伊集院観了譲状
応永二年六月十八日 / 冊子 159~160頁
伊集院観了が、南郷内の門水田一町三段余と居屋敷・園一所を重代相伝の所領として伊集院久氏へ一期の間譲り、他者の違乱を禁じた譲状。
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応永二年六月十八日 / 冊子 159~160頁
伊集院観了が、南郷内の門水田一町三段余と居屋敷・園一所を重代相伝の所領として伊集院久氏へ一期の間譲り、他者の違乱を禁じた譲状。
応永二年十一月廿日 / 冊子 162頁
伊集院観了が南郷内の一所を重代相伝の所領として伊集院久氏へ譲り、永代の知行を認めた仮名譲状。
応永廿七年二月三日 / 冊子 312~313頁
伊集院道応が、薩摩国満家院郡山名内の常葉門付水田一町一反、蘭山野用作分・たらい・河山・迫田など合計二町二反を、重代相伝の所領として圓通庵へ永代寄進した文書。
応永廿七年二月三日 / 冊子 312~313頁
伊集院道応が、たまりの薗・馬場薗ほか合計三か所の園地を、重代相伝の所領として圓通庵へ永代寄進し、違乱を禁じた文書。
(天文十七年)十二月吉日 / 冊子 868頁
島津貴久が伊集院忠朗の隈城での忠節を賞し、知行・権利を従前どおり認め、今後も重く遇する旨を約した書状。
年月日未詳 / 冊子 344頁
伊集院忠大が伊集院加賀守へ、帰国後に下野守の書状を確認するよう求め、使者から聞いた情勢を報じた書状。ある人物は知行に加えて扶持を与えられる好待遇となった一方、兵部少輔を人質に差し出すこと、下城の要望は法度を理由に認められず、飯肥と同様の扱いになることを伝える。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、困難な渡海を果たして参陣した忠節を賞し、知行十石を充行う旨を伊集院九郎に証した連署状。
年月日未詳 / 冊子 840頁
伊集院忠真譜は、島津忠恒が京都へ向かう途中に日向国野尻へ滞在し、忠真の隠謀が露見したため、慶長七年八月十七日に当地で忠真を討ったことを記す。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72頁
伊集院抱節・山田理安が伊集院五郎介に、赤池屋敷七石と財部北俣内十三石、合計二十石を新知として配分した連署領知目録。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
慶長十六年五月十日 / 冊子 336頁
慶長十六年五月十日付の伊集院元巣知行目録。宮原村・下田村などの田畠、高、分量を列記し、合計米・大豆・石高を示して伊集院肥前入道元巣の知行を確認する。
九月十三日 / 冊子 426~427頁
伊集院忠棟が伊集院右衛門大夫へ、本田刑部少輔から伝えられた忠平方の軍事行動と宗運の不穏な返答を報告する。合志殿との北目働や有馬境の情勢、諸口での悪事発生を警戒し、同名日向守を添えて忍び寄らせる策を相談した書状。
応安八年三月廿七日 / 冊子 78頁
今川了俊が伊集院久氏の参陣を神妙と評価し、今後もいっそう忠節を尽くすよう命じた感状。
永和二年五月廿五日 / 冊子 96頁
今川了俊が伊集院大隅入道に、島津氏久が心変わりした後も忠節を尽くす請文を差し出したことを受け、派遣した今川兵部大輔満範の手に属して戦功を挙げるよう命じた書下。
応永十五年八月三日 / 冊子 229頁
重継が、薩摩国鹿児島郡荒田庄内の妙顕門・井出口二か所の田畠を百貫文で伊集院頼久へ売り渡し、三年後の請戻し条件を定めた売券。
万暦元(天正元)年七月十一日 / 冊子 312頁
琉球国三司官の那呉道林が伊集院忠棟へ、初めて書状を送り、懇切な音問への謝意を述べる。先代伊集院忠朗以来の交誼が変わらず続くことを喜び、琉球と島津領国が隣国として旧約を保ち、隔意なく往来することを望む。心香・唐五明・織物を祝儀として贈る。
「元亀三(四)年」八月十二日 / 冊子 312~313頁
土持麟松が伊集院忠棟へ、前年夏に伊東方が真幸へ侵攻した際、島津方が援軍によって伊東の主要将士数百人を討ち大勝したことへの祝意を述べる。遠国かつ通路困難のため祝賀が遅れたと詫び、豊州大友氏の指示に従って国境を警戒し、伊予方面への派兵も退治されるだろうと報じ、脇差一腰を贈る。年次は本文注記で検討される。
