島津義弘書状
文禄2年11月18日 / 冊子 754頁
島津義弘が祈祷札の到来を喜び、現地の寺社が検地から漏れて諸事不如意となっていることを承知したと伝える。正八幡宮の扱いは重要なので、来春の帰朝時に詳細を申し渡すと約束する。 No.1235と同じ寺社領問題を、別の担当者へ回答した書状。
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文禄2年11月18日 / 冊子 754頁
島津義弘が祈祷札の到来を喜び、現地の寺社が検地から漏れて諸事不如意となっていることを承知したと伝える。正八幡宮の扱いは重要なので、来春の帰朝時に詳細を申し渡すと約束する。 No.1235と同じ寺社領問題を、別の担当者へ回答した書状。
「寛永十八年」十二月廿六日 / 冊子 181~183頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、九州巡回上使の松田善右衛門・蒔田数馬・曽川喜左衛門を迎えるため、国絵図を持参して経路や宿所を協議した結果を報告した連署書状。上使は江戸を正月二十三日に出立し、細島・佐土原・飫肥・志布志・肝付・根占・佐多・種子島・屋久島・永良部島・山川などを巡る見込みで、渡海船・水主・供人数・宿所・賄い・案内人を整え、天候や海上事情に応じた代替経路を準備するよう指示している。追記には、十二月二十六日付の書状が翌年正月十八日に御道具衆によって届けられ、飛脚が立山吉左衛門・末原甚左衛門であったことを記す。
「寛永十九年」正月十四日 / 冊子 184~185頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、長野金山を公領に差し出す願いについて、江戸城で松平信綱・酒井忠勝・阿部忠秋・阿部重次らから忠節を賞され、その年は従来どおり採掘し、翌年以降は改めて指図を受けることになったと報告した連署書状。永続的な拝領ではないため、当年の利潤を借銀返済に充てるよう勧め、系図の扱いについても触れている。
年月日未詳 / 冊子 188頁
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃守らが到着し、豊久は先駆けの働きを浅野左京大夫・加藤主計頭から賞賛された。
(慶長十年)四月廿七日 / 冊子 15頁
伊藤左馬頭某が島津忠恒へ、参内供奉を祝い、豊臣秀頼は小さな唐犬の女犬を所持しているが男犬がいないため、忠恒が所持していると聞いた男犬を秀頼へ進上するよう勧めた書状。追伸では、忠恒が唐犬を三、四匹所持すると聞き、他へ遣る予定がなければ自身にも一匹譲ってほしいと求める。
二月十四日 / 冊子 229頁
発給者未詳の書状。別紙の条書と使者の口上によって用件を伝え、新加州老の当地滞留中に内々の事情を聞き合わせることや、関係者本人から事情を申し上げさせることを求める。あわせて扶持に関わる山衆屋敷の明渡しと耕作の手配など、現地で処理すべき事項を指示している。
四月十六日 / 冊子 170頁
島津久慶と頴娃久政が諸所の噯衆に、江戸奉行衆の奉書が早飛脚で下されたため写しを地頭衆へ回したことを伝え、前年の指示と相違なく油断せず申し付けるよう命じた廻文。御兄弟衆が巡見するので、不行届きの場所は直ちに報告されることを心得、少しも疎略にしないよう戒める。
二月十一日 / 冊子 507頁
近衛東求院(近衛信尹)の詠歌一紙を准后に鑑定してもらい、真跡に紛れないとの回答を得て返却したことを伝え、あわせて五代の官位を書き付けて送った中川石見守書状。
「寛永廿年」二月四日 / 冊子 226~227頁
島津久通・新納久詮が、琉球の金王子を中心とする使節の江戸参府について、接遇と先例を問い合わせた連署書状。王位継承の礼を名目とする使節の宿所、将軍・若君への拝謁と進物、他国使節との席次、琉球人の人数や装束などを検討し、過去の琉球使節の扱いを知る者から情報を集めて返答するよう求めている。
正保二年三月二日 / 冊子 6~7頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0008
北郷久加・新納久詮が、新納久詮の持継役を島津久通が加判役として相続すること、兵庫頭殿仮屋・客屋・蔵長屋と屋敷図の割当てを伝える。さらに領内で生まれた子を殺すことを従前から禁じているのに密かに行う者があるとして、与頭等に調査させ、知行取・百姓町人それぞれの科料を定めて厳禁する。
(明暦元年)十二月十四日 / 冊子 269頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0590
久通・久詮が国元役人四人へ、阿部忠秋邸で江戸在住大名の留守居を集め、在国大名の留守居として久詮も召し出された経過を報じる。オランダ船に関する覚書を渡され、国元大名への奉書は忠秋・対馬守の意向によるとする。従来の南蛮宗門法度を周知し、オランダ人が伴天連などを乗せて来た疑いがあればよく改めるよう求め、早速の伝達を促す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):貞和六年庚寅 / 冊子 52頁/整理ID KW1-G000034
尊氏の弟直義が高師直を討つため、直冬を西国探題として援勢にしようとしたと述べる。 貞和六年庚寅に西国で起兵した直冬が清成へ花押付き催促状数通を投じたとし、後に掲げる。
辰六月8日、新納嘉藤二 / 冊子 569頁/原整理番号 741の2/整理ID 741-2
太守の国許への暇を命じられた件につき、非蔵人口からの呼出に出頭し、大原左馬頭から書付一通を渡されたので報告しておく旨を述べる。この用務を留守居附役勤小野半左衛門が勤めたことを、辰六月八日に新納嘉藤二が主殿へ知らせる。
年月日未詳 / 冊子 365~366頁
山田某外二名の連署書状。飫肥城で前年九月末から進められた本丸・曲輪・堀などの普請を内偵し、本丸と一之丸の間を埋めて一体化したこと、新たな堀・出入口・兵具準備・夫役動員を報告する。江戸からの飛脚往来や領内の警戒状況、犬追物を古法どおり行うとの情報も併記する。
享保九年八月四日 / 冊子 667頁/整理ID 1687
賀屏風の詠歌と絵について、従来の式法や意向を踏まえて差図を求める書状。
朱記:慶応4辰六月15日、去る5日参