平塞録
年月日未詳 / 冊子 759頁/原整理番号 805
平塞録から、二十日に薩摩の家老三原左衛門佐配下の忍びが城内へ入ったと記す一条を抜く。人数や人物名の記載はない。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
40 件 (全巻)/ 1–40件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 759頁/原整理番号 805
平塞録から、二十日に薩摩の家老三原左衛門佐配下の忍びが城内へ入ったと記す一条を抜く。人数や人物名の記載はない。
年月日未詳 / 冊子 760頁/原整理番号 807
元日夜、上使が薩摩には昔から忍びの名人がいると聞いたとして召寄せを求め、左衛門佐が山田民部少輔へ連絡した経緯を記す。出水から五、六人が来て城近くへ忍び入り紙を付けたが、他大名から薩摩の召寄せを控えるよう訴えが出た。自分たちの人数で一攻めするという話に上使が立腹して城と陣の間の柵を結わせ、薩摩衆が天草上津浦方面へ陣を取り、落城後に帰陣したと伝える。
天正十一年九月十七日 / 冊子 754頁
天正十一年九月十七日、堅志田城へ忍び入る技能を持つ三十人を密かに派遣したが、敵に企てを察知されて潜入できなかった記事。諸将が小熊の辺りへ進んで村舎を焼き、忍びの者を退かせ、退去する村人八人を討ち取った。
天正十一年九月十七日~十月二日 / 冊子 759~760頁
天正十一年九月十七日の堅志田城への忍び三十人の潜入失敗から、同二十日の城氏・合志氏の和睦願い、二十七日の秋月・龍造寺和平案、十月一・二日の八代評議までを詳述する記事。阿蘇領攻撃の可否、甲斐宗運の真意と人質、三船出兵を議し、堅志田偵察隊が敵五人を討ち取って首を八代へ持ち帰った。
五月廿七日 / 冊子 717頁/整理ID 2427
島津帯刀が五月廿七日、相承院へ、寺が納め伝える頼朝公の鬢髪を分け、薩州に頼朝を崇める社頭へ安置したいとの申入れについて返す。数百年間全てを奉納してきた大切な寺宝を今さらに分取し、数百里の山海を越えて移すことに手を付けるのは忍び難く、所望に応じ難いと伝える。
年月日未詳 / 冊子 449頁/原整理番号 426の1
『平塞録』所収の記事。四日、熊本勢が三角に滞留し、目付衆らが三角浦へ着岸したと伝える。熊本勢が天草へ渡ろうとしたところ、潜入させていた忍びが、一揆勢は熊本の大軍が来ると聞いて大矢野を退き、上津浦へ隠れたと報告した。大矢野古城に残された具足一領も証拠として持ち帰ったため、目付衆の到着を待って共同で進む方針となった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 759~760頁/原整理番号 806
申立人の曽祖父に当たる山本左近について、島原のキリシタン一揆時に出水から選ばれた十人に加わり、忍びとして働いたと述べる。三原左衛門佐の判紙だけでは他国の陣場を通りにくいため、松平伊豆守の判紙を得て三原・下野・山田の指示で夜昼奉公したとする。落城時には射通しの弓で多数を射伏せたと主張し、証文や判紙を提出・返上した経緯、後の茂庄村物主役も記す。
文安元年十月十四日 / 冊子 408~409頁
伊東祐堯が一味の衆と、政情が変化しても互いの大事を自分の大事として助け、武力対立や島津氏兄弟の和睦時にも協議し、密かな交渉や相互の城への忍び入りを禁じ、讒言があれば包み隠さず確認し、子孫まで水魚の交わりを守ると神々に誓った契状。
文安元年十月十四日 / 冊子 409頁
