永禄七年戦死者交名
永禄七年三月十四日・五月晦日・七月十八日 / 冊子 131~132頁
永禄七年の戦死者交名。三月十四日および五月晦日の今城合戦で戦死した宇都源十郎、大河平隆次・隆堅・隆光以下の一族・郎党を多数列挙し、七月十八日に櫛間桂原で戦死した新納新三郎忠衡も付記する。
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永禄七年三月十四日・五月晦日・七月十八日 / 冊子 131~132頁
永禄七年の戦死者交名。三月十四日および五月晦日の今城合戦で戦死した宇都源十郎、大河平隆次・隆堅・隆光以下の一族・郎党を多数列挙し、七月十八日に櫛間桂原で戦死した新納新三郎忠衡も付記する。
永禄七年 / 冊子 128頁
永禄七年、島津貴久が陸奥守を称し、島津義久が修理大夫に任じられたことを記す年代記事。
永禄七年 / 冊子 128頁
永禄七年、島津貴久の受領と義久の官途について、近衛稙家が朝廷・幕府へ取り成して成就させ、祝賀書を送った経過を記す。続く近衛家文書群の導入記事。
(永禄七年)四月 / 冊子 131(本文省略)頁
本文はNo.314と同文につき省略される島津日新請書案。日新が貴久の修理大夫受領と義久の又三郎官途について、将軍家の書状と使節を頂戴し、自身にまで書状が下されたことを前代未聞の厚恩として感謝し、祝儀の進物を差し出して取り成しを求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
(永禄七年)四月 / 冊子 131(本文省略)頁
本文はNo.315と同文につき省略される島津忠良書状案。日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜び、国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとして、わずかな進物を添えて披露を求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
永禄七年春 / 冊子 131頁
永禄七年春、北原兼親が飯野と今城の守備兵維持は費用が大きく、今城有事には飯野から援軍を出せるとして撤兵を義弘へ勧め、義弘が三月に守兵を退けたことを記す。後に、兼親が宗旨を改めない大河平一族を滅ぼす意図だったとの説も伝える。
永禄七年五月晦日 / 冊子 133~134頁
永禄七年五月晦日、伊東勢が夜明けから申刻まで今城を攻め落とし、大河平隆次の一族・郎党九十余人が戦死した経過を記す。十六歳の隆次も一族全滅を嘆いて大軍へ突入し、伊東方にも五百余人の死者が出たが、城内の妻子・下人は捕虜となった。
永禄七年八月天正日 / 冊子 135頁
陸奥守島津貴久が又五郎へ「忠長」の名を与え、「忠」「長」両字の読みを反切で示した加官状。永禄七年甲子八月天正日の年紀を載せ、忠長譜中の記事にいう俊安和尚が書したものとみられる。
年月日未詳 / 冊子 127~128頁
永禄七年、貴久・義久の官途叙任、今城守備兵撤退後の伊東勢による落城、大河平隆次以下九十余人の戦死を記す。さらに櫛間桂原合戦、新納忠衡の戦死、北原兼親処分、義弘の加久藤・飯野移住、北郷時久との盟約までを編年する。
年月日未詳 / 冊子 128頁
永禄七年正月二十日に伊東勢が鬼ケ城へ陣取り、三月十四日に酒谷へ進攻して翌夜退いたことを記す。十六日には伊東兵が本城向原の作物を荒らしたため、城兵が迎撃して敵六人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 129頁
永禄七年三月、近衛稙家・前久父子の取り成しにより、貴久が修理大夫から陸奥守へ、義久が文三郎から修理大夫へ任じられた経過を記す。宣旨を進藤長治が持参し、忠元にも取り成しを求める両近衛家の判物が下され、家蔵された。
年月日未詳 / 冊子 129頁
永禄七年三月、近衛稙家・前久が島津貴久父子の官途を朝廷へ請い、十四日に貴久を陸奥守、義久を修理大夫に任じる宣旨が出たことを記す。その前日に進藤長治が忠元へ近衛父子の書状各一通を届けた。
年月日未詳 / 冊子 130頁
永禄七年三月十三日、島津貴久が陸奥守、義久が修理大夫に任じられ、近衛家から北郷時久へもその官途成就を知らせる書状が届いたことを記す。続く近衛前久書状の導入記事。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 128~129頁
近衛稙家が島津貴久の受領と又三郎義久の官途について朝廷・幕府へ取り成して文書を下したことを義弘へ通知し、必要があれば今後も取り成すよう求めた書状。詳細は進藤左衛門大夫長治が伝えるとする。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129頁
近衛稙家が貴久の受領と義久の官途について公武へ働き掛け、関係文書を下したことを新納忠元へ知らせ、必要時の取り成しを依頼した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129頁
近衛前久が貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を取り整え、文書を下したことを新納忠元へ通知し、今後必要があれば取り成すよう求めた書状。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129(No.272同文)頁
