佐多忠成証状
長禄四年十一月廿八日 / 冊子 440頁
佐多忠成が佐多又四郎へ、薩摩国南方で宿の手勢を率い、山田を平定した忠節を認め、恩賞を与える旨を伝えた証状。
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長禄四年十一月廿八日 / 冊子 440頁
佐多忠成が佐多又四郎へ、薩摩国南方で宿の手勢を率い、山田を平定した忠節を認め、恩賞を与える旨を伝えた証状。
天文廿一年六月廿七日 / 冊子 899頁
近衛植家が島津又四郎に、家門の旧好を踏まえて今後も疎意なく書状を交わす旨を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 778頁
秀次が、近衛信輔を日向国綾から島津修理入道の居城まで護送するため、人足百人と乗懸馬十三疋を手配するよう島津又四郎へ命じる。北郷左衛門入道にも同趣旨を命じたと付記する。 No.1297と対になる朱印状で、同一の護送任務を地域の両担当者へ分担させたことが分かる。
五月十一日 / 冊子 206頁
徳川家康が端午の祝儀として島津又四郎から届いた帷子五領(うち生絹二領)を受け取り、喜悦の意を伝えた内書。
(慶長七年)六月廿二日 / 冊子 821頁
島津義久が又四郎へ、しばらく音信を欠いたことを詫びる。京都から上洛を急ぐよう催促されているため翌月には必ず出立する覚悟であり、相手の到着も近々待ち受けると伝えた書状。
八月十六日 / 冊子 289頁
八月十六日、山口直友が島津又四郎に、先日の照会に答え、佐土原の件は望ましい裁許を得て命令が出されたと報じた書状。相済ませたうえでの結果を見届けたいとして、今後も詳しい連絡を求める。
十月廿五日 / 冊子 301頁
慶長十五年十月二十五日、島津家久が又四郎に、見舞いの書状を喜び、駿府・江戸での首尾は書き尽くせないほど良かったと伝えた書状。音信として届いた銀子五枚を謝し、詳しくは使者から伝えるとする。
六月廿七日 / 冊子 35頁
近衛家と島津家には他にない由緒が古くからあると述べ、今後も疎意のないよう島津修理大夫へ取り成すことを求め、色紙に染筆して送った近衛稙家書状。
(慶長七年)十二月十六日 / 冊子 866頁
島津義久が忠恒へ、又四郎および本多佐渡守父子の書状写を受領・披見し、返書を惟新へ回すと伝える。惟新が当分鹿児島に滞在していること、薩摩では十二月八日以来の大雪が消えず寒さが厳しいことも報じた。
年月日未詳 / 冊子 920頁
天文二十三年十月十九日、貴久が二男又四郎忠平を岩剣城へ移し、城の守りと法度を任せたことを記す。
(元和三年)六月七日 / 冊子 644~645頁
島津家久が六月八日に江戸を発って上洛すること、将軍から名物の太刀・脇差・逸物の馬二疋を拝領したことを報じ、又四郎の到着と長千代の帰国方針も伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 778頁
秀次が、薩摩へ遣わされる近衛信輔を日向国綾から島津修理入道の居城まで送り届けるよう命じる。人足百人と乗懸馬十三疋を奉行に用意させ、島津又四郎にも同じ命令を出したと伝える。 公家配流の護送人員・馬数・経路を具体的に定めた朱印状。
年月日未詳 / 冊子 834頁
差出人不詳の起請文前書。龍伯が又四郎を少将に替えるとの風聞や京都からの朱印をめぐり、事実を隠さず申し上げ、虚偽・讒言・私曲を行わず主家に忠節を尽くすことを誓う。
(慶長八年)正月十五日 / 冊子 876頁
山口直友が忠恒へ、参詣を祝し、帰国後も又四郎を当面上方に残す案に同意する。本多上野介とも相談したうえで改めて意見を伝えるとし、詳細は使者に託した。
(慶長八年)十月晦日 / 冊子 915頁
山口直友が島津忠恒へ、佐土原城を島津以久へ引き渡す決定と、そのため使者を以久に同行させたことを報じる。また又四郎を伏見へ在府させる方針を伝え、早々に上洛させるよう求めた。
(慶長十五年)七月十二日 / 冊子 282頁
慶長十五年七月十二日、島津家久が鹿児島への書状を託し、又四郎の使者来着に謝意を述べたうえ、琉球人の用意を整えてから関東へ下向するよう山口直友の指南を受け、二十日頃に出立して駿府・江戸で対面する予定を報じた書状。
