日新記
年月日未詳 / 冊子 332頁
領内海岸で難破し、国籍も分からない乗員の悲嘆を聞いた島津忠良が、唐船を新造して与え、食糧を支給して帰帆させた記事。翌年、琉球国から使船が来航し、謝意を記した書状を届けたという。
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年月日未詳 / 冊子 332頁
領内海岸で難破し、国籍も分からない乗員の悲嘆を聞いた島津忠良が、唐船を新造して与え、食糧を支給して帰帆させた記事。翌年、琉球国から使船が来航し、謝意を記した書状を届けたという。
延享元年九月十三日 / 冊子 780頁/整理ID 2034
前年十一月に薩摩国水引村京泊で破損した唐船の乗員を長崎へ送った後、水手の次右衛門が唐人に頼まれた品物を売りさばいた件について、長崎奉行の指図に従って処分したと報告する。入墨、家財半分の取り上げ、居住地の制限を科し、漂着現場の取扱いと長崎への渡航から外した。No.2003の調査届に続く処分結果である。
(元亀四年九月 日) / 冊子 314~315頁
島津氏老臣が豊州大友氏老中へ、破船問題についてたびたび使書を受け、両家の堅い盟約に基づき法意に沿って処理すると答える。大友方から船・銀子・鹿皮・南蛮国の進物などが目録とともに贈られたことを確認し、詳細は詫時庵と相談しており、仲掃部助が説明するとする。
(元亀四年九月 日) / 冊子 316頁
本文はNo.692と同文のため省略される豊州老中宛返書案。破船問題を両家の盟約と法意に沿って処理し、船・銀子・鹿皮・南蛮進物などの受領と関係者による説明を伝える。
(元和三年)七月十日 / 冊子 646頁
島津家久が上方の平穏、公方の参内予定、伏見での拝謁、東丸姫や義弘の病気平癒、串湊の唐船破船、江戸の親族、国元政務などを父義弘へ詳しく報告した書状。
(寛永九年)八月廿七日 / 冊子 314~316頁
新納忠清・最上義時が、琉球から唐へ渡る進貢船・冠船等の運用について定めた連署条書。御借銀返済、船数と往復時期、船主・勘使の選定、銀子・荷物・糸の管理、漂着・破船時の処置、唐への渡航者の統制などを詳細に指示した。
元禄十二年三月五日 / 冊子 105頁/整理ID 368
島津綱貴が、屋久島で破船した朝鮮人52人を長崎へ送り、先月28日に長崎奉行が受け取ったと報告した口上覚。別に病死した2人は朝鮮人の希望どおり土葬していたが、遺骸と破損船具を長崎へ送るよう奉行から指図があり、そのとおり送ったと述べる。
元禄十二年三月五日 / 冊子 105頁/整理ID 369
島津綱貴が、屋久島で破船した朝鮮人52人を長崎へ送り、先月28日に長崎奉行が受け取ったと報告した口上覚。別に2人が病死しており、船具などは長崎奉行の指図があれば、そのとおり処置する用意があると述べる。No.368と異なり、土葬や遺骸・破損船具をすでに送ったとの記載はない。
元禄十二年四月十三日 / 冊子 110頁/整理ID 393
島津綱貴が近藤備中守・丹羽遠江守へ、先に報告した領内七島のうち宝島で破船した唐人25人と荷物を、警固の者を添えて長崎へ送ったと通知し、詳細は家来から申し上げると伝えた書状。
元禄十二年五月十四日 / 冊子 118頁/整理ID 423
島津綱貴が、領内七島の宝島へ漂着・破船した唐人25人と荷物を薩摩本土へ送り、警固を付けて長崎へ送致した経過を報告した口上覚。唐人らは5月3日に長崎へ着岸し、4日に長崎奉行が異儀なく受け取った。
元禄十三年三月五日 / 冊子 206頁/整理ID 702
島津綱貴が、前年十二月八日に屋久島一湊へ漂着した朝鮮人五十二人を長崎へ送り、二月二十八日に長崎奉行が受け取ったと報告する口上覚。別に病死者二人がおり、その遺骸と破船船具は長崎奉行の指図どおり処置した。
元禄十三年十月十九日 / 冊子 244–245頁/整理ID 831
戸村愛忠・九津見定春ら延岡藩家臣十二名が喜入久亮・種子島久時・肝付久兼へ、日向・豊後国境絵図と添付書類、使者の口上を承知したと返した連署書状。併せて、七月に指宿郡の船頭が難風で破船し、延岡領尾末村で番人や村人の助力を受けた件について、薩摩側役人から照会と贈物があったことに礼を述べる。
元禄十三年十月二十四日 / 冊子 245–246頁/整理ID 833
