沙弥崇重譲状
応永廿三年十二月十八日 / 冊子 296~297頁
沙弥崇重が次郎四郎兼善に、肝付郡岸良村の弁済使職と田畠・山野・狩倉などを譲り、父祖伝来の所領として子孫へ伝えることを認めた譲状。不孝・不孫の場合の処置も定める。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
60 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
応永廿三年十二月十八日 / 冊子 296~297頁
沙弥崇重が次郎四郎兼善に、肝付郡岸良村の弁済使職と田畠・山野・狩倉などを譲り、父祖伝来の所領として子孫へ伝えることを認めた譲状。不孝・不孫の場合の処置も定める。
(天正19年)2月16日 / 冊子 500頁
島津義弘が新納伊勢守へ、次郎四郎の暇乞いが石田三成の都合で遅れていること、伊達政宗の突然の上洛で京都が静謐となったことを知らせる。屋形造営、旧来の借物返済、又一郎夫妻の在京処置を鎌田出雲守と熟談し、栗野留守居にも配慮するよう求めた実務書状。
(天正19年)6月20日 / 冊子 511頁
本文はNo.1133の島津義弘書状と同文のため省略されている。新納忠元家に収められ、新納次郎四郎忠堯の所蔵と注記されており、同じ書状が新納氏関係史料にも伝来したことを示す。
天正20年10月13日 / 冊子 610頁
石田三成が新納忠元へ、二度の書状と三郎兵衛の口上を受け取ったと返答し、長く京都にいる次郎四郎の帰国希望について説明する。 朝鮮出兵に伴い中国・九州から人質を再び召し上げているため、以前からの人質だけを今帰国させることはできないとする。一方、幽斎在国時の朱印では忠元への配慮が示されているとして、状況を踏まえた判断を求めた。
文禄4年11月24日 / 冊子 924頁
新納忠元譜に収められ、正文が新納次郎四郎忠鐶家に伝来した忠恒書状。 本文は別文書と同文として省略されているため、この頁では伝来先と収録譜以外の用件・宛先を確定できない。
慶長十三年十一月十七日 / 冊子 197~198頁
慶長十三年十一月十七日に行われた犬追物の手組。島津又太郎・鎌田玄番助・鳴津善四郎・三原次郎四郎ら参加者を組ごとに配した名簿。
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
五月廿五日 / 冊子 159~160頁
伊勢貞昌が三左金らに、前日の次郎四郎による丁重な振舞いへの礼を述べた書状。酒宴で長居し、帰宅後まで酒気が残ったことを恐縮しつつ、荒地や屋敷・奉公人の扱いについても意見を述べ、今後の相談を願う。
五月廿五日 / 冊子 170頁
本文はNo.403と同文として省略される。No.403によれば、伊勢貞昌が三左金らに、前日の次郎四郎による丁重な振舞いへの礼を述べた書状。酒宴で長居し、帰宅後まで酒気が残ったことを恐縮しつつ、荒地や屋敷・奉公人の扱いについても意見を述べ、今後の相談を願う。
延徳二年三月廿日 / 冊子 548頁
上原氏文書に残る、飫肥で二度目に行われた延徳二年三月二十日の犬追物手組。島津忠昌ら少数の参加者と疋数を記す。
文化8年正月11日。外包同年閏2月15日受渡 / 冊子 360頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1124
白木御文書七番箱54番、吉書。神社佛閣の修造興行、農事に専ら励むこと、国々の年貢の徴納の三条を掲げ、これに従い沙汰するよう命じる。文化8年正月11日、斉興御判。上段の箱番号・吉書見出しを下段正文・署日へ連結する。外包は斉興公御吉書1通、文化8未閏2月15日、安房から三原次郎四郎へ渡し七番箱収納。本文日付と閏月の受渡日を分け、前年1077吉書の包紙相手へ転用しない。
