島津忠兼書状
(大永五年)四月十四日 / 冊子 652頁
島津忠兼が摂津守に、世情不穏に備えて武具を用意し、武具を持つ人数や兵力を整えるよう求めた書状。
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(大永五年)四月十四日 / 冊子 652頁
島津忠兼が摂津守に、世情不穏に備えて武具を用意し、武具を持つ人数や兵力を整えるよう求めた書状。
天正16年2月16日 / 冊子 380頁
義弘とその子孫に対して偽りなく忠節を尽くすことを誓い、違背すれば梵天・帝釈・四大天王、九州六十余州の神々、霧島六所権現などの神罰を受けるとした起請文。頴娃摂津守へ与えられた、家臣関係の誓約を示す短い史料。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が喜入摂津守へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。
(慶長元年)十月十四日 / 冊子 48頁
島津忠恒が喜入摂津守へ、長年の在陣での辛労をねぎらい、無事に帰朝したことを喜んだ。また、現地の様子を詳しく報告したことを評価し、引き続き世上の情勢を調べて随時知らせるよう求め、国元は帰朝後も変わりないので安心するよう伝えた書状。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 402~403頁
島津義久が寺沢志摩守・小西摂津守に、長期の在洛をねぎらい、庄内の件で度々使書を受けたことに謝意を示す。来月には行動を起こす覚悟である一方、近隣諸勢から申し出のあった人数の合力は当面見合わせるよう求め、島津方で対処できるので心配には及ばないと伝える。
(慶長八年)十月十八日 / 冊子 911頁
島津龍伯が上洛使節の喜入摂津守へ、京都で細川幽斎に書状と進物を確実に届けるよう命じる。遠国の宛先への書状も持ち帰るよう伝え、熊野紙を添えた。
(寛永九年)四月五日 / 冊子 260~261頁
伊勢貞昌と島津久元が、四月朔日に薩州様に男子が誕生し、黄門様も大いに満足したことを喜入摂津守・川上左近将監へ報じ、神仏への祈念について談議所と協議するよう求めた連署書状。
(寛永九年)五月十日 / 冊子 269頁
島津忠興が、江戸から飛脚が到着して静謐と家久の屋敷の無事が伝えられたこと、家久が将軍から度々使者を遣わされ、銀子一万枚を拝領したことを喜入摂津守・川上左近将監へ報じた。また、将軍家光が前月十三日に日光へ参詣し、二十日に機嫌よく還御したと伝えた書状。
十一月廿六日 / 冊子 121~122頁
近衛信尹が喜入摂津守に、京都で不慮の錯乱が起こり諸事に窮しているため、この機会の助力を求めた書状。詳しい事情は進藤筑後守から伝えるとしている。
二月廿九日 / 冊子 167~168頁
伊勢貞昌が野州・喜入摂津守・比志島宮内少輔に、帖佐長右衛門尉夫妻の処遇を相談した書状。夫妻は又八郎の上洛に供奉し、妻は御姫様誕生時に乳母として留められ、九年間勤仕したため、帰国に際して屋敷・扶持・米などを与えるよう求める。
六月一日 / 冊子 347頁
島津忠良が摂津守へ、市来衆が串木野方面に現れ、五か所も同様であることを報じた書状。相手方の境目での対応を詳しく知らせるよう求め、使僧を派遣したので事情を伝えるとして結ぶ。
(慶長元年)四月十三日 / 冊子 16~17頁
島津忠恒が三名へ、近く軍事行動を命じる朱印状が出たため、油断なく準備するよう伝える。島津義弘が渡海すれば、自身は上洛して国元検地を命じられた礼と私用を申し述べ、石田三成の命により義弘の渡海次第ただちに帰朝する覚悟であるとして、三名にもこちらからの連絡を待つよう求めた書状。
