島津武久契状
文明十三年八月廿二日 / 冊子 498頁
島津武久が入来院又五郎に、三か国が変転しても父重豊以来の厚誼を保ち、一族として重要事を相談し、内外の事を隠さず相互に支えることを誓った契状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
71 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
文明十三年八月廿二日 / 冊子 498頁
島津武久が入来院又五郎に、三か国が変転しても父重豊以来の厚誼を保ち、一族として重要事を相談し、内外の事を隠さず相互に支えることを誓った契状。
(延徳二年)永伝元年八月廿一日 / 冊子 551~552頁
渋谷重豊が子の又五郎重聴へ、薩摩国入来院内の村・在家・田畠・山野などの所領を一所も残さず譲った文書。家領全体を後継者に集中して永代知行させ、親類・一族が異議や妨害を申し立てることを禁じ、重聴の相続権を明確にする。
天文十二年五月廿七日 / 冊子 812頁
北郷忠親が又五郎に、高城合戦で抽んでた戦功と志和池城攻略での忠節を賞し、所領を宛行った文書。
(元和五年)五月廿一日 / 冊子 700頁
島津家久が又五郎へ、遠路からの見舞い使者と帷子五領に謝し、幼少の又八郎忠平の船旅を案じたが、海路が静かで無事上着したことを喜んだ書状。
(寛永五年)五月十五日 / 冊子 62~63頁
島津家久が、又五郎が落馬したと聞いて容体を案じ、養生を怠らないよう気遣う。詳しくは使者に申し含め、暇が出れば下向して直接話すと伝える見舞状。
(寛永五年)六月十二日 / 冊子 63頁
島津家久が、又五郎の落馬を重ねて心配し、占いによれば現在の住居や二十六歳の年回りが良くないとして、祈念を十分にするよう勧める。詳しくは帰着後に話すと伝える仮名書きの書状。
(寛永五年)七月十九日 / 冊子 66頁
島津家久が又五郎の病状を気遣い、快方に向けば会いたいと伝える。住居内の大木や敷地の扱い、体調に応じた療養と帰参の時期について助言し、近況を知らせるよう求める。
(寛永五年)七月十九日 / 冊子 66頁
島津家久が、又五郎が落馬後の痛みに苦しんでいると聞き、現在の具合を尋ねる。養生を第一とし、詳しい様子を後便で報告するよう求める。
(寛永五年)九月廿五日 / 冊子 70頁
島津家久が又五郎に、江戸を十九日に発って順調に進み、近日中に桑名へ向かう予定を知らせる。妹にも同じ内容を伝えるよう頼み、急ぎのため詳述しないとする道中の消息。
十二月廿七日 / 冊子 195頁
川上忠兄が入来院又五郎に、仮屋所を進上されたことを受け、その掃除料として水田十町を加えると通知した書状。水田の所在は翌春に坪付をもって示すので、まずは承知しておくよう伝える。
(寛永五年)八月廿一日 / 冊子 68~69頁
島津家久が、七月二十五日付の書状が届いたことを喜び、落馬の痛みが回復したとの知らせを祝う。引き続き養生に努めるよう勧め、当地の御殿の予定はまだ定まらないと伝える。
(寛永十年)七月十二日 / 冊子 374頁
島津家久が、先年女性の身で江戸へ人質として長年滞在した功を賞し、知行三千石を与えること、本人一代は諸役などを免除することを仮名書きで伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 519頁
同日、入来院又五郎が砥山城へ押し寄せて攻め落とそうとしたが降参・和談となって一旦退き、同月七日に城を領した経過を記す譜記事。
(元和六年)五月五日 / 冊子 730~731頁
島津家久が、又五郎らの無事を喜び、下野守久元のもとへ人を遣わして兵部方に関する事情を聴取し、その内容に応じて処置するよう求め、自身も間もなく帰る意向を伝えた書状。
(元和六年)閏十二月十日 / 冊子 739頁
島津家久が又五郎に、遠路からの見舞使者と折樽・染物に謝意を述べ、公方からたびたび品を拝領して無事であり、来春早々に帰国する予定と伝えた書状。
