島津義久書下
天正三年三月廿二日 / 冊子 432頁
島津義久が樺山忠助の母に、大隅国小田名を今後は覚悟の証跡として望むとの申し出に従い与え、子孫に至るまで相違がないよう保障した書下。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正三年三月廿二日 / 冊子 432頁
島津義久が樺山忠助の母に、大隅国小田名を今後は覚悟の証跡として望むとの申し出に従い与え、子孫に至るまで相違がないよう保障した書下。
天正八年五月十五日以後~天正九年二月下旬 / 冊子 654頁
天正八年に相良領の宝川内城を落とした後、敵が毎夜城麓を襲って警固が困難になったため、樺山忠助が入城して武略で退けた。翌年正月十一日には勇士を津奈木城麓へ忍ばせ、築瀬氏一人を討ち一人を生け捕りにした結果、襲撃が止み、二月下旬に陣を開いた。
天正十年九月二十六日以後 / 冊子 721頁
天正十年九月二十六日に佐敷が島津方の手に入った後、樺山忠助が水俣から慶賀に参上し、熊本警固を命じられた記事。松葉瀬から宇土を経て熊本へ入り、病床の城親正が年末に死去して熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木市中を放火したため、忠助は城入道と協力して警固した。
天正十一年春夏 / 冊子 760頁
天正十一年春夏までに内空閑・合志・津守・木山・三船・隈之庄との境で敵を退け、相良義陽が三船で敗死したため薩摩勢を八代警固に置いたことを記す。相良氏には球磨のみが残り、忠平が八代へ渡った際、樺山忠助は吉利氏と番替して八代へ赴き祝賀した。
年月日未詳 / 冊子 197~198頁
秋月種実が、豊後へ進むにはまず筑前の岩屋城を落とすべきだと進言したことから説き起こし、島津軍が城を包囲して総攻撃に移るまでを記す。岩屋城では高橋紹運方が鉄砲・石・長刀などで激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出した。樺山忠助も城際で負傷しながら退かず、家臣に救われたことを含め、攻城の戦略と個々の戦闘を結び付けて伝える。
年月日未詳 / 冊子 242~243頁
天正十四年十月十五日の豊後出兵で、島津義弘が肥後口、島津家久が日向口の大将となった際、樺山忠助は家久の軍に従った。南郡・三重方面の諸城を攻め、鉄砲や石が飛び交う城際へ進み、敗走する敵を追って川を渡るなど、家久軍前線での戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 278~280頁
豊後からの撤退に際し、樺山忠助が島津家久らとともに追撃軍へ抗し、白根城・松尾城を経て日向へ退いた経過を詳述する。夜戦、敵中突破、離散した味方との再合流、兵糧不足、城郭の放棄が連続し、豊臣方の大軍を前に島津勢が崩れながらも殿軍を組織して退く実態が具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 379頁
樺山忠助が京都へ赴き、上原徳淵を経て大坂へ到着し、島津義弘の上京に随行した経過を記す。 義弘の妻子や家臣団の移動・滞在にも触れ、九州仕置後の上洛・参勤に伴う島津家臣の動向を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 486~487頁
樺山忠助譜に収められた、七十九歳の老母・通善周慶大姉の書状と事績。上京して龍伯に供奉する忠助へ、主君への忠節を尽くし、酒色を慎み、病を養い、仏道を忘れないよう諭す。母の教養と家訓、忠助が書を珍蔵して繰り返し読んだこと、母の死と龍伯の追悼までを伝える、家族の情愛が鮮明な史料である。
年月日未詳 / 冊子 763頁