(慶長九年)十二月七日 / 冊子 947頁
島津忠恒が喜入忠績へ、近況と意向を知らせるよう求め、川助七との相談を予定どおり進めるよう伝える。頭屋での奏楽を見物できなかった惜しさや、紅葉・高砂を詠んだ歌も書き添えた。
年月日未詳 / 冊子 947頁
島津忠恒の詠草。頭屋で奏楽が行われたと聞きながら見物できなかった惜しさを述べ、紅葉狩・高砂・海路を題材とする和歌を喜入忠績へ送った。
(寛永四年)十二月廿七日 / 冊子 49~50頁
寺領への居所移転、使者の人選、比志島宮内少輔のもとへ出入りする者の礼法・監視を指示する。また、度重なる命令不履行、訴訟で自説を押し立てること、他人と相談しないことなどを問題として、宮内少輔へ申し聞かせるよう命じる覚書。
(寛永五年)正月八日 / 冊子 51~52頁
島津家久が、比志島宮内少輔国隆の重大な不行跡をこれまで表面に出さなかったが、今後は国家のためにならないとして処分方針を示す。一度の折檻で改まる人物ではないため、三名の担当者が遠慮なく協議するよう命じ、詳細は国分民部左衛門に伝えさせる。
(寛永五年)二月晦日 / 冊子 54頁
島津家久が、比志島国隆は過ちを改めず再び奉公できる人物ではないとして、寺領から種子島へ人を付けずに厳しく移送するよう命じる。異議や抵抗があれば厳罰に処し、少しも処置を緩めないよう指示する。
(寛永七年)四月十日 / 冊子 137頁
江戸から三月十八日に出立した使者が到着したこと、中納言家久が三月九日に江戸へ着き、十八日に首尾よく御目見を済ませたことを知らせる。母からの消息にも触れ、相国から脇差を拝領したことへの祝意を述べた島津忠興の書状。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 193~194頁
北郷出雲守忠亮への使者となる両名に、家久の意向を伝えるよう命じた久元・貞昌の連署状。若年の忠亮による家督相続を認めつつ、忠能代の家臣殺害・追放や悪政を戒め、家老・役人の意見を聞き、悪行者を処罰して家を安定させるよう諭す手順を詳述する。
(天正六年)九月十一日 / 冊子 224頁
一色昭秀と真木島昭光が足利義昭の帰洛計画と毛利輝元の協力、東西諸勢力の動員、豊後方面への軍勢派遣を伝え、島津家中にも忠勤・再興への協力を求めた連署副状。
十月六日 / 冊子 186頁
筑後へ派遣した者が帰着し、幕府上使が二日に柳河、三日に高瀬へ到着し、当日は佐敷付近まで進み翌日には当地へ着く見込みだと知らせた急報書状。
正月十五日 / 冊子 188頁
新春を祝い、久しく音信が途絶えていたが相手の安泰を聞いて喜び、ささやかな志として金製の花入一筒を贈った中山王尚豊書状。
二月九日 / 冊子 189頁
金武王子を急遽薩摩へ派遣し、琉球国について従来から願ってきた事柄を、老中らの分別によってよく守れるよう哀憐を加えてほしいと頼み、詳細を金武王子の口上に託した中山王尚豊書状。
年月日未詳 / 冊子 367頁
頭屋で一曲が演奏されたものの見物できず残念であったため、紅葉狩や天つ風を題材とする和歌二首を詠み、関係者にも伝えるよう求めた島津家久書状。
五月三日 / 冊子 368頁
役人同士の関係、酒を過ごさないこと、子どもたちの仲が悪くならないよう心掛けることの三か条を申し渡した島津家久書状。
六月五日 / 冊子 451頁
前日の正午ごろ甑島沖に帆柱の多い大船が見え、夕刻には天草下島の前を通過したとの出水浦遠見番の報告を急報する。オランダ船かもしれないと推測し、異変があれば相互に連絡するとした島津光久書状。
正月十五日 / 冊子 759頁