十月十三日 / 冊子 299~300頁
十月十三日、山口直友が河上六郎兵衛に、佐土原をめぐる訴訟は本多上野介らの取り成しでほぼ決着し、翌春に右馬頭が領地を受け取る予定だと報じた書状。それまで在城衆と地下人の争いを防ぎ、又四郎に治安維持を命じるよう求める。
(元和六年)八月八日 / 冊子 734頁
島津家久が北郷長千代丸に、見舞使者と南都諸白一荷への礼を述べ、交替の又四郎は上洛したものの大炊頭からの引付状が未着で下向が遅れているため、大炊頭と相談するよう伝えた書状。
十月晦日 / 冊子 2~3頁
山口直友が島津義久(龍伯)へ、佐土原城の処置について島津方の内意を本上州と協議し、島津右馬頭が城を請け取ることになったと報告する。庄三太と引渡しを相談し、自身の使者を右馬頭に添えて下向させたほか、又四郎の伏見在府、右馬頭の子の関東下向を早急に進め、さらに和甚兵を派遣すると伝えた書状。
六月廿六日 / 冊子 458頁
島津光久の子又三郎と島津但馬守の子又四郎について上聞に達したところ、将軍の都合のよい時に順次御目見させるとの仰せが出たため、その旨を伝えるよう命じた松平信網達書。
二月八日 / 冊子 370頁
島津義久が左衛門佐に、本田衛門尉が申し出た山田の件と帖佐・山田の替地、二十三日の番替、兵庫頭の帰還、吉田衆の動員について連絡した書状。狩猟の相談と連歌に専念している近況にも触れる。
延徳二年二月一日 / 冊子 546頁
延徳二年二月一日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の成績を疋数で示した記録。
延徳三年三月二日 / 冊子 557頁
延徳三年三月二日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津忠将一流の系図で、忠将の初名・通称・官途、永正十七年の誕生、母が貴久と同母であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 875-876頁
島津家久譜は、徳川家康から帰国の暇を得た忠恒が伏見から大坂へ向かう前、宇喜多秀家の処遇について山口直友へ密かに相談した経緯を記す。忠恒は島津忠仍と北郷三久を伏見に残し、関ヶ原後に薩摩へ逃れた秀家の助命・取成しを図った。
五月三日 / 冊子 420~421頁
近衛前久が島津龍伯へ、久しく便りがないことを詫び、再会を願いながら老病で下国が難しい近況を述べる。足腰が不自由でも鷹への執心は衰えず、籠で山野へ出ること、所持する鷹や龍伯から贈られた鶴・犬の飼育と狩猟事情を詳しく語った書状。
(慶長十九年)十一月十八日 / 冊子 560頁
大坂籠城の事情は織田有楽・大野治長から説明させるとし、豊臣秀吉以来の恩を忘れないなら一途に忠節を尽くすよう求める。島津陸奥守・又四郎にも同じ趣旨を伝えるよう命じた秀頼書状。
年月日未詳 / 冊子 743~744頁
庄内との親密さ、庄内から鹿屋への度々の使者、又四郎が恒吉で碇地を打ったことなどの風聞を列挙し、伊集院幸侃と石田氏をめぐる件では油断せず即答しないよう内密に忠告する。世評を案じ、読後焼却を命じた島津家久書状。
慶長十七年六月十六日 / 冊子 58~59頁/原整理番号 15
又四郎忠仍と菊袈裟が、国分御上様へ親子の進退を内談したことはなく、菊袈裟を養子にするとの風聞も全く企てていないと誓う。今後も奥州様に不利な企てをせず、世上の噂を聞けば直ちに報告するとする慶長十七年六月十六日付起請文前書。
文禄2年9月10日 / 冊子 725頁
島津久保(又一郎)の死去を受け、弔いを理由とする帰国を厳禁し、義弘の許可を得た百人以外は渡海してはならないと定める。 久保の陣所を老臣・有力者に守らせ、普請・城米・後続船の兵糧収納を急がせ、下人を含む無断帰国を処罰するとした軍中統制の事書。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
文明十六年三月九日 / 冊子 507頁