4月5日(正文年なし)。外包文化9年申5月10日、去年御暇の文言 / 冊子 366頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1139
全六拾番中。去年の御暇の際に出された当分養子願書を返すと伝える。4月5日、土井大炊頭署、松平豊後守様宛。外包は文化9申5月10日、安房から三原次郎四郎へ渡して白木御文書七番箱収納と記し、収納末尾は次段へ続く。正文に独立年はなく、外包年・去年御暇の文言と1138文化8願書を照合する。願書返進を養子許可の返答としない。後出1217御譜は文化9年4月5日の同願書返却を記し、本件日付・外包年との照合根拠となる。
年月日未詳 / 冊子 584~586頁
島津忠治の代に行われた寄合の座鉢・式次第。新納次郎四郎・新納江州、平田右馬助、本田治部左衛門尉、伊地知らの座席順を示し、出仕、贈答、酒肴・祝物の配膳、役人の出入りを日次に沿って記して、家中儀礼の序列と運営実務を伝える。
年月日未詳 / 冊子 709頁
大島忠福・忠明父子と次郎四郎忠次らの系譜、忠次が大口城で捕らえられた後の経緯や子孫関係を記す。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第一番の手組を記した一覧。殿以下、島津又吉・島津摂津守・島津十郎・三原次郎四郎ら射手の名と割当てを図示する。
慶長十四年十月八日 / 冊子 246頁
慶長十四年十月八日、伊勢貞昌が女房衆・奉公人に対し、役目と勤務、身持ち、争論の処理、届け出、次郎四郎らへの相談、命令順守などの家内規律を条項ごとに定めた掟書。
延徳二年三月卅日 / 冊子 549頁
延徳二年三月三十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を一覧にした記録。
延徳二年四月十八日 / 冊子 551頁
延徳二年四月十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
文化6年6月17日家督・隠居、18日改名。文化元年10月4日元服、外包文化6年12月廿八日 / 冊子 317~318頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1006
白木御文書七番箱中46番、斉興と斉宣の明細書写2枚。冒頭から次頁にまたがり、薩摩国一円、石高60万5千石余と大隅国一円・日向国之内、別に12万3千7百石と琉球国を掲げる。斉興は本国・生国とも薩摩、文化元年甲子10月4日元服、従四位下侍従、文化6年己巳6月17日家督、居城薩州鹿児嶋、松平豊後守斉興、年齢欄は己21と記す。斉宣は本国薩摩、生国武蔵、文化6年己巳6月17日隠居、18日改名、従四位上中将・上総介事、榮翁重豪嫡子、松平修理太夫斉宣、年齢欄は己41と記す。右包紙に明細書写二枚、外包に朱46番と太守・御隠居の明細書写二枚を記し、文化6年己12月廿八日、安房から三原次郎四郎へ渡され七番箱へ納置した旨を付す。二人別の生国・官位・年齢・家督隠居改名を分ける。1004朱按の斉興19歳・斉宣37歳とは異なり、年齢欄を推測で統一しない。後続1014の御譜注は斉興を実19歳、幕府には21歳と告げたと明記するので、斉興の年齢差は申告上の差として説明できる。斉宣41と朱按37の差は引き続き未解明。
明和八年卯十月二十八日 / 冊子 298頁/原整理番号 800/整理ID 800
新納万太郎の加冠に際し、仮名を次郎四郎とするよう定める書出。明和八卯十月二十八日付、重豪公の御墨印表示、新納万太郎と次郎四郎の名を備える。正文は新納次郎四郎にある。
