本多正信書状
(慶長六年)四月二十四日 / 冊子 760頁
本多正信が新納旅庵に、急な上京と雨中の難儀を気遣い、島津領国の処置が順調に整ったことを祝う。目録どおりの品を送り、近いうちに面会したいと伝えた書状。
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(慶長六年)四月二十四日 / 冊子 760頁
本多正信が新納旅庵に、急な上京と雨中の難儀を気遣い、島津領国の処置が順調に整ったことを祝う。目録どおりの品を送り、近いうちに面会したいと伝えた書状。
(慶長八年)正月廿四日 / 冊子 880頁
島津忠恒が新納旅庵へ、和睦成立のためたびたび上洛して尽力した忠節を賞し、知行二百石を与え、今後も奉公に励むよう命じた。
四月廿四日 / 冊子 34頁
本多正信が、新納旅庵の急な上京と長雨の中での苦労を気遣い、国元の状況が良好であることを喜んだ書状。目録記載の品を贈り、近く参上して会うことを望むと伝える。
年月日未詳 / 冊子 344頁
新納旅庵長住の経歴を記す。秀吉の九州征伐時に薩摩へ来た後、鹿児島を発して玉泉院に宿し、諸国を経て秀吉に拝謁、僧俗双方に通じた働きから墨衣を与えられ政務にも関わったという。のち島津家久に仕え、刀・馬を賜り、硫黄島への急使を果たした功で門・村など五か所を領し、高原・栗野・市来の地頭を歴任した。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
新納旅庵長住の譜の記事。天正十九年十二月十七日に京都を発ち、名護屋へ使者として向かったことを記す。十二月二十九日に到着して島津方の命を細川幽斎・石田三成らへ伝え、諸国との連絡や唐入り準備に従事した経過が分かる。
年月日未詳 / 冊子 533頁
新納旅庵長住が島津義弘・久保父子に従い、二月十二日に栗野を発って肥前名護屋へ着き、壱岐・対馬を経て五月朔日に釜山浦へ上陸した行程を記す。その後、朝鮮国内を進んで江原道金化城に至り越年しており、島津勢の渡海・進軍経路を日付とともに追える。
年月日未詳 / 冊子 736~738頁
久保死去後、石田三成の使者・吉岡蔵人が忠恒の上洛を促すと、竜伯は新納旅庵を京都へ派遣し、三成・細川幽斎へ家督問題を取り次がせた。 秀吉から忠恒の家督相続が認められるまでの交渉と、忠恒の名護屋・朝鮮方面への旅、旅庵がこれに随行して島津家の継承を支えた経過を詳しく記す。
年月日未詳 / 冊子 769頁
文禄三年春、新納旅庵が薩摩への使者を命じられ、二月二十八日に大坂を発って薩摩へ赴いたことを記す。忠恒の翌秋の朝鮮渡海に備えるためで、龍伯は旅庵に宝刀を与えた。 同年四月には旅庵が忠恒に従って泉州堺から上京し、秀吉へ謁見した経過を伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 797頁
文禄三年六月、京都にいた忠恒が婚姻し、七月十七日に栗野を出発して名護屋へ向かったと記す。八月二十五日には忠恒本人も京都から名護屋へ到着した。 秀吉の命による婚姻後、朝鮮渡海の拠点である名護屋へ移動する忠恒の行程を日付とともに示す新納旅庵譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 821頁
文禄三年十月、忠恒が名護屋を出帆して同月末に朝鮮の唐島へ到着した経過に関連し、新納旅庵長住が京都へ赴いたと記す。旅庵は義久に太守父子の意向を伝え、その後薩摩へ下国して栗野の在番を怠らなかった。 朝鮮在陣中の忠恒・義弘側と、京都の義久、薩摩国元を結ぶ伝達役として旅庵が活動したことを示す家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 881頁
秀吉の召しに応じて義弘が朝鮮から上洛することとなり、その旨が北原勘右衛門尉を通じ栗野へ伝えられたため、新納旅庵も五月十七日に名護屋へ向かった。 旅庵は川上久右衛門尉の助けで船を得て義弘に従い、八月の帰国まで同行した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 1頁