No.272と同文として本文が省略された近衛稙家書状。貴久の受領・義久の官途を公武へ取り成したことを新納忠元へ伝え、必要時の取り成しを求める。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129(No.274同文)頁
No.274と同文として本文が省略された近衛前久書状。貴久・義久の官途を取り整えたことを忠元へ通知し、必要時の取り成しを求める。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛稙家が貴久の修理大夫受領と義久の又三郎官途を整え、文書を下したことを川上左近将監へ伝えた書状。不断光院との内談に基づくとして、必要時の取り成しを求める。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛前久が貴久の受領と義久の官途を取り整えて文書を下したことを川上左近将監へ知らせ、必要があれば取り成すよう求めた書状。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛稙家が遠路のため無音となっていたことを詫び、貴久の受領と義久の官途を公武へ申し整えて文書を下したことを日新へ通知した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。
永禄七年三月十四日 / 冊子 130頁
上卿中山大納言のもと、蔵人頭右大弁藤原淳光が奉じ、藤原義久を修理大夫に任じることを伝えた口宣案。
永禄七年三月十四日 / 冊子 131頁
上卿中山大納言のもと、蔵人頭右大弁藤原淳光が奉じ、修理大夫藤原貴久を陸奥守に任じることを伝えた口宣案。
(永禄七年)三月十五日 / 冊子 131頁
足利義輝が島津家の官途について詳しく承知し、稙家の子・又三郎を修理大夫に任じるのがよい旨を伝えるよう命じた御内書。詳細は使者量忠が説明するとする。
永禄七年四月二日 / 冊子 132頁
筑前国聖福寺の住持職について、宗賓西堂が先例に従って執務するよう命じた足利将軍家の公帖。左中将が判を据える。
永禄七年四月十七日 / 冊子 132頁
義久が以前思いがけず腹巻一領を贈られたことへの礼が、遠隔地のため遅れたと詫びた書状案。好便に託して馬一疋を贈り、残りの口上は神力坊が伝えるとする。
永禄七年四月廿日 / 冊子 132~133頁
古市宗檜が島津方に長く滞在して受けた厚遇へ謝意を述べ、四月十七日に薩摩へ帰着して相手方の調略と懇意を報告した書状。真幸境で伊東氏が近年押領した地域を別紙に記し、遠方の飫肥境については後報するとして、神力坊を使者に立てる。
永禄七年四月廿日 / 冊子 133頁
薩摩・大隅・日向の境目について、伊東方が近年押領した真幸院内の地として三野山郡、三之山内の高崎・高原・野尻を列挙した書付。飫肥境の押領地は遠方のため後に報告するとし、宗檜が神力坊を使者として進上したNo.292の別紙に当たる。
(永禄七年)五月十一日 / 冊子 133頁
戸次紹花が、島津貴久からの馬一疋と義久からの沈香を贈られたことへの感謝を述べた書状。詳細な謝意は神力坊が下向した際に申し上げるとして、披露を求める。
(永禄七年)六月二日 / 冊子 134頁
足利義輝が南国での対立は不適切であり、早急に無事・和平へ移ることが肝要だと義久へ命じた御内書。日向側にも同旨を命じたとし、詳細は近衛稙家と貞孝が伝えるとする。
(永禄七年)六月廿七日 / 冊子 134頁
近衛稙家が島津家との旧好を重んじ、これまで疎意なく尽力してきた日新へ、今後も取り成しを頼むと伝えた書状。色紙一枚に筆を染めて贈り、詳細は古市長門守に言い含めたとする。
(永禄七年)六月廿八日 / 冊子 134頁
進藤長治が義久からの進物を目録どおり受け取り、官途が整ったことを祝した書状。烏帽子・大口の裏打ち・扇・匂袋などを贈り、自身が趣旨を承知して取り扱うと伝える。
(永禄七年)七月廿六日 / 冊子 134~135頁
義久が歳久の所持する名弓を一時借りたいと求め、諸所へ軍勢を集める計画について相談した書状。隣接する蒲生を別手として編成するか、栗野への出立時期や道具の送付をどうするか、歳久の内意を尋ねる。
(永禄七年)八月五日 / 冊子 135頁
国境の戦況が急迫して無沙汰となったことを詫び、不断光院から贈られた古今集切紙七通をすべて拝受し、長年の望みがかなったと喜んだ書状。礼として紅糸一斤を贈り、取り成しを求める。
(永禄七年)九月 日 / 冊子 135頁
前年夏の古市宗檜派遣後に無音となったため、義久が使僧花舜軒を送った書状案。豊前方面の合戦が和睦したことを祝い、日向国境の防戦について大友氏の一途な調略を求め、沈香三斤・段子三端を贈る。No.261の省略本文に対応する。
(永禄七年)九月 日 / 冊子 135~136頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の支援を求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家へ損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗するとし、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。No.262の省略本文に対応する。