文化8年9月(正文)。5月廿八日受渡、外包9月2日収納 / 冊子 368頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1146
右二通の添書は左のとおり。蓮金院は先般の家督に際して御判物を頂戴するよう先規により願い出た。今回江府で御発駕前に御判物と添書の認めがあり、持ち越して滞坂中5月廿八日、御判物を拙者から渡し、御家老連名の添書を御側御用人により頂戴して一件を済ませたので、後年見合用に別紙2通の写を渡すと記す。9月、典膳署。三通の外包は御判物并添書写、さらに外包の朱一百表示、文化8未9月2日典膳から三原次郎四郎へ渡し六番箱収納。正文9月・実際の受渡5月28日・収納9月2日、写二通と包紙三通の範囲を分ける。
正月13日 / 冊子 683頁/原整理番号 694
新納次郎四郎を使者として島原へ遣わすことを知らせ、このたびの軍衆と現地での飯米渡しについて指示する。正月十三日付で川上久国が岩切六右衛門尉へ送り、新納次郎四郎へ渡すよう付記する。
年月日未詳 / 冊子 406頁/原整理番号 523
加世田小川監物日記は、天下からのキリシタン禁制高札と当家老衆の高札を新納次郎四郎・阿蘇主殿助が持参し、弓場で披露した後、町へ立てたと記す。本文には十四日の見出しがあり、この年九月の記事として確認できるが、目録年月日は空欄のためB列へ補入しない。編者は本記事が文書521-3の行間にあると注記する。
延徳2年3月20日 / 冊子 255頁/原整理番号 97
延徳二年三月二十日、飫肥で二度目に催した犬追物の手組。番号付きの項目として「一 殿」二十三疋、「二 島津摂津守」十三疋、「三 島津次郎三郎」四疋、「四 島津左衛門尉」五疋を記し、ほかに島津安芸守三疋、島津次郎四郎十一疋、伊地知周防守九疋、加治木又八郎四疋、平田又九郎四疋、上原次郎右衛門尉二疋、平田右馬助三疋、長井初五郎三疋、島津大和守五疋、島津徳三郎三疋を割り当てる。検見を餅原駿河守、喚次を平瀬三郎四郎が務め、犬追物に参加する人員と馬匹編成を具体的に示す。『旧記雑録前編二』一六八三号文書と同一と注記される。
文亀4年3月22日 / 冊子 256頁/原整理番号 99
文亀四年三月二十二日の犬追物手組。番号付きの項目として「一 島津備前守」九疋、「二 島津左馬助」十八疋、「三 渋谷藤次郎」五疋、「四 島津次郎四郎」五疋を記し、ほかに豊後守殿十四疋、梁瀬源五十一疋、島津治部少輔十疋、村田与次郎九疋、柏原助七郎十一疋、羽嶋新三郎三疋、羽嶋越前守三疋、上原又七六疋を割り当てる。検見を餅原駿河守、喚次を吉田六郎三郎が務め、前掲の延徳二年手組と同じく参加者・馬匹数・役割を表形式で示す。正本は家蔵され、『旧記雑録前編二』一七八九号文書と同一と注記される。
年月日未詳 / 冊子 479~480頁/原整理番号 17
日新公以来の平田家一族の奉公を人物別に列挙した家伝。谷山倉良城主・平田備中守宗秀が蒲生岩剣の陣で形見の刀を宿元へ送り、主従とともに戦死したこと、弟の田布施城主・豊前守宗貞が高城籠城中に城内へ忍び入り、敵中三里を切り抜けて情報を伝えたことを中心に記す。さらに安房介・新左衛門・次郎四郎重辰・宮内少宗鑑・尾岐守・左衛門宗鉢・兵衛宗吉らの召出し、家老役、肥後・豊後・京都伏見での奉公、戦死・病中の逸話、女子二人の伊地知家・帖佐家への婚姻を掲げ、末尾に肥後新左衛門所持本からの写しであることを記す。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 733頁
島原軍勢へ渡す飯米に関する人数指出の写し。人数七十六人、そのうち夫丸十八人、乗馬一疋とし、新納次郎四郎が加わる場合は別に指出を提出すると記す。
正月13日 / 冊子 682~683頁/原整理番号 693