新春を祝い、久しく音信が途絶えていたが相手の安泰を聞いて喜び、ささやかな志として金製の花入一筒を贈った中山王尚豊書状。No.450と同文のため本文では省略される。
正月廿一日 / 冊子 759頁
年始の祝詞に使者を添え、太刀一腰・馬代銀一枚が届いたことを喜び、詳細は伊勢兵部少輔から伝えるとした島津忠元書状。
(寛永九年)四月廿五日 / 冊子 265~266頁
島津久元が、加治木からの使者木脇三右衛門を帰国させること、新納織部佑の子将野介の鹿児島移住希望等の情報、国絵図の取り寄せ、惟新様に殉じた御供衆の氏名・知行高・道号を調べて妙円寺に石塔を建てる計画などを、喜入摂津守・川上左近将監へ報じた書状。
大永六年二月廿日 / 冊子 657頁
島津忠兼が島津忠誉に、弓矢の儀や諸事で互いに頼み、雑説が生じた際は申し開きをし、自身一代は疎略にしないことを神仏へ誓った誓状。
元和九年六月十日 / 冊子 790頁
勘定所の糺明衆に日の出前の出勤と日没後の退出を命じ、代官の算用帳提出期限、諸役人の糺明と上納分請状、算用未決者への処分を定めた。また糺明衆への振舞いを一汁一菜・引菜二品・濁酒一度に限るとした三名連署の掟書。
(寛永六年)九月五日 / 冊子 105~108頁
将軍御成に備える江戸屋敷の作事について、広間・書院・門・年寄衆座敷・料理之間・舞台・楽屋などの完成予定、御成道具や贈答品、職人・役人の手配、座敷割や参勤時期を詳しく報告し、関係者との内談を求める書状。
(寛永八年)四月十一日 / 冊子 205~207頁
光久付きの駕籠舁・挟箱持の選定と上京、子どもや岩崎姫の健康、琉球関係の京都借銀、書籍の損傷、国境争論など多数の案件を報告・指示する。寺院住持の選定、遊行上人への対応、帖佐長右衛門夫妻の帰国奉公についても命じた連署書状。
(寛永八年)七月晦日 / 冊子 221~223頁
徳川秀忠の病状と諸大名の見舞い、家光の西之丸訪問、家久の参府は少人数で急ぐ可能性、祈祷料の相場、薩摩藩の借銀返済、帰国後の統治・家中運営などを多岐にわたり伝える。妙谷寺・福昌寺の件にも触れた伊勢貞昌の長文書状。
(寛永九年)四月十一日 / 冊子 260~261頁
伊勢貞昌と島津久元が、島津家久の四月二日の江戸到着、翌三日の酒井忠世・土井利勝の来訪、備前宰相の疱瘡死去で四日から十日へ延期された将軍家光への謁見、兵糧三千俵拝領の経緯を報じ、加治木の子供たちの疱瘡を案じた連署書状。
(寛永九年)四月十三日 / 冊子 261~262頁
伊勢貞昌と島津久元が、島津家久の四月十日の謁見と米の拝領、十二日の銀子一万枚拝領を報じ、薩摩側の借銀返済と国の潤いになると評価した。また、国元の出銀について福屋五兵衛と談合するよう伝え、琉球へ遣わす銀子のため大阪両蔵奉行へ約八百貫目の借銀を命じたことを述べた連署書状。
十二月廿七日 / 冊子 361~362頁
たびたび命令に従わず、訴訟で多くの口上を並べて自己の主張を押し立て、他人と相談しないなどの振る舞いを列挙し、これ以外にも勝手な行為があるとして比志島宮内少輔へ伝えるよう命じた島津家久袖判条書。
康暦元年十二月十七日 / 冊子 141頁
散位某が中田氏部大夫入道・斎藤左衛門大夫に、肥前国三根西郷内の東津・泉空閑両村を、先度の安堵に任せて渋谷肥本摂津守へ沙汰付けるよう命じた施行状。
四月廿九日 / 冊子 141頁
貞継が中田に、渋谷摂津守の肥前国佐賀下庄内の本領安堵について、理非に任せた裁許と披露を求めた書状。
十月十五日 / 冊子 565頁
島津忠昌が村田氏に軍事上の連絡と出陣を求め、桂樹院摂津守方の動向などを伝えた書状。本文注記は旧譜の文明十六年比定に疑義を示す。