種子島久時・肝付久兼が延岡の戸村惣右衛門・久見崎吉左衛門・伴浅右衛門へ、日向・豊後国境絵図に関する返書を江戸留守居へ送ると答えた連署書状。指宿郡の船頭が難風で破船した際、延岡領尾末村の番人や村人が世話をしたことについて、関係者への礼を取り次いだ相手方の配慮にも謝意を述べる。
宝永元年九月二十九日 / 冊子 508頁/整理ID 1781
島津吉貴が小笠原彦太夫へ、肥後国水俣沖の破船について照会を受け、大坂から小倉へ定番船を差し遣わす件と水主八人救助の件を調べ、覚書を江戸へ届けるよう依頼した書状。島津帯刀からの書付も同封して返送している。
正徳二年八月十八日 / 冊子 39~41頁/整理ID 79
諸国の浦々で難破船を救助する際に、船・積荷の盗取や不当な費用請求を禁じ、船頭・水主の申告に基づき荷物を保全して役所へ届けるよう定める高札の文面。
享保十一年六月廿七日 / 冊子 722頁/整理ID 1860
三月二十八日に九人乗りの小船が琉球国永良部島へ漂着・破船し、中山王の城下に移して言語や送還先を調べたとの報告を受け、承知を伝える。
寛保二年七月十一日 / 冊子 707~708頁/整理ID 1821
継豊は、薩摩領諏訪之瀬島の船が琉球・八重山へ渡った後、那覇への帰帆中に暴風で破船し、一人が溺死したと届け出た。生存者二十人は唐の舟山に漂着して乍浦へ送られ、現地で保護された後、寛保二年五月に長崎へ送還された。長崎奉行の吟味では不審がなく、判断まで島津家の家来に預けられた。
天明五年八月二十日 / 冊子 820~822頁/原整理番号 2249/整理ID 2249
渋谷貫富は、琉球国と島々で近年凶作が続き、前年の大風・霖雨で年貢米や諸収納が滞り、米船の破船・行方不明も生じ、数万人が飢えかねないと詳述する。中山王は蔵米と薩州への収納米・囲米を配り、薩摩も蔵米から二万石余を送ったが、国元も凶作で余力が乏しい。海上輸送と滞留、時節、在地の配分を考慮し、救米に加えて少量でも拝借米を願い出る。末尾の添書は、重豪願書との二通を留守居が御用番水野出羽守へ提出し、鈴木増右衛門を通じ受領を知らされた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 332頁
琉球王某が島津忠良に、前年初夏、太平島の百姓が逆浪で片浦に破船した際、船を造って与え、無事帰国させた救助へ謝意を表した書状。使節として建善寺を渡海させ、黄金・真南蛮香・織物・紅白の糸・白布・蜜・砂糖・線香・薬種などを贈り、詳細は月泉長老に託す。
年月日未詳 / 冊子 338頁
『日新公御譜』および『日新記』所収の記事。毎年渡来する大明・南蛮船の入貢品や破船貨物を納め、それを孤独で救済を求める者、飢餓に瀕した者、帰国途上の貧者らのために用いたことを記す。
八月六日 / 冊子 301頁
春に海上で破船した悪盗六、七人が琉球・薩摩で捕らえられたことを大御所が喜んでいるとして、彼らを長谷川左兵衛へ引き渡すよう命じた本多正純書状。
九月廿七日 / 冊子 381頁
破船者の処置について、伊丹屋を当地で成敗し、他の唐人二、三人を呂宋へ送るとの指示を受けた経緯を説明する。義久の意向で伊丹屋の処刑を命じたが本人が逃亡したため番人に捕縛を命じ、呂宋へ渡す予定だった者も含め処置したと報告した島津忠恒書状。
(天正元年九月) / 冊子 315頁
伊集院忠金が臼杵鑑速へ、南郷へ渡った船が島津領内の港で不慮に破損した件について、両家の旧盟と鑑速から受けた懇切を踏まえて誠意を尽くし、おおむね法意に従って処理したと報告する。贈られた船・銀子・鹿皮・南蛮進物・鎧一領に謝し、返礼として馬一疋を贈る。
(元亀四年九月 日) / 冊子 316頁
本文はNo.693と同文のため省略される伊集院忠金の臼杵鑑速宛書状案。南郷渡海船の破損処理、両家の旧盟、贈答品への謝意を述べ、返礼として馬を贈る内容である。
(寛文元年)八月二日 / 冊子 439~440頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0940
妻木彦右衛門頼熊が島津図書・鎌田蔵人へ、先年琉球国八重山の与那国で破損した阿蘭陀船荷物について、阿蘭陀人の帰帆時には積渡しが間に合わず、琉球人が八重山から薩摩へ運び、役人家来四人のうち琉球人二人が荷物を長崎まで護送した旨を報じる。無事着岸し、目録どおり請け取ったこと、琉球人への配慮と阿蘭陀人の残荷受取・帰帆、礼の伝達等を述べ、詳細は使者が口上するとする。別段で島津図書へ今晩報を認め明日使者へ渡す旨も記す。