野辺盛吉が一味の衆と、世上が変転しても相互に助け合い、武力対立や島津氏兄弟の和睦時にも協議し、密かな交渉・城への忍び入りを禁じ、讒言を残さず確認して子孫まで水魚の結束を守ると神々に誓った契状。
文安元年十月廿二日 / 冊子 409~410頁
高木殖家が一味の衆と、政情が変化しても互いに助力し、争い・和睦の際は協議して独断や密かな交渉をせず、相互の城への忍び入りを禁じ、讒言を包み隠さず確認し、子孫まで水魚の交わりを守ると神々に誓った契状。
年月日未詳 / 冊子 867頁
天文十七年十一月五日夜、伊東勢が飫肥新山城へ忍び寄って火箭を放ち、北郷・豊州方の家臣が戦死者を出しながら防戦したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 28頁
弘治二年二月の日記。吉田衆が蒲生荒平口の塁を破って番屋を焼き、岩上で敵一人を討つ一方、帖佐足軽は蒲生浦で三人、山田勢は松坂の柵で三人を討った。十七日、濱田善三郎らが案内者を伴い敵地へ忍び入り十四、五軒を焼く。二十三日には吉田衆が番衆四人を討って番屋に放火し、二十四日の横尾口戦に伴い貴久父子が吉野原まで進んだ。
年月日未詳 / 冊子 90~91頁
永禄四年五月十四日に肝付方が廻城を忍び取り、六月二十七日に島津方が大牟礼・馬立・竹原山へ陣を置いた。七月十二日に竹原山が破られて忠将以下七十余人が戦死し、十一月七日に代賢が福昌寺へ入院したことを記す。
(永禄四年)七月廿六日 / 冊子 98頁
隈庄親昌が薩摩との交渉について大友氏重臣らへ取り次いだ経過を述べる。肝付兼続が廻城を忍び取って薩摩国内が混乱した事情を伊集院大和入道から聞いたとして、花巌院の口上どおり日向へ早急に下知するよう求め、茶磨を贈った書状。
(永禄五年)三月十八日 / 冊子 104頁
飫肥を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた島津忠親が、永禄五年九月十七日夜に飫肥城へ忍び入り、伊東方百余人を討って城を奪回した経過を記す。冒頭の『弘治七年壬戌三月十八日』は、本文注記により永禄五年の誤りとされる。
元亀三年秋 / 冊子 294~295頁
元亀三年秋、島津方が下大隅の伊地知領内にある新垣城を忍び入って落とし、早崎を城取りして両陣を構えたと記す。この軍事行動には禰寝方との内談があったとも伝える。
天正元年七月廿四日~十二月十四日 / 冊子 311~312頁
長雨のなか早崎両陣の普請が続いた後、天正元年七月二十四日夜に敵が後山から忍び寄り、翌朝西口を攻めて陣屋へ放火した。島津家久は敵数百人へ斬り込み、深手八か所を含む多数の傷を負ったが、喜入久績が駆けつけ、二人とも負傷しながら敵を退けた。その後も牛根進攻が評議され、十二月十四日には歳久を大将として平常に数千騎が布陣した。
天正七年五月中旬~十月十五日 / 冊子 635~636頁
天正七年五月中旬、菱刈両院の衆三千余騎が新納忠元の計略で水俣の宝川内を忍び取り、岩牟礼に城を構えて守備した。肥後宇土・熊本への通路が塞がれたため、忠元・鎌田政年を大将として十月十五日に矢崎城を攻め落とした。
天正八年夏 / 冊子 654頁
若年から新納忠元に従って各地で軍功を挙げた新納忠秀が、天正八年夏の肥後国葦北郡宝川内城攻めに先立ち、何度も現地へ忍び入って地勢を偵察し、詳しく報告した。攻略後も諸戦で敵首を得て、その中に合志玄宅がいたと記す。
天正八年 / 冊子 657~658頁
