入来院重時知行方目録
天正18年12月28日 / 冊子 487頁
入来院家の所蔵文書として、市比野名のうち納拾八谷津殿先に関する知行方を東郷助左衛門尉へ示した目録。入来院領内における土地の所在と給付先を短い記載から確認できる。
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天正18年12月28日 / 冊子 487頁
入来院家の所蔵文書として、市比野名のうち納拾八谷津殿先に関する知行方を東郷助左衛門尉へ示した目録。入来院領内における土地の所在と給付先を短い記載から確認できる。
天正21年正月23日 / 冊子 666~667頁
白下・赤下・上之原・田島山畑などに散在する田畠・屋敷を、地目ごとの面積とともに列挙して東郷助左衛門尉へ与える。 合計は二町一反二畝一分、米高二十石二斗五升三合三夕二才と算定されており、入来院重時家中の知行を面積と収穫高の両面から確認できる目録。
慶長五年十一月二日 / 冊子 609頁
島津忠長ら四名が本田助左衛門尉へ、薩州知覧の西別府村百二十三石六斗八升五合と、庄内末吉の深川村七十六石三斗一升五合、合計二百石を加増として宛行う。
三月二十四日 / 冊子 777頁
平田増宗が本田助左衛門に、熊嶽へ日新が以前判物で付与した所領について、近年の中断を経て再び付与されたため滞りなく引き渡すよう命じ、細部を使僧の口上に託した書状。
(慶長六年)八月二十三日 / 冊子 777頁
鎌田政近が本田助左衛門の来訪と尽力に謝意を述べ、熊嶽へ使者を遣わして尋ねる事項を書き付けさせるよう求める。急ぎのため帰国後を待たずに依頼し、本多正信の当地来訪にも触れた書状。
四月廿四日 / 冊子 224頁
四月二十四日、新納為舟が山田助左衛門に、犬童休矣の書状が夜前に届いたこと、奥州様の船衆からの注進は格別の事情ではないことを伝え、委細は書面に尽くせないとして早々に帰着するよう求めた書状。
三月四日 / 冊子 41~42頁
平田増宗が、熊嶽に以前付属させた柴屋一間の引渡しについて本田助左衛門尉へ命じた書状。近年破損していたものを再度付属させたので、現地で確認して異議なく引き渡すよう求め、詳細は使僧から説明させると伝える。
十一月十五日 / 冊子 150~151頁
入来院重時が東助左衛門に、ある者へ持たせた一種の件は評判が悪いと聞くため差し置くよう伝え、自分に有利になるよう調法を依頼した書状。下総守の船が来た際に一札を預けたこと、遣わされた品への謝意、帰国時期が未定であること、木の子・舞茸の贈答、下総守・杢七郎の無事を喜ぶ旨を述べる。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 291頁
八十島助左衛門佐が旅庵の来訪に礼を述べ、算用・免合について石田三成へ詳しく申し入れ、条書を送ったので関係者へ伝えるよう依頼する。朝鮮では帰国船出発予定の十・十一日ごろ、小西行長の居城が敵船約五百艘に包囲されたため、島津義弘が播州飾磨の古城を引き払い、十七・十八日に後詰へ向かい、諸将も救援したと報じる。結果は未詳ながら勝利を期待し、続報を約す。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 292頁
八十島助左衛門佐が、石田三成は来月十日ごろまで博多に逗留する予定なので、旅庵の帰着後二日目から留守中は四日ごとに博多へ飛脚を出し、伏見へ上った後も四日ごとの当番で伏見まで送るよう命じたと伝える。当番割の書付を提出し、最初の便には橋本・入江両人の書状を携行させるよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 587~588頁
