『九州記』天正十二年三月島原合戦記事抄并猿渡氏考証
天正十二年三月 / 冊子 267~268頁/原整理番号 24の18
『九州記』巻十二から天正十二年三月の島原合戦を抄出し、山手の将鍋島加賀守直茂と薩軍猿渡越中守の交戦、龍造寺隆信戦死後の動向を記す。家伝・系図と照合して越中の子猿渡与次郎の戦死を検討し、与次郎を討った鍋島平五郎の子孫が鍋島主水を称したとの伝承を考証する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正十二年三月 / 冊子 267~268頁/原整理番号 24の18
『九州記』巻十二から天正十二年三月の島原合戦を抄出し、山手の将鍋島加賀守直茂と薩軍猿渡越中守の交戦、龍造寺隆信戦死後の動向を記す。家伝・系図と照合して越中の子猿渡与次郎の戦死を検討し、与次郎を討った鍋島平五郎の子孫が鍋島主水を称したとの伝承を考証する。
天正十二年四月十四日 / 冊子 268~269頁/原整理番号 24の19
『上井覚兼日記』天正十二年四月十四日条から、平田新四郎と猿渡越中守が船中を訪れて閑談した記事を抄出する。これにより越中が四月まで島原に在陣したことを確認し、島津家久以下の島原渡海人数を日記の記載と照合して、越中の参陣を考証する。
天正十二年八月二十六日条ほか / 冊子 269~270頁/原整理番号 24の20
『上井覚兼日記』天正十二年八月二十六日条以下から、鹿児島より帰来した飛脚が親貞・忠棟の書状をもたらし、出陣や秋月方との交渉を相談した記事を抄出する。軍談や諸所番賦に猿渡越中守がたびたび加わり、主要用人衆に次ぐ四人の一人として扱われたことを考証する。
天正十二年十月八日 / 冊子 270頁/原整理番号 24の21
『上井覚兼日記』天正十二年十月八日条から、方角見償のため新納武蔵・伊野・山田新助・猿渡越中守が三池へ派遣された記事を抄出する。ほかの見償役の記事と比較し、見償が一方の主取を任された者の勤めで、通常の地頭持には命じられない役であったことを考証する。
日々記冒頭の日付。本文に二月各日、天正十一年三月三日、五月十一日・六月十八日等を含む。:天正十二年正月一日 / 冊子 520~524頁/原整理番号 八二六/整理ID TMP-P03-TORIHAMA-D0826
天正十二年正月一日の年越し番衆への扇子給付に始まり、参社の百文・御酒・酒食・座敷を記す日々記。 各日には寺への礼銭・斎・参入、御家中の寄合、鹿児島へ参上した御供衆などの行為を記す。 太刀・青銅・樽・酒食等の進上と給付について、恒例ニアラス當時ノ義也とするものや今年より持参するものを記す。 二月の記事の後に天正十一年三月三日、五月十一日、六月十八日等も記し、足軽衆中間衆の別行日記にも言及する。
天正十二年正月三日 / 冊子 840頁
島津義久が天正十二年正月三日に歳徳神へ奉った吉書。年初に筆を取り万の宝を書き収めること、住吉の松を例に君の代の長久を祝うこと、心が真の道にかなえば祈らずとも神が守ることを和歌に詠む。
天正十二年正月五日 / 冊子 840頁
新納忠堯が新納忠元へ、新年の吉兆と例年以上の満足を祝し、祝儀として五明二本を贈った年賀書状。本文注記は天正十二年頃とする。
天正十二年正月~三月二十九日 / 冊子 847~863頁
天正十二年正月から三月二十九日までの上井覚兼日記。宮崎での年頭行事と病気、鹿児島での吉書・酒宴・連歌・人事評議を経て、肥後出陣に従い佐敷へ赴いた。家久・忠長らの有馬渡海、龍造寺隆信軍の接近と三月二十四日の大勝、隆信首の到来・実検、八代移動、島原での施餓鬼計画までを日次で詳記する。
天正十二年三月二十五日 / 冊子 870頁
島津兵庫頭忠平(後の義弘)の代参として、小野寺相模坊が志布志から持参した御札に関わる祈念を行い、天狗から一巻を直に授けられたとする記事。包紙に「一巻之事在包紙」と記され、天正十二年三月二十五日の日付を付す。義久の出陣・龍造寺隆信首実検の記事ではない。
天正十二年七月六日 / 冊子 921頁
島津忠清の一流系図として、女子千鶴が天正十二年七月六日に誕生し、母は島津家久の子であること、初め伊集院忠員の妻となって一女を産み、忠員死後に島津久元へ再嫁したことを記す。
天正十二年 / 冊子 968頁
島津忠隣が天正十二年、十六歳で猶子となり、出水から祁答院へ移ったことを記す。
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
天正十二年十一月十五日 / 冊子 957頁