秀吉の命で薩摩・大隅・日向三州の旧田数と境界を改める検地が行われ、石田三成の家臣らが下向した経緯を記す。薩摩では黒川右近が筆頭となり、樺山忠助が案内・指南を務めた。 日向は伊地知某、大隅は吉利某が担当し、高城・出水など公領は検地対象外だったことも示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 553~554頁
樺山忠助譜として、徳川家康の会津出兵から石田三成の挙兵、関ヶ原合戦における小早川秀秋の寝返りと西軍敗走、島津義弘の堺からの海路退却、島津豊久の戦死を叙述する。さらに、伊東家臣稲津掃部助が旧領回復を図ったため佐土原へ急行し、新山口城への放火や広原付近の戦闘で敵首八級を得て退け、冬には和平に至った経過を記す。
天正四年八月十九日~十月 / 冊子 498~499頁
樺山玄佐が、高原城攻めの出陣・攻囲・断水・開城と、小林・須木など周辺諸城の帰属を回想する。孫の忠助・久高も戦ったとし、続いて肝付勢の飫肥出兵と大敗、志布志・福島の島津方接収、肝付領削減を記し、日新忠良の娘が肝付家にいたため家を残した慈悲と説明する。
天正六年十月 / 冊子 597~598頁
高城合戦の日、樺山規久が島津家久に代わって城へ入り、十二日の大戦に備えたことを記す。樺山忠助は体調が悪く出陣しなかった。数代にわたる忠節の家として規久が穆佐・高城を拝領し、戦死した伯父忠副の跡を継いで一族を率い穆佐へ移った経緯を述べる。
天正八年 / 冊子 657~658頁
宝川内を取った直後、敵が夜ごと城麓を襲うため、樺山忠助が自ら警固に入り、遠見と野伏で敵を遠ざけた。正月十一日には津奈木城麓へ忍び、築瀬氏一人を討ち一人を捕らえた。二月末に水俣・津奈木間で仕置をして帰る途中、一之瀬陣で大口勢が敵の騎馬衆と戦い、永井軍兵衛が討死したことも記す。
天正十年八月十八日 / 冊子 716~717頁
水俣攻囲の五陣と佐敷獲得後、樺山忠助が義久への慶賀に参上したところ熊本警固を命じられ、船で松葉瀬へ渡って宇土を経て熊本へ入った記事。城親正は病で対面できず年末に死去し、熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木町を焼いたが、忠助は城入道とともに警固した。
年月日未詳 / 冊子 211~212頁
樺山紹剣が、豊後へ進む前提として岩屋城を攻めることになった経緯から、七月二十七日の総攻撃と落城までを回想する。城兵は石・長刀・鎗などで激しく防戦し、島津方も岸壁や城際で組み討ちとなって多数の死傷者を出した。配下の樺山忠助が重傷を負いながら退かず戦ったこと、各隊の攻撃位置や討死・負傷者、落城後の処置までを挙げ、岩屋城合戦の苛烈さを樺山家側から伝える。
年月日未詳 / 冊子 269頁
島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。
(天正16年)2月13日 / 冊子 382頁
樺山忠助が武庫様(島津義弘)に暇を申し、穆佐で関係者と相談したのち、天正十六年二月十三日に出船した旅程を記す。佐土原を経て大坂へ赴き、本多因幡守の取り成しで神文を提出して龍伯に奉公した。秋には義弘の上洛と交替する龍伯らの下向船に供奉して国元へ戻り、そこで越年した。上方奉公と薩摩帰還の移動を具体的に残す自記。
天正六年十一月 / 冊子 598頁
樺山規久が高城防衛に入り、数代の忠節によって穆佐・高城を与えられ、戦死した樺山忠副の跡を継いで一族を率いたことを伝える。樺山家の由緒と、高城合戦後の所領拝領を家門繁栄の徴として記す。
年月日未詳 / 冊子 269~272頁
樺山紹剣が、府内・三重・松尾城周辺での守備と進退を自身の見聞として詳述する。年越し後、敵の反攻と兵糧難が強まる中、諸将からの書状・使者を受け、各城の兵を集めるか退くかを評定した。夜間の移動、城への入退、渡河、砲撃・放火への備え、負傷者や病人、食料・宿所の確保まで記し、伊集院忠棟らとの連絡や意見対立も描く。豊後侵攻後半の島津軍が、勝敗だけでなく補給・情報・指揮系統の混乱に直面したことを伝える長文の自記である。