文明十六年三月九日の犬追物について、第一の手組に属する射手と各人の持足数を列記した手組。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
年月日未詳 / 冊子 411頁/原整理番号 194
起請文前書。龍伯と少将との関係をめぐる取り計らいを述べ、疑念を抱かず今後も互いに誠実に対応することを誓う。慶長七年八月十日付、惟新の判。
(万治二年)六月廿六日 / 冊子 382頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0847
松平信綱が神尾備前守へ、松平薩摩守の息又三郎と島津但馬守の息又四郎について上聞に達し、機会の順に御目見するよう仰せが出たので本人らへ伝えるよう命じ、進物の書立を別紙で送った達書。
(万治二年)六月廿六日 / 冊子 382~383頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0848
又三郎が御太刀・馬代黄金十両・時服二十を、又四郎が御太刀・銀馬代・時服三を進上すると列記し、以上で結ぶ目録。銀馬代の金額は不記。
(万治二年)六月廿六日 / 冊子 383頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0850
松平信綱が神尾備前守へ、又三郎・又四郎の件が上聞に達し、機会の順に御目見するよう仰せが出たので本人らへ伝えるよう命じ、進物の書立を別紙で送った達書。No.843とほぼ同文だが、別番号の正文として収録される。
(万治二年)六月廿六日 / 冊子 383頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0851
又三郎が御太刀・馬代黄金十両・時服二十を、又四郎が御太刀・銀馬代・時服三を進上すると列記した献上目録。No.844と同内容だが、別番号の正文として収録される。
元禄十年二月十五日 / 冊子 2頁/整理ID 8
陽和院が島津綱貴(原宛所は松平さつまの守)へ、使者の到来を受けて寒中の息災を問い、とら安殿(刊本傍注・島津忠直)が元服して又四郎殿と名乗ったことと、子どもたちへの祝儀を喜び、当地の両屋敷・一門が無事なので安心するよう伝える。元服は原仮名けんふくに基づく。
延享四年八月三日 / 冊子 15~16頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052
頴娃内膳・伊勢兵部が八月三日、島津左衛門・樺山主計へ、又四郎が十四歳となったので年内の御目見を願い、源姓へ復する願いも四月の書付に記したと伝える。発駕前に但馬守の指図を得て、願いが済めば来年に五節句・月次登城を願い、さらに先例通りの叙爵も受ける見通しを述べる。先年は願いを見合わせて願書を出さなかった経緯や、その次第書・帳留が見当たらないことを述べ、御目見と復姓の願いを隼人に相談し、時節を見て進める考えを示す。近く但馬守から直接書付を聞く予定とし、隼人宛の書通写一冊と記録奉行の調査書一通を添え、別冊の宛名として島津右平太・北條織部・鎌田太郎右衛門を記す。
延享四年九月 / 冊子 15頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の1)
在国家老が九月、江戸から又四郎の御目見・源姓復姓願と調査書付が届いた件を伺う。源姓復姓は四年前に総州が願い通り許容すると仰せ出た事柄で、今回記録奉行に再調査させても先の申出と変わらず、願い通り免許できる儀と相談したため、その旨を伺う。
延享四年四月 / 冊子 16頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の3)
島津但馬守忠雅が四月、同氏又四郎(久柄)が十四歳となったため、当年中の御目見を願う。何とか願いを許されたいと申し立てる。
延享四年四月 / 冊子 16頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の4)