年月日未詳 / 冊子 295~296頁
京都から来た豊臣方の軍勢が高城周辺へ布陣し、島津方約三百人が日夜防戦した状況を記す。喜入摂津守らの配置と各隊の構成、兵糧・武具の補給、少数の城兵が大軍へ抗する戦闘が続き、高城攻防の実態が分かる。
年月日未詳 / 冊子 309~311頁
島津義久の上洛・降伏後、秀吉が九州を治定し、一族を人質に定め、日向諸県郡を又一郎久保へ与えるなど諸大名の知行を再編した経過を列挙する。続いて肥後を拝領した佐々成政が検地を急いで国衆一揆を招き、鎮圧に失敗して摂津で切腹し、その後の肥後が小西摂津守・加藤主計頭へ分与されたことまで記す。九州仕置と検地抵抗を伝える重要記事である。
年月日未詳 / 冊子 323~324頁
島津軍が豊後へ進出したのち、豊臣秀吉の大軍来援を受けて日向・肥後の二路から撤退するなか、桂忠昉が肥後路を退き平佐城へ入った経過を記す。秀吉方の小西摂津守・脇坂中務少輔・九鬼大隅守らが平佐城を包囲すると、城兵は討死を覚悟して抗戦し、高田橋安藝・阿久根權介らも城門で奮戦した。忠昉は落城後に秀吉へ出仕し、その剛勇を認められて宝刀を賜ったといい、九州征伐末期の平佐城攻防を伝える譜記事。
(慶長元年)八月廿一日 / 冊子 38~39頁
小西摂津守行長が羽兵(島津義弘)へ、朝鮮使が一昨日到着し、来る二十五・六日に勅使および朝鮮人との対面が予定されていることを報じた。自身はその夜に大坂へ戻るため見舞いに伺えないことを詫び、対面の際に義弘も大坂へ来る見込みなので、直接面談して詳しく伝えたいと述べた書状。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
(慶長三年)二月十二日 / 冊子 194頁
熊谷直盛が島津義弘・忠恒からの書状と狼煙の定書を受け、定められた火数を了承した書状。小西摂津守・対馬守とも相談し、着船島の担当者を熊谷方へ派遣してもらえれば、南海と着船島の間で使用する山を協議して決めると述べる。また石治少宛の書状二通を受け取り、自分の書状とともに柳川権介へ渡すと返答する。
(慶長三年)七月十五日 / 冊子 223~224頁
増田長盛・浅野長政・石田三成・前田玄以が島津義弘に、豊臣秀吉は霍乱を患ったが盛法印の薬で快方に向かい、近頃はさらに回復しているので心配は不要と伝えた連署状。義弘の「御無事」の件は加藤主計の筋で解決し、難しければ小西摂津守ら在番衆と相談して調えること、秀吉病中の雑説に惑わされないことを求める。
(慶長三年)七月廿八日 / 冊子 226~227頁
立花親成(宗茂、羽柴左近)が島津義弘・忠恒に、朝の使者への返答と亥刻の帰着を報じ、朱印の趣旨を石田三成に確認したうえで、名護屋以来の誼により内情を打ち明けた書状。順天方面への明軍行動に応じた対応を含め、内容を他所や小西摂津守へ漏らさず、相談どおり処置するよう求める。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣政権が「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。加藤主計頭・小西摂津守・島津兵庫頭・黒田甲斐守らを複数組に編成し、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くこと、在番外の一部諸将は帰朝して御目見することを命じる。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 231頁
豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命じる。