新納忠元が伊集院忠棟・本田親貞・平田光宗へ、肥後方面の軍役について返答した書状。刑部太輔を出すよう命じられたうえ、嫡子も別口の御用で出すことになれば二重の公役となり、自身の出陣まで求められるのは困難であると訴える。前年冬に帰国を許された際の約束を踏まえ、事情を理解して取り計らうよう求めた。
(天正十二年)九月四日 / 冊子 226頁
足利義昭が帰洛に関する報告を了承し、柳沢新右衛門尉を派遣するので、島津義久へ伝えて奔走するよう求めた御内書。肩衣・袴を贈る。
天正十二年(天正五年異説)四月十七日 / 冊子 756~757頁
真木島昭光・一色昭秀が城入殿へ、足利義昭が中国へ移座し、毛利氏が帰洛要請を受諾したため、武田・北条・上杉以下の軍勢を糾合して進発する情勢を伝えた連署状。島津義久にも忠功を求める内書を出す予定とし、使者の蓮華坊を厚遇するよう求める。確定版年月日は天正十二年と天正五年の異説を併記する。
天正十二年(天正十三年異説)四月十九日 / 冊子 757頁
島津義久が安国寺の老和尚へ、九州の戦乱が鎮まり、龍造寺隆信以下数千人を討ち果たしたことへの祝意に謝し、書状と虫薬の到来を喜んだ書状。確定版年月日は天正十二年、異本は十三年とする。
天正十年~天正十二年三月二十四日 / 冊子 763~764頁
天正十年の田尻救援から翌十一年の有馬救援、さらに天正十二年三月二十四日の島原合戦までを叙述する長編軍記。深江攻撃で新納忠嘉が戦死した後、家久を大将とする約千五百騎が有馬勢と合流し、寡兵で龍造寺の大軍を破った。川上忠堅らが隆信を討ち、家久・豊久以下が奮戦して敵首三千余を得、有馬氏へ旧領の半ばを返し、日上・島原の守備を定めた。
天正十二年二月十四日 / 冊子 842頁
天正十二年二月十四日、日向宮崎城にいた上井覚兼のもとへ善哉坊真連房頼俊が訪れ、前年に公方家の上使として下向した布施治部少輔からの書付を示した記事。羽柴秀吉の尽力で足利義昭の当春帰洛が確実となったため、島津に一層の協力を求め、年内に春日局を先に上洛させたと伝える。
天正十二年二月十一日~三月二日 / 冊子 842頁
天正十二年二月二十六日、隈本・宇都・新納忠元から三通の書簡が鹿児島へ届き、龍造寺隆信が十一日に大軍を率いて出国し、十三日に合志城へ迫って攻撃を続けていると報じた記事。義久は三月二日に薩隅日三州の軍勢を率いて合志救援へ向かい、隆信が退けば諸軍を有馬へ渡す方針を定めた。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 846~847頁
天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が高来へ渡り、有馬氏とともに島原へ布陣した記事。三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破り、川上忠堅が隆信を討ち取って高来・島原を有馬領とし、島津軍は帰陣した。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 866頁
天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が有馬氏と島原に長陣し、三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破った記事。川上忠堅が隆信を討ち、三十余の首を得て高来・島原を有馬領とし帰陣した。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 867頁
天正十二年春、島津・有馬勢三千余騎が安徳へ入り、三月二十四日に島原で龍造寺隆信の二万五千騎を破ったとの覚書。川上忠堅が隆信を討ち、川西紀伊が龍造寺方の旗頭守一軒を討った功により湯浦の内しちゃ門を与えられたが、天正十五年の豊臣秀吉入国で上地となったことを子孫のため記す。
天正十二年三月二十四日・十一月二十六日 / 冊子 867頁
天正十二年三月二十四日の島原合戦で戦死した新納駿河守・久永九郎左衛門尉以下の将士と、同年十一月二十六日の戦死者を列記する殉国者名録。各人の実名・父祖・年齢・後裔などを注記する。
天正十二年閏二月十五日 / 冊子 870頁
義弘のため小野出羽守相模坊が志布志の飛龍権現へ参詣して祈願したところ、天狗から一巻を直接授けられたと伝える。日付は天正十二年閏二月十五日。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 871頁