年月日未詳 / 冊子 475~477頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1056
異国船・唐船・阿蘭陀船の漂着や破損時の処置を定めた条書。積荷・乗員の保全と監視、長崎への通報・送還、禁制品や武器・書物の扱い、荷物売買、船修理、通詞・役人の配置などを詳細に規定する。
(元禄九年)七月十三日 / 冊子 963頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2652
前年九月朔日に領内の永良部島へ漂着・破損した福州船について、唐人百十人のうち一人が病死し、残る百九人と荷物を警固付きで長崎へ送り、長崎奉行が無事に受け取ったことを幕府へ報告した口上覚。
元禄十三年正月十一日 / 冊子 185頁/整理ID 659
島津綱貴の口上覚は、朝鮮国の船一艘・四十四人が前年十一月十一日に領内七島の諏方瀬島へ漂着したため、飢渇した乗員へ飯米・水・薪を与え、小船で陸へ上げて小屋に収容し番を置いたと報告する。船は同月十六日夜に破損したため、島の小船に分乗させ、在番者の警固で本土へ送り、到着後は当地の警固を添えて長崎へ送るとする。
元禄十三年正月十一日 / 冊子 185頁/整理ID 660
島津綱貴が丹羽長守・大嶋伊勢守へ、朝鮮国の船一艘・四十四人が前年十一月十一日に領内七島の諏方瀬島へ漂着し、十六日夜に船が破損したため、乗員を島の小船に分乗させ在番者の警固で本土へ送ると通知した書状。到着後は当地からも警固を添えて両名のもとへ送り、詳細は家来から申し上げるとする。
日付記載なし / 冊子 908頁/整理ID 2963
在江戸家老座の写しの覚。琉球では前年五月から十月の強風、特に十月九日の風で作物樹木が損じ、凶作と大飢饉になった。前年十一月二十日に中山王城内から出火し、品物蔵・米蔵百軒余を焼失、周辺家屋は十二、三軒ほど焼け残り、城外七軒ほども類焼した。春秋に船を渡す事情や当年二月十五日の飛船出帆、大嶋での船破損と乗員救命、その後の再出帆・七嶋での漂流を記し、五月十六日山川着船の報告を載せる。
元禄九年六月廿八日 / 冊子 962頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2648
阿部正武ら老中四名が島津綱貴へ、琉球へ漂着した唐船・南蛮船について、破船の有無に応じた帰帆、唐人・積荷の長崎送致、船の修理、抜け荷防止を定め、従来どおり商売を厳禁するよう命じた連署奉書。
元禄十二年二月十四日 / 冊子 102頁/整理ID 358
綱貴公御譜中に収められた書状。近藤備中守・丹羽遠江守へ、前年に領内の屋久島で破船した朝鮮人五十二人と所持道具を領内の船に乗せ、警固を添えて送ったと伝える。別に二人が病死したこと、遺骸と破損船具は家来が受けた指図どおり処置させ、詳細を家来が報告することも記す。
元禄十二年二月二十九日 / 冊子 104頁/整理ID 366
丹羽長守・近藤用高が松平薩摩守へ、屋久島で破船した朝鮮人52人と所持道具が日本船で送られ、警固付きで前日28日に長崎へ無事着岸し、相違なく受け取ったと報告した連署状。別に病死した2人の遺骸と破損船具について薩摩藩家来と相談した指図が実施されることを承知し、詳細は使者と相談すると答える。
弘化4年7月28日 / 冊子 19頁/原整理番号 4
調所広郷は、既に決めた泗川の戦死者に加え、朝鮮出兵中の番船破船で亡くなった者も同じ祭祀に加え、子孫に拝礼を許すと申し渡した。子孫は諸士・郷士・家来ごとに列席し、不在・病気・幼少の場合は近親者が代参する。
目録年月日記載なし / 冊子 22~26頁/原整理番号 7
朝鮮出兵中の泗川戦や番船破船で亡くなった者と、その拝礼に列する子孫を諸士・郷士・家来などの区分ごとに列挙する。子孫不明・家断絶などの戦死者も別記し、泗川で戦死した市来家綱・瀬戸口重治と各子孫を挙げる。続いて妙谷寺での施餓鬼の勤行、僧二百人の賄い、位牌・供物などの手配案を記す。
目録年月日記載なし / 冊子 26頁/原整理番号 8
朝鮮泗川の戦死者と番船破船で亡くなった者を妙谷寺で祭り、子孫の拝礼、位牌・供物の手配を命じる。銀五十枚・白米五石を記す。