島原・天草方面への使者派遣と早期渡海、軍衆・飯米の取扱い、山守や現地役人との談合、渡海後の加勢・追討などを指示する書状。正月十三日付で川上久国が吉崎五郎左衛門尉へ送り、山田民部少輔への報告も添える。
年未詳3月27日、延享4年4月12日、宝暦9年2月28日ほか / 冊子 275~277頁/原整理番号 107-17
三月二十七日、上原休兵衛が大峯彦兵衛へ、先代上原源右衛門は高麗渡海の際に島津義久の側へ召し置かれて渡海せず、帰朝後、渡海衆への加増とは別に『雨之御旗』に関する使者役の加増として五十石を与えられ、兵具方を勤めたとする家伝を伝え、由緒調査の際には関係文書を見せてほしいと求めた覚書。伊作田を上原氏の本名とする伝承も掲げるが、系図がないため実否は不明と明記する。付属系図は尚益・尚清・尚傳・尚志・尚賢・尚續・尚方らをたどり、延享四年四月十二日に尚益が養子尚清へ家職を譲ったこと、宝暦九年二月二十八日に尚傳が家督を継いだこと、平田家への養子、上原林悦の別家、松元・岸・餅原各家との婚姻などを記す。
明和三年四月五日・七日・十八日・廿二日(記事内日付) / 冊子 129頁/原整理番号 294/整理ID 294
同年四月五日、上使松平康福が芝第に来て参府を慰労した記事。二十二日には指示を受けて先格の献上物を差し上げ、家治に拝謁して懇旨を賜った。続いて西営でも献上し、退出後は老中各邸へ赴いて拜謝した。同行家老二人も先例どおり拝謁するはずだったが、高橋此面種寿が病気で参上できず、川田伊織国福だけが拝謁したとの注がある。続く条は四月七日に儲君が元服して従二位に叙され、大納言に任じられ、十八日に将軍が諸侯の朝賀を受けたと記す。重豪は、朝覲は済んでもまだ礼を行っていなかったとして、用人新納次郎四郎久儔を城へ遣わし、家治へ太刀一腰・馬代金一枚を献じた。側用人仁礼仲右衛門仲古を介して御臺へ同品、側用人山岡斎宮久澄を介して大納言へ白銀五枚及び一種を献じた。夫人も女使を遣わし、将軍・御臺へ各一種、大納言へ一種三百匹を献じ、元服叙任を祝賀した。同日、将軍は伊丹兵庫頭を芝邸へ遣わし、浄岸院主に二種一荷を賜った。御臺も同じく二種一荷、大納言は三種二荷を賜り、重豪は書簡で拝賜の恩を謝した。重豪公御譜中に収められる。
明和五年七月(日無記載) / 冊子 203~204頁/原整理番号 524/整理ID 524
大目付宛に、寺社の神事・仏事・開帳や平生の葵紋付き寄附品の扱いを命じる。今後、御女中様方からは容易に寄附せず、御三家その他大名の菩提所などは別として、それ以外へは寄附しないことを原則とする。これまで寄附された品については寺社奉行へ伺い、指図に従い、それ以外の寄附分は什物として置き、平生及び神事・仏事・開帳の際にも使わない。葵紋を用いる面々は、霊牌を寺院へ納める際の膳具その他の打敷などの紋付き品を、その人の法用に使うことは差し支えないとする。この趣旨を寺社奉行から寺社へ伝え、御料・私領の寺社については代官・領主・地頭から申し渡すよう命じる。明和五年七月付で、正文の写しは江戸家老座にある。朱注には、取次新納次郎四郎を通じ納殿役人へ申し渡したことを記す。
明和六年(正月~十二月) / 冊子 209~210頁/原整理番号 551/整理ID 551
朱注に引書名を掲げた明和六年の重豪公辺記事。正月元旦に御庭三社を詣で守宮を訪れ、二日に東帯へ造朝賀正、三日に家老、大野多宮・新納次郎四郎らの献太刀を受け、親しく酒を与えた。四月二十七日の賜告、翌日の朝拝・賜馬、小疾のための出行願と大閤の許可、八月十三日の守宮の餞、十九日の夫人の餞、二十五日の芝邸出発を記す。九月十三日に菱刈藤蔵実詮が江戸で没し、下旬には彗星を東に見た。十月十七日に府城へ着き、十九日に慈照夫人の訃報が江戸から届き、一旬の喪に服した。