殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 282~283頁
応永二十年十二月七日の戦闘で佐多三郎九郎忠豊らが戦死したこと、北原彦次郎太郎・天辰式部二郎・遠矢某らの戦死や、小野村での戦闘に関する諸伝を記す殉死者記事。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 282~283頁
応永二十年十二月七日の戦闘で佐多三郎九郎忠豊らが戦死したこと、北原彦次郎太郎・天辰式部二郎・遠矢某らの戦死や、小野村での戦闘に関する諸伝を記す殉死者記事。
(天正16年)11月5日 / 冊子 421頁
桑山重晴が、相手が京都を訪ねた際に不在だったことを詫び、伊集院本国が国元へ下ったとの情報を確かめた書状。 以前宿に置いた留守居へ用件を命じてよいこと、彦次郎にも別紙を送る予定であることを伝え、京都での取次を申し出る。
正平十二年四月日 / 冊子 4頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の従軍と、正月二十一日・二十五日および三月二十日夜の濱陣合戦で先懸けを務めた軍忠を申告した。自身・中間平六・弟範家の負傷と見知人を挙げ、注進と恩賞を求める。
正平十二年四月日 / 冊子 4~5頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の日夜の合戦と、正月および三月の濱陣合戦での先懸け・負傷を申告した軍忠状。度々の注進勘文を根拠に、後日の証拠となる一見状を求める。
嘉永七年十一月十八日(聞取経過)、十二月廿九日(書状。年は前後から補う) / 冊子 161~162頁/原整理番号 219の2/整理ID 219-1
江田五郎左衛門が上村休兵衛・汾陽彦次郎へ、篤姫の実父母に関する内用の取扱いを伝えた十二月二十九日付書状。嘉永七年十一月十八日に竪山武兵衛の用件で出向いた際、父母について公辺その他は先般の扱いを保ち、御内実の訳は御記録奉行まで承知して帳面にも記録するよう命じられたと述べる。豊後にも沙汰の趣旨を伝え、家老座で改めて保管扱いを確認したので、白木御文書の篤姫父母関係書付と一緒に封じて置き、後年虫干し等で奉行が拝見する際には経過を伝えられるようにすることを求める。別紙には実父を島津安藝忠剛、実母を島津助之丞久丙の娘と記す。外封にも宛名と江田の名を付す。
建武四年六月廿七日 / 冊子 692頁
大隅助三郎・谷山五郎・鮫島彦次郎入道らの凶徒を速やかに追討し、軍勢を発向させるよう命じた川上頼久書下。
延元三年二月五日 / 冊子 709頁
指宿彦次郎入道成栄が過去の軍忠を述べた軍忠状。前年三月十七日に薩州大将の御下向へ馳参じ、数十度の合戦で敵を追い、鑑・一族大隅五郎兵衛・嫡子彦次郎らの軍功と打死を挙げ、証判と恩賞を求める。
11月28日 / 冊子 433頁/原整理番号 405の3
十一月二十八日付送状の抄録。舟頭彦次郎に赤米二斗、加子七人に一石五升を掲げる。奥書は前文書と同じとして、季安が省略した旨を記す。本文にない宛所や指示文は補わない。
建久3年 / 冊子 175~176頁/原整理番号 55
鮫島宗家流の系図。工藤四郎家光の子・宗家(鮫島四郎)が駿河国鮫島郷を領し、源頼朝に属して石橋山合戦で功を挙げ、建久三年に薩州阿多地頭職を与えられたことを起点とする。宗家・長家と女子・山門郡司秀忠の婚姻関係を図示し、その系譜説には宗家と秀忠が同時代人であることから誤りであろうとの考証注を付す。二代家高は刑部允・入道行願、三代家景(景家とも)は弥二郎で、妻を山門郡司忠秀の女とする。兼家の九代孫宗喬は日新公に仕え、彦次郎・入道蓮道は貞久公に仕えて加世田・知覧・指宿を領した。蓮性は師久公に仕え、民部忠宗は伊作家のため阿多へ落ち久豊公に仕えたと記す。後半は宗吉―宗満、宗遊―宗秀(実は弟)、宗秋―宗昌の系線を掲げ、宗秋を日新公に仕えた備後守・泊地頭、宗昌を『人物志』所載とする。