永正三年七月十一日の土川合戦後、山崎助左衛門が捕虜・被官・領知の処置をめぐる交渉を記した覚書。和泉氏・阿多民部左衛門尉ら当事者の申し分を整理し、誰を返還・召し抱えるか、所領をどう扱うかについて島津忠興が下した裁定を伝える。
元亀二年十一月廿日以後 / 冊子 310頁
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 696頁
殉国した島津方将士の名と没年月を掲げる記事。鬼塚助左衛門、伊集院若狭らに関する記載を収める。
年月日未詳 / 冊子 765~766頁
東郷軍広の知行分について、田方の各所を石高・斗升・面積とともに列記した検地帳。東郷助左衛門尉の名を掲げ、黒尾迫・牟田・藤渡・橋口・小長山など各地の田を一筆ごとに記録する。 文禄検地後の知行構成と村落内の耕地配分を数量から追える基礎史料で、松本武辰の署判を伴う。
(慶長四年)十月廿六日 / 冊子 464頁
島津義弘が又八郎に、中務からの使札で今月二日に庄内へ着陣したと知り、勝利を祝う。現地の様子を確認するため坂井助左衛門尉を派遣したので、到着しだい事情を詳しく申し聞かせ、直ちに帰途へ就かせるよう求め、追書で鷹一羽を贈る。
(慶長五年)正月六日 / 冊子 496頁
島津義久(龍伯)が又八郎に新年の賀意を述べる。又八郎がすでに到着する頃と待っていたが、境目からの報告があったためかと推し量り、一、二日は事情を聞き合わせることが肝要だと助言する。詳しい趣旨は本田助左衛門尉へ申し含めたので、書状では細述しないとする。
年月日未詳 / 冊子 625-626頁
石田三成が八十島助左衛門を使者として島津勢に敵へ押し寄せるよう求めた。島津豊久は各々が手柄次第に働くべきで石田方も同様に心得るよう答えた。石田は了承して戻ったが、まもなく軍勢が崩れ敗走した。
(慶長十一年)四月廿二日 / 冊子 68頁
島津義弘が島津忠恒に、正源院・戸田助左衛門尉ら使者からの申し入れを受け、命令や約束を関係者へ伝えたと報じた書状。国元の急務について早急な指示を求め、使者の帰還後も連絡を続けるとする。
年月日未詳 / 冊子 335~336頁
島津忠良自筆の正文が指宿助左衛門に伝わったとされる『白毛十首之和歌』。白髪を題に、老い、鏡に映る姿、染めても戻る白髪、死への覚悟などを十首に詠む。
九月七日 / 冊子 419頁
勢田宗句が島津龍伯へ、薩摩滞留中の厚恩に謝し、当国の八十島助左衛門尉が下着したため書状を託すと伝える。留守役人衆の配慮で日々命をつないでおり、龍伯の下国時に詳しく申し上げたいと述べた書状。
正月六日 / 冊子 380頁
新春を祝い、又八郎の越着を待っていたが境目からの連絡があったため一、二日は時機を見計らうことが重要だとし、詳細は本田助左衛門尉へ申し含めた島津龍伯書状。
年月日未詳 / 冊子 411~415頁
『殉国名薮』は、慶長四年の庄内合戦で戦死した島津方の武士を、月日・戦場・所属や続柄とともに列挙する。六月一日の中田十郎をはじめ、山田城・恒吉・安永・高城・北郷・神田橋など各地で討死した町田新助忠玄、長野藤兵衛、平田三五郎、上井仲五兼政ら多数を掲げ、六月から翌年正月に及ぶ戦没者の記録をまとめる。
(慶長五年)二月十四日 / 冊子 512~513頁
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、庄内の談合や若者を京都へ上らせ内府に奉公させる件、京都へ戻った本田六右衛門尉らの動向を報じる。北原・堀を庄内へ派遣し、山口勘兵衛尉や奉行衆の処置に疑念を示しつつ、伊東祐兵とも相談して慎重に対応するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 241~242頁
琉球在番の初代・二代の担当者と、寛永八年以降に那覇へ入津・出帆または琉球へ派遣された武士・町人・医師らの氏名、役目、在番時期を列記した注文。
年月日未詳 / 冊子 339頁