文禄四年十二月二十一日、新納旅庵長住が島津義久に従って帖佐を発し、陸路で筑前国秋月の金翅山市中に越年したのち、慶長元年正月十三日に船で大坂へ着いたことを記す。朝鮮へ来た明使との講和に関連して諸侯・騎馬を集める計画があったが、実施されずに終わったという譜記事。
文禄五年四月廿八日 / 冊子 18~19頁
町田存松久倍と新納旅庵長住が、鹿児島分などの黄銀・銀子を項目別に受け取ったことを記す受取状。銀の不足分を差し引き、出目入銀を加えた計算も示して、受取額を確認している。
文禄五年四月廿八日 / 冊子 19頁
町田存松久倍と新納旅庵長住が、金子六枚(秤目二百六十三匁七厘)を受け取ったことを記し、勝目兵右衛門・古後七郎右衛門へ宛てた受取状。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 35~36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、加治木衆新納仲左衛門に関する米三千六百余石をはじめ、船賃米、銀への換算額と一石当たりの換算率などを示した算用証状。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、文禄四年分の石田治部少輔蔵入目録に関する米高と、同年四月から閏七月まで五か月分の利平銀を算出して示した証状。一貫目につき一か月三十匁という利率も記す。
文禄五年十二月廿一日 / 冊子 62~63頁
川上肱枕・新納旅庵・上井神五郎兼政が連署し、桂藤五郎へ薩州市来の大里和田之門などの土地を、名屋敷・加増分を含め合計百石充行った領知目録。
年月日未詳 / 冊子 88~89頁
新納旅庵長住が、島津義弘の朝鮮再渡海に伴い、帖佐出発から久見崎での解纜、壱岐での滞留までを記した記事。秀吉の朱印状による軍役増員で在途の兵が窮乏したため、旅庵が京都へ赴き、龍伯を通じて義弘の訴えを上申した経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 371頁
慶長四年暮春、惟新(義弘)が龍伯への密事を伝えるため新納旅庵を使者として下国させた。日向綾で幸侃の陪臣三浦太羅助に会い、黒田七兵衛尉に捕らえさせた。閏三月廿日に龍伯の返答を受け、帖佐から上洛へ出発し、栄存房も同行して海陸をともにした。
慶長四年八月十日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住・本田源右衛門尉・河上四郎兵衛が、惟新の用のため材木屋与兵衛から銀子二貫目を借用した証文である。一貫目につき一か月四十匁の利息を付し、本利とも年内に返済すると定める。天下一統の徳政があっても他の債務と混同せず返済し、連署三人のうち一人だけになっても弁済することを約す。
慶長五年四月十九日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住が材木屋与兵衛に提出した借用書の裏書である。慶長四年八月に借りた本銀二貫目について、同年八月から翌年三月までの利息を計算し、慶長五年四月に合計二貫四百四十三匁九分を済ませたと記す。さらに五月から銀子一貫五百目を借用し、一貫目につき一か月三十目の利息とする条件を確認する。
(慶長四年)十二月晦日 / 冊子 480頁
新納旅庵長住が伊勢兵部少輔の側近へ、山口勘兵衛が再び庄内へ下向することを知らせる。源次郎が事情に反して軽率な返答をすれば本人のためにならないため、一人を派遣して様子を申したいとの意向が織田之母から伊集院図書へ伝えられ、山口と受取方の双方へ書状が付されたという。旅庵は伊集院図書からも連絡するよう求められ、急な使者の下向に合わせて大坂から書状を送るので、この事情を心得るよう伝える。
(慶長五年)四月九日 / 冊子 530~531頁
新納旅庵長住が、庄内落去と伊集院忠真の出仕を島津忠恒の名誉として祝し、北国情勢を理由に早急な上洛と徳川家康への忠節を勧める。肥後方面や大口で捕らえた者について、家康の意向に従い、口上を聴取したうえで厳重に長期拘禁し、番衆を付けて管理するよう求める。
(慶長五年)八月十七日 / 冊子 564頁