文永9年11月12日(1272) / 冊子 453頁/原整理番号 14-3
平忠成が嫡男・又二郎宗忠へ、先祖相伝の指宿郡司職、田畠・山野・河海、および開門神宮宮司職を譲った文永九年十一月十二日付譲状。関係証文を添え、所領の様体を書き記して譲与するもので、将来にわたり他から妨げられず知行するよう定める。本文後の系譜には女子から重秀・忠直へ続く線と、忠篤が幼名彦鶴丸、指宿郡司彦次郎、入道成笑を称したことを記す。
元弘3年7月13日(1333) / 冊子 453~454頁/原整理番号 14-5
薩摩国指宿郡司彦次郎入道成栄(沙弥成栄)が御奉行所へ、元弘三年七月十三日に味方へ馳せ参じたことを届け、その旨を披露するよう求めた着到状。文書冒頭には『御袖判』とあり、袖判を伴う文書として収録されている。
延元2年10月(1337、日欠) / 冊子 455頁/原整理番号 14-10
薩摩国指宿彦次郎入道成栄の代官・高野淡路房宗栄が、九月二十日、島津孫三郎頼久以下の『凶徒』を討つため大将が市来院へ発向した際に馳せ参じ、軍忠を尽くして敵一人を分取したと申告する延元二年十月付軍忠状。有間平次郎・山角平三郎入道・栗下宰相房の三名が戦功を見知った証人として挙げられ、宗栄はこれを根拠に恩賞を求める。
延元3年2月5日(1338) / 冊子 455~456頁/原整理番号 14-11
指宿彦次郎入道成栄が、前年二月十七日に薩州御大将・三条侍従が下向した際、綸旨に従って最前に馳せ参じ、以後数十度の合戦に参加した軍忠を申告する延元三年二月五日付軍忠状。島津上総入道道鑑一族、大隅五郎兵衛尉子息孫六・頴娃三郎らに言及し、成栄の子息次郎をはじめ一族・親類・若党数人が戦死したこと、市来院後巻では代官高野中務丞朝久が激戦の末に分取を遂げたことを述べ、絶え間ない軍忠の後証となる一見状の交付を求める。
文和四年九月二日ほか / 冊子 260頁/原整理番号 24の7
『古跡集』から文和四年九月二日の櫛木野合戦を抄出し、宮方勢に対する猿渡彦次郎入道らの戦功・戦死を考証する。氏久・元久の文書四通や応永四年清色城合戦の記事を年代・系図と照合し、猿渡信忠らの軍功を整理する。
年月日未詳 / 冊子 411~412頁/原整理番号 66の2
大隅国で足利直冬方に属した凶徒の交名注文。税所介・加治木彦次郎・祢寝郡司・修理所弥太郎・姫木郡司・羽坂孫太郎・小川郡司・蒲生彦太郎らの一族や入道を地域・系統ごとに列挙し、末尾を『右注進如件、氏御判』と結ぶ。『旧記雑録前編一』一四九九号文書と同一との注記がある。
元亨三年正月日 / 冊子 492頁
国分友貞が重ねて訴える国分寺領の追捕・放火・狼藉について、国分彦次郎友任に翌月十五日までの参決を命じた鎮西御教書。
元亨三年正月日 / 冊子 492頁
国分友貞が、国分彦次郎友任は度々の召文に違背して参対しないとして、友任と同意与力者を速やかに罪科へ処するよう求めた重申状。
元亨三年四月二日 / 冊子 494頁
国分友貞が訴える国分寺領追捕・放火・狼藉について、二月廿六日付御教書を彦次郎友任へ伝えたが、友任が八幡大菩薩の御罰を恐れるとして明確な陳状を出さなかったため、その旨を報告した平成貞の請文。
元亨三年六月廿日 / 冊子 500頁
惟宗友貞が、彦次郎友任は亡父道本に義絶されたのに友貞の所領へ乱入し、住民を殺傷して屋舎を焼き、追捕したと反論した請文。奉行方で審理中のため、寺家雑掌の訴えと併せて裁許するよう求める。
元亨三年七月日 / 冊子 502頁
国分友貞が、彦次郎友任と安楽寺雑掌祐舜が審理中に別訴して六波羅御教書を得たことを訴えた申状。旧訴の進行中に新たな論旨を立てるのは定法に反するとし、双方の訴訟を一方へ寄せて裁許するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 562頁