御文庫二十二番箱所収の島津忠良詠草。本文はNo.809『白毛十首之和歌』と同文のため省略され、出典注と同文省略の注記のみが掲げられる。
正月廿八日 / 冊子 22頁/原整理番号 34
川上久国が勝部助左衛門尉へ、肥後八代の家老衆の一色杢□に宛てた書状を、そちらの軽衆に持たせて早急に届けるよう命じる。返事が来たら次の飛脚で久国のもとへ届け、油断しないよう求める書状。
二月八日 / 冊子 100頁/原整理番号 158
川上久国・三原重庸が勝目助左衛門尉へ、一色杢頭宛の書状を肥後八代へ軽い衆に持たせ、世上の物音をさりげなく聞き回って帰るよう使者へ申し付けることを求める。
年月日未詳 / 冊子 730~731頁
天文四年四月三日、川上大和守昌久が死去し、高木左近・竹迫助左衛門・鍋倉筑後・宮野原助右衛門・肝付兼利ら五人が殉死したことを記す。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 308~310頁
伊地知重興が肝付・禰寝・伊東方と結び、三百余艘で鹿児島湾へ侵入した海戦を詳述する。鹿児島では伊集院善左衛門が鉄砲で戦死したが、帖佐地頭平田美濃守ら約五十人が瀧水の要害を守り、勝部与左衛門が鉄砲で馬場玄蕃・田上助左衛門らを倒した。敵は上陸を断念し、島津家久の指揮する瀬戸村も避けて下大隅へ退却した。
(寛永十二年)八月十九日 / 冊子 489~491頁
島津久元・伊勢貞昌が、江戸屋敷火災後の金銀盗難の吟味、被災者への扶助、屋敷再建、火災予防、祈祷、長崎助左衛門尉への給米など複数の処置を国元へ指示した書状。
天明四年正月(記事中の褒賞時期) / 冊子 739頁/原整理番号 2086/整理ID 2086
助左衛門は本府の士池水源右衛門の僕で、貧しく妻を迎えられず母と暮らし、雇われ仕事で得たものを母の衣食に充てていた。重豪は天明四年春正月、その孝行を賞して若干の品を与えた。
年月日未詳 / 冊子 614頁
加藤清正が女真方面へ進軍している間に朝鮮軍約六万人が金海城を包囲したため、救援兵を派遣して敵を退散させた経過を記す。 その後、諸将の移動・金化への駐屯・渡海関係の軍事行動を述べ、島津義弘父子が朝鮮各地で担った作戦の位置を伝える譜記事。
(慶長十年)八月七日~九月十六日 / 冊子 28頁
島津常久譜の記事。八月七日、鎌田政近の使者が、朝鮮人の女性を質人として乗せた船が大坂に着岸したと報じた。続いて、常久の座上の壁にいた手飼いの青鷺を大樹の鷹師与右衛門尉が持ち去り、西牟田辺右衛門・税所久右衛門が追跡して負傷させたため、鷹師衆との騒動となり、両名が追放された経緯を記す。八月九日の質人の伏見到着、同月二十一日以降の使節往来も記録する。
七月六日 / 冊子 33~34頁
賦所が、諸士と従者の人数、夫役、船数、乗船地、飯米の受領方法を定めて平田狩野介・上原源右衛門尉へ達した文書。如瀬浦・名護浦へ移動し、山田主計助の指示で乗船すること、三枚帆三艘への割付や三日分の飯米を用意することなどを命じる。
文政13年11月21日 / 冊子 66~67頁/原整理番号 58
奈良原助左衛門家の肥後合戦御陣立日記は先年御記録所で模写されていたが、本書が雨漏りで汚損したため、願いを受けて再写し字画の相違がないと確認した副書。文政十三年十一月二十一日に御記録所関係九名が連署し、本書を従前どおり保管するよう伝える。軍事付記は、海路の不自由から陸路直通を相良側に求め、陸路を切り通して水俣へ三陣を置き、水俣・芦北・七浦・八代へ進んだという由来を説明する。
正月22日、長崎より京へ松方助左衛門署 / 冊子 470~472頁/原整理番号 640/整理ID 640