(寛永八年)五月八日 / 冊子 210~211頁
四月二十日付の書状が五月八日に届いたことを述べ、きくもしがたびたび訪ねていること、翌九日の振舞と十一日の能の後に暇が出る見込みを伝える。妹と又五郎の病気を案じ、近日中に詳しい知らせを送るとした仮名書状。
年月日未詳 / 冊子 374頁
島津家久譜の記事。島津又五郎久近の母が先年江戸で人質を務めた功により、島津義弘の死後、家久が高三千石を与え、諸役・公事を免除する証書を授けたことを記す。
十八日 / 冊子 338頁
島狩りの帰途に庭へ立ち寄ったことを知らせ、又五郎が翌日来れば具合も良いとのことなので、自身も翌日一日中訪ねて話すとした島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作島津久逸の出生と伊作家継承を記す系譜記事。久逸は永享十二年に島津忠国の三男として生まれ、母は新納近江守忠臣の娘。伊作家の大安丸が早世したため、忠国の意向で久逸が迎えられ、大安丸の妹を妻として伊作家を継いだ。
文明十六年三月九日 / 冊子 507頁
文明十六年三月九日の犬追物について、下手に属する射手と各人の持足数を列記した手組。
延徳二年正月三十日 / 冊子 546頁
延徳二年正月三十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人が射た犬の疋数を記録した一覧。
年月日未詳 / 冊子 782~783頁
島津忠清の一流について、忠清・久近らの系統を図示し、元和八年六月十一日に生まれた久近の父を島津久元、母を島津義弘の第七女とすること、寛永十三年に十五歳で没したこと、後に島津光久の命で忠清の後嗣とされたことなどを記す系図。
十八日 / 冊子 343~344頁
梅の返歌を喜び、「咲き匂ふ梅の梢の嬉しさを、枕ならべて二人眺めむ」と重ねて詠み、妹らの来訪日程を調整し、梅の盛りに花見を催すことを提案した。先方の眼病も鷹に由来する軽症だろうとして薬を尋ねた島津家久書状。
八月十九日 / 冊子 21頁
寺院での祈念を急がせ、八畳敷ほどもある巨大な空洞木と上人の健康状態を報告し、又五郎に小さな木二本を求め、材木搬出の労をねぎらった秘密書状。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
康正二年三月八日 / 冊子 431頁
康正二年三月八日の犬追物について、島津氏・市来氏・肝付氏らの参加者を組別に配し、各人の定数を記した手組。
寛正七年正月十七日 / 冊子 453~454頁
島津立久をはじめ、鴨津氏・蒲生氏・伊東氏・伊地知氏・大寺氏・村田氏ら犬追物参加者を左右の組に分け、各人の騎数を列挙した手組。
年月日未詳 / 冊子 502~503頁
文明十五年八月廿一日に二宮新田八幡大菩薩神前で行われた笠懸について、射手や役割を列記した日記記事。
年月日未詳 / 冊子 710頁
島津尚久の字・通称と出生、母方、父忠良の法師名などを記した系図記事。
天文元年十二月吉日 / 冊子 713~714頁
薩摩郡平佐城退治に際し、入来院重朝が清色城堀口井手の地を松林寺同宿中へ寄進した一家文書。平重副・樺山融久・山口木工左衛門尉らが関係し、城中の安穏と武運長久を祈念して、寄進地の守護・祭祀と妨害排除を寺側に依頼する。
天文二年十月廿八日 / 冊子 719頁
笠懸射手九名の交名と、各人十射の的中状況・合計を黒白の丸印で記した成績表。
(慶長七年)十一月四日 / 冊子 859頁
島津忠恒が国元の家臣へ、上洛後に福島正則・山口直友や諸大名から格別の厚遇を受け、交渉が順調であると報告する。内府は関東へ下向中だが年内に上国する見込みであり、国元の諸事を念入りに処理するよう命じた。
年月日不詳 / 冊子 116頁
渋谷氏が鹿児島へ参仕した際の座配を書き立てた文書。忠隆公の御代における主居・客居の配置を示し、入来院・伊地知・高城・祁答院・東郷・樺山・北郷など各家の席次を図示する。
