石田三成署判人質番組
天正19年12月2日 / 冊子 519~520頁
石田三成が島津家に対し、京都に置く人質の番組と交替方法を定めた書状。島津一門や北郷・新納・肝付・種子島・入来院・根占・喜入などの親類・年寄の子を三組に分け、本田下野入道・町田出羽守・平田左近将監も加えて一組四人ずつ在京させる。義久・義弘・久保が在国する場合の補充、交替期限、私的な相談による勝手な交替の禁止まで規定し、豊臣政権下で島津家臣団を組織的に人質管理した実態を示す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
198 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 4
天正19年12月2日 / 冊子 519~520頁
石田三成が島津家に対し、京都に置く人質の番組と交替方法を定めた書状。島津一門や北郷・新納・肝付・種子島・入来院・根占・喜入などの親類・年寄の子を三組に分け、本田下野入道・町田出羽守・平田左近将監も加えて一組四人ずつ在京させる。義久・義弘・久保が在国する場合の補充、交替期限、私的な相談による勝手な交替の禁止まで規定し、豊臣政権下で島津家臣団を組織的に人質管理した実態を示す。
天正19年12月2日 / 冊子 520頁
本文はNo.789と同文のため省略されている。石田三成が島津家の親類・年寄の子らを三組に分け、京都に一組四人ずつ在京させる人質番組と交替方法を定めた文書の別写である。
(慶長五年)正月十九日 / 冊子 499頁
島津義弘(惟新)が又八郎に、大明の人質「ういひん」を春に薩州から明へ渡すよう命じられたと伝える。内府徳川家康が明へ送る書状をたい長老が調えたので、又八郎も加判するよう求め、詳細は本田源右衛門尉から聞いて確実に処理するよう命じる。日本と明の和平は前代未聞の重大事であるため、渡航船の乗員も改め、慎重を期すよう重ねて注意する。
(慶長十一年)六月十八日 / 冊子 78頁
島津惟新が島津家久に、人質の上洛が遅れたため家久の帰国が延引していることを述べ、人質は翌日出立する予定なので祭礼前の下向を願うと伝えた書状。国元は平穏で竜伯も無事であると知らせる。
天正十九年十二月二日 / 冊子 355~356頁/原整理番号 5
京に置く質人を一番・二番・三番に分け、各組の人員を示す。交替の際は新しい者を上洛させてから旧組を帰国させ、島津家の在京者を途切れさせないよう指示する十二月二日付の番組。
天正十九年十二月二日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 173
石田三成が島津義弘に示した人質番組。島津歳久の孫、肝付兼演・新納忠元・島津忠辰・種子島久時・入来院重時らの実子または親類年寄の子を三組に編成し、北郷忠虎・伊集院忠棟・新納忠元の質人三名を常詰とする。本田親貞・町田久倍・平田増宗も各組に加え、必要に応じ一人を京都へ召し置くことなどを定める。天正十九年十二月二日付。
年月日未詳 / 冊子 144~145頁/原整理番号 39
文政年間に依頼されて作成した永田氏の家木碑文と、その撰述事情の付記。養泉山の永田家の墓所にあった古松が伐採・損傷を受けたため、木に代えて碑石を立てた経緯を記す。永田・白石・藤崎の三氏が近江坂本から移り、年頭の御規式や神社の奉仕に関わったという由緒と永田家の系譜を述べる一方、古い由緒には口碑に頼る部分があると留保する。
年月日未詳 / 冊子 107頁
山田聖栄自記として、渋谷典厩が伊集院隅州との関係を通じて使者を送り、出陣・国一揆への参加や庄内方面への進軍について相談し、約束と人質をめぐって交渉したことを記す記事。
「大永六年」十一月五日 / 冊子 670頁
本文ではNo.2052と同文のため省略された島津忠兼書状。肝付兼演に、虎寿丸らの来訪と人質方の出頭を踏まえ、確かな契約を頼むと伝えた内容である。
年月日未詳 / 冊子 883~884頁