新納旅庵が、上方乱入のさなか自分がなお存命であることを知らせ、三右衛門・宗左衛門・助右衛門を急ぎ上洛させることなどを箇条書きで命じる。自分が死んでも娘一人が残るため借物の請求への対応と収納を怠らないこと、武庫様の御願いに関わること、五郎右衛門の判断で後事を処置することを依頼する事書。
年月日未詳 / 冊子 604-606頁
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 47頁
慶長元年、島津義弘が暇を賜って帰国し、九月十三日に大坂で船出したこと、旅庵も義弘に従って九州島へ下り、海路で帰国したことを記す譜記事。
天正20年5月4日 / 冊子 557~558頁
島津義久が、義弘・久保父子の渡海後、自身も名護屋へ参陣するため、高麗への補給、名護屋在陣、京都での調達・執代を重臣たちに協議させた書下。 長年の在京で領国が困窮するなか、各担当が昼夜油断なく職務を果たし、留守中の国政を支えるよう命じる。
天正20年5月4日 / 冊子 558頁
前文書とほぼ同じく、義弘・久保の渡海と義久の名護屋参陣に伴い、高麗への見継ぎ、京都・名護屋での調達、領国内の執務を家臣団へ分担させた書下。 交付先を別の家臣群にした同文系統で、島津家が複数の重臣へ同時に留守国統制を命じたことが分かる。
文禄4年12月12日 / 冊子 926頁
大隅国帖佐舟津村内の大園門・蒲生久徳村浮免などについて、米・大豆合わせ三十石を本田助丞へ給与する。 田畠の配分は現地で相談し、法に反する者がいれば申し出るよう定めた、川上胘枕・新納旅庵らの領知目録。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 137~138頁
島津龍伯が忠恒の度重なる勝利を喜ぶ一方、石田三成への直接報告が遅いとして、使者を出せない場合も書状で伝えるよう戒めた書状。銀子三千枚の調達、佐多久内少輔の召出しと知行、来年三月までの上米、小西行長への音信、新納旅庵による借銀返済など、国元と在陣先を結ぶ複数の政務を指示する。
年月日未詳 / 冊子 642頁
島津義弘(惟新)が伏見城入城を再三求めたものの拒まれ、身を守るためやむなく石田三成方に従った事情を島津義久(龍伯)が酌量した経緯を記す。関ヶ原敗戦後に鞍馬山へ潜んだ新納旅庵・本田助丞も、山口直友の取り調べで同じ事情を説明し、徳川家康が義弘の不得已を認めたため、井伊直政・本多正信らが和議と上洛謝罪を仲介した。
(慶長六年)七月十九日 / 冊子 767頁
寺沢正成が島津忠恒に、山口直友へ新納旅庵を副えた使者を送ること、上方へ直使を立てる際は船を用意することを承知したと伝える。牢岐八右衛門を天草久玉まで派遣し、渡海を支援するとした。
十二月十日 / 冊子 793-794頁
山口直友が、新納旅庵の上洛時に事情を詳しく聞き、内府前では別条がないと重ねて伝える。龍伯の上洛を旅庵と相談して進めるよう求め、本多正信宛ての書状も届けて返報するとした。
年月日未詳 / 冊子 911-912頁
島津家久譜は、薩摩・大隅・日向が島津氏の旧領であること、伊東氏による佐土原占拠、豊臣政権下の領地変動を述べる。佐土原を領した島津豊久が関ヶ原で戦死したため、島津家が新納旅庵・山口直友を通じて同地回復を幕府へ請願した経緯を記す。
慶長十一年 / 冊子 53頁
国老用人記の記事。慶長十一年、島津義久が帖佐から平松へ移った後、二年間在城した際の家老として、新納旅庵・新納弥七左衛門・伊勢平左衛門・上井次郎左衛門を挙げ、御使衆として新納本右衛門入道一甫を記す。
(慶長五年)十月廿七日 / 冊子 603-604頁
島津義弘(惟新)が忠恒へ、図書頭を出水の在番に留めて境目の警備を徹底し、川内・八代間の舟運と京泊の通行を監視するよう指示する。さらに小西美作守の人質確保や伊集院源次の弟の処遇について念を押す。
四月四日 / 冊子 758-759頁
島津忠恒(家久)が惟新に、龍伯の書面を受け、上方使者を迎える宿を富隈に設け、準備は忠恒側で行うと報じる。念のため再度使者を送り、前夜下着した旅庵から情勢を詳しく聞く意向を伝える。
(慶長六年)四月六日 / 冊子 759頁
島津義久(龍伯)が惟新に、旅庵の下着で上方事情を聞けるだろうと述べる。和久甚兵衛を今回は富隈に泊められず、鹿児島逗留も不都合なら別の場所を選ぶよう求め、富隈宿泊は難しいと重ねて伝える。
