吉田天神社棟札
天正17年10月吉日 / 冊子 453頁
吉田天神社の社殿一宇を再興した際の棟札で、奉行として島津義弘、久保、忠恒らの名を記す。 天満大自在天神を祀る社殿造営の年次と島津一門の関与を伝え、地域寺社の復興事業を知る建築史料である。
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天正17年10月吉日 / 冊子 453頁
吉田天神社の社殿一宇を再興した際の棟札で、奉行として島津義弘、久保、忠恒らの名を記す。 天満大自在天神を祀る社殿造営の年次と島津一門の関与を伝え、地域寺社の復興事業を知る建築史料である。
正平十二年九月廿日 / 冊子 7~8頁
島津氏久が吉田若狭守に、正八幡宮へ寄進された大隅国岩河村三分二について下地を知行させ、土貢は御供・祈足のため御供所へ進納するよう命じた書下。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、吉田若狭守に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久らの治罰のため島津忠国へ合力し、とりわけ島津貴久への二心ない忠節を賞して、今後も戦功を励むよう吉田若狭守へ命じた御教書。
嘉吉二年十月廿五日 / 冊子 405~406頁
畠山持国が将軍家の命を奉じ、先に治罰を受けながら再び出張して島津忠国を難儀させる島津持久・高木孫三郎・市来太郎らに対し、吉田若狭守へ速やかに忠国へ合力して戦功を励むよう命じ、命令に背く者は三人と同罪とすると伝えた御教書。
明応四年四月十七日 / 冊子 567~568頁
島津忠昌が忠節の賞として、薩摩国谷山院山田村三十町と同院道祖脇内五瀬を吉田氏へ宛行い、先例に任せ知行するよう命じた宛行状。
(慶長五年)八月五日 / 冊子 562頁
島津義久(龍伯)が吉田美作守へ、奥方に奉公する者たちへこの時節は力を尽くすよう申し聞かせてほしいと頼む。使者を上らせたところ京都が騒乱になったと聞いたため、島津義久(龍伯)の息女の傍に確かに付き添うよう求め、存松が病気で用に立てないなか、時節柄とくに心を添えるべきだと伝える書状。
(慶長五年)八月廿一日 / 冊子 568頁
島津義弘(惟新)が吉田美作守へ、島津忠恒(又八郎・家久)の書状により奥方側の置目を吉田へ任せるとの意向を承知し、念入りに処理するよう求める。存松の下向について増田長盛へ出した書状の写しを渡し、口頭でも説明するよう依頼する。美濃垂井の陣は敵と五、六里の近さで戦闘が迫るのに手勢が乏しく、長宗我部勢が五千を率いる一方、薩摩から援軍が一人も来ないと嘆き、留守中の規定も緩みなく整えるよう命じる書状。
(慶長十二年)九月廿二日 / 冊子 130頁
慶長十二年九月二十二日、島津義久が吉田美作守へ、前日の茶湯が誠に祝着で、老体ながら一段と面白く過ごしたと礼を述べた書状。
七月廿三日 / 冊子 311頁
島津忠治が吉田若狭守に、帖佐郷餅田名について、世間が静謐になった時には替地をもって先例どおり知行させると認めた書状。
(天正20年)2月21日 / 冊子 531頁
唐入りに伴う役務について四名が肝煎りしていることを「誠に大切」と評価し、国家のための重大な時節なので、なお一層油断なく尽力するよう励ました書状。本文の「徳役」の具体的内容は断定せず、渡海準備を担う在国実務者への督励として整理する。
(文禄元年)4月1日 / 冊子 540~541頁
島津義弘が、渡唐に必要な米・船・人員などの処置を示し、国元の重臣四名に相談のうえ速やかに実行するよう求めた書状。軍船・兵粮・人員の調達遅延が出陣と家中の体面に関わるとして、各所への催促と役割分担を厳しく督促する。
(天正20年)4月2日 / 冊子 541頁
落合重次が、長く書状を送らなかったことを詫び、鷹之巣の件で朱印を受けたものの、椎葉山に以前からの主張があるため下向を延引していると伝える。先に使者を遣わして根拠を調べ、前年に置いた鳩もこの便で渡してほしいと頼み、朱印を持参したので受け取るよう四名へ求めた。
応永十七年二月十三日 / 冊子 237頁
吉田了秀が、薩摩国谷山郡山田村内黒丸の水田四町を前伊豆守入道宜秀の菩提料として福昌寺へ永代寄進し、島津元久の加判を得て万雑公事・諸役を停止した寄進状。
天正15年9月13日 / 冊子 353~354頁
吉田清在が執印河内守へ、新田神社の祭礼に例年どおり太刀・馬を奉納したことを伝えた書状。馬屋を預かる立場から、七歳で置いた馬が九歳となったが、戦乱のため鹿児島領内から移して飼育し、傷んで見苦しくなった事情を説明し、今後の祭礼用の馬をどうするか判断を求めている。
(慶長四年)四月三日 / 冊子 372~373頁
吉田豊後が、島津忠恒の昇進を祝し、急ぎの作事で暇がなく参上できないため、まず使札で祝意を伝える。また高麗での手柄が一段の面目となり、末代まで島津家の誉れとなることを喜ぶ。本文注記は、この祝儀を忠恒の少将任官に対するものとする。
年月日未詳 / 冊子 139頁/原整理番号 231