宝川内を取った直後、敵が夜ごと城麓を襲うため、樺山忠助が自ら警固に入り、遠見と野伏で敵を遠ざけた。正月十一日には津奈木城麓へ忍び、築瀬氏一人を討ち一人を捕らえた。二月末に水俣・津奈木間で仕置をして帰る途中、一之瀬陣で大口勢が敵の騎馬衆と戦い、永井軍兵衛が討死したことも記す。
天正九年十二月以後~天正十年 / 冊子 745~746頁
相良義陽が三船へ出兵して甲斐親乗に討たれ、八代が騒動したため、新納忠元が大口など九か所の地頭衆を率いて直ちに八代へ入り、諸城の番を固めた記事。八代古老の要請で八代が島津領となり、地頭は後に伊集院忠棟が務めた。また大口衆らに日比良城を忍び落とさせ、安楽城も退去させたこと、合志・甲斐・有馬・田尻各氏の帰属を記す。
(寛永六年)五月十一日 / 冊子 94~95頁
伊勢貞昌が、屋敷へ忍び込んで捕らえられた者について、豊臣秀頼の生存など信じ難い供述をしているため、土井利勝へ引き渡して再度尋問するよう助言する。道中の自害・逃亡を防ぎ、乗物または船で厳重に拘束し十分な人数を添えて移送するよう具体的に指示した書状。
寛永十三年十二月十一日 / 冊子 567~568頁
加藤主計頭が水俣へ侵入し出水を攻めた際、惟新の命で本田六右衛門尉を通じ水俣城へ忍び入り土を持ち帰った功績を述べる。加藤退陣時には知行百石の約束があったが実現せず、案内役二名には褒美が出たため、過去の経緯を示して新納加賀守へ給付を願った覚書。
明和四年亥十二月廿四日(副状、触書は閏九月) / 冊子 184頁/原整理番号 453/整理ID 453
雑抄中の公儀触書と、それを伝達する御家老座の副状を収める。触書は、諸国百姓の強訴・徒党・逃散を禁じ、寛延三年の達しでも吟味して事件を差繰る者等を処罰するよう命じたが、西国筋では代官・預所役人・領主・地頭の申付けを拒んで他領へ逃散し、仕置をしないなら帰村するなどと難渋する例があると批判する。今後は早急に帰村させるよう取り計らい、一時その地に差し置く場合にも、元の村へ帰して従来の達しどおり吟味・処罰するよう指示する。西国筋の領分知行を持つ面々へ触れる明和四年亥閏九月の文書で、日の記載はない。副状は、該当する者が領内へ入るのを断り、境目から忍び入っても現地に留めず早く帰村させるよう命じる。国人に帰郷の取扱いを詳しく説明して引き渡し、なお納得しない場合は早々に申し出ること、與中・支配中・諸外城へ漏れなく申し渡すことを指示する。副状は明和四年亥十二月廿四日、御家老座名を備える。
享和2年春正月(本文) / 冊子 201頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0650
近年、家の内外の費用が多岐にわたり、やむを得ない支出から財政が窮まり処置し難くなったとする斉宣公御譜の記事。幕府の公務はあえて欠くことができないため、他の事で用を節し費用を省いてその資に充て、参勤の際に家老を随従させることを廃したのもこの理由と説明する。民が困窮するなか出米銀によって国家の費用を補わせることを忍び難いとし、享和2年壬戌春正月、近く参勤に発つにあたり家老へ、意を体して各々職を尽くし老父公の憂慮を休めるよう命じ、次に具体の事項を掲げる構成。家老御供停止と負担・節費の理由を採録し、次651の口達覚と区別する。
文政2年4月(年は目録・前後記事) / 冊子 556頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1679