島津豊久は元亀元年六月、島津家久と樺山善久の娘との間に生まれた。天正十二年三月二十四日の島原合戦では十五歳で出陣し、強敵一人を討ち取った。
天正十二年四月一日~晦日 / 冊子 875~884頁
天正十二年四月一日から晦日までの有馬方面従軍日記。覚兼らが海路で三江・島原へ入り、神代・井福・森山の降伏と質人提出を取りまとめ、諸将会議で温泉山再興・神領、諫早攻略、諸城の警固を協議した。五ヶ浦・竹崎への水軍攻撃と放火、島原・三会への薩摩番衆配置、各地の質人を八代へ送る準備、諸勢帰帆の調整などを詳記する。
天正十二年五月一日~二十一日 / 冊子 885~890頁
天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定版標題は『土井覚兼日記』だが、本文標柱は『上井日記』である。
天正十二年四月 / 冊子 893頁
天正十二年四月、北郷忠虎が吉利忠澄・伊集院久治とともに肥後の敵勢を討ち、首級六十余を得た。
天正十二年五月二十二日~二十九日 / 冊子 894~897頁
天正十二年五月二十二日から二十九日までの日記。折宇迫湊口の普請後に宮崎へ帰り、吉野牧の駒を拝領した。秋月種実から龍造寺との和睦仲介に関する弁明書状を受け、返書を作成したほか、築地上屋普請のため諸地頭を招集する命令、御頭役、山伏の護摩・入峯をめぐる紛議、上洛者の通行依頼などを記す。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
天正十二年八月二十九日~九月四日 / 冊子 924頁
天正十二年、合志・隈部・宇都の諸氏が島津方への従属を申し出たため、義弘が軍を率いて肥後隈本へ進み吉松に陣した。赤星・三池をはじめ臼間野・大野・大津山・和仁・辺春・田島・鹿子木・東郷・小代が降り、龍造寺政家も質人を出した。筑後・筑前方面の蒲池・草野・星野・秋月・原田らも旗下に属し、義弘は帰陣した。
天正十二年九月八日 / 冊子 925~926頁
島津氏老臣三名の連署高札。神社仏閣と屋敷四壁の竹木を切り取ること、田畑を荒らし濫妨すること、在地・旅人を問わず喧嘩口論することを禁じ、違反者は速やかに処罰するとした。本文の日付は天正十二年九月八日で、確定版年月日と一年異なる。
天正十二年三月~九月八日 / 冊子 926頁
前年から有馬氏救援のため高来へ渡り、天正十二年三月二十四日の島原合戦では家久・彰久らと龍造寺隆信の大軍を破って首三千余を得た。四月には伊集院忠棟・上井覚兼と神代・井福・森山を調略して降伏させ、その軍功により三会・島原を与えられた。九月の肥後在陣時には老臣連署高札に加判した。
天正十二年九月一日~晦日 / 冊子 930~938頁
天正十二年九月一日から晦日までの肥後従軍日記。馬越で龍造寺政家との和睦を審議し、佐敷・八代を経て隈本・吉松へ進軍した。山鹿・隈部・合志・宇土・小代などの帰属、質人、領知条件を交渉し、肥後高札へ加判した。秋月使者と往復して龍造寺から肥後領返還と血判誓紙を得、九月末には境界の軍事行動を抑えつつ和睦条件を詰めた。
天正十二年十月一日~晦日 / 冊子 942~951頁
天正十二年十月一日から月末までの日記。小代・隈部・辺春らの降伏と所領・質人を処理し、宇土・合志の諸将を饗応した。龍造寺・秋月との和睦と大友陣への対応を協議し、黒木援軍要請に対して使者による撤兵要求を選んだ。和睦成立後、諸軍は高瀬から八代へ移り、覚兼は佐敷・飯野を経て宮崎へ帰国し、各地で帰陣祝賀を受けた。
天正十二年十一月一日~晦日 / 冊子 951~956頁
天正十二年十一月一日から晦日までの日記。宮崎帰着後、名護八幡・瓜生野八幡・海江田伊勢の延引した祭礼、狩猟、参詣、茶湯や連歌を記した。豊後勢が十月二十八日に撤陣すると約したとの帰国僧の報告、鹿児島での談合や諸役徴収にも触れる。月末に鹿児島へ赴いて島津義久・義弘・歳久らの饗応に列し、有馬から届いた水鳥二十羽と南蛮犬を進上した。
天正十二年十二月一日~晦日 / 冊子 959~968頁
天正十二年十二月一日から晦日までの日記。義久・義弘・歳久らの鷹狩、秋月・龍造寺・彦山の使者と蔭涼軒の正式な拝謁・饗応、肥後諸氏の使者の進物を詳記する。中旬には新田宮再興、御船・隈庄方面の戦況、豊後勢の在陣を協議し、琉球渡海船へ印判を与えた。下旬は村田経定の赦免、年頭連歌、所領・鷹をめぐる相談を経て、加治木・宮内・財部を通り宮崎へ戻る年末の動向を記す。