年月日未詳 / 冊子 286~287頁
豊州から退く島津軍が各地で豊臣方の追撃を受け、鉄砲を交えた戦闘を重ねながら日向へ移動した経過を記す。諸将の戦死や離散が相次ぐなか、義弘らが殿軍として敵を食い止め、城を渡り歩きつつ本国への退路を確保した。
年月日未詳 / 冊子 433~434頁
樺山紹剣が、春夏の国元遊覧、島津義久の上洛への随行、京都での越年、豊臣秀吉の鷹狩などを回想した自記。 京都で見聞した武家・公家の動きや贈答、帰国航海までを本人の視点で記し、島津家臣が豊臣政権中枢に接した体験を伝える。
年月日未詳 / 冊子 917頁
桂忠昉譜は、関ヶ原後に薩摩へ潜居した宇喜多秀家が徳川家康の召しに応じて上京する際、桂忠昉が海陸の警衛を命じられたと記す。無事に任務を果たして帰国し、島津忠恒から感状と宝刀を与えられた。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
天正三年三月廿四日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月二十四日の犬追物手組として、四角に分かれた射手、各人の射犬数、検見・喚次を記す。犬を射終えた後は桟敷で三献を行い、一所衆・諸地頭も太刀を持参した。
天正三年四月廿一日 / 冊子 435頁
琉球使節慰労の犬追物手組で、義久・歳久・征久ら射手の配置と射犬数、検見・喚次を記す。琉球衆の桟敷を馬場西北の犬橋辺に設け、雪辱和尚も同席した。天界寺南叔が漢詩を作り、雪辱・東雲以下が和韻し、義久ら一族は和歌を詠んだ。本文日付は天正三年四月二十一日と読める。
天正四年四月九日 / 冊子 474~475頁
近衛前久の台覧に供した天正四年四月九日の犬追物手組。四角に配した射手、各人の射犬数、検見・喚次を記し、島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが参加した。
天正四年四月十二日 / 冊子 475頁
天正四年四月十二日の犬追物手組。四角の射手と各人の射犬数、検見・喚次を記し、前久台覧のもと島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが射芸を披露した。
年月日未詳 / 冊子 199~209頁
上井覚兼が七月朔日から二十九日までの軍務を日ごとに記した長大な陣中日記。筑紫表への出陣準備、諸将との軍議、日州・薩州各衆の配置、使者・書状の往復、兵糧・酒・船・鉄砲の調達を追う。岩屋城では包囲・総攻撃、城兵の抵抗、味方の負傷・戦死と高橋紹運の最期、落城後の捕虜・人質・戦功確認を記録する。さらに秋月氏・立花城などとの交渉、寺社参詣や帰陣までを含み、九州征伐期の作戦決定と兵站・情報伝達を一体的に示す第一級の現場史料である。
年月日未詳 / 冊子 281頁
樺山紹剣が高動野の合戦から日州への退却まで、自身の見聞と行動を記した自記。勝戦の直後にも進路を失い、阿蘇坂などで多数の敵と戦いながら諸隊が離散・合流する様子が描かれ、撤退時の混乱を生々しく伝える。
年月日未詳 / 冊子 467頁/原整理番号 70の2
川上久盤の覚書。樺山家八代の樺山善久(玄佐)の生没・法名と辞世、樺山忠助ら近親者の生没年や関係を注記し、樺山家の伝記を補足する。
年月日未詳 / 冊子 414頁/原整理番号 157
天正八年、大口勢が相良領ほうの川を忍び取ったが、番が不足して夜ごとの分散もあったため、樺山から遠見の兵を送り、忠助自身も籠渡りで警戒した。年末の水俣・つなぎ付近で伏兵を撃退し、老人を捕らえてから籠へ帰ったという。天正九年四月には龍造寺の南之関進出と赤星の落城で隈本の番が難しくなり、相良への警戒と水俣出陣、豊福通路の確保を記す。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。