弓炮の勝負への戒めと御三役・与頭・番頭への親諭、納戸奉行・物頭・使番・小納戸などの役替え、本尊を看経山伏へ授ける遣使、福昌・惠燈・淨光三寺での慈照夫人の弔い、江戸・鹿児島の別なく不洗物を着用する命令を記す。十一月三日に山下築地を訪問し、西田とは未接見。六日に柁城へ向かい桜島横川別館に泊まり、七日に長年寺で皇妣の二十五回忌に拝し、万歳丸で帰船した。南泉参詣、役署巡覧、種子島雲治の物頭任命、諸有司への散楽の観覧を記す。十二月には久福・清香を家老、新納波門を若年寄、山岡齊宮・島津矢柄を大目付とする役替え、玉龍・松峯二廟参詣、側小姓相良彌千母への四書五経各一部の下賜、二十七・二十八日の諸社・看経所参詣と大目付以上への前栽観覧、二十九日の大雄宮・南泉廟参詣を記す。
明和八年二月二十五日~十一月(記事所載日、原日付に異同留保) / 冊子 275~276頁/原整理番号 739/整理ID 739
明和八年の任官・拝領・服章と、帰国途中の長崎見学、帰国後の役職変更を日付順に記す。二月二十五日、島津栄女を若御年寄とし、新納次郎四郎久儔を大御目付として内蔵の称を賜った。四月十六日、大家の使松平周防守が物を賜り、公は邸で受け、帰国を命じられ、西丸からも阿部豊後守を使いとして例どおり物を賜った。十九日に朝して拝恩し、大家が懇ろに諭し馬を賜った。二十一日、閣老の承旨により使人が馬を牽いて邸に届け、公が玄関へ迎えて敬拝した。二十六日、服章の制を定め、十字の章は世子に限り、翁主も用いてよいとし、他の公子は桐または牡丹を用いるという。二十七日、國老樺山左京が公の首途を祝う記事があり、二十九日、民部卿の使い田沼能登守が賜物を届けた。家治の真筆を望み、二幅を一橋を通じて賜り、謝恩したことを記す。注には女松島による取次、太公望・伝説図という二幅の題と六月十五日説があり、月日の誤りを疑うとする。五月三日、閣老を訪ねて賜書に礼を述べ、三家へ告別した。二十八日に邸を発ち、六月五日伏見邸、二十一日大坂邸に至った。今月八日、信解君が西田館で卒去し、二十二日に訃報が達したため、中村早太を先に進香へ遣わした。二十七日に大坂を発ち、七月朔日に坂越、八日に大里に至ったと記す。十六日長崎邸へ至り、十七日、今村政十郎を無役中通とし、十八日、奉行所を訪ね大家の起居を伺った。十九日、林市兵衛宅で「陣所」を見て市人を召見し、二十日、福済寺・聖王寺を訪れた。二十一日、針鹿太左衛門宅で「前裁」を見て、福田十郎右衛門宅も訪れ、二十二日唐人館、二十四日聖堂・聖堂預の向井齋宮宅、興福寺・宗福寺、二十五日出島館を見学した。出島では小鷹丸・御橋の記載と、紅毛船に乗ってしばらく見た旨を伴う。二十七日平野善次右衛門、二十八日今村源右衛門の茶亭を訪れ、紅毛人を呼んだ。訪問時の帷子・上下・羽織裃・御道具などの服装注もある。八月九日、大波戸から出帆し、長崎邸には凡そ十八日滞在したと記す。十四日、阿久根所在の大島に着き、十五日、阿久根に至って大島を再び狩り、十八日府へ至り、末川織衛久中を江戸へ謝恩に遣わした。二十一日、山岡齋宮久容を家老とした。九月二十一日、家老桂織部久中を病のため免じ、まだ老齢でないので慎んで療復を待てと諭した。十月十日、松峯山で淨國公(吉貴)の二十五年諱辰に謁し、長上下を着た。十三日、尾畔へ行き十五日に還った。十一月の記事は、近習役が従来使番下と同級だったのを進格し、「御近習役次席」を置き、職禄九十石を給する命令を記す。出典は近秘野艸。
年月日記載なし(安永四年十一月十三日の四手組の文脈) / 冊子 476頁/原整理番号 1311/整理ID 1311