島津但馬守が四月、島津左衛門へ、十四歳の又四郎について別紙の通り年内の御目見を願い、許可されれば来年に五節句・月次登城を願い、先例通り叙爵も受けたいと記す。先年の自分の復姓願では、見合わせて後に申し上げるよう指示された経緯を述べ、又四郎の叙爵に際して源姓へ復したいと願う。太守が留守でもあり、願い事が多く多忙なのは承知していると述べる。願いがかなうよう何とか取り成してほしいと頼む。
享和元年7月23日生、享和3年12月改名、文化2年7月養女、文化4年5月11日許嫁、文化5年9月再許嫁、文化13年2月21日婚姻(本文) / 冊子 196~197頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0630
近秘野帥の斉宣公御子の女子、随姫の記事。初名祀姫、夫は島津飛騨守忠徹で、小字護之助・中改筑後守の注。享和元年7月23日芝邸生、母は丹羽長貴女、実母中根半平正房女とする。享和3年12月随姫へ改名、文化2年7月蓮亭夫人(斉宣継室)の養子となる。4年5月11日伊達兵五郎へ許嫁、遠江守村寿嫡子・伊予宇和島10万石の注を伴うが婚姻前に兵五郎卒。5年9月再び婿を求め、島津護之助(淡路守忠持嫡子)へ許嫁、21日に三田邸へ適く。13年2月21日婚姻、天保7年7月29日に男又四郎卒との後年条を記す。養母・実母、二度の許嫁と実際の婚姻、本人と子の卒日を分ける。
〔天保十年〕十二月(包紙受渡日は同年十二月七日) / 冊子 40頁/原整理番号 52/整理ID 52
南部伊勢守信順が高輪鶴之渡の居所で妾腹にもうけたお朝について、島津但馬久風の実子として扱い、讃岐殿の嫡子島津又四郎と縁組する旨を帳面に記すよう命じた申渡書。九月十六日に但馬へ内達され、讃岐へも内々に伝えられたとする。お朝の生年月日と母の由来は別紙に記し、母は公儀広敷の伊賀の者渡辺昇右衛門の娘で、当年十九歳、二月十九日朝五つ時に女子を産み、お朝誕生後に暇を出して以来音信がないと記す。十二月付で、包紙は七日に石見殿から五代孫之丞へ渡して納めたことを示す。
慶長17年6月16日 / 冊子 578~579頁/原整理番号 85
起請文の誓約者たちが比志嶋紀伊守へ、国分御上様との間で親子の進退を内談したことはなく、国分から申し入れを受けたこともないと誓う。菊袈裟が国分御上様の養子になるとの風聞も、誰かと相談したことも否定し、今後もそのような内談をしないと約束する。奧州様に害となる企てをしないこと、これに類する不審な話を聞けば申し上げることを条項に加え、慶長17年6月16日付で又四郎・忠仍・ぎくけさの名が並び、血判の記載もある。
年次・月日不記 / 冊子 579頁/原整理番号 86
差出人不記の起請文前書。竜伯様が又四郎殿を少将殿に替え、京都から朱印を取り寄せるとの話を聞きながら報告しなかったと疑われたため、差出人はそのような企てを全く承知していなかったと重ねて弁明する。疑いが解けたと受け止め、今後たとえ讒言があっても互いに疑心を残さず熟談し、御家の長久のために尽くして疎略にしないと誓う。本文に年月日・署名・宛所はなく、欄外に『旧記雑録後編三』1675号との同文推定注記がある。
正月廿八日 / 冊子 54頁
島津光久が、年頭の使者と太刀一腰・馬一匹の贈物が遠方から届いたことを喜び、謝意を述べる。詳しくは新納右衛門佐と鎌田源左衛門尉が伝えるとする書状。
五月廿一日 / 冊子 744頁
安島までの書状の内容を確認し、壺の件を承知したので使者に事情を尋ねるよう伝える。塵の皿十五枚を贈られたことを喜び、詳しくは追って述べるとした石田三成書状。
〈寛延二年〉十二月十五日 / 冊子 233頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0650
島津加賀守忠雅が十二月十五日付で、昨年願いどおり認められた自分の復源姓を踏まえ、同氏又四郎(元注久幹)が当月月次登城する際に叙爵を仰せ付けられると考えるので、その機会から復源姓とする取計いを願う。口宣を万端滞りなく頂戴できるよう再度願い出て、その趣旨を整えることも求める。目録は佐土原城主願書。又四郎の復源姓と叙爵時の口宣の取り計らいを求める願書である。