弘安三年十一月八日 / 冊子 306頁
播磨国下揖保東方の地頭職について、周防又五郎入道覚善に相違なく領知させるよう命じた後宇多天皇給旨。
(寛文二年)九月二日 / 冊子 452頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0981
綱久が島津図書へ、伊勢兵部宛の書状を読み、来息又五郎(久竹の傍注)が伏見で患った際、医者と看病人を付けたことを承知したと伝える。礼として遠路使僧を遣わされ、樽肴も到来したことを喜び、詳しくは兵部が口頭で述べるとする。
明和八年十一月二十八日(包紙は卯十一月二十九日納置) / 冊子 306頁/原整理番号 830/整理ID 830
この日、嶋津又五郎が家格どおりの進上物を差し上げ、御直元服を命じられ、土器・盃を頂戴したほか刀の拝領を命じられたことを記す。寛保二年戌に、今は亡き嶋津圖書が元服した際には土器・盃と肴を与えられたが、このたび又五郎には肴を与えず、今後は一門以外へ肴を下賜しない旨が命じられたので、帳面へ記録するよう申し渡す。十一月二十八日付、年は明和八年の朱注、左京の署を備える。包紙には、又五郎の元服に際して挾肴を下賜しない旨を左京から村橋左膳の取次で伝達され、横切の写しの書付どおり児玉主左衛門が承知し、卯十一月二十九日に納め置いたと記す。御譜中の文書の写しで、正文は文庫にある。
宝亀年間、暦応4年7月27日・8月14日 / 冊子 319~320頁/原整理番号 121
市来氏を後漢霊帝の流れ・阿知王の苗裔とし、大蔵政房から維房・三郎太夫・家房へ続く祖系と、河原・川上・上下角・中村・来迎寺・田口・櫨村・川崎・山野田・南・厚地などの一族諸流を示す系図。大蔵政房は宝亀年間に薩州へ下向し、市来郡司として鍋ヶ城に居住したとする。家房に実子がなかったため国分友成の二男政宗を養子としたとの説には『非ナリ』と傍注する。時宗(法名道尊)の代には、暦応四年七月二十七日に守護道鑑が市来へ出陣して城を攻め、道尊が降伏し、同年八月十四日夜に又五郎家郷・川上又次郎ら親類五人が戦死した。氏家(法名観意隆家)は蹴鞠の名人で禁中と将軍家の鞠会に列したといい、後段には守護忠国が市来を攻めて御手に入れた記事を記す。
建武2年2月20日 / 冊子 358~359頁/原整理番号 145
建武二年二月二十日、三月から内裏大番を勤仕すべき薩摩国の地頭御家人を列挙した交名注文。大隅二郎三郎・周坊蔵人三郎・式部孫五郎入道・渋谷小四郎入道・渋谷新平二入道・矢上左衛門二郎・渋谷彦三郎入道・指宿郡司入道・比志島彦太郎・渋谷弥二郎・智覧四郎・光富又五郎入道(友経、心楽)・朝岳強三郎の十三名を、次第不同・常参分として掲げる。鎧・直垂・『てうつかけ』を用意すべきことも指示し、真本は比志島氏家蔵と注記される。
年次・月日不記(島津忠隆の代) / 冊子 582~583頁/原整理番号 93
島津忠隆の代に渋谷氏が鹿児島へ参上した際の座配を示す記録。『主居』には忠隆と入来院又五郎重朝・伊地知周坊入道・祁答院又次郎、『中居』には東郷弥次郎と椛山藝州入道長久を配し、続く『上下』には高城秋月・伊地知縫殿助などの名を記す。人物名を単純に一直線の序列として並べたものではなく、主居・中居など席の区分と各区分内の配置を記した点が特徴。年月日・差出人・宛先は本文にない。
永禄七年八月天正日 / 冊子 135頁
陸奥守島津貴久が又五郎へ「忠長」の名を与え、「忠」「長」両字の読みを反切で示した加官状。永禄七年甲子八月天正日の年紀を載せ、忠長譜中の記事にいう俊安和尚が書したものとみられる。
記事中同年三月五日(目録は安永二年) / 冊子 359頁/原整理番号 1007/整理ID 1007