前後の代初犬追物稽古の四手組に属し、独立した年月日はこの表には記さず、次手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津筑後、嶋津彌市郎(一の付記)、伊集院平治(一の付記)、上村茂兵衛、汾陽八右衛門、肝付郷右衛門、山澤十太夫、堀千次郎、木脇賀左衛門(二の付記)、新納次郎四郎、喜入善之助である。検見・喚次欄には嶋津又六郎、岡元千右衛門を記す。名簿の掲載人名は11枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。一・二の付記は一疋・二疋を示す。付記のない者もいる。
八月朔日 / 冊子 6~8頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0019
八月朔日の太刀および中紙目録進上の作法を、在国・在府と身分別に定めた次第。一門方は御座之間で、太刀を二之間上の敷居から下二畳目に側御用人が備え、その下で礼をした後、縁頬側に着座して祝儀を述べ、家老の取合を受けて退座する。若年寄・大目付は太刀一腰、島津藤馬・相馬・多門、伊集院伊膳、畠山内膳、鎌田蔵人は太刀を「五腰充」とし、奏者番が取り、着座・退座の場所をそれぞれ定める。島津左衛門・美濃・図書・筑後、所持・所持格、川上主鈴、新納次郎四郎・五郎右衛門、町田主馬、伊集院平治、諸地頭、桂外記等も列挙し、敷居・畳目と太刀・中紙目録の扱いを示す。在地不在・病気の者は名代を立てて太刀・目録を納める。江戸詰、江戸での進上、一門方・役家格の在府時の扱いも規定し、末尾は従来使者によった八朔進上を太刀持参へ改める旨と、書付二通・石見殿添書一通を記す。
〔天保八年〕十月(本文は酉年、年は目録による) / 冊子 10頁/原整理番号 13/整理ID 13
領知の御判物・御朱印を交付するに当たり、本多下総守と井上河内守が内容を調べることを定めた指図書。従来の判物・朱印を持つ者は本書に写しを添え、国郡郷村の高辻を書いた帳面を差し出すよう命じる。本書は両名が拝見し、写しを留め置く。朱印を持たない者は領知高と国郡郷村の詳細を記し、加増・所替え・朱印高の内の領知がある場合も両名へ事情を届けるとする。酉年十月付。包紙は天保八年十一月二十五日に安房殿から新納次郎四郎を取次として平川宗之進へ渡し、白木御文書九番箱へ納めたことを記す。
11月28日 / 冊子 428~429頁/原整理番号 401の3
十一月二十八日、四右衛門・与四右衛門・七右衛門・三之丞・又左衛門・藤吉・次郎四郎・析右衛門・孫市の九艘について、船型、舟頭・水手人数、赤米支給量を列記する。同日以後二十日分を舟頭一人一日一升、加子七合五勺で算用して各人へ渡すよう命ずる。与四右衛門船は総員八人・舟頭二斗に対して「加子四人・赤米一石五升」とあり、人数と算用の食い違いを推定訂正せず残す。
年月日未詳 / 冊子 606~607頁/原整理番号 667
伊地知杢右衛門尉衆中の新納次郎四郎らへの振舞に際し、米・塩魚・鮑・焼酎・魚・酒などの品目、数量、代価を列記して精算した取払帳。
文明六年八月廿三日 / 冊子 127頁/原整理番号 30
文明六年八月二十三日の犬追物手組。「忠昌公御代始」と注記した「殿」十二疋をはじめ、島津又次郎六疋、吉田次郎四郎三疋、鹿屋三郎次郎五疋、島津薩摩守十二疋などを列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)とする。
延徳二年四月十八日 / 冊子 132~133頁/原整理番号 47
延徳二年四月十八日、志布志で行った犬追物手組。殿八疋、島津大和守七疋、島津新四郎一疋、島津次郎四郎七疋などを記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を隈江刑部太輔とする。
宝暦十三年九月(包紙十日、朱取次記録八日) / 冊子 987~989頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2822