(天正元年)十一月五日 / 冊子 320~321頁
島津義久が在陣中の伊集院忠棟・平田昌宗・村田鑑定に宛て、軍労をねぎらい、勝利が肝要であると述べる。遠境の動静が不明なため飯野へ赴いて相談したことを知らせ、安心するよう伝える。
(天正二年)四月十四日 / 冊子 339頁
一色藤長が、足利義昭が織田信長の行為を理由に京都を退いて紀州に移り、諸勢力を催して入洛を図っていると説明する。義久宛御内書に対応して、伊集院忠棟・平田昌宗に忠功と援助を促し、詳細は江月斎が伝えるとする副状。
〔天正三年〕二月十二日 / 冊子 429頁
甲斐宗運が伊集院忠棟に、代賢和尚が福昌寺焼香のため玉宣寺から下向したことを伝える。玉宣寺は悟宗和尚の法孫が長年小庵に住む寺で、老齢・遠方ながら石屋大和尚法灯の開地であるため、代賢の在寺中は支援してほしいと依頼する。
(天正三年)二月十二日 / 冊子 429~430頁
甲斐惟莫が伊集院忠棟に、玉宣寺の僧が悟宗東堂の法孫として長年当地に滞在し、本寺である福昌寺への焼香に支障がないよう助言したことを伝える。下向中の始終について支援を求め、詳しくは面談で述べるとする。
(天正四年)八月吉日 / 冊子 482~483頁
彦山般若坊法印豪継が、日向表への出陣が神恵によって勝利したことを祝し、今後の武運長久を祈る目録二通を島津義久へ進上するので披露してほしいと伊集院右衛門大夫に依頼した書状。
(天正六年)正月二日 / 冊子 536頁
宇久純幸が伊集院忠棟へ、島津方が伊東氏に勝利したと聞いて祝意を伝え、この旨を島津義久へ披露するよう依頼した書状。
(天正六年)正月二日 / 冊子 536頁
宇久純幸が伊集院忠棟へ、吉兆を喜び万悦に堪えないとして祝意を述べ、その趣旨を島津義久へ披露するよう依頼し、詳しくは後日申し上げるとした書状。
(天正六年)正月二日 / 冊子 536頁
本文はNo.955と同文につき省略されている。宇久純幸が伊東氏に対する島津方の戦勝を祝い、その旨を島津義久へ披露するよう伊集院忠棟に求めた書状。
(天正六年)四月十日 / 冊子 541頁
志岐麟泉諸経が伊集院忠棟へ、島津義久の日向平定を以前から承って祝意を述べ、改めて使僧を遣わしたことを知らせる。祝儀として白糸五斤を贈り、その旨を義久へ披露するよう依頼した。
(天正七年)二月廿五日 / 冊子 629頁
田原鎮忠が伊集院忠棟へ、伊東義祐の働きかけで始まった豊薩の戦いでは、大友方が兵を分散して少勢となり高城で敗れたと説明する。一時の勝敗は弓箭の常で驚くに当たらないとし、両家の永代静謐のため、先代以来の縁と同姓の好を踏まえて和談を進めるよう求めた。
(天正七年)八月十一日 / 冊子 638~639頁
彦山の連長・栄運・英勝・莞栄・実秀が伊集院忠棟へ、前年の書状への返答を喜び、彦山満山衆徒が島津家へ少しも怠慢を存じないことを老中へ神文で申し上げたと伝える。織筋一端を進上し、詳しくは使僧が説明するとした。
(天正七年)九月廿三日 / 冊子 641頁
天草鎮尚入道紹白が伊集院忠棟へ、念願していた受領名を島津義久から許されたことを喜び、遠島・海路不自由のため礼が遅れたと詫びる。祝儀として太刀一腰、馬一疋代、段子などを進上し、義久への披露を依頼した。
(天正八年)三月十四日 / 冊子 651頁
彦山政所坊連長が伊集院忠棟へ、年中二季下向を認めてもらう訴訟のため、山上から使僧学琳坊を派遣したと伝える。神慮への配慮と山徒の扶育のため両度の許可を求め、詳しくは水口坊が申し上げるので披露するよう依頼した。
天正八年閏三月吉日 / 冊子 653頁
伯耆顕孝が伊集院忠棟へ、島津方への人質差出しを準備していたが、鎌田政年・新納忠元が途中から帰陣したと聞いて一旦留めたと伝える。城親賢の子は阿蘇家と縁組したが島津への疑心は不要とし、島津の総勢が渡海する際は事前に知らせてもらえば和泉まで人質を送ると約した。
八月十二日 / 冊子 660~661頁
熊本城主城親賢が伊集院忠棟へ、島津方へ無二の忠誠を尽くし、前年から番手衆を受け入れていることは広く知られていると述べる。島津の出勢があれば肥後平定は間もないとたびたび申し上げたのに延引して困っているとして、老中へも詳しく伝え、出兵を取り成すよう求めた。
(天正八年)八月廿八日 / 冊子 661頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた。
