一樽を進めた書状。女子をおみつと名付けたことも承知したとする。傍注は満君、元禄十二年八月二十四日の武州高輪誕生、後の近衛内大臣家久簾中という経歴を記す。
〈寛延四年〉七月十日以降 / 冊子 313頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0925
寛延四年七月十日、上使若年寄小出信濃守英智が江戸芝邸へ来て、有徳院吉宗の遺物脇刀を継豊と重年へ各一腰賜った記事。継豊には尻懸則長作、長八寸三分半、護摩梵字、銘なし、代金二十枚、重年には信國作、長八寸七分半、剣・三鈷・梵字などの装飾、代金二十枚という元注が付く。両者は薩摩にいたため、島津加賀守忠雅が代わって上使を迎え、大書院で上旨を承り、薩摩で二刀を拝戴して謝恩する旨を上使へ述べた。忠雅は馬廻川上喜藤太親毗、新番荒武蔵右衛門祐壽、軽士・歩卒を遣わして刀を護送させ、一行は七月十六日に江戸を発ち、八月十三日に薩府へ着いた。二十一日に継豊が恩賜の宝刀を謹んで拝戴した。拝戴の日が延びたのは、継豊の女子が同月十一日に死去したためという注がある。九月二十六日にその報告が江戸へ届き、忠雅が継豊に代わって執政各位と上使英智の邸で謝礼し、番頭菱刈孫兵衛實詮も若年寄各位の邸で謝礼した。
〈寛延四年〉七月十日以降 / 冊子 313~314頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0926
七月十日、上使若年寄小出信濃守英智が芝邸へ来て、有徳院吉宗の遺物脇刀一腰を重年へ賜った記事。信國作、長八寸七分半、剣・三鈷・梵字などの装飾、代金二十枚の元注が付く。継豊には尻懸則長作、長八寸三分半、護摩梵字、銘なし、代金二十枚の脇刀一腰と九十賀和歌御手鑑一帖、菊姫には同じ手鑑一帖を賜った。島津加賀守忠雅が重年・継豊に代わって上使を接待し、大書院で上旨を承った。馬廻川上喜藤太親毗、新番荒武蔵右衛門祐壽、歩士・軽卒を遣わして刀を護送させ、一行は七月十六日に江戸を発ち、東海・山陽・西海路を経て八月十三日に薩府へ着いた。九月二日に重年が恩賜の宝刀を拝戴した。延期の理由は継豊の女子が八月十一日に死去したためと注記する。江戸では忠雅が重年に代わり、十月四日に執政各位と上使英智の邸で謝礼し、同日、家老市来左中政方も若年寄各位の邸で謝礼した。
明和八年九月二十五日 / 冊子 295頁/原整理番号 789/整理ID 789
国許で妾腹に出生した女子を来年中に出府させる予定なので、聞き置くよう届ける。九月二十五日付、年は明和八年の朱注、署名表示は御名で、宛所はない。写で、控の正文は家老座にある。
明和九年九月十一日 / 冊子 331~332頁/原整理番号 928/整理ID 928
芳翰を披見し、去る年に女子が出生した祝儀として名護按司を差し渡され、太刀・馬代黄金十両と目録のとおりの品を贈られたことを、入念で過分であると伝え、恐惶不宣と結ぶ。九月十一日付、年は明和九年の朱注、中将重豪の御判を備え、謹上中山王と宛てる。
安永八年十一月(本文今茲冬十一月・目録年記) / 冊子 586~587頁/原整理番号 1650/整理ID 1650
重豪公御譜中の記事。揖宿郡指宿郷拾貳町村の浦人兵右衛門に、佐左衛門・善藏・兵左衛門の三人の男子と四人の女子があり、皆が力を尽くして父母に仕え、佐左衛門の妻もよく従って奉仕したと記す。父は老いて病み、手足が不仁であったため、出入りや起居では互いに助け、代わる代わる抱き支えた。指宿郷には温泉があり、背負ったり肩輿に乗せたりして入浴させたという。兵右衛門の子孫は男女十六人に及び、皆がその気風を習って和睦し、郷党も孝順を称えた。今冬十一月、官に命じて佐左衛門夫妻へ廩米十五苞を与え、善藏・兵左衛門と女子四人には各々青銅二千を与えて賞したとする。青銅の数量単位は原文に「貳千匹」と記す。米十五苞は夫妻に対する記載であり、一人ずつ十五苞へ増やさない。結尾の「賞之焉」は次頁冒頭に続く。
享和3年7月(本文・付札) / 冊子 217~218頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0705
