島津氏老臣連署坪付
天正五年二月吉日 / 冊子 511~512頁
薩摩国谷山郡の浮免地として、谷山紀伊介先の烏帽子田一反を原口甚兵衛に示した坪付。
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天正五年二月吉日 / 冊子 511~512頁
薩摩国谷山郡の浮免地として、谷山紀伊介先の烏帽子田一反を原口甚兵衛に示した坪付。
(慶長七年)十月十八日 / 冊子 853頁
島津義弘が和久甚兵衛尉へ、忠恒が九月二十六日に和久の手配した船で細島を出航したとの報告を喜ぶ。すでに上方へ着いた頃として、幕府との交渉結果を尋ね、島津家の事情に通じる和久へ引き続き取成しを頼んだ書状案。
(慶長十年)七月廿一日 / 冊子 25頁
山口直友が甚兵衛に、本多上野から島津少将宛ての書状を送るので確実に届け、返書を受け取って持参するよう命じた書状。すでに出船していれば安全な便で届け、鎌田政近へ渡してもよいとし、呉国向けの法度に関する書状らしいと伝える。
年月日未詳 / 冊子 143頁
本文は『旧記雑録後編』No.1857と同文のため省略されている。参照先の御譜抄は、関ヶ原敗戦後に宇喜多秀家が小舟で薩摩へ逃れ、島津家が牛根にかくまった経緯を記す。家康に所在が知られると、山口直友・和久甚兵衛らの仲介で上京を求められ、小瀬中務を通じて秀家が承諾した。島津義久掟書二十ケ条ではない。
(慶長四年)九月廿二日 / 冊子 439頁
島津義弘(惟新)が少将島津忠恒に、上方には現在変事がないと知らせる。御用の件により相良甚兵衛尉を下向させたので、詳しい事情はその口上から聞くよう求める。
(慶長四年)十一月廿四日 / 冊子 467~468頁
島津惟新が又八郎に、相良甚兵衛尉・大脇弥五右衛門尉の無事到着、庄内しわち・野々三谷への着陣としわち城落去の見通しを報じる。寺沢志摩守の浜之市到着、肥後方面の通路遮断、山口勘兵衛尉の再下向と法度・置目の徹底、内府拝領の栗毛を送ったことなどを列挙し、勝利後の処置まで油断しないよう求める。
〔慶長五年〕十二月十三日 / 冊子 642-643頁
山口直友が島津方の書状と二使の口上を受け、井伊直政と相談して取り次いだことを報じる。島津父子に返答を承引し、早々に上洛して徳川家康へ礼を述べるよう促し、その際は井伊直政とともに尽力すると約し、和久甚兵衛に詳細を含ませた。
(慶長五年)十二月廿九日 / 冊子 728-729頁
島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)に、上方交渉は龍伯(島津義久)と十分に談合して進めるよう求め、般若院・本田助允の下向と書状到来、井伊直政・山口直友の使者への応対・召留め、和久甚兵衛との往来について慎重に処置するよう伝えた書状。
(慶長五年)極月晦日 / 冊子 729頁
島津義弘(惟新)が島津忠恒(家久)に、和久甚兵衛と上方使者の素性・往来を慎重に見極め、国中への出入りを制限すること、関係者から事情を聴取して書状を確保すること、不審があれば使者を差し置くことなどを指示した書状。
(慶長六年)三月十二日 / 冊子 751-752頁
舟越景直が島津忠恒(家久)に、先の使者へ和久甚兵衛を添えて帰国させ、その後の二使からの申し入れも承ったと伝える。当地の様子を詳しく知らせるため旅庵も下向させ、和久を通じて説明するとした。
(慶長六年)三月十四日 / 冊子 752頁
山口直友が島津忠恒(家久)に、先度の使者に和久甚兵衛を添えて下向させ、重ねて来た二使の申し入れも承ったと報じる。井伊直政とも相談し、今後も相応の用向きを承る旨を伝えた。
年月日未詳 / 冊子 757頁