小松式部清香が九月、家老へ、帰国に伴う十八日・二十二日の脇年頭礼について、地頭らの太刀納入、寺社・山伏・町年寄・唐通事等の御目見、琉球在番と中山王の年頭使の御目見・着座を区分して伺う。着城後すでに御目見した組中諸士の再拝礼は不要とし、中山王の年頭使と新在番が一緒に御目見する先例を調べるよう求める。浄国院(島津吉貴)の初帰国時には礼がなかった先例を挙げ、外城の寺院・衆中等がわざわざ来る必要はなく、御請の日限に参合わせれば御目見する扱いを示し、長期滞在の難儀にも配慮する。帰国時と在国時の年頭規式の違いを踏まえて今後の作法を家老と相談して伺い、朱書には九月八日、赤松甚右衛門が上申して指示を受けた取次記録がある。
明和六年九月二十三日~翌年三月十日(死去は九月二十六日) / 冊子 226頁/原整理番号 594/整理ID 594
重豪の妻徳川氏が出産し、子はほどなく亡くなったこと、妻も腫満の病を発し、医療により一時少し快方に向かったことを記す。九月二十三日には胸膈に積塊が生じ薬餌が通らず病状が悪化し、二十六日に東都の芝邸で死去した。法諱は慈照院殿圓應靈珠大姉。二十七日の夜に納棺し、二十九日の夜、霊柩は芝邸東門を出て芝大円寺へ向かった。桂久中、仁礼仲古、有川貞厚、澁谷国房、白井昌佳と納殿役以下が随従した。十月三日夜に埋葬し、大円寺海鱗和尚が導師を務め、桂久中が木主を奉じた。宮之原通直、新納久儔、二階堂行旦、佐久間村央、大野清純、澁谷国房、白井昌佳らが葬儀に列し、桂久中は重豪に代わって焼香した。親戚から香奠銀が寄せられ、四日から八日まで大円寺で中陰の仏事を修した。八日には家治公が宮人を遣わし、御香奠銀十枚を賜った。十月十三日に訃報が麑府へ達した。翌年正月晦日、遺髪を国許へ送り、納殿役富滿伊太夫道持と奥横目以下が護送した。東海道伊勢路を通り、大坂から船で豊前小倉へ渡り、さらに陸行して三月十日の夜に福昌寺へ到着した。既に廟が建てられており、その夜に遺髪を廟中へ納めた。東都からの護送では先例により実際の名を示さず「転送什物」と称し、領内の出水へ至って実情を公にしたという。
明和七年正月~六月 / 冊子 236~237頁/原整理番号 633/整理ID 633
明和七年庚寅の公辺・家中儀礼を月次に記す記事。正月元旦は首途に当たり朝賀を受けず、三日に玉・松両山の先廟へ参り、四日に福引、六日に散楽を始めて諸有司に観覧させた。十日、それまで御小姓に預けていた御道具の事を御小納戸の管掌に改めた。二十七日に府城を発ち、家老島津久金・樺山左京久倫、赤松則正、関山金暉、二階堂行旦、村上範村、上村笑之丞、鎌田愛太夫、山田司らが随従した。二月十一日に大里へ着き、十三日に青龍丸に乗って海行した。十二日は風潮で乗船しなかったとの注がある。先鋒は早崎・小鷹・早海・恒吉の四艘、御座は青龍丸、左右の御挽船は玉江丸・飛龍丸。使船四艘、側用人・使番・書院・臺所・馬・家老・湯殿・船奉行の船、水伝の別釣流二艘・白木小早八幡丸一艘、列従の船を挙げる。二十七日に坂越へ入り、三月二日に大坂邸へ、五日に船で京橋へ、六日に伏見邸へ着いた。七日に微行して京都を観覧し、八日に萬福寺の伯順を召し、九日に邸を発った。晦日に芝邸へ着き、表玄関から御休息所へ入り、守殿を訪ねた。服装・御膳・食器・差味の先例注を伴う。三月十八日に綾君が府城を発ち京へ帰寧したこと、二十七日に継室を立てたいと願ったが返答がないことも記す。四月二日に松平周防守・板倉佐渡守・田沼主殿頭を訪問し、十三日に田沼が来邸して労い、重豪が島津久柄の迎接・拜恩を代行したと記す。十五日に朝覲の礼、十六日に大円寺へ到着を告げ、十八日に浄岸君が御休息所へ臨み囃子を催した。二十一日に三家と列侯の邸を訪れ、二十五日に高輪の五社へ参り、茶亭へ臨んだ。同日、樺山七郎・島津小平太を御近習番所へ召すよう命じ、両人は国老の子であるとする。