樺山玄佐が加治木・蒲生方面の陣取りと和平交渉を詳述した自記。島津貴久・伊集院忠朗・肝付兼盛・北郷氏らの動向、親族・使者を介した条件調整、所領と人質の扱いを記し、城方の帰順後に城・知行をどのように処置したかを示す。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月、肝付勢が島津方の陣を崩して総大将の島津忠将以下多数を討ち、廻城の守備を救ったことを記す。さらに飫肥方との和議交渉、人質交換、先宮城の一部引渡しなど日向方面の動向を続けて記録する。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 213頁
本文は後掲No.506記事の前半と同文のため省略される譜中記事。大口城包囲から相良・菱刈方の降参、人質交換へ至る部分を参照するものとして収録されている。
永禄十二年五月六日~九月十八日 / 冊子 220~221頁
永禄十二年五月六日、羽月・大口境の戸神尾で島津方が勝ち、敵百六人を討ち取ったとする。初秋から相良氏と和平を協議し、九月十日に双方が人質を交換した。十八日巳刻、貴久・義久が大口城へ入り、鎌田政年を役者として太平の祝宴を催した。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 221頁
永禄十二年八月十八日、島津方が大口城を包囲すると、武器・兵力の尽きた守兵が降参を願い、貴久が許した。九月十日に相良方と島津方が人質を交換し、十四日に敵兵が球磨へ退去、十八日に貴久・義久が入城して凱歌を唱えた。約束により新納忠元を大口地頭に任じ、武蔵守へ改めて功績をたたえた。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 221頁
八月十八日に大口城を四方から包囲して作毛を払い、守兵の兵器・弓弦が尽きると降参を許した。九月十日に双方が人質を交換し、十四日に球磨勢が退去、十八日に貴久・義久が入城した。新納忠元を大口地頭・武蔵守とし、諸城へ守兵を配置、菱刈氏には降参を許して平城を与え、軍を解いた。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262~263頁
禰寝重武が伊東・肝付・伊地知方から離れて島津方への忠勤と番兵派遣を願い、島津歳久・忠長を大将とする三千余騎が禰寝へ渡った経緯を記す。元亀三年三月中旬、大姶良方面で敵の誘撃を受け一時混乱したが、歳久・忠長の八百余騎が横撃して敵を破り、重武は幼い息子を人質として差し出した。
天正二年 / 冊子 326~327頁
天正二年正月、牛根城攻めで新納忠元が逆瀬川武安らに切岸を掘らせ、守将安楽兼寛を降伏させて互いに人質を交換し、二十二日に入城した経緯を記す。さらに親族関係を利用して其阿上人を使僧とし、伊地知重興・肝付兼亮の帰順と所領献上を仲介した功績、大口里村に十躰愛宕を建立したことを述べる。
天正二年正月十八日~廿七日 / 冊子 329頁
天正二年正月十八日から牛根城の切岸を昼夜掘り進め、城内まで道を通したため、守兵が降伏を請うた経緯を記す。十九日夜に停戦し、翌日人質を交換、二十二日に新納忠元が入城、二十七日に義久が早崎陣から帰還した。続いて伊東・肝付・伊地知勢の禰寝侵攻と喜入季久らの迎撃も記す。
天正二年正月三日~廿七日 / 冊子 333頁
天正二年正月三日の茶園ヶ尾合戦、牛根城切岸の掘削と開城、同十九日の禰寝方面の戦闘を詳述する。家久・忠長らの追撃、霧島山神火の瑞兆、喜入季久の奮戦と弟二人の戦死、人質交換、新納忠元の入城を記し、切岸を掘り抜いた三名の働きを高く評価する。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 483~485頁
天正四年八月の高原城攻めを詳述する。義久は霧島祭祀と領内防衛のため出陣し、城の水路を断って攻囲、家久・忠長らが鎮守尾に陣した。人質交換後に伊東方が開城し、高原・三山・須木など八か所が島津領となり、義久は三山を義弘に与え、上原尚近を高原地頭とした。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 485~487頁