大勝利と勅書受領を祝い、鎮臺の脱走後に長崎西役所を会議所として各藩が毎日集まり、外国交際と鎮撫にあたっていると報告する。各国談判役との協議、鎮臺が持ち去った金八千両・米一万俵余を人民へ返し配るとの相談、十四日夜の強盗・割服等の刑事処置と統治上の懸念を記す。江戸の情勢への驚き、病院関係者の志や關要之祐の早い来崎を求める件、島原の重役と諸藩の協議、天草の浪人三十人・庄屋の問題と鎮撫の相談を続ける。渋谷彦介の一小隊と監軍の派遣、茂木で二~三百人を出すとの風評、自身の天草行きの意向も記す。外交談判を急ぎ、刑事処置や争論には慎重にあたり、人民の信頼を得る公平な取扱いを望むとして、正月二十二日に松方助左衛門が長崎から右衛門へ送る。報告・風評・提案と未詳の点を分ける。
「寛永十七年」六月十九日 / 冊子 120~122頁
島津光久が国元の重臣らへ、金掘りの方法を調べるため、佐渡などで経験を積んだ松平隠岐守家中の者から新納右衛門佐・五代正介・山田十左衛門に詳しく聞かせたことを伝えた書状。あわせて薩摩の作法や家中の仕置が悪化しているとして、松平隠岐守らとの相談、家老・親類・家臣の処分、申合せと秘密保持を厳命し、必要時には新納加賀守・勝目助左衛門尉らを付けた人数を派遣する手順まで示している。
正保二年三月二十八日・十二月二日 / 冊子 8頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0012
喜入忠続・相良頼屋に関わる殉死者を列記する記事。三月二十八日に篠原平左衛門宗次・田代助左衛門、十二月二日に山之内伊右衛門を記し、いずれも殉死とする。
明暦元年十二月廿六日 / 冊子 358頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0760
挿入された御条書抜。十八条は犬追物用務で上る福屋助左衛門につき、江戸在府の伊賀守側で馬を貸し、国元から主従八人を馬を立てず上らせる指示である。原注は正保二年ならん・酉十月十五日。十九条は慶安三年ならん・寅三月十五日の衣装節約、二十条は役人の賄賂・進物受取禁止、年一度の神文と遠方勤務の沙汰を記す。
延宝二年七月二十七日 / 冊子 633頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1562
戸田忠昌が島津光久へ、無事を喜び、当地の町屋敷に置かれていた福屋助左衛門に代えて村田為左衛門を上らせた件について、書面の趣旨を承知したと答えた書状。
延宝二年八月十一日 / 冊子 635頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1570
仙石久俊が島津光久へ、六月二十五日付の書状を江戸で拝見し、京都屋敷留守居の福屋助左衛門に代えて村田伊左衛門を上らせたこと、用事があれば相談するようとの意向を承知したと答えた書状。
明和二年 正月廿一日(年は朱注) / 冊子 50頁/原整理番号 158/整理ID 158
髙橋此面・嶋津左中の連署状。官位の口宣・宣旨を受領する使者高橋七郎右衛門が京都へ行き、禁裏への献上物や脇への贈物等を先規どおり済ませ、口宣・宣旨を滞りなく受け渡し、去る十一日に当地へ帰着したと報告する。その後の口宣・宣旨・女房奉書二所への伝達等を尋ねる。長く当地に置くと火事等が心配なので、口宣・宣旨は先の差越し方と同様に送るよう命じられ、新納市右衛門・橋口助左衛門が宰領し、足軽二人を付けて、一昨十九日に差し立てた。到着後は先例どおり道中静渡の扱いで記録所へ納め、内箱を左中切封で送り、詳しいことは国元の記録奉行から同役へ照会させると伝える。正月廿一日付、年は朱注明和二年。出典注は全上・扣正文在家老座。
明和二年五月十二日 / 冊子 94~95頁/原整理番号 181の86/整理ID 181-86
