加世田春成氏由緒書
年月日未詳 / 冊子 833~834頁
島津日新のいろは歌を、歌学に通じた加世田春成が使者として京都へ持参した由緒を記す。春成は半松斎宗養らの仲介を得て近衛稙家に披見を求め、その内容と表現について評価を受けた。島津家の教訓歌が中央文化人へ紹介された経路を伝える。
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年月日未詳 / 冊子 833~834頁
島津日新のいろは歌を、歌学に通じた加世田春成が使者として京都へ持参した由緒を記す。春成は半松斎宗養らの仲介を得て近衛稙家に披見を求め、その内容と表現について評価を受けた。島津家の教訓歌が中央文化人へ紹介された経路を伝える。
年月日未詳 / 冊子 834頁
加世田春成が京都から下向する際、宗養法師の預書状を携え、市正殿への召置きや扶持を受けた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 861頁
加世田浄福寺に戦亡者の位牌二本があり、天文十七年七月七日に施餓鬼を行ったことを記す。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
年月日未詳 / 冊子 834頁
いろは歌の披見が済み、宗養法師から歌道の稽古と忠良公の詠歌閲覧を喜ぶ旨を伝えられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 378~379頁/原整理番号 348の8
船誘いのため徒歩衆一人が必要として、今晩早く参着するよう加世田の曖衆へ求めた書状である。翌日の出船準備に伴う急な人員派遣要請を示す。
(明応九年)十月十七日 / 冊子 578頁
喜入忠弘が加世田河内守に、菊三郎をめぐる相談への返答がないことを述べ、事情を確認して早急に返事をするよう求めた仮名書きの書状。
年月日未詳 / 冊子 578頁
島津久逸が島津忠興と島津忠福の加世田城争いで忠福方に加勢し、明応九年十一月十一日に六十一歳で戦死し、善勝寺殿徳瑠輝公と追号されたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 755頁
天文六年正月の竹之山合戦から島津実久方の退却までを薩州島津実久譜に基づいて記す。島津忠良・貴久方との戦闘、周辺諸城の攻防、本田・伊集院・加世田諸氏の動きを追い、実久方敗退後の加世田・伊集院方面の城・所領処置へ至る経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 756頁
天文六年四月以降、実久・加世田方との和睦と所領処置、伊集院・鹿児島・谷山・吉田方面の統治や防備について記す。
年月日未詳 / 冊子 760頁
実久が志布志から清水へ移り、大隅の兵を召集して相州・加世田方面への対応を進めたことと、入魂・所領処分に関する意向を樺山玄佐が記す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
島津勝久の鹿児島帰還後の政情と家臣処罰を背景に、忠良方が加世田城を攻めた経過を記す覚書。島津貴久・忠将、鎌田加賀守らが城内へ攻め込み、敵兵を追撃した一方、味方武士も戦死した。攻城の進路、城内戦、追撃までを当事者の記憶に基づいて伝える。
(慶長十四年)三月廿日 / 冊子 211頁
三月二十日、島津家久が樺山久高に、出帆後の到着報告を待っていること、加世田永良部らを派遣したこと、琉球へ無事着岸すれば早急に帰帆の要点を知らせること、軍衆への慰労品等を伝えた書状。
四月十日 / 冊子 41頁
比志島国貞と伊勢貞昌が、川辺宝福寺領内の加世田小湊にある塩屋について連署した書状。塩屋の加子役を免除する一方、その地で殿役などが課される場合は確実に勤めるよう申し付ける。
七月十八日 / 冊子 93頁
相良為続が入来院氏に宛てた書状。道中が滞り音信できなかったことを詫び、八代滞在中の情勢と当国の平穏を図る考えを伝える。薩摩から来る客僧を支障なく扱うよう頼み、加世田新・大方殿をめぐる関係では、親子以上に互いを大切にして表裏なく結束するよう諭している。
年月日未詳 / 冊子 317頁