吉田与三右衛門の覚書。島原一揆の際、病中の島津家久を見舞うため初めて江戸から帰国した光久が、そのまま島原へ加勢しようとし、家久から御召の鎧二領を託された伊東祐昌が光久の陣で待ったが、加勢に及ばず帰国したと語る。宝永六年八月二十四日、八十一歳の吉田の話を家来坂元武右衛門が書き留めたもの。
文禄3年7月28日 / 冊子 801~802頁
福崎能安が御広間・台所門の造営で材木調達を任されても、職人から金銀・米銭などの礼物を一切受け取らないと誓う。国元で受け取る米と売却代金、名護屋への替米、薩摩・大隅・日向から上った米にも私的流用がないと明記する。 摂津国能勢郡の代官所でも朱印高を守り、増徴や着服をしないと神仏へ誓約する。建築資材・兵粮米・代官経営にまたがる収賄と横領防止の起請文。
文禄4年6月17日 / 冊子 890~891頁
安宅秀安は、取次役の決定、老中役の免除、家中の訴訟や処分、京都と国元の連絡方法などを箇条書きで定める。 竜伯への奉公や三成との関係にも触れ、讒言・私的対立を避けて法度を堅固に運用し、家中の秩序を保つよう求めた政務覚書。
正保二年十一月二日 / 冊子 240~241頁/原整理番号 173-11
十一月二日付の廻状。沢原野の狼垣で見回りが行き届かず、野火で焼損した箇所があるため、早急な普請を命じる。関係諸所で損傷箇所を見回り、必要な人員と垣木を出して修理するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 176頁
島津伊久譜の記事として、伊作大隅守久義が宿意を晴らすため応永四年十二月に軍勢を率いて出陣し、大河を渡って敵城に対陣したこと、木野・市来方面での動きと吉田某による和議の試みがまとまらなかった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 177頁
応永記の記事として、応永五年正月に伊久が串木野へ越山・逗留し、市来・吉田方面から伊作方への対応を求められ、各方へ書状を送って情勢調整を図ったことを記す。
(応永八年)九月十一日 / 冊子 203頁
村田経安が山田加賀守へ、境目での長期の辛労をねぎらい、当面は現地に留まる事情を述べたうえで、谷山内山田の本領と吉田方の所領処置、屋形が難儀した際の借用などについて内々に伝えた書状。末尾の詳細は石井方へ申し伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 283~285頁
応永二十年十二月上旬、島津久豊が伊集院頼久とともに菱刈の凶徒討伐へ進軍した義天公譜記事。吉田清正・蒲生清寛・佐多忠豊・川田・比志島諸氏が参加し、鹿児島本城・東福寺城周辺で交戦した。諸将の戦死と忠功、敵方の後退、帰陣までを記し、討伐軍の構成と損害を示す。
年月日未詳 / 冊子 286~287頁
応永二十年十二月上旬、伊集院頼久方が鹿児島本城を攻撃した戦況を記す。蒲生清寛・吉田清正・比志島・河田諸氏らが関わり、久豊方は東福寺城と鹿児島周辺で応戦した。屋形への侵入と焼討ち、城下での交戦を経て両勢が進退した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 291頁
給黎を領する伊集院頼久を討つため、島津久豊が吉田・蒲生以下の軍勢を率いて陣営を構え、伊集院方の救援・反撃と交戦した記事。伊作・川邊勢の働き、本田・税所・吉田・加治屋らの戦死、城兵の夜間退去を記す。
応永廿三年二月廿八日 / 冊子 295頁
応永二十三年二月二十八日に行われた犬追物の手組を、殿方・射手方などの組別に列記した記録。島津・蒲生・吉田・平田・安楽・柏原・市来ら参加者の配置と人数を示す。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁
応永二十四年秋、伊集院頼久方が松尾城・谷山城をめぐって島津久豊方と戦った記事。久豊が援軍を送り、山田・阿多・田代・吉田・蒲生・新納・平田らが交戦し、多数の死傷者を出しながら城の救援と奪回を図った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 512頁
三か国の騒動が続くなか、島津忠昌の病を機に祁答院・北原らが出仕を停止した経過を記す。入来院・東郷・吉田・菱刈と同盟して守護方に背き、修理亮忠廉にも加勢を求めたが拒絶された。忠昌の統率力低下から反守護同盟が形成された過程を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 522頁
文明十七年三月二十三日、加治木忠敏・吉田尾張守・本田又左衛門尉・正八幡宮社家らが同心して上井に陣を構え、後園・薩摩守重久・北郷氏らが出羽守久遠らを派遣し、城を四方から攻めた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 522~523頁