島津義弘(惟新)譜は、義弘が慶長六年四月に向之島藤野村へ退居していたところ、山口直友の使者和久甚兵衛が再び下向し、徳川家康は義弘がやむを得ず西軍に加わった事情を理解して疑わないと伝えたため、帰宅したことを記す。
(慶長六年)四月六日 / 冊子 759頁
島津義久(龍伯)が惟新に、旅庵の下着で上方事情を聞けるだろうと述べる。和久甚兵衛を今回は富隈に泊められず、鹿児島逗留も不都合なら別の場所を選ぶよう求め、富隈宿泊は難しいと重ねて伝える。
(慶長六年)七月九日 / 冊子 766頁
福島正則が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合、伊勢平左衛門らとの協議、伊集院久治・山田有信の上方召喚について助言した書状。本文はNo.1566と同文のため本箇所では省略されている。
(慶長六年)七月十三日 / 冊子 766頁
島津義久が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合を急がせ、帰国後は伊勢平左衛門らと協議するよう指示する。伊集院久治・山田有信を軽々しく上方へ召さないことや、山口直友書状の扱いにも触れた。
(慶長六年)十月十一日 / 冊子 785頁
島津義久(龍伯)が島津忠恒に、鎌田政近の帰着と飛脚の鹿児島通過を伝える。和久甚兵衛への使者派遣について、先に真連坊へ申し置いた返答が届いたため、早々に使者を遣わすのがよいと指示した書状。
三月二日 / 冊子 806頁
島津義弘が山口直友へ、和久甚兵衛尉を介した返書が遅れた事情を説明する。図書頭忠長の上洛後に相互の合意を得て誓紙を交換するよう求め、今後も疎意なく取り計らうよう依頼した書状案。
年月日未詳 / 冊子 808頁
徳川家康の誓書を島津忠長が受領し、厳重に封じて和久甚兵衛尉に薩摩へ送らせた経緯を記す。六月上旬に龍伯へ届き上洛を決意したが、伊集院忠真の党が再び蜂起したため、出立できなかった。
年月日未詳 / 冊子 818頁
島津氏譜抄は、和久甚兵衛が鎌田政近らと同行し、慶長七年六月三日に下着したことを記す。島津忠長・鎌田政近・比志島国貞・樺山久高の名を掲げる。
(慶長七年)六月十一日 / 冊子 820頁
島津義弘が図書頭忠長へ、和久甚兵衛尉が六月三日に到着したことを告げる。上方での交渉を心配していたが、内府の御前で異議なく神裁も示され、義弘自身の処遇まで明確になったことを喜んだ書状。
(慶長八年)正月廿二日 / 冊子 878頁
山口直友が忠恒へ、これまで心静かに相談できたことを喜び、出船の時期を尋ねる。前日に福島正則を訪ねて終日酒宴となったのかと問い、朝倉山神と称する進物を送り、詳細を甚兵衛に託した。
(慶長八年)六月六日 / 冊子 896-897頁
山口直友が詳しい用件を伝えるため和久甚兵衛を下向させ、将軍宣下と翌月の秀頼祝言で諸大名が在京するため、忠恒も祝言の前後に上洛するよう重ねて勧める。先の使者と緞子一巻の贈答にも礼を述べた。
(慶長八年)七月廿六日 / 冊子 902頁
島津龍伯が惟新へ、宇喜多秀家らの上洛計画について鹿児島で協議し、同行者を選ぶよう求める。休復の上洛も望ましいとして正文寺へ準備を命じ、和久甚兵衛と早急に相談するよう指示した。
年月日未詳 / 冊子 906-907頁
御譜抄は、関ヶ原敗戦後に宇喜多秀家が小舟で薩摩へ逃れ、島津家が牛根にかくまった経緯を記す。家康に所在が知られると、山口直友・和久甚兵衛らの仲介で上京を求められ、小瀬中務を通じて秀家が承諾した。
(慶長九年)六月九日 / 冊子 935頁
山口直友が島津忠恒へ、昨夜の上着を喜び、参上して面会したいが翌日に将軍上洛の供奉があるため、まず和久甚兵衛を介して返答すると伝えた書状。
(慶長九年)七月三日 / 冊子 937頁
山口直友が島津忠恒の側近へ、上様からの贈物を甚兵衛に添えて届けた旨を伝える。前日の愛宕参詣を祝い、詳細は甚兵衛の口上と後日の面談に委ねた。