和泉忠氏が探題別当へ提出した書状と、島津彦次郎入道連道・諸三郎丸忠能らの関係を記した系譜記事。嘉暦四年六月の山田・上別符地頭職訴訟の人物関係を補う。
年月日未詳 / 冊子 693~694頁
建武四年七月以降、川上頼久が島津宗久・友久、鮫島彦次郎家藤、伊集院忠国、谷山五郎隆信らと参戦した経過を記す川上頼久伝。市来・高橋・松原口・阿多郡高橋などでの合戦、敵の討取り、味方の矢疵・討死を日付順に記し、八月三日の手負注文へつなぐ。
弘化二年十二月廿二日(目録)、同年五月十四日(大坂拝領) / 冊子 72頁/原整理番号 113/整理ID 113
高崎金之進へ高五十石を与える知行目録。鹿児島小山田村、国分向華村、伊集院恋之原村西門、鹿児島大迫村小浮免の内を列記し、名寄帳は別冊とする。財用の難渋に対し文政十年ごろから改革を始め、調所笑左衛門の取扱いを補佐して江戸・京・大坂・国許に出向き昼夜精勤し、役務を果たした功労を挙げる。大坂居付で難しい内用を担当し、当初から変わらず抜群の勤務を続けたことを賞して、従来、大坂居付への知行給付例がなかったところを特別に与える。同年五月十四日に大坂で拝領した旨を付し、十二月二十二日に久備・隆観・久武・久宝が署判する。外包は同日に壱岐殿から汾陽彦次郎へ渡したと記す。
嘉永二年七月廿六日 / 冊子 107~109頁/原整理番号 157/整理ID 157
般若院へ高三百石(原文三百斛)を与える知行目録。帖佐・鹿児島・姶羅郡・阿多・串木野・志布志・財部・高山・串良・山之口・諸県郡・湯之尾・馬越・高原・加久藤・百次の村・門・浮免等を列記し、名寄帳は別冊とする。寺格を昇進して寺家を御取建し、軍神を勧請して後々も御祈祷を命じること、小禄では寺の運営が難しいことを理由として、特別な思し召しで付与し所務を行うよう命じる。嘉永二年七月二十六日付で久平・久徳・久浮・久武・久封が署判し般若院へ宛てる。包紙は同日に石見殿から汾陽彦次郎へ渡して白木御文書十番箱へ納めたことを記す。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の3
十一月二十七日、市来湊町から立てた源太郎・茂兵衛尉・五右衛門の三人を記し、続いて同日付で彦次郎以下二十四人を列記する。後者は市来湊から立てた浜村の者として、三原源右衛門・永山覚兵衛尉へ受取りを命ずる。二十四人の名簿には久三郎が二度現れるが、別記のまま保持する。三人の先行記載と二十四人の合計を混同しない。
元亨二年十月廿日 / 冊子 489頁
国分二郎友貞が訴える薩摩国分寺領への追捕・放火・狼藉について、奉行人大保六郎入道契道へ御引付を渡し、訴状副具のとおり明らかにして早く参決するよう命じた国分氏文書。
元亨三年二月日 / 冊子 493頁
国分友貞が、友任は日限召文に背いて参対せず、使節の尋問にも実否を明らかにしないと訴えた重申状。友任と同意与力者を罪科に処し、追捕・放火・狼藉を裁許するよう求める。
元亨三年五月日 / 冊子 496頁
国分友貞が、友任は参対後も陳状を出さず日数を送り、難渋していると訴えた重申状。国分寺領追捕・放火・狼藉について、友任の違背を処罰し早く裁許するよう求める。
元亨三年五月九日 / 冊子 496頁
国分友貞の追捕・放火重訴について、友任の陳状提出が遅れているため、子細を記した本解状を送るので速やかに陳状を提出するよう命じた鎮西奉行人連署奉書。
元亨三年五月日 / 冊子 497頁
国分友貞が、友任は参対後も陳状を遅延し、奉行人の御書下案にも応じないと訴えた重申状。送日限を過ぎても明申しない友任を定法どおり罪科に処し、国分寺領の追捕・放火事件を裁許するよう求める。
元亨三年五月廿三日 / 冊子 497頁
国分友貞の追捕・放火重訴について、度重なる催促に背き陳状を出さない友任へ、日限を定めて速やかに明申するよう命じた鎮西奉行人連署奉書。