文明十七年三月、加治木・吉田・正八幡宮社中らが上井城を攻め、菱刈右京亮らの討死を経て城を陥落させたのち、和泉・高城・湯田・水引・帖佐方面で攻防と城主交替が続いた経過を記す文明記記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
四月十四日の吉田飯山合戦について、鹿児島衆と吉田衆が戦い、吉田方の中村藤左衛門尉らが討たれ、残兵が退いた経過を記す文明記記事。
十二月十三日 / 冊子 584頁
新納家文書に伝わる島津忠治書状。本文はNo.1793と同文であるため省略され、餅原駿河守・吉田六郎三郎の名のみ掲げられる。
年月日未詳 / 冊子 592頁
島津忠隆が忠昌の第二子として生まれ、百房丸・又六郎と称したこと、のち国秀と対立し、吉田方面の戦いに関わった経緯を記す西藩野史の記事。
年月日未詳 / 冊子 613頁
永正十四年二月十二日、島津忠隆が吉田城を攻め、翌日の城門攻防を経て城内を制圧したことを記す島津忠隆譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 647頁
大永三年十二月七日、島津勝久が伊地知氏・吉田氏を将として鹿児島から月野へ軍勢を発し、七百三十八人が戦死したことを記す記事。
十一月六日 / 冊子 666頁
島津忠兼が、吉田で敵が対峙しているとの報により援軍を率いて向かう予定だったが、敵が退いたとの注進で延期し、鹿児島へ同行する意向を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 5頁
弘治元年二月の日記として、吉田衆の蒲生方面での動き、若殿様の吉水への帰還、園尾・城ヶ崎・加治木春日山付近での戦闘と敵兵の討取りを日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 13頁
帖佐別府川の対岸に薩摩勢、岩之獄に大隅勢が伏せ、大隅勢が敵を多数討って帖佐麓を突破したため、帖佐・山田・蒲生新城が放棄された経緯を記す。島津貴久父子が城へ入り、肝付・祢寝が参上。蒲生新城には吉田衆が先着し、貴久の弟尚久が守備した。のち尚久への所領給付や日当山・東郷の支配予定にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年六月の日記として、新梓・山田・吉田方面の戦闘、伏兵、敵兵や馬の討取り、塩硝・火矢の使用、若殿様の鹿児島帰還などを記す。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年七月の日記として、吉田方面への火事・出兵、新梓勢との戦闘を記す。七月二十五日には渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、東郷将監・白濱らが戦死した。
年月日未詳 / 冊子 17頁
弘治元年八月の日記として、帖佐・吉田・郡山・新梓周辺での敵兵の討取り、伏兵、出兵、放火、横尾口への進出などを日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 18頁
弘治元年九月の日記として、蒲生横尾口への出役、敵との交戦、新梓への出兵、吉田勢による敵兵の討取りを記す。
年月日未詳 / 冊子 18頁
弘治元年閏十月二十四日、新城勢が横尾口に伏せたが敵に察知され、伏兵を包囲されたものの打ち破って全員無事に退却し、貴久父子が吉田まで出た。翌二十五日、吉田衆五人が蒲生横尾口で敵二人を討ち、十五、六歳ほどの童子一人を生け捕った。
年月日未詳 / 冊子 27頁
弘治二年正月の日記。朔日に吉田勢が蒲生方面で敵と火矢を射合い、五日に松山口の野へ放火、十一日には新城野頸に来た敵約六十人を吉田衆が追って戦い、出羽守の殿原一人が戦死した。二十九・三十日には吉田足軽が久木瀬口・蒲生面大渡で各一人を討ち、御中間弥八兵衛が高名を立てた。
年月日未詳 / 冊子 28頁
弘治二年二月の日記。吉田衆が蒲生荒平口の塁を破って番屋を焼き、岩上で敵一人を討つ一方、帖佐足軽は蒲生浦で三人、山田勢は松坂の柵で三人を討った。十七日、濱田善三郎らが案内者を伴い敵地へ忍び入り十四、五軒を焼く。二十三日には吉田衆が番衆四人を討って番屋に放火し、二十四日の横尾口戦に伴い貴久父子が吉野原まで進んだ。
年月日未詳 / 冊子 28~29頁
弘治二年三月の軍事動向を日次で記す。蒲生・吉田・北原方面の出兵、松坂城周辺での攻防、敵兵の討取り、放火、城内外の人馬の動きを伝える。
年月日未詳 / 冊子 31頁
弘治二年六月十五日、山田に敵の掛野伏があり味方の名字衆一人が戦死。二十二日には敵が山田で下々二人を討って退き、城衆が追撃した。二十三日、吉田衆約三十人が待野伏を置き、来襲した敵約六十人のうち十一人を討ち、その三人は名字衆だった。七月・八月は無事と記す。
年月日未詳 / 冊子 39~40頁
弘治三年二月の軍事記事。吉田からの出動、新梓・松山口・橋越などでの交戦、敵味方の追撃と討取り、捕縛、兵具の分捕りを記す。