『日新記』の記事。加世田へ移居した後、迎陽の春に家臣たちが鷹屋八幡福壽三社へ参詣し、加世田の侍臣らも参集して神拝を終えたのち、忠良に拝謁したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 329頁
加世田の五社に小破が生じたため修理を加え、国家興隆のため祭祀を専らにしたとの記事。
年月日未詳 / 冊子 331頁
阿多と加世田が万之瀬川の鎮守の渡で戦った際、劣勢から退いた阿多勢が再び進撃し、激戦の末に敵数十人を討ち取った記事。肥後掃部左衛門・宮人・井尻四郎左衛門らが戦死したため、その忠節に報いるべく戦死地に六地蔵を建立し、冥途の灯とした。
年月日未詳 / 冊子 332頁
加世田保泉寺に戦亡帳を作成させ、水田三町を寄附した記事。日々水を供え、毎年七月の盆には戦死者供養と施餓鬼を絶えることなく行わせた。
五月二日 / 冊子 355頁
島津貴久が摂津介へ、菖蒲の頃に加世田へ赴く予定と、伊地知から来た栗毛の馬について述べた書状。芸州の者の望みを聞き、父の馬との差し替えや敵方との交渉を検討する。
康永二年四月五日 / 冊子 754頁
薩摩国加世田別符の相模六郎跡半分について、同年三月二十六日付下文に基づき、島津大隅左京進入道へ沙汰付けて所務を行わせるよう命じた島津貞久書下。
11月21日 / 冊子 388~389頁/原整理番号 354の16
『大唐竹等調へ申付状』は、覚、十一月二十一日。大唐竹五十本(四、五寸廻り)と小唐竹十一束(目上げ一尺八寸廻り)を掲げる。末尾では、天草出陣に伴い、小湊から出す五枚帆四艘・四枚帆一艘、計五艘のため「そつかう」三竿を油断なく調えるよう加世田小湊庄屋衆へ命ずる。
11月21日 / 冊子 390頁/原整理番号 356の1
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、鮫島惣次郎・窪田越右衛門・小田原弥右衛門・石塚伊左衛門・吉峯覚左衛門・藤田大学助の各主従へ真米・赤米各三斗五升を割り当てる。末尾では、天草一乱の加勢で小松原・大崎から仕立てて出水へ送る船の上乗加世田衆中へ、同日以後三十日分の飯米として銘々に渡すよう三原源右衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
正月5日 / 冊子 561頁/原整理番号 572
加世田地頭喜入摂津守忠政の申渡案文。島原出陣に供する人数を割り付け、船送・陸路、兵糧米、武具、船の準備を定める。限日までの提出と不足時の代替を命じる。正月五日付。
享和二年十月 / 冊子 231頁
島津貴久の葬所をめぐる異説を検証した補注。旧説では福昌寺の石塔を墓としたが、祭文や加世田の伝承から日新寺常潤院山中説が唱えられた。享和二年、本田親貞・相良常旭が現地調査すると石塔には「大中公」とだけあり、埋葬を示す銘記も伝承もなかったため、加世田で葬儀後に福昌寺へ埋葬し、常潤院の塔は灰塚と結論づけた。誤説をあえて残し、誤りの経緯を明らかにすると説明する。
永禄ノ初年五月朔日 / 冊子 349頁
島津貴久が又三郎へ、入来院をめぐる交渉と河内の明渡し、東郷・祁答院・菱刈・相良・北原・蒲生・肝付らの動向を詳述した書状。加世田への報告を求め、各勢力との調略・出頭・奉公をどう進めるか判断を促す。
年月日不記(慶長三年・天文元年などは各人の生没・事績年) / 冊子 630~639頁/原整理番号 114
平姓加世田氏の長大な系図で、桓武天皇五代の平良文を祖とし、村岡・鎌倉などの系線から薩州へ続くとする家伝、各代の婚姻・養子・官途・法名を載せる。景通を源頼光朝臣の四天王の一人とし、信道らを代々川辺の城主と記す。益盛には十三歳で肥後の首級を得たこと、高城での働きと知行加増の記事があり、忠吉には平治元年の追罰による琉黄島への流罪を記す。後代では家長が慶長三年に朝鮮国の番船で戦死し、子がなかったため景昌が跡を継いだとする。末尾の別紙には加世田新兵衛尉の朝鮮国での戦死、弟次兵衛の別家創設、折田清七郎三男を養子に迎えたことを記し、嫡流と分家の継承を補う。
年月日未詳 / 冊子 298頁/原整理番号 33
加世田氏系図を採録し、季元から良忠・良道らへ続く家筋と分岐を示す。人名の傍注を伴う系譜資料で、隣接する得丸氏・阿久根氏の系図と比較できる。
年月日未詳 / 冊子 89頁