白木御文書六番箱94号。御子様方を御家中へ養子又は縁組として入れる際の持参高に、これまで規定がなかったので、以後の基準を定め帳面へ記録するよう命じる。相手の持高5,000石以上なら持参高を要さない。ただし女子が5,000石以上の家へ入輿する場合は300石を持ち越す。持高3,000石以上なら300石、1,000石以上なら500石、1,000石以下なら700石とする。養子・縁組とも本人一世限りの持参高を定めたと記す。七月・市正署。次頁の包紙はこの養子縁与時の一世持参高を定めた御書付1通とし、94の朱注を伴う。持高の区分、女子の例外、持参高、一世限りという条件を分ける。
文化4年3月5日出生、文化12年7月8日斉興養子(系譜本文) / 冊子 273頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0889
御系図中、斉興・男女十三人の表示に続き女子於都・郁姫を掲げる。文化4年丁卯3月5日生、母は青木盛旻候補の女、文化12年乙亥7月8日に斉興が養って子としたとする。出生と後年の養子を分け、通知書の作成日とは扱わない。母の父の名は同系譜の字形を保持して候補とし、ほかの母附表記と無断統一しない。
文化5年戊辰7月26日生・同年12月肝付氏へ入、文化12年乙亥11月15日早世(系譜) / 冊子 304頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0960
御系図中、斉興・男女14人の表示に続いて女子於寶を掲げる。文化5年戊辰7月26日生、母は青木盛晏の女。同年、肝付帯刀兼般の嫡子肝付米鶴との婚姻を命じて約婚し、12月に肝付氏へ入ったと記す。文化12年乙亥11月15日に早世し、法名は寶雲幻真。出生・母の出自・同年の約婚と肝付氏入り・後年早世を順に分ける。斉興女子の系譜表示を採録するが、この抄だけから養子事情や婚礼実行を補わない。母の父の名は当該系譜の盛晏を保持し、別の女子系譜の名候補と機械的に統一しない。
文化8年辛未4月8日実出生。対外日注文化10年11月7日、天保13年4月晦日没 / 冊子 366頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1140
御系図、斉興公御子。子女の並びに女子・斉彬・女子・斉敏を掲げ、斉敏に初久寧、治五郎、文之助、伊豫守の名乗りを付す。文化8年辛未4月8日生と本文に実生日を記す一方、分注は文化10年癸酉11月7日を生辰としていたが今その実を記すとする。母は斉彬と同母。松平上総介斉政(池田氏備前国注)の養子となる。天保13年壬寅4月晦日卒、法名雄國院殿威山常光大居士。系図の子女列と斉敏の個別説明、実生日・対外日・没日を分け、文化10年の生日を実出生へ転用しない。
文化10年閏11月廿七日(本文)。包紙閏11月16日・同酉12月廿七日伝達を併記 / 冊子 431~432頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1343
白木御文書7番箱70番。先月16日夜御前様安産・女子出生という表向報告に対し、内実は同月4日生と述べる。産穢の届が必要だが竹千代七夜祝儀6日の献上等に差支えがあるため出生を極内々とし、一件が済んでから届けるよう留守居が吟味し伺って命じられたという。去る未8月4日生の治五郎(斉敏注)はこれまで届をせず内分の取扱だったため、今回女子出生の場に治五郎出生の筋として御二男の届をするよう命じる。出生直後の届には近例がなく、何歳かなどを記す御届書には名が記される一方、表向七夜前の届では名を加え難いとして、男子の出生届を産穢届に兼帯する相談を記す(後段の御二/三男表現は留保)。さらに吟味し、先月16日夜出生の筋として17日に届を済ませ、女子出生の思召をもって治五郎出生の届とする取扱を後年間違えぬよう記録奉行へ伝えるべきと内用で知らせる。文化10年閏11月廿七日、鎌田典膳署・政輿注、三宛の久芳・久泰・久備注。包紙は閏11月16日の女子出生と内実4日生、治五郎去未8月4日生を併記し、女子の場に出生の筋として届け済の書付写1通とする。文化10年酉12月廿七日右近から橋口(今彦候補)へ渡し7番箱納置、70番注。本書の先月と包紙閏11月16日は強制統一せず、1322実出生8年4月8日との月日差も保持する。