永禄七年十一月十九日 / 冊子 136頁
義久が北郷時久との関係について、将来にわたり別儀なく協力し、老中から伝えられた一か条を守り、飫肥が難儀した際には三之山口から援軍を出すと神々に誓った起請文。
(永禄七年)十一月廿七日 / 冊子 136~137頁
村田経定・川上久朗が日向国飫肥境の和談について、使者三人との折衝内容を詳しく報告した連署状。末吉・城郭・伊東氏の守護称号や旧判物をめぐる異論を整理し、大友・島津両家の合意と上意に基づく無事成立を求める。
永禄七年十二月二日 / 冊子 138頁
南薩州久志浦の久玉大明神宝殿一宇を造立した棟札。大檀那日新、大願主忠長、指宿貞幸・見玉盛賓ら施主と大工貞清以下を記し、天長地久、檀那の息災、国土泰平、諸人快楽を祈願する。
永禄七年十二月十五日 / 冊子 138頁
貴久が進藤長治の使者下向によって義久の官途が与えられたことを千秋万歳の慶事として祝い、義久から太刀一腰・馬一疋を受けた礼に、自身からも太刀一腰・馬一疋を贈った書状。自らの受領も過分の喜びと述べる。
永禄七年四月十七日 / 冊子 165頁
No.291と同文のため本文を省略する島津義久書状案。思いがけず腹巻一領を贈られたことへの礼が遠隔地のため遅れたと詫び、好便に託して馬一疋を贈り、残りの口上は神力坊が伝えるとする。
〔天正14年〕9月17日ほか / 冊子 341~343頁/原整理番号 130-30
〔天正十四年〕九月十七日の上井覚兼日記。覚兼が瀬戸山大蔵丞宅に泊まった夜、山田越前守の使者から、五日前に美々津から来た者が四国の兵船の豊後渡海と京衆下向の確実さを伝え、市来川上省伴・家村隼人佑の出家した二子が持参した書状にも同趣旨が記されていたと聞く。御家中に策動へ加わる者が多いとの風聞を受け、油断すれば重大だとの警告を了承したと記す。付随系譜では、忠家が菱刈合戦の馬越取合で永禄十年正月二十四日に戦死したこと、十二代包家が天文五年生まれで永禄十二年の渋谷一揆時に祁答院長野口で三十四歳にて戦死したことと多数の子女・僧を列記する。十三代忠宅は永禄七年生まれ、母を貴島氏女とし、大蔵姓から源姓川上へ改め、豊州撤退の夜戦で深手を負ったが本田淡路守親存に救助された。のち市来地頭本田氏との争論で伊集院忠棟(幸侃入道)の権威に押され十三年間牢浪したが、比志島紀州の上聞により赦免され、慶長年間の日州高岡外城取立時に移住して三十二石八斗を加増され、内山之城本丸に居住し与頭役を務め、正保三年正月十八日に八十三歳で没したとする。
巻二/冊子 19~20頁
永禄七年に貴久が陸奥守、義久が修理大夫へ任じられた宣旨と、貴久の剃髪を掲げた後、真幸院・菱刈方面の戦いを記す。伊東氏が三山に要害を築いて飯野の忠平を圧迫し、島津方はいったん攻略に失敗して戦死者を出した。続いて菱刈氏が恩に背き相良氏と結んだため、貴久・義久父子は栗野へ出陣し、忠平は飯野から馬越へ進む。稲荷神の瑞火を吉兆として攻撃を開始し、忠平や新納忠元らの奮戦で馬越城を落とした。菱刈方は大口城へ退き、相良の援軍も入ったため、市山・羽月・曾木などに守兵を配置する。官位と宗教的権威を示しつつ、大口攻略へ向かう軍事的足場を築いた記事である。
(永禄七年)九月日 / 冊子 126(本文省略、後出同文参照)頁
前年夏に古市宗檜を迎えたのち無音となったため、義久が使僧花舜軒を送った書状案。豊前方面の合戦が和睦したことを祝い、日向国境の防戦に大友氏の一途な援助を求め、沈香三斤・段子三端を贈る。同文の後出文書を参照して本文を補った。
(永禄七年)九月日 / 冊子 126(本文省略、後出同文参照)頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の働き掛けを求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家に損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗すると警告し、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。同文の後出文書を参照した。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛前久が貴久の受領と義久の官途を取り整えたことを北郷時久へ通知し、その成就を祝い、必要があれば取り成すよう求めた書状。詳細は進藤長治が伝えるとする。
(永禄七年)五月十一日 / 冊子 165頁
本文ではNo.294と同文のため省略される書状。戸次紹花が島津貴久からの馬一疋と義久からの沈香を贈られたことへの感謝を述べ、詳しい謝意は神力坊の下向時に伝えるとして披露を求める。
「永禄七年」三月十三日 / 冊子 351~352頁/原整理番号 52
近衛植家が忠元に、長く連絡がなく疎遠になったことに触れ、修理太夫の受領と又三郎の官途に関する用件を伝える書状。公武に関わる時なので奔走するよう求め、取りまとめが肝要だと述べる。詳しいことは進藤左衛門太夫から伝えるとしている。