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
年月日未詳 / 冊子 563頁/原整理番号 4
白坂氏の祖先と歴代の事績を記した系図。天正十二年生まれの篤辰(大学坊以益)が修験者となったこと、関ヶ原合戦後の帰国路で島津惟新に随従して知行五十石を与えられたことを中心に、子孫の相続と奉公を記す。
年月日未詳 / 冊子 96~103頁/原整理番号 19
伊地知重則の年男日記。天正十一年末の節分・年の餅の儀から天正十二年正月十五日まで、島津義久の年末年始行事を日付順に記す。元日の社参と伊地知家の椀飯、七日の蘇民・鬼籠と平田家の椀飯、十一日の吉書・鎧召初、十五日の本田家の椀飯をはじめ、諸寺社・家臣・地頭・百姓らの御目見え、進物、三献や酒宴の次第を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 103頁/原整理番号 20
上井覚兼が記した天正十二年正月十一日の日記。鎌田刑部左衛門尉の使者を受けた後、島津義久の吉書の三献に出席し、列座者・筆者と判の頂戴、覚兼の太刀進上を記す。続いて永吉の椀飯、宮崎衆の酒進上、鎧召初と大般若の儀、夕刻の家久との三献・酒宴に触れる。同日の年始儀礼を参列者の視点から伝える。
年月日未詳 / 冊子 173頁/原整理番号 72
『伊地知右京亮重則御年男日記』天正十二年正月の記事。十日、加世田から初狩の猪鹿三頭が届けられ、十四日には伊作の行司が初狩の獲物六頭を持参した。いずれも樋の間から御目に掛けたと記す。本文書集十九号と同じ記事。
年月日未詳 / 冊子 221~222頁/原整理番号 157
『上井覚兼日記』天正十二年の記事。春山野の馬を藩主の所望に応じて牽き出し進上したこと、吉野の取駒をめぐる連絡や贈答を記す。馬の献上には使者を介した申し入れと返答が伴ったことが分かる。
巻三/冊子 33~35頁
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。
巻三/冊子 35~38頁
天正十二年以降、合志・隈部・宇土をはじめ肥後・筑後・筑前の諸勢力が島津方へ服属し、忠平が守護代となって義弘を称した経緯を中心に記す。義弘は熊本・高森方面へ出陣し、赤星・大津山・和仁・小代・秋月・原田などの国人を従える。阿蘇方が花山を攻めると義久も八代へ進み、甲佐・堅志田・御船を攻略し、反島津の合志氏を降伏させた。高森が豊後方へ通じ、津守城でも反乱が起こると、新納忠元が謀略と急襲でこれを鎮圧する。後半は筑紫・岩屋・宝満・立花方面への遠征を記し、高橋紹運が守る岩屋城を激戦の末に落とす。島津方にも多数の戦死者を出し、紹運の子立花宗茂が抗戦の意志を示すと、島津諸将はその勇を認めて無益な攻撃を避けた。肥後支配の拡大、義弘の守護代就任、筑前方面への進出と岩屋城の激戦をまとめる大部の記事である。
天正十一年九月~天正十二年 / 冊子 752~753頁
天正十一年九月の肥後佐敷在陣、十月七日の堅志田攻略、十二月の八代在陣、有馬への番兵派遣、翌十二年の高来出兵と龍造寺勢との合戦に参加した将士を列記した交名。島津家久を大将とし、豊久・川上氏・平田氏・新納氏ら多数の侍大将・軍士について、戦死・分捕・高名などの注記も付す。
天正十二年正月十一日 / 冊子 840~841頁
島津義虎が伊集院忠棟・平田光宗・村田経平・上井覚兼へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、慶書と五明を贈り、今後も互いの吉兆を伝え合いたいと述べた年賀書状。
天正十二年正月十一日 / 冊子 841頁
島津朝久が伊集院忠棟へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、恒例の吉書と五明二本を贈り、この旨を島津義久へ披露するよう求めた年賀書状。
天正十二年正月 / 冊子 841頁
島津義久が秋月氏へ、前年冬に高瀬で大友方の撤陣を申し入れ承諾されたのに、なお高良山へ滞在しているのは不届きだとした書状案。高良山座主・蒲池氏・黒木氏から内通があることを評価し、機会があれば三家を含めて一致して取り計らい、今後も疎略なく相談したいと述べる。
天正十二年正月 / 冊子 841頁
島津義久が南津江氏へ、前年冬に高瀬境から大友方の撤陣を申し入れたのに、なお高良山へ滞留しているのは不適切だと伝えた書状案。龍造寺・秋月両氏が一致して対応するなら、今後永く特別に連絡を取り合う考えを示す。