大目付池田筑後守から廻状一通を受けて越中守・阿波守へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から筑後守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子がいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十二日、阿波守内の市原甫蔵・小川夷左衛門・前田助左衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の記載に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書には、両家衆から添廻状付きで原廻状が到来したため書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出たとある。
慶長6年12月13日 / 冊子 270頁/原整理番号 107-12
慶長六年十二月十三日、御兵具所が年越しに用いる供物・器具を列挙し、御代官所から山下助左衛門尉が奉行した達書。御甲・御鏡には各七重の餅と大折各七つ、御持道具には五重の餅と中折五つ、御長刀には三重の餅と中折三つ、具足には餅十七個と足付折敷十七枚、番具足五十両には小餅九十九個・平折敷十一枚、諸道具には小餅百三十五個・平折敷十五枚を用意する。総計は大餅五十三個(うち中餅二十五個)、小餅二百九十七個とし、ほかに台盃、手掛、新筵一枚、大根等を掲げる、兵具類に対する年中儀礼の具体的な調度・供物構成を伝える文書である。
慶長6年12月3日 / 冊子 363頁/原整理番号 162
慶長六年十二月三日、村田雅楽助が羽島藤右衛門尉へ与えた加増目録。屋敷三畦・高三斗、原文仮名表記『きゃうの本』にある法楽寺三反二畝八分のうち中田七畝十五歩などを掲げ、三行分は略記したうえで田畠合計三石とする。法楽寺の助左衛門尉に関する傍注があり、『旧記雑録後編三』一五七九号文書と同一文書と注記される。
〔延宝六年〕三月十三日 / 冊子 222頁/原整理番号 3
勝目助左衛門宗将が、石庵妙庵大姉の出自と猿渡家の系譜照会への対応を記した覚書。石庵妙庵大姉は天正十四年生まれ、寛永六年十月十八日に帖佐で四十四歳で没し、猿渡越中守の子・掃部兵衛の娘であるとする。系図作成に必要な返答書の催促と照会経緯を記し、延宝六年三月十三日、猿渡喜右衛門信安宛に送る。
〔元禄十二年〕六月十日 / 冊子 227頁/原整理番号 8の1
猿渡信安が二男猿渡助左衛門の初御目見と太刀進上を願った口上覚。二男ではあるものの、先祖代々の奉公と分家筋の由緒を踏まえて御目見を仰せ付けてほしいとし、あわせて太刀を進上する許可を求める。元禄十二年六月十日付。
〔元禄十四年〕七月二十二日 / 冊子 245~246頁/原整理番号 21
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見と太刀進上を願った口上覚。先に提出した家筋由緒書二通について、その後判明した内容と食い違うため返却を願う。あわせて家老衆から返された感状・書状の経緯と、猿渡越中信光から宇都宮次郎左衛門への羽月移封由緒を鮫島仲兵衛へ書き送ったことを付記する。
元禄十四年十月五日 / 冊子 247頁/原整理番号 23の1
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見を改めて願った口上覚。前年六月以来の願いと太刀進上の希望、提出済みの家筋由緒を述べ、猿渡藤三郎・藤四郎実信以来の系統や代々の戦死・奉公を示す。家筋の由緒書を添え、助左衛門の御目見実現を願う。
八月十一日 / 冊子 19頁/原整理番号 6-1
差出人の署名がない八月十一日付の平田清右衛門宛書状。加治木にいる川上助左衛門を呼び寄せようとしたが、八十三歳で歩行が難しく来られないとの返答を受け、代わりに事情を口上できる者を頭書で尋ねたいと伝える。