島津義弘の視点から高原城攻めを記す。義弘が伊東方の越境を止めるため出兵を義久へ提案し、諸軍を率いて進発した。門壁攻略と断水の後、家久・忠長を中心に人質交換を整え、伊東新二郎以下が退城、高原・三山・須木など八か所を獲得し、義弘は三山城に入った。
天正四年八月十九日~廿三日 / 冊子 487頁
天正四年八月十九日の高原城攻めで、家久が義弘・歳久・征久・忠長と軍功を挙げたことを記す。二十一日には忠長と鎮守尾に陣して敵将の降伏申出を義久へ伝え、人質交換を行い、二十三日の退城後、三山城で凱歌を唱えて散軍した。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 490~493頁
義久の鹿児島出発から高原城攻囲、開城、戦後処理、帰陣までを日次で詳述する軍記。門壁を破って水路を断ち、人質交換後に伊東方が退城、周辺諸城も帰属した。野尻への示威、三山での勝鬨と義弘への宛行、相良・天草の祝使、白鳥権現参詣を経て鹿児島へ凱旋した。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 493~496頁
上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。
天正四年八月~十月 / 冊子 497~498頁
伊東氏との長年の抗争から高原城攻めに至る経緯を叙述する。義久・義弘・北郷時久らが城を攻め、双方に多数の死傷者を出したが、断水と人質交換により伊東勘解由が退城し、高原・高崎・三山・須木など八か所が島津方に属した。戦後、覚兼が時久へ田野城攻略を諮問した。
天正四年十二月七日 / 冊子 503頁
野尻地頭福永丹波守が島津方の高原地頭上原尚近へ人質を出して内応し、天正四年十二月七日に島津軍が野尻へ入った経緯を記す。伊東義祐は綾城で抗戦を望んだが領内放火を受け、一日で国を捨てて豊後の大友氏を頼ったという。
天正五年十二月七日~晦日 / 冊子 529~530頁
天正五年十二月七日から晦日までの日向進発を日次に記す。正八幡宮参詣中に福永丹波守の内応を知った義久が海路で出陣し、義弘の野尻入城、紙屋以下諸城の服属、正八幡宮への戦勝奉告、高原・紙屋・都於郡への進軍、福永への恩賞と鉄砲拝領、相良・佐伯方との使者往来、高城衆の降伏と人質収容を経て年を越した。
天正六年正月十六日以後 / 冊子 589~591頁
日向が島津領となると、伊東方の残党が縁故に従って帰属し、従わない者は誅伐された。義久は正月十六日に都於郡へ入り仕置を進めるが、伊東旧臣らは豊後の義祐・大友父子に再興を訴えた。門川・塩見・山陰・三城の城主らが人質を出しながら豊後方へ内応し、大友軍を迎え入れる一方、人質の米良弥八郎らは警固を破って脱出し父のもとへ向かった。
天正八年閏三月吉日 / 冊子 653頁
伯耆顕孝が伊集院忠棟へ、島津方への人質差出しを準備していたが、鎌田政年・新納忠元が途中から帰陣したと聞いて一旦留めたと伝える。城親賢の子は阿蘇家と縁組したが島津への疑心は不要とし、島津の総勢が渡海する際は事前に知らせてもらえば和泉まで人質を送ると約した。
天正八年八月十九日 / 冊子 663頁
天正八年八月十九日、薩摩・大隅・日向三州の軍勢が肥後国葦北郡水俣城を包囲した。球磨・八代勢七百余が籠城したため相垣を結んで攻め、相良義陽が子息兄弟を人質として差し出して島津旗下へ入り、葦北七浦と七城を明け渡したので島津軍が帰陣したと記す。
(天正九年)五月十二日 / 冊子 689頁
島津義久が肥後情勢と外交方針を箇条書きにした案。龍造寺氏との関係、豊後勢敗北後の筑後の安全、相良氏を見捨てないこと、天草方の人質、熊本到着後の対応などを確認し、川内落城以来の相良氏への加勢約束にも触れる。
天正九年八月十六日~十八日 / 冊子 693~694頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや大友氏の日向侵攻時に島津方へ敵対したため、島津義久が三州の軍勢を催して水俣城を攻めた経緯を詳述する。八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾・井川比良に陣を置き、矢文の連歌を交わしつつ包囲し、義陽が芦北七浦と息子二人の人質を差し出して降伏を請うと、義久は受諾して囲みを解いた。