天正八年八月二十二日 / 冊子 675頁
島津忠長・新納忠元が伊集院新介へ、肥後合志で伊集院久治と大津源左衛門尉が戦い、大勢の敵を追い払ったうえ、襲いかかった大津六右衛門尉を新介が討って久治の命を救ったことを賞する。上聞に達して別紙の褒美が出されたと伝えた連署状。
天正九年三月九日 / 冊子 687頁
島津義久が伊集院久治へ、隣国の凶徒を防ぐ戦いで粉骨して忠節を尽くしたことを神妙と賞し、今後もいっそう軍功に励むよう命じた感状。
(天正九年)四月十日 / 冊子 688頁
彦山衆徒の連長らが伊集院忠棟へ、前年に学琳坊を通じて願い出た年二度の薩摩下向を認められたことは山門興隆の基礎となり、衆徒一同が満足していると礼を述べた連署状。織物二端を贈り、詳細は鬼石坊に託す。
(天正九年)六月七日 / 冊子 689~690頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、便宜を得たので島津義久へ申し入れる件を適切に取り次いでほしいと頼み、詳しい事情は使者の口上に含めたので返答を得たいと述べた書状。
天正十年正月十一日 / 冊子 708頁
北郷時久が伊集院忠棟へ改年を祝い、恒例に従って祝書を送り、扇二本を進上した書状。披露を頼み、詳しい祝意は後日に述べるとする。
天正十年二月二十四日 / 冊子 709頁
上津浦鎮貞が伊集院忠棟へ新年を祝い、前年末に新納忠元を通じて祝意を申し述べたが、重ねて礼を伝えた書状。太刀一腰と馬一疋を進上し、適切な取次と披露を頼む。
天正十年三月二十日 / 冊子 711頁
相良忠房が伊集院忠棟へ、球磨一郡の安堵に礼を述べ、金覆輪の太刀一腰と鹿毛の馬一疋を進上し、詳細は南立坊から伝えるので披露を頼んだ書状。
天正十年八月朔日 / 冊子 715頁
宗湔が伊集院忠棟へ、段子二巻を受領した礼を述べ、本能寺後の天下の不慮の情勢に触れた書状。勅使として妙音院が再び下向し、四品叙位と修法について上意を伝えたため叡慮を伺い、女房奉書を得たと報じる。坂弦五十筋も贈る。
天正十年八月八日 / 冊子 716頁
新納忠元が伊集院忠棟へ、近衛前久の書状を持って帰国する長持寺僧を熊本から大口経由で安全に同行させるよう依頼した書状。僧が京都情勢を直説するとし、羽柴秀吉が中国方と和談して明智方を討ち、信長の仏事を行ったと報じる。一方、細川藤孝戦死の風聞を惜しみ、秋の出勢について吉利忠澄の進言も伝える。
天正十一年八月二十八日 / 冊子 758頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた書状。本文はNo.1159と同文のため省略される。
天正十二年正月十一日 / 冊子 840~841頁
島津義虎が伊集院忠棟・平田光宗・村田経平・上井覚兼へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、慶書と五明を贈り、今後も互いの吉兆を伝え合いたいと述べた年賀書状。
天正十二年正月十一日 / 冊子 841頁
島津朝久が伊集院忠棟へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、恒例の吉書と五明二本を贈り、この旨を島津義久へ披露するよう求めた年賀書状。
(天正十一年)八月一日 / 冊子 923~924頁
賀恵重時が伊集院忠棟へ、八朔の吉兆を祝い、祝儀として太刀一腰と織筋一端を進上した書状。しかるべき披露と取り次ぎを求める。
天正十二年九月十一日 / 冊子 927頁
真木島昭光が伊集院忠棟へ、追伸として太守島津義久へ馬と鞍を進上するので取り計らうよう依頼し、忠棟本人にも祝意として太刀一腰を贈った書状。
天正十二年十一月十五日 / 冊子 957頁
新納忠元が伊集院忠棟・本田親貞・平田光宗へ、肥後方面の軍役について返答した書状。刑部太輔を出すよう命じられたうえ、嫡子も別口の御用で出すことになれば二重の公役となり、自身の出陣まで求められるのは困難であると訴える。前年冬に帰国を許された際の約束を踏まえ、事情を理解して取り計らうよう求めた。
万暦十二年臘月二十五日 / 冊子 958頁
円覚寺宗長が伊集院忠棟へ、島津氏による肥後六郡平定を祝い、武名が天下に比類ないと称えた書状。島津義久への進上品として明燭百丁を贈り、披露を依頼した。