永禄四年七月十二日に廻城近くで戦死した島津忠将(心翁大安居士)を追善するため、嫡子が戦死地に七宝の塔を建立したことを記す碑銘。天正三年八月の日付を持ち、忠将の武功と供養の趣旨を漢文と偈で述べる。
観応二年六月廿一日 / 冊子 809頁
加世田合戦で負傷した得丸六郎五郎良世方の者について、四月十五日と五月三日夜の合戦ごとに、孫七良世、新平、彦三郎らの切疵・負傷箇所を列記した手負注文。
安永八年冬十一月(自己年記)、鶴捕獲は同月十八日(本文) / 冊子 589頁/原整理番号 1655/整理ID 1655
正文在諏方社とする記。安永八年冬十一月、田布施郷へ行って放鷹し、鳧や鴈を数百隻得、さらに加世田郷の益山村で鶴一隻を獲ったと記し、その日は同月十八日だったという。画師にその様子を板へ描かせて扁額とし、加世田郷諏方大明神廟の壁に掛けた。初めから鶴を獲ることを意図していたが、鶴は形が大きく性が警戒深いため、制し難く近づき難い、実に獲り難い鳥だと説明する。そのため城下と田布施郷・加世田郷の神廟に祈って助けを借り、捕獲を群神の賜と考えて、各廟へ扁額を一つずつ献じ報謝したという。鶴を獲った鷹の名は田布施隼で、初め田布施郷で取ったため、その名を付けた。金眸玉爪の尤物であり、手ずから馴らしたと記す。末尾に源重豪記、知学事臣山本正誼薫沐敬書の記署がある。鳧・鴈を数百隻とする記載と鶴一隻を分け、田布施隼は当該鷹の名として保持し、現代の種名へ置き換えない。捕獲の神助説明は本文の認識、板画の扁額は本文中の制作・奉納記述として示す。
11月22日 / 冊子 396頁/原整理番号 361の1
『平田宗直案文留帳』所収の十一月二十二日付書状。小松原へ送った船の上乗に金田四郎左衛門を割り当てたところ、本人が自分の乗る船は都合が悪いと申し出たため、相談なく鮫嶋惣次郎を指定したと説明する。惣次郎側から希望したのではなく、上乗がいなかったため差出側の判断で申し渡したと伝え、急用として加世田御曖衆中に了解を求める。
元亀二年三月吉日 / 冊子 243頁
日新寺へ大鐘を鋳造・寄進した鐘銘。日新を薩摩・大隅・日向三州太守梅岳常潤在家菩薩と称し、文質慶才大姉ら功徳衆を列記する。梁武帝と誌公の説話を引き、鐘声を聞けば地獄の衆生の苦が一時止むとして、鐘音が広く響き安楽をもたらすことを願う。鋳造者・修造者も記す。
康永二年三月廿六日 / 冊子 754頁
越中国田中保の惣領分と、同国横江三郎入道跡の替所を充て行い、先例に従って早く領知するよう命じた島津貞久書下。
安永八年十一月十八日(本文同年・目録) / 冊子 588頁/原整理番号 1654/整理ID 1654
重豪公御譜中の記事。同年十一月十八日に加世田郷へ行き、益山村で鶴一隻を得たと記す。この行きの意は鶴を獲ることにあったが、鶴は獲り難い鳥なので、城下五社と田布施郷・加世田郷の神廟に祈って助けを借り、獲ったため、各廟へ扁額一枚ずつを謹んで献じて謝したという。額の裏に事の詳細を記したので、その一つを次に挙げると結ぶ。捕獲と奉納を神助への報謝として述べた記事であり、神助の説明は記事の認識として保持する。次の祈願記を指す導入と当記事の本文を区別し、当記事には鷹の名や鳧・鴈の捕獲数を加えない。
明治3年午11月知政所 / 冊子 772頁/原整理番号 987の10/整理ID 987-10
川畑伊右衛門を、伊作・加世田・阿多・田布施・日置・永吉の地頭に繰替するよう命じ、関係向々へ知らせる。明治三年午十一月知政所。
年月日未詳 / 冊子 585頁/原整理番号 625
『加世田小川監物日記』。九日に百五十人を打ち立て、江口・市来・串木野を経て米之津へ向かい、山田民部の指示で人数を差し出して兵糧を受領した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 594頁/原整理番号 647
十一日、喜入忠政が加世田衆を率いて串木野を発し、湯田に泊まったことを記す日記記事。
年月日未詳 / 冊子 691頁/原整理番号 714
十四日、民部様・播州様が先手として天草へ渡り、加世田衆50人が随行して久田間へ夜四つ時に着船したと記す。十五日に陣屋を設け、夜から大雨となり、十七日朝まで降ったことと、本家が焼き払われて無かったことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 729頁/原整理番号 758の3