年月日未詳 / 冊子 694頁
相良義陽の人質を受け取った島津義久が、九月二十日に比志島国貞へ水俣城を受け取らせ、籠城衆七百余人を八代方面へ送還した記事。二十六日には義陽が佐敷で津奈木・佐敷・湯浦・日名子・久田美・高田などを献じて謝罪し、息子兄弟を人質とした。長子には島津家の通字を許して忠房と名乗らせ、義陽は阿蘇氏攻撃を申し出た。
天正九年九月十六日 / 冊子 694~695頁
島津義久が数万の兵で相良義陽を攻め、義弘が八景尾の陣を守り、諸将が水俣城を包囲した経緯を記す。守兵は九月二十日に降伏して退去し、義陽は津奈木・湯浦・佐敷などを献じ、二十六日に佐敷で義久へ謝罪して息子兄弟を人質とし、阿蘇氏への出兵を申し出た。
年月日未詳 / 冊子 695頁
島津義久が相良義陽を攻めるため肥後へ大軍を進めた際、島津征久が従軍して葦北郡へ入り、鏡亀尾の陣を川上忠智・新納忠元と守った記事。諸陣が日夜攻撃すると義陽は領地と人質を差し出して和を請い、義久が囲みを解かせた。
天正十年十一月十二日~十二月二十五日 / 冊子 722~724頁
龍造寺隆信に圧迫された有馬鎮貴・田尻鑑種への救援と、甲斐宗運との和平交渉を日次で記す長文記事。川上久信らを有馬へ渡海させ、千々石城・日比良城を攻める一方、宗運には人質、隈部攻撃、龍造寺との断交を条件として提示した。田尻城の偵察、熊本・八代での軍議、各戦場の首級・負傷者、兵糧事情を詳述し、長期戦を避けて帰陣するまでを記す。
天正十年十一月十九日~十二月二十一日 / 冊子 724~725頁
天正十年十一月から十二月の有馬・田尻救援と甲斐宗運和平交渉をまとめた義弘譜中記事。川上久信を大将に有馬へ渡海し、田尻城の敵陣を偵察させ、宗運には一族の人質と隈部攻撃を求める。千々石城・日比良城を攻略したが龍造寺勢の兵糧と勢力が強く、遠征軍の補給も難しいため一時帰陣した。
天正十年十一月四日~十二月二十五日 / 冊子 730~745頁
天正十年十一月四日に宮崎を発して八代へ向かった上井覚兼が、道中、着陣後の連日の軍議・使節往来・酒宴を詳細に記した日記。肥後国内の経略、有馬への渡海、田尻城救援、甲斐宗運との和平と人質、隈部攻撃、日比良城攻略、諸城の番衆・兵船・補給、各将の配置を協議し、三船・隈荘の誓約や年末の帰陣方針に至るまでを日次で載せる。
天正十一年正月 / 冊子 747~748頁
島津義久が甲斐宗運へ示した年頭の条書。北方での働き、宗運・紹真との関係、龍造寺氏が天草・熊本で人質を取ったことへの疑念、有馬・田尻救援の経緯、家久の仲介による和平を述べる。宗運が龍造寺へ直孫を人質に出した以上、阿蘇方と戦って島津への真実を示し、今後は腹蔵なく協力するよう求める。
天正十一年九月二十日 / 冊子 754頁
天正十一年九月二十日、隈本城主の城氏が八代へ使者を送り、健軍地頭を人質として隈本へ置く代わりに領土を侵さないよう求めた記事。島津方は三船で一戦することを条件とし、合志氏の僧による和睦願いにも、阿蘇家と断交して実証を示すよう回答した。
天正十一年九月十七日~十月二日 / 冊子 759~760頁
天正十一年九月十七日の堅志田城への忍び三十人の潜入失敗から、同二十日の城氏・合志氏の和睦願い、二十七日の秋月・龍造寺和平案、十月一・二日の八代評議までを詳述する記事。阿蘇領攻撃の可否、甲斐宗運の真意と人質、三船出兵を議し、堅志田偵察隊が敵五人を討ち取って首を八代へ持ち帰った。
年月日未詳 / 冊子 88~94頁
天正十三年閏八月、上井覚兼が肥後戦線と島津家中の動きを連日記録した長大な日記区間。八代・隈庄・堅志田方面の城番、普請、兵員・武具・兵糧の配置、敵方の帰順、捕虜・人質の処置をめぐり、島津家中の当主・重臣らと書状・使者を往復させる。軍事協議の一方で寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞い、家臣の訴訟処理も詳しく、占領地維持と家中の日常実務が同時に進む様子を伝える。
