明和七年間公辺記事
明和七年正月~六月/原整理番号 633/整理ID 633
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概要
明和七年庚寅の公辺・家中儀礼を月次に記す記事。正月元旦は首途に当たり朝賀を受けず、三日に玉・松両山の先廟へ参り、四日に福引、六日に散楽を始めて諸有司に観覧させた。十日、それまで御小姓に預けていた御道具の事を御小納戸の管掌に改めた。二十七日に府城を発ち、家老島津久金・樺山左京久倫、赤松則正、関山金暉、二階堂行旦、村上範村、上村笑之丞、鎌田愛太夫、山田司らが随従した。二月十一日に大里へ着き、十三日に青龍丸に乗って海行した。十二日は風潮で乗船しなかったとの注がある。先鋒は早崎・小鷹・早海・恒吉の四艘、御座は青龍丸、左右の御挽船は玉江丸・飛龍丸。使船四艘、側用人・使番・書院・臺所・馬・家老・湯殿・船奉行の船、水伝の別釣流二艘・白木小早八幡丸一艘、列従の船を挙げる。二十七日に坂越へ入り、三月二日に大坂邸へ、五日に船で京橋へ、六日に伏見邸へ着いた。七日に微行して京都を観覧し、八日に萬福寺の伯順を召し、九日に邸を発った。晦日に芝邸へ着き、表玄関から御休息所へ入り、守殿を訪ねた。服装・御膳・食器・差味の先例注を伴う。三月十八日に綾君が府城を発ち京へ帰寧したこと、二十七日に継室を立てたいと願ったが返答がないことも記す。四月二日に松平周防守・板倉佐渡守・田沼主殿頭を訪問し、十三日に田沼が来邸して労い、重豪が島津久柄の迎接・拜恩を代行したと記す。十五日に朝覲の礼、十六日に大円寺へ到着を告げ、十八日に浄岸君が御休息所へ臨み囃子を催した。二十一日に三家と列侯の邸を訪れ、二十五日に高輪の五社へ参り、茶亭へ臨んだ。同日、樺山七郎・島津小平太を御近習番所へ召すよう命じ、両人は国老の子であるとする。二十七日に林玄達へ三百斛の特恩を許した。五月三日に惣廟・増上寺・源舜庵へ参り、四日に上野宮・円覚寺を訪ね、佐竹侯を訪問した。家使の老女が守宮へ端午を賀し、五日には両営で節を賀し、十日には赤松則正・二階堂行旦・関山軍兵衛金郷らを夜召して辨香を行った。十一日、将軍から甘露寺氏を夫人に迎える許可があり、諸御座間に迎えて命を拝した。二十六日、正月・五月・九月の正覚君・慈照君の諱辰に一員を遣わし、原文の「齋活」一桶と官香を大円寺へ捧げることを例とするよう御小納戸へ命じた。齋活には花脱かとの注を伴う。六月六日に綾君を多千姫と改称した旨を記し、十三日に一橋宮を訪問し、炭斗縮の帷子・麻上下と対面についての注を伴う。十七日に夫人が邸へ到着し、重豪の炭斗縮・芭蕉上下を記す。二十一日に御中奥で結納・婚礼を行い、花色の帷子・長上下・半上下など、重豪と諸役人の服装を詳しく記す。この間、甘露寺君の雑掌藤木玄蕃が来邸し、表御書院で召見された。二十五日、重豪と夫人が守宮へ饌を献じ、新婚のため散楽を奏した。
登場人物
重豪、島津左中久金、樺山左京久倫(原表記)、赤松甚右衛門則正、関山新左衛門金暉(原表記)・軍兵衛金郷、二階堂蔀行旦、村上桂馬範村、上村笑之丞、鎌田愛太夫、山田司、萬福寺主僧伯順、守殿、綾君・多千姫、松平周防守、板倉佐渡守、田沼主殿頭、島津久柄、浄岸君、樺山七郎、島津小平太、林玄達、島津登久連、新納次郎四郎久儔、兒玉早之丞實門、柏白兎伯貢、丸目元養道貞、相良彌二母長興(原表記)、甘露寺君、甘露寺氏、正覚君、慈照君、藤木玄蕃
宛先
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キーワード
正月儀礼・御道具管掌変更、正月27府城発、随従者、船役配置、大里青龍丸・坂越大坂伏見京都芝邸、御休息所先例、綾君帰寧、継室願、閣老訪問・来邸、朝覲・寺社参礼、近習番所任命、林玄達三百斛、端午、辨香、甘露寺氏婚姻許可、諱辰供物・官香、多千姫改称、夫人来邸・結納婚礼・衣装、藤木玄蕃聘問、新婚散楽
冊子頁
236~237頁
読込量
中
面白さ
★★★★☆
(2)173~309頁(明和4~明和8).pdf