斉興公御譜中の記事。財政が難しく府庫が空で、四年前の河流修築の幕府命令による費用のため、三都の巨商から借金し国中士民にも負担を求め、五年で返償する約定とした。家老の議により士家の世禄から米を多く出させ、返済の期間を三年とした。今年その期限となり、さらに二年継続する議が出た。斉興は士民の貧困が甚だしいことから再課を忍びなかったが、他の返償策がなく家老の請を聴いたとする。重豪は老年にも政務を聴き、数年憂慮し、節倹して子らの用給を減らし自己の資を取り出して他の需要に用いなかった。さらに自今二年、二万石の隠居資から五百石を出す記述があり、父斉宣も同様にして、士家の出すものと合わせ三都への負債を返すとする。隠居資の分与に関する補字から比率を無注で確定しない。四月、重豪が親書で家老へ命じ、斉興もその意に従って二度家老へ審令したと記す。この記事は延長の経過を記し、続く1680は当年からの重出米免除を命じる文書である。
安政5年5月28日(雑抄の頭記);末尾:午・月日空欄 / 冊子 185~186頁/原整理番号 258/整理ID 258
雑抄に、安政五年五月二十八日再度仮条約調印許容を建議したと紹介する文章。勅答と添書を拝見し、尊王・攘夷を大本として鎖国の方針を守る立場を述べつつ、大砲・軍艦や航海・兵の習熟が不足した現状で戦端を開く勝算を問い、敗北・内乱と民への災害を懸念する。人和を第一に朝廷・幕府の諸手当を尽くすこと、過去の朱印交易の例にも触れて当面の条約調印許容を朝廷へ働きかけ、天下の形勢を見て小を忍び大を成すことを説く。条約中の天主堂建設は収斂を図り、仮の取結びによって余地を得る間に、武威・富国強兵、兵の訓練、政務・習俗の刷新、諸藩の怠りの是正と上下の協力を進め、外国勢力を制御する力を整えるよう求める。平和・戦争いずれの場合にも勅裁を踏まえて取り扱うと結ぶ。末尾は安政五年午の表示に月日と御名の空欄を伴い、順聖院逝去前の建白と注する。仮許容の提案を実施済みの条約締結とは区別する。
九月十三日 / 冊子 426~427頁
伊集院忠棟が伊集院右衛門大夫へ、本田刑部少輔から伝えられた忠平方の軍事行動と宗運の不穏な返答を報告する。合志殿との北目働や有馬境の情勢、諸口での悪事発生を警戒し、同名日向守を添えて忍び寄らせる策を相談した書状。
年月日未詳 / 冊子 124頁/原整理番号 197-1
伊地知季安の記事。三原重庸が在陣中、松平信綱の下知により出水から山元左近ら忍び十人を島原へ差し向けていた。重庸は帰陣したが、この日、左近らへ書状を出して様子を尋ねたと記す。
二月廿七日 / 冊子 214頁/原整理番号 328
「田代衆中島原立の覚」。二月二十七日、肥前守殿家中の十三人が有馬城へ忍び入り、火を掛けて焼き払い、城へ乗り込んで敵を討ち取ったが、その数は不明とする。さらに、助命を願って投降してきた男女・子供が多数いたものの、一人も残さず皆殺しにしたと記す。
年月日未詳 / 冊子 479~480頁/原整理番号 17
日新公以来の平田家一族の奉公を人物別に列挙した家伝。谷山倉良城主・平田備中守宗秀が蒲生岩剣の陣で形見の刀を宿元へ送り、主従とともに戦死したこと、弟の田布施城主・豊前守宗貞が高城籠城中に城内へ忍び入り、敵中三里を切り抜けて情報を伝えたことを中心に記す。さらに安房介・新左衛門・次郎四郎重辰・宮内少宗鑑・尾岐守・左衛門宗鉢・兵衛宗吉らの召出し、家老役、肥後・豊後・京都伏見での奉公、戦死・病中の逸話、女子二人の伊地知家・帖佐家への婚姻を掲げ、末尾に肥後新左衛門所持本からの写しであることを記す。
年月日未詳 / 冊子 131~132頁/原整理番号 482
肝付源助家の系図。宮内丞・加賀守兼義について、廻之城に忍び入り、島津方が城を攻めた際の濱ノ口合戦で戦死したこと、馬の水舟を被って城内に潜入したとの家伝を記す。子孫の奉公・戦死、僧籍入り、婚姻・養子関係を連ね、兼福の出生と天和三年五月三日の死去、法名金室金剛信士まで記載する。