年月日未詳 / 冊子 100~103頁
天正十三年九月四日以降、島津義弘が肥後支配を固めるために行った交渉と軍事処置をまとめた長文の譜記事。阿蘇氏や隈部・高知尾方面から使者・書状・太刀・馬を受け、降参条件、旧領安堵、人質、城番、軍勢・兵船の配置を伊集院忠棟らと協議する。帰服情報を吟味して返書を送り、敵城への備えや謀反の処理も進める一方、祝儀・饗応・寺社参詣を行う。武力、起請、贈答、所領処置を組み合わせた戦後統治の実務が詳しい。
年月日未詳 / 冊子 103~112頁
天正十三年九月、上井覚兼が戦勝後の肥後支配と島津家中の実務を連日記録した長大な日記区間。阿蘇・隈部・高知尾方面の使者や書状を受け、降参者・人質、城番、所領、城の修築、兵糧・武具の配置を協議する。密書や謀議、家臣間の訴訟を処理し、島津家中の当主・重臣らへの報告・返書を作成する一方、寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞いも続く。軍事占領、外交、裁判、儀礼を調整する覚兼の戦後統治が具体的に見える。
(天正13年)11月16日 / 冊子 122頁
本田親貞が蒲池殿へ、速やかな神文提出と熊本への人質差出しを格別の忠節として喜んだ書状。まず親貞自身から謝意を伝えて太刀一腰・織物一端を贈り、近く鹿児島からも正式な感謝が示されると告げる。神文・人質・贈答を組み合わせて蒲池氏を島津方へ結び付ける外交文書である。
年月日未詳 / 冊子 123~135頁
天正十三年十一月から十二月、上井覚兼が入田氏の帰属交渉、高知尾・豊後方面への使者派遣、軍勢進発、人質・神文の授受を連日記録した長大な日記区間。押収船と積荷の処分、城番・兵糧・宿所の手配、京都や諸国から届く書状の回覧、豊後攻めをめぐる重臣協議が続く。蒲池氏や周辺勢力の去就を見極め、情報不足や返書遅延に覚兼が苛立つ場面もある一方、寺社参詣・祈祷、酒宴、贈答も詳しい。使者・書状・会尺・起請文を積み重ねて島津家の意思決定が形成される過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
天正十四年正月、新納忠元が家臣を率いて大口を発し、豊後方の野尻城・高城などへ攻め込んだ戦功を記す「忠元勲功記」。城兵を討ち、城主・人質を確保して諸城を押さえ、入田氏側の人質との交換や服属処理まで進めた。諸隊の配置、城攻め、降参者の扱い、戦後の知行・褒賞を連続して述べ、新納忠元の豊後侵攻における軍事・占領実務を詳しく伝える。
年月日未詳 / 冊子 139~142頁
天正十四年正月、上井覚兼が新年儀礼と豊後戦線への対応を連日記録した日記区間。新納忠元らによる諸城攻略、人質・城郭の処置、高知尾・入田氏との交渉、使者・書状の往来を報告し、軍勢・兵糧・宿所を調整する。羽柴秀吉からの停戦要求や中央情勢も意識される一方、年始の参会、祈祷、寺社参詣、酒宴、連歌、贈答が続く。正月の華やかな儀礼と豊後侵攻の緊張が同じ日程に重なる島津家中の戦時の日常を示す。
年月日未詳 / 冊子 215~224頁
上井覚兼が八月朔日から晦日までを記した長大な日記。岩屋城攻めで負傷した覚兼は帰路と療養の様子を記しつつ、立花・宝満・筑紫方面の処置、豊後出兵をめぐる評定、諸将・使僧・寺社との面会を続ける。書状や使者の往復、降伏者・人質・知行の扱い、兵糧・酒・贈物、医師の治療や負傷者への見舞いまで日々記録する。北部九州攻略後の占領統治と次の豊後侵攻準備が、覚兼自身の傷の痛みや日常生活と並行して進む様子を伝える陣中・軍政日記である。
年月日未詳 / 冊子 288頁
豊臣秀長が二十万騎と記される大軍を率い、四月六日に日向高城・財部間へ五十一か所の陣を構えた。十七日の根白坂合戦で島津方は敗れ、島津忠隣ら三百余人が戦死。興山上人・安国寺・一色駿河守の説得を受けて義久は和議を受諾し、伊集院忠棟を人質として秀長本陣へ送った。五月一日の開陣と義久・義弘の帰国までを記す、九州征伐終結過程の重要記事である。