年月日未詳 / 冊子 18頁
五月十八日、山口直友が島津忠恒に、翌日上様から茶を賜るとの命を知らせ、本多正純の書状で上意が伝えられたことを記す記事。直友と和久甚兵衛尉が来訪し、巣鷹の児鷹を賜ったため、忠恒が登城して謝した。
(慶長十年)五月十八日 / 冊子 18~19頁
山口直友が島津忠恒に、翌日に上様から茶を賜るとの上意を本多正純の書状で知らせ、和久甚兵衛尉に届けさせた書状。あわせて上様から巣鷹の児鷹を賜ったため、それも持参させたと伝える。本文単独では上様の実名は確定しない。
年月日未詳 / 冊子 21頁
六月二十九日、島津常久が和久甚兵衛尉の案内で伏見城へ登り、大樹徳川家康に拝謁して太刀一腰・馬代五百疋などを献上したことを記す記事。退出後は太守の旅館へ報告し、宿所では身分を問わず多くの者から祝意を受けた。
(慶長十年)七月十一日 / 冊子 23頁
鎌田政近が樺山権左衛門尉へ、前日の石船に関する相談を受け、黄金三百五十匁分と銀百五十枚を三原諸右衛門尉・相良勘解由次官・有川仲右衛門尉が受け取ったことを報告した書状。上州様への礼、和久甚兵衛尉の使者としての滞在、腰物、伊勢平左衛門尉からの詳報についても伝える。
(慶長十年)七月廿一日 / 冊子 25頁
山口直友が島津忠恒に、前日に和久甚兵衛を遣わしたこと、豊臣秀頼への礼が無事済んだだろうと推察していることを伝えた書状。出船の様子を知りたいが当番中のため書状で問い合わせ、無事の帰国報を待つと述べる。
(慶長十年)八月十九日 / 冊子 29~30頁
山口直友が島津義弘(惟新)に、本助丞方が上着し、一人を添えて下着させたこと、本多佐渡守・同上野介が披露して首尾が良かったことを喜んだ書状。和久甚兵衛が先に述べた琉球人の渡海が済んだかを問い、上様へ礼を申し上げさせることを最優先とする。まだ渡海していなければ、御人数を相渡すよう先方へ重ねて伝え、それでも渡海しない場合は上意を得るよう求める。また琉球へ使者を渡して油断なく実情を究明し、本多上野介からも申し越されたこの件を島津忠恒(奥州様)と詳しく相談するよう勧め、詳細は本助丞が申し上げるとする。
年月日未詳 / 冊子 33頁
山口直友が用事のため和久甚兵衛尉を使者として薩摩へ送り、九月十五日付の書状を届けたことを記す記事。徳川家康が伏見を発って関東へ向かったこと、石船建造を遅滞させないことなどが書かれていた。
(慶長十年)九月十五日 / 冊子 33頁
山口直友が島津忠恒に、徳川家康が九月十五日に無事関東へ下向し、自身は伏見留守居を務めると伝えた書状。石船の建造を遅らせないよう強く求め、呉国向けの朱印三通を送り、和久甚兵衛の口上をよく聞いて船を遣わすよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 91頁
山口直友が島津家の代質について相談事項があるとして、和久甚兵衛を薩摩へ派遣したことを記す島津家久譜の記事。徳川家康が前月二十一日に伏見を出て関東へ向かい、道中無事であるとの報告も載せる。
(慶長十一年)十月十日 / 冊子 91頁
山口直友が島津家久に、徳川家康が伏見を発って関東へ向かい道中無事であることを知らせた書状。以前相談した人質の件について、意見を伝えるため和久甚兵衛を派遣したので、その口上を聞くよう求める。
(慶長十一年)十二月十二日 / 冊子 93頁
山口直友が島津忠恒(家久・陸奥守)に、贈られた唐皿への礼を述べ、大御所徳川家康の関東下向が息災であると知らせた書状。薩摩国の加子らの件は本多佐渡守の取り計らいで解決したと伝える。また、琉球に唐船が着いたため薩摩の商人を買付けに赴かせる案をもっともとしつつ、翌年の「御働」に差し支えないか十分に検討するよう求め、詳細は先に下向させた和甚兵衛に申し含めたとする。