重豪公御譜中の記事。同年三月五日、夫人と真合院殿、諸翁主・側室等がそれぞれ代香を行った。真合院には故松平修理大夫重政の夫人との注がある。嶋津備前貴儔・若狭忠救・兵庫久徴・因幡忠温・淡路守久柄等は各々祭文を献じた。左衛門久健・駿河久敦・又五郎久当・筑後久倫等と家老・若年寄・大目付・側用人・近習役・添用達等も献贈を行う。一門以下に関する注に久倫の妻女が世話をした旨があり、家嗣もそれぞれ香饌を献じたと記す。中山王尚穆は上折一合、竹心香・芳茗等を献じた。代香・祭文・献贈の主体を分け、藩内の人々と中山王からの贈物をあわせて収録する。
康正二年三月八日 / 冊子 123頁/原整理番号 15
康正二年三月八日の犬追物手組。陸奥守殿八疋をはじめ、島津又五郎・助九郎・又七・又十郎らの犬数を列記し、検見を島津伯耆守とする。
天文二年十月廿八日 / 冊子 141頁/原整理番号 72
天文二年十月二十八日の笠懸射手交名。近江守殿・四郎殿・安芸丸・本田紀伊守・島津又五郎らの射手別に黒丸と白丸を配し、欄下に数を記した図式である。
年月日未詳 / 冊子 355頁/原整理番号 57
泊の役を命じられ、七間の仮屋を建てたことを記す覚書。翌年三月に義久が川上・新納・摂津守・大野らを伴い、一夜その仮屋に泊まった。坊津では一乗院の頼忠法印のもとへ移り礼を行い、のち仮屋を山崎但馬へ返した。鹿籠野の馬、島津又五郎の鹿籠に関する依頼、知行についての会見を申し付けられたことも記す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同十四年寅十一月十九日 小字・補記(別層):(文明) 補記(正文と別層):(文明) / 冊子 133~134頁/整理ID KW1-G000101
武久公が益房丸を加冠し、又五郎忠清と称したと記す。 証帖を後に掲げる。
本文日付:觀應二年八月 日 / 冊子 321~322頁/原整理番号 四六六/整理ID TMP-P02-NENE4-D0466
冒頭では祢寝五郎入道と息又五郎清増が、建武三年以降御方として御手に属し隅州・日州・薩州各所で合戦した旨を申告する。 三月廿七日の大始良城、四月四日の同城攻略、十日の加世田城、七月十一日の鹿屋院高隈等の軍忠を挙げる。 今月三日以降の始良庄等の合戦・討取を述べ、「親類六郎次郎被疵訖」とも記す。 各所の軍忠について一見状を求め、末尾には建部清増とある。
文書日付:けんかう三ねん五月十六日 補記(正文と別層):元亨(小字) / 冊子 464~465頁/原整理番号 七一六/整理ID TMP-P03-IKEHATA-JOJO-D0716
あませんあが、ちやくしいや二郎きよたねへ祢寝院内の田地屋敷を譲る。 ミなミにうたうの薗とまかと内の田五反を列挙し、小字で境は本証文にあると記す。 又五郎きよすミの御けちに対し、本文が「しやてい」と呼ぶ五郎二郎しけきよがかわち殿の御手で越訴し、ミふんと仰せられた旨を記す。 御配分が御評定に上り関東に御注進があることを踏まえ、手自筆で永代を限って譲る。御けち等の細部語釈は留保する。
現行年紀:文明十四年十一月十九日 / 冊子 134頁/原整理番号 235/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0235
武久が祢寢又五郎殿に加冠状を与える。 建部忠清の名を記す。
本文日付:文和五年四月廿八日 / 冊子 322頁/原整理番号 四六八/整理ID TMP-P02-NENE4-D0468
大隅国始良庄内の「得丸六郎五郎事」について、合戦祈所として預置する旨を伝える。 早く領掌し、さらに軍忠を致すよう祢寝又五郎殿に命じる。
本文日付:貞和六年十一月十七日 / 冊子 332頁/原整理番号 四九五/整理ID TMP-P02-NENE4B-D0495
祢寝五郎入道道恵の息又五郎の得分として、彦松童・土持童・やす房童を挙げて譲与する。 このほか先日付した奴原等は記載に及ばないと述べる。 「いさゝいらんをなさぬものハ、たうゑか子孫ニハあらさる也」と記す。条件の否定・正負は意味留保し、譲状を作る。