元亨三年八月日 / 冊子 503~505頁
国分友貞が天満宮安楽寺雑掌祐舜の訴えに答えた長文陳状。国分寺領は友貞の重代御家人領で、安楽寺へ年貢を納める請所として知行してきたと主張し、関東・六波羅御教書、相伝系図、奉書など十五通を証拠に掲げる。友任の系譜・義絶、寺家側がいう年貢未進、放火・殺傷・追捕を逐条反駁し、祐舜の別訴・濫訴を退け、友貞の本領・所務を認めるよう求める。
元亨三年十一月日 / 冊子 509~510頁
国分友貞が国分寺領相論について庭中で申した長文。安楽寺雑掌祐舜の訴えを担当した先奉行の判断と島津貞久宛御教書は、下地・所務・年貢を分断して審理しており不当だと批判する。友任・寺家側の別訴や奉行の処理を挙げ、関係文書を一具にして別奉行のもとで本所年貢・下地・所務を統一審理するよう求める。
建武二年五月廿五日 / 冊子 635頁
薩摩国指宿郡秋富名内中河井・荻迫等をめぐる伊集院弥五郎久兼の申状について、山口三郎入道ら関係者を召し合わせ、証拠を調べて急ぎ対決・注進するよう命じた島津貞久書下。
建武四年十二月日 / 冊子 703~704頁
河田智門房慶喜が市来城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。七月十五日の市来発向、八月一日の攻城での負傷、同四日の伊集院石谷での戦闘、九月十九日の再攻城で親類河田弥三郎家弘が討死したこと、城内への追拂いを列挙し、大隅式部三郎らの見知と証判を求める。
8月16・21・26日、閏8月11・16・21日(出立表示、年不記) / 冊子 270頁/原整理番号 374/整理ID 374
八月十六日・廿一日・廿六日、閏八月十一日・十六日・廿一日の六つの出立日ごとに、人名と出府する郷別人数を掲げる一覧。最初は谷村十右衛門・宮里新次郎と樋脇・東郷・隈之城各五人。続く各群には国分・清水・串木野、櫻島・小根占・高山・鹿屋、加世田・志布志・蒲生、始羅郡山田・帖佐・伊集院・市来、福山・伊作・指宿・羽月を列記する。江戸の守衛のため出府を命じたとの末注がある。郷別人数の表示合計は第一群十五人、他の五群各二十人、参考合計百十五人。前に掲げた人名十四人が郷別数へ含まれるかは記さないので加算しない。
3月式部;17日申付・20日子刻発足/甲子4月2~3日到着注 / 冊子 354頁/原整理番号 501の3/整理ID 501-3
樺山市郎・鎌田郷左衛門・川上平九郎・有馬藤太・井上直次郎ら、帰国を許可された者の名書。御用があるため来る廿日に急いで当地へ差し立てるよう命じる三月式部の書付で、名書は三列に二十六名を列記する。続く注は十七日に命じ、廿日子刻に発足するよう申し合わせたことと、甲子四月二日・三日に追々着いたことを記す。有川十左衛門には右かという原注がある。許可、急派の指示、発足時刻の取決め、到着の後記を分け、御用の具体内容や勤務地は補わない。
8月帯刀(本文);去月19日戦闘への言及 / 冊子 376~377頁/原整理番号 540の1/整理ID 540-1
金子三両宛の賞賜を記す名書。吉利群吉組の一組表示と安藤八郎左衛門・知識源之丞、川上右膳組と伊地知徳四郎・國分一郎右衛門らの名を列記する。去月十九日、長州勢が禁闕・九門内へ入り諸藩の人数が崩れかけたところ、速やかに防戦して追い退け家の面目を示したとして、さらに忠勤するよう優賞を与える八月帯刀の通知。名書には十五名を記すが、組の人数や一組表示の適用範囲は独立に扱い、全支給総額を算出しない。武功評価は通知の叙述として読む。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁/原整理番号 403