文化12年6月26日(後に23日を忌日とする注)・6月28日葬・10月2日遺髪葬 / 冊子 475頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1442
斉宣公御譜中。文化12年乙亥六月二十六日に斉宣後夫人丹羽氏が江府白銀邸に病死し、後に二十三日を忌日としたとの注、享年三十四、法号蓮亭院殿香顔玉容大姉を記す。氏の注はミチ・弥宮姫、陸奥二本松城主丹羽加賀守長祥妹。二十八日に白銀瑞聖寺へ葬り木主を置き、冬十月二日、遺髪を薩府寿国寺へ帰葬して木主を置いた。慈光堂と翌年十月晦日の葬に関する細注もある。続く記事は丹羽氏が和歌を好み、鳥丸家伝の教訓書を左に載せるとし、自書短冊と没後に女子苗姫が撫した丹羽氏の詠を集めた三巻・二千五百五十五首を記す。長崎義護が序し、伊木常誠が跋をした。按注は鳥丸家教訓書・長崎甚七の議、歌集序に学んだ先を飛鳥井家父子とする記載について言及する。死去日は後の忌日と区別し、本文の斉宣を目録の斉興へ変えない。教訓書や序跋の本文は後続資料に譲り、この文書の範囲を越えて転記しない。
辛未4月知政所 / 冊子 807~808頁/原整理番号 1029の1/整理ID 1029-1
従四位の出発に伴う御子の延引、女子の誕生と関係者の手配、従四位の帰着予定、ならびに出生した女子の命名と清姫に関する奉承事項を、複数の達として周知する。辛未四月知政所。
宝暦9年2月28日、明和7年5月23日、天明3年10月、文化14年3月29日、文政元年8月25日 / 冊子 261頁/原整理番号 105
別紙として上原尚清(源左衛門)から尚伝・尚続・尚方へ至る四代の系線と、家督・別立・隠居の記事をまとめた系図。尚伝は源蔵・源右衛門を称し、宝暦九年二月二十八日に家督を継ぎ、町田主計が奏者を務めた。女子のほか、原注で「ママ」とする尚正を掲げ、源左衛門二男の源之丞らしい者が別立した形跡はあるが年号不明で、当時の善助の祖父かと記す。尚続は源太郎・源右衛門を称し、明和七年五月二十三日に継目御礼と初御目見を願ったものの、御礼を命じられた月日は不明とする。尚方は市太郎を称して天明三年十月に別立し、のち源蔵・源左衛門を称し、文化十四年三月二十九日の隠居・家督記事と、文政元年八月二十五日に小森中太兵衛を奏者として家督御礼を命じられた記事を伴う。
嘉暦4年7月 / 冊子 333頁/原整理番号 130-9
嘉暦四年七月、橋口次郎入道の女子に代わって大蔵氏代道円が提出した重申状。薩摩国の河上平次郎入道の跡を継ぐ又次郎入道が、数度の召文に背いて参上・陳弁しないため、河上名内田薗等について裁許を受けたいと重ねて訴える。証拠として御教書案三通を副進し、うち二通は先に提出済みであること、又次郎入道の召文違背は極まっているため、定法に従って成敗するよう求める。
永正3年(平山村観音銘の傍注) / 冊子 339~340頁/原整理番号 130-24
川上忠塞家の系譜・姻戚・地頭歴を記した家譜抄。永正三年の平山村観音銘に当村地頭の河上掃部助栄久・同又八郎義久が見えることを掲げ、川上信濃守の女子七人が川上・町田・喜入・石谷・市来各家などへ嫁いだ関係、町田伊賀守の孫にあたる町田出羽守存松斎や河上山城守・舟伴入道との続柄を詳記する。また川上信濃守が串木野・川辺・市来の順に地頭を務め、男子馬之允、帖佐宗善寺の僧、又左衛門、又六(のち将監)へ系統が続いたとし、十一代家林の法名を道舜と記す。『家わけ三』町田文書一六六号と同文と注記する。
応安7年12月5日 / 冊子 358頁/原整理番号 142
応安七年十二月五日、惟宗久成が、原文で『とよまさり』と記される相手へ、薩摩国鹿児島郡内の竹之村原口門を譲与した仮名書の譲状。先父の譲状に従って他の妨げなく知行するよう定める一方、この所領内には女子どもへ譲った部分もあると留保し、公事は分限に従って勤仕させる。『旧記雑録前編二』二七四号文書と同一文書と注記される。