二十七日に林玄達へ三百斛の特恩を許した。五月三日に惣廟・増上寺・源舜庵へ参り、四日に上野宮・円覚寺を訪ね、佐竹侯を訪問した。家使の老女が守宮へ端午を賀し、五日には両営で節を賀し、十日には赤松則正・二階堂行旦・関山軍兵衛金郷らを夜召して辨香を行った。十一日、将軍から甘露寺氏を夫人に迎える許可があり、諸御座間に迎えて命を拝した。二十六日、正月・五月・九月の正覚君・慈照君の諱辰に一員を遣わし、原文の「齋活」一桶と官香を大円寺へ捧げることを例とするよう御小納戸へ命じた。齋活には花脱かとの注を伴う。六月六日に綾君を多千姫と改称した旨を記し、十三日に一橋宮を訪問し、炭斗縮の帷子・麻上下と対面についての注を伴う。十七日に夫人が邸へ到着し、重豪の炭斗縮・芭蕉上下を記す。二十一日に御中奥で結納・婚礼を行い、花色の帷子・長上下・半上下など、重豪と諸役人の服装を詳しく記す。この間、甘露寺君の雑掌藤木玄蕃が来邸し、表御書院で召見された。二十五日、重豪と夫人が守宮へ饌を献じ、新婚のため散楽を奏した。
文化3年6月12日 / 冊子 112~113頁/原整理番号 70の9
記録奉行の平田貞太郎ら五名が、日新公いろは歌五首を板書して家老座正面の床に掲げた由来と、その後の撤去・再掲の経緯を調査して報告する。古老や旧記録を尋ねても開始年代を確定できなかった旨を文化3年6月12日付で述べる。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁/原整理番号 403
『平田宗直船賦帳』所収。市来湊から出す六端帆五艘の舟頭・水手人数を列記し、児玉主計助を上乗一人とする。続いて串木野から出す五枚帆・四枚帆・六端帆など九艘について船頭と人数を列記し、近間内膳正・春田大左衛門を上乗二人として、両船団を出水へ出船させる。末尾の総船数・総舟頭水手数の欄には数値の記入がない。
11月28日 / 冊子 432頁/原整理番号 404
市来湊・串木野で天草行きの船を仕立てた賦帳。本船賦帳からの書抜きとし、船主・船頭・加子を船ごとに列記する。市来湊の船別名簿に続き、串木野で仕立てた大小九艘、加子・舟頭計六十六人をまとめ、そのうち五人は伊作小の原浦、一人は永吉之浦の加子と注記する。末尾に上乗衆の送状がある旨を記す。
(寛永十四年)11月28日 / 冊子 433~434頁/原整理番号 405の6
串木野衆の春田大左衛門主従二人に真米・赤米各一斗を掲げ、奥書は前文書と同じとする。続いて各船の舟頭・加子と飯米を列記し、串木野から天草へ仕立てた大小九艘へ十一月二十八日以後二十日分の海上飯米を渡したと記す。舟頭は一日一升、加子は一人七合五勺で、平田民部少輔の帰宅に伴う次飯米の手配と九艘の送状を添える旨を是枝喜右衛門へ知らせる。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
正月16日 / 冊子 725~726頁/原整理番号 752
十三日付書状を受け、黄門の腫物・咽気・咳、不眠と食事の状況を詳しく報告する。城攻めの長期化による兵糧不足、船の回送、天草への渡海連絡、出水・大口の人数の半分を残すよう江戸から命じられた件について相談する。国境警備・大口番所の人数にも配慮し、新納加賀守の有馬同行希望を伝える。正月十六日付、野州宛。原史料には欠字が多い。
正月18日 / 冊子 747~748頁/原整理番号 783
新納忠清らの有馬渡海について、船不足なら先に天草へ渡り、千人が揃わなくても大口衆などを先行させるよう求める。吉田次郎兵衛の使者派遣、玉薬・兵具・大鋸大工の手配、出水の物奉行・船奉行らとの連絡を指示する。十三日の天草久田間着船を喜び、山狩と地下衆によるキリシタン探索を徹底し、捕らえた者を杖で問い相談するよう命じる。十八日付、重国ら五名宛。