『平田宗直船賦帳』所収。市来湊から出す六端帆五艘の舟頭・水手人数を列記し、児玉主計助を上乗一人とする。続いて串木野から出す五枚帆・四枚帆・六端帆など九艘について船頭と人数を列記し、近間内膳正・春田大左衛門を上乗二人として、両船団を出水へ出船させる。末尾の総船数・総舟頭水手数の欄には数値の記入がない。
11月28日 / 冊子 432頁/原整理番号 404
市来湊・串木野で天草行きの船を仕立てた賦帳。本船賦帳からの書抜きとし、船主・船頭・加子を船ごとに列記する。市来湊の船別名簿に続き、串木野で仕立てた大小九艘、加子・舟頭計六十六人をまとめ、そのうち五人は伊作小の原浦、一人は永吉之浦の加子と注記する。末尾に上乗衆の送状がある旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 553頁/原整理番号 559の3
細川光利の大軍が島原内の須川へ着陣し、同夜に須川へ陣を置いたことを記す。城中からの夜討を警戒して堅固に防備し、新手の大軍による攻城策を述べる。
文和四年十一月五日 / 冊子 261~262頁/原整理番号 26
島津師久が、父道鑑の所領である薩摩国楠木野城に三条侍従・市来氏家・鮫島蓮道・知覧忠世らが九月二日に攻め寄せ、五日間の合戦で敵を捕らえ追い落としたことを申告する目安状。九州宮方の蜂起と一色の長州越えに伴う戦況を述べ、十月十二日の和泉庄側の攻撃では自身が三か所、伯父尾張守資忠が右腕に負傷し、守護代酒匂らが戦死、ほか百余人が負傷したと訴える。道鑑は中風で難儀して詳しい報告ができないとして、敵方の延引を避け両御所の命による出陣を求め、さもなくば国を捨てて参洛すると申し上げる。
元弘三年七月十三日 / 冊子 615頁
薩摩国指宿郡司彦次郎入道成栄が、命に応じて軍忠のため参陣したことを届け、左少将へ披露するよう求めた着到状。
(元弘三年)七月廿八日 / 冊子 616頁
武蔵修理亮北条英時誅伐時の軍忠申状を受け、指宿郡司彦次郎入道成栄へ、その内容に従って沙汰すると伝えた大友具簡の書下。
年月日未詳 / 冊子 688頁
川上頼久が足利直義に従って京都へ上り、薩摩・大隅両国の地頭御家人を催促する御教書二通を持ち帰ったことを記す川上頼久譜の記事。大隅助三郎忠国・谷山五郎隆信・鮫島彦次郎らとの関係も掲げる。
建武四年八月三日 / 冊子 694頁
阿多郡高橋松原口などでの合戦について、島津道恵方の参戦者・負傷者・戦死者を列記した合戦手負注文。上原中務丞尚経、鎌田孫次郎長平、右馬七郎、山田彦太郎、大田孫三郎、石堂彦次郎、益山新次郎らの矢疵・射傷を掲げ、島津宗久・友久、莫禰次郎成時らの見知と証判を記す。
延元二年十月日 / 冊子 698~699頁
指宿彦次郎入道成栄代の高野淡路房宗栄が、市来城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。九月十七日から市来へ進み、翌夜の合戦、同十九日の市来・平城攻め、吉田又次郎らとの合戦、手負・討死を列挙し、守護代官酒匂兵衛二郎らの見知と証判を求める。
(建武四年)十月廿九日 / 冊子 699~700頁
加木県城に残る凶徒の追討を比志島彦次郎らへ命じた沙弥誓念書状。十月十八日に軍勢を率いて発向し、北村諸三郎範清の親類右衛門六郎が射られた夜戦、同十九日の城攻め、軍奉行下の軍勢配置を記し、退散した敵を追って軍忠を尽くし後日の恩賞に備えるよう促す。
貞和二年十一月廿一日 / 冊子 772頁
足利直義が、薩摩国合戦で大隅助三郎入道道忍・鮫島彦次郎入道蓮道らが凶徒に与同し、淀谷一族らが陣を捨て帰宅したことを問題として、不参者の所帯没収を含む厳重な催促・討伐を島津上総入道へ命じ、一色範氏の指揮に従わせた軍勢催促状。
文和三年六月日 / 冊子 852頁
知色城落城時に最前へ馳せ来て忠節を尽くした味方を列記する交名注文。下野尾張守、上総弥三郎、大野三郎次郎、渋谷彦河守、山門彦次郎、市来弥次郎太郎らと一族・被官を挙げ、攻城参加者の構成を示す。