(慶長六年)十一月廿日 / 冊子 787頁
吉武杢聾が龍伯・少将から尋ねを受けたことに謝意を示し、万事よい形に取り成してほしいと依頼する。当地の案件はまだ決着しておらず、両使にも伝えてあるため、面談して詳しく相談したいと述べた。
年月日未詳 / 冊子 913頁
島津以久譜は、島津氏の三州旧領と佐土原の沿革を詳述する。伊東氏の占領、豊臣政権下での島津豊久領有、関ヶ原での豊久戦死後の請願を経て、徳川家康が以久へ佐土原三万石を与えた経緯を記す。
文禄五年二月廿三日 / 冊子 9~10頁
川上肱枕忠智・新納旅庵長住・伊勢貞昌が井尻豊前房へ、大隅国帖佐の餅田村内にある上前薗・住吉村内浮免・實幸院野宮村内などの田畠を列記し、合計九十九石四斗九升を無親疎に配分するよう命じた領知目録。違乱する者があれば申し出るよう伝える。
慶長二年九月十三日 / 冊子 143頁
本文はNo.305と同文のため省略されている。忠恒の戦況報告、銀子三千枚の調達、佐多久内少輔の処遇、上米、小西行長との関係、新納旅庵による借銀返済などを扱う島津龍伯書状の重複写し。
文禄二年八月二十二日 / 冊子 261~262頁/原整理番号 14
新納旅庵が、幸侃らの相談で一向宗への入信を諸侍には禁じ、下位の者には許すという方針に反対する。朝鮮滞在中の義弘・義久を待つべきだとし、違反者への厳罰を求める。
天正20年5月8日~6月24日 / 冊子 574~577頁
天正二十年五月八日、島津義弘一行が鹿児島を発ち、伊集院・串木野を経て朝鮮渡海へ向かうまでを日次で記す。御座船の造作と乗組、兵糧・酒・武具・馬の積載、祈祷や送別の寄合、各地の地頭・代官・僧侶・使者との応接が細かく記録される。平戸・壱岐方面の航海では風待ち、暴風、停泊、船の破損が相次ぎ、石田三成・長束大蔵らの書状や贈物、船団の進退も逐一記す。海外派兵を支えた船舶運用・物資調達・通信・儀礼と、海上移動の危険を同時に追える詳細な行程日記である。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 143頁
本文はNo.305と同文のため省略されている。忠恒の戦況報告の遅れを戒め、銀子三千枚、佐多久内少輔の処遇、上米、小西行長への音信、旅庵による借銀返済などを指示した島津龍伯書状の重複写し。
(慶長四年)閏三月朔日 / 冊子 364頁
幸侃成敗の際に国許の衆が伏見へ差し上げた連署状。成敗を事前に届けなかったため石田治部少輔が立腹し、長谷寺へ移ったとの風聞に一同が驚いたと述べる。一方、幸侃の罪科は石田も以前から承知しているので事情を聞き分けて穏便に収まると期待し、吉報を早く知らせてほしいと伊勢兵部少輔へ求める。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
(慶長五年)八月十九日 / 冊子 565~566頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、徳川家康から預かった鷹を返し、帖佐衆を他所の人数に遅れず急ぎ上洛させるよう伊勢平左衛門・本田六右衛門に督促させることを求める。七月二十九日付書状を垂井で受け、龍伯の上洛は今は不要とし、従来の動員要請に明確な返事がなく一人も差し上せられないことを厳しく問いただす。秀頼と家のため命を捨てる覚悟で美濃に在陣し、伏見戦の損害で人手が乏しく、東国勢が清洲へ到着して戦闘が迫るため、身分を問わず帖佐衆を上らせるよう重ねて命じる書状。
年月日未詳 / 冊子 630-631頁
島津義弘(惟新)は大垣在陣中、石田三成から洲俣渡口の警備を求められ、渡河して一泊した。岐阜城方面の砲声と火災を確認後、石田との談合に少人数で出向くが敵が近く、後続も義弘を追った。黒具足の武者が迫るなか矢野主膳の退避連絡を受け、木脇休作らは舟で洲俣を渡って義弘のもとへ急行した。
(慶長六年)八月十一日 / 冊子 775頁
鎌田政近が徳川家康への拝謁と上方交渉を報告する。日向坂より下の所務を進め、龍伯の上洛を急ぐ一方、図書頭の上洛は不要と伝え、進物は唐物・金銀が適当であることや山口直友らへの働きかけを助言した書状。