(慶長十七年)十月十四日 / 冊子 381頁
慶長十七年十月十四日、和久甚兵衛が島津義弘へ、御馬の爪打ち道具を進上し、駿府への召置きと国元への下向、今後の御用について申し入れた書状。
十月十一日 / 冊子 61頁
古田織部の肩衝茶入を選ぶため島津方が数十個を上方へ送ったが、いずれも不相応として返却されることを伝え、自分にも一つ贈られる話だったがかなわず、和久甚兵衛に詳細を書かせた書状。
六月六日 / 冊子 220頁
将軍への祝儀と翌月の秀頼婚礼のため諸大名が在京していると知らせ、八月上洛の予定なら婚礼前に上洛するのがよいと勧めた。詳細を派遣した和久甚兵衛に託し、先に使者と緞子一巻を贈られた礼も述べた書状。
(慶長四年)九月廿三日 / 冊子 440頁
伊那令成が羽柴少将島津忠恒に、内府が十七日に大坂へ下向して秀頼へ重陽の祝儀を述べたこと、秀頼に対する悪事を企てたとして大蔵卿局・大野修理が退出したとの政情を伝える。大坂・伏見の仕置は心配不要とし、庄内の情勢を案じて折々の注進を求める。
(慶長五年)九月七日 / 冊子 574~575頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、美濃大垣城にいること、八月二十三日に敵が岐阜城を落として近江への通路を遮断したが、薩摩勢の迂回により通信が回復したことを報じる。薩摩から二百八十七人が到着したことを知らせ、隣国からの誘いに軽率に応じず龍伯と相談すること、老中二人を差し上せることを求める。さらに大坂の奥方側の主取を吉田美作守に任せ、担当者同士が対立しないよう命じる書状。
四月二日 / 冊子 757頁
島津義久(龍伯)が惟新に、国家の行末に関する返答を受ける以上、隠居の身でも急ぎ帰るべきだと述べる。鹿児島で相談する意向を示し、自身も時機を見て赴くので、富隈へ逐一知らせるよう求める。
(慶長七年)七月十五日 / 冊子 825頁
山口直友が龍伯へ、六月十三日付書状を受け、図書頭忠長の申し入れに対する内府の直書を旅庵へ渡したと報じる。内府が翌月関東へ下向するため、道中に注意して上洛を急ぐよう強く促した。
年月日未詳 / 冊子 896頁
島津家久譜は、山口直友の書状が将軍宣下と秀頼婚礼の祝賀のため忠恒の上京を勧めたことを記す。また本多正信・直友の内談に基づき休復にも上洛して訴えるよう促し、忠恒が伊勢兵部貞昌を遣わした結果、休復が上京を承諾した。
(慶長八年)七月晦日 / 冊子 902-903頁
島津惟新が、休復の上洛返事を受けて使者二人を留め、本田源右衛門を通じて龍伯へ報告した経緯を忠恒へ伝える。処理の遅延と関係者の不満を踏まえ、本源寺らを介して慎重かつ速やかに人員・乗船を整えるよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
五月十九日、島津忠恒が召しに応じて伏見城の営所へ登り、徳川秀忠から手ずから点茶を賜ったことを記す記事。茶亭で珍膳・茶碗・茶壺・名器・名画などを拝見し、退出後に登城して茶の礼を述べた。
(慶長十三年)二月廿七日 / 冊子 162頁
慶長十三年二月二十七日、山口直友が島津家久に、前年冬に進上された砂糖と蜜柑が披露され、火災で砂糖を焼失した折だけに特に喜ばれたこと、御墨印は追って送ることを伝えた書状。
(慶長十三年)二月廿七日 / 冊子 163頁
慶長十三年二月二十七日、山口直友が島津家久に、琉球から将軍へ御礼を申し上げさせるため使者を派遣して督促するよう求めるとともに、駿府城火災後も家康らが無事であることを知らせ、音信の使者を送るよう勧めた書状。
十月十四日 / 冊子 62頁
島津陸奥守が翌春の上洛を見合わせるとの決定を島津方も喜ぶだろうと伝え、伏見に残って必要な用務を引き受けると申し出て、馬の蹄を打つ槌一つを贈った書状。