十七日に人数を揃え、山に籠もる天草のキリシタンを生捕りにするため山狩りを行ったが、隠れた者はいなかったと記す。加世田衆四十人の配置と翌十八日以降の残る山の捜索に触れる。また伊地知重政が主従三十五人で加久藤勢を率い、羽月から米之津へ到着して指出により兵糧を受け取ったことを記す。末尾に衆中共同の差出とみられる旨の注がある。
年月日未詳 / 冊子 746頁/原整理番号 777
小川監物が天草久玉に在陣した時の日記から、十八日以降は残山に登る関係の賦であり、加世田衆四十人と記す。短文中の原表記は「残山くゝヲ嶋のほりせき廻之賦なり」で、具体的な役務名の解釈は断定しない。
年月日未詳 / 冊子 26頁/原整理番号 40-1
伊地知季安が、島津久賀・喜入忠政が加世田内記を鹿児島へ帰し、川上久国・三原重庸へ書状を送ったと記す記事。
正月廿九日 / 冊子 26頁/原整理番号 40-2
喜入忠政・島津久賀が三原重庸・川上久国へ、上津浦の番手を受け取ったことを報告する使者を出し、鬼塚源太左衛門尉から条書への返答を受領したと伝える。条書は、命令なく有馬へ渡る者には自船・自飯米を負担させ、後日処分もあり得るという内容で、当地の諸軍勢へ周知するとする。一方、「かうね」から当地へ人衆を繰り渡す船で平田民部少輔が相談なく有馬へ渡り、船の配分や四、五千人の輸送を乱したことを強く批判する。物頭・奉行を安易に任じれば国のためにならないとして、厳格に命じるよう求め、三原重庸の帰着後に詳しく協議し、加世田小内記にも条書で伝える書状。
二月四日 / 冊子 68~69頁/原整理番号 108
川上久国・三原重庸が島津久賀・喜入忠政へ、加世田内記が持参した御状・条書への返答を伝える。薩州様が大勢を率いて出張するなら態勢が変わるが、松平伊豆守信綱から参陣不要と指示された場合は番手だけを残して帰陣するため、まず確認するよう求める。北郷久加・入来院重国にも知らせ、村田郷左衛門・猪俣為右衛門と筆者衆を米之津へ急行させるよう追伸する。
年月日未詳 / 冊子 127~128頁/原整理番号 202
喜入摂津守の地頭所・加世田衆中に属する小川監物の日記。十三日、殿様が有馬へ直行したと聞き、加世田衆十五人が召し列ねられ、同道して七ツ時に有馬へ着船し、諸大名の陣屋と敵城を見物したと記す。以下は十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 456~457頁/原整理番号 570
正保四年七月一日、南蛮船二艘が長崎へ着いたとの報で、五日に川内衆を揃え、加世田から百三十人を賦課した。高百石以下三十石まで、二十石以下、無足衆で人夫・飯米・兵具負担を分け、各地の兵を召集して長崎方面へ遣わした。その後八月九日に帰還したが、沖の黒船を警戒して麓衆を小松原浜辺へ集め、磯辺・浜辺に一町ごとに篝火と番を置き、十四日に番衆を解いた。番衆の飯米は一人一升三合、真米は一石二十目の相場と記す。目録年月日は空欄である。
貞享三年七月九日 / 冊子 123頁/原整理番号 36-1
百姓の年季奉公改めが厳しく、奥方の女房衆が抱える者も帰郷して人手不足になっていると聞き、藩主が加世田諸兵衛を通じて祢寝清雄に事情を確かめさせる。上方と異なり当地では自由に年季者を雇えず、女房衆には別の召使いがないことを懸念する。
年月日未詳 / 冊子 475頁
町田忠経譜。新田宮雑掌が加世田別府村原名地頭大隅式部丞永女代左衛門四郎を相手に、正和・元応年間の神拝用途未納を訴えた文書から、忠経の所領・一族・来歴を考証する。加世田別府地頭御代官状など関係文書も掲げる。
年月日未詳 / 冊子 661頁
肝付兼重方の軍勢と足利尊氏方の戦いを記す伝。牛屎彦太郎兼隆が兵を率いて加世田城を攻め、公師兵を入れて肝付勢を隔て、条原孫六・大隅助三郎・冨光九郎らを派遣して加世田城・姫木城等を攻略した経過と、軍勢催促・恩賞を述べる。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
建武三年三月廿九日以降、尊氏方が牛屎彦太郎兼隆らを加世田城へ向け、四月十四日に島津貞久が重久篤兼へ薩摩・大隅の警固と悪党鎮圧を命じた経過を記す重久篤兼譜。篤兼が軍勢を派遣し、尊氏から恩賞・感状を受けたことを述べる。