目録年月日記載なし / 冊子 426~427頁/原整理番号 36
『伊東系図祐安伝』から、応永二十六年己亥三月に車坂が忍び落ちたとする短い記事を引く。詳しい戦況は次の『日向記』の記事に続く。
文和四年六月十八日 / 冊子 261頁/原整理番号 25
島津氏久が、敵方の牛屎高光・市来氏家・東郷道義らが肥後葦北の敵勢や和泉庄政保らと合流し、四月十六日夜に父の住む山門院木牟礼城へ忍び入って戦ったことを報告する請文。兄師久がすでに注進したので重ねて詳述しないとし、翌日に畠山匠作と伊東貞綱の一族が佐殿方へ出陣したため、師久と相談して味方として合戦を始める旨を申し遣わしたと述べる。一色孫三郎の出陣と合戦の次第は追って注進すると請ける。
年月日未詳 / 冊子 335頁/原整理番号 19
忠清の申状が、伯囿の伊集院在城時、八月七日の夜に神殿から郡山城へ忍び入り攻めたと記す。敵が強く城戸で抵抗する中、南郷・市来・拙斎らが先に走り込み、城戸を破って内城へ迫った。伯囿が火矢を用いて攻めた後、川上・阿弥・野村らと拙斎が心を合わせて戦い、拙斎は山口という者を刀で切り合って討ち、その首を伯囿へ見せたという。
年月日未詳 / 冊子 408~409頁/原整理番号 142
十一月上旬、久峯観音堂に集まった武功者が、川原陣へ忍び入り高城を救う策を立てた。義久への報告と諸将の軍議を経て、十日夜、雨の中を百四十五騎が進み、別府村には三百人が待機した。翌日、帰還する豊後の番衆を襲い、七十三人を討ち取り荷駄を追い落としたと記す。敵の反撃と家久の動静、味方の士気の高まりも述べ、続く高城への進撃は省略する。
年月日未詳 / 冊子 411~412頁/原整理番号 150
天正七年五月中旬、菱刈・両院衆三千余騎が、忠元の指揮で水俣のほうの川内を忍び取ったと記す。岩年礼に城を構え、肥後の宇都・隈元への通路を塞ぎ、矢崎にも城を置いた。武蔵・尾張を大将とし、十月十五日に攻め落としたと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 414頁/原整理番号 157
天正八年、大口勢が相良領ほうの川を忍び取ったが、番が不足して夜ごとの分散もあったため、樺山から遠見の兵を送り、忠助自身も籠渡りで警戒した。年末の水俣・つなぎ付近で伏兵を撃退し、老人を捕らえてから籠へ帰ったという。天正九年四月には龍造寺の南之関進出と赤星の落城で隈本の番が難しくなり、相良への警戒と水俣出陣、豊福通路の確保を記す。
年月日未詳 / 冊子 425~426頁/原整理番号 172
有村隼人が尋書に応じて奉公を申し上げた記録。ほうの川内や阿蘇方の城を忍び取る仕掛けと、豊後方との交渉を述べる。野尻の親類を人質に取り高森城を得たこと、入田との使者・僧・軍勢を介した談合、城主を見切らせるための交渉を記す。豊州方の六人が大口勢の仕掛けで召された一方、味方十八人が討死したという。山元・池田を含む犠牲者と離反した人々を挙げ、次本田方へ回答を届ける。
文書日付:七月卅日 / 冊子 278頁/原整理番号 三五九/整理ID TMP-P02-NENE2-D0359
城を持ったまま参陣するという人物の件を取り上げ、玄久の話を聞くよう求める。 宮方との内心や京都への申事に触れ、相手の判断に任せながら事情を知りたいとする。 税所介が城を忍び取ろうとしていることに関連し、油断なく対処するよう促す。 玄久と詳しく相談し、身を確かにして公方を仰ぎ、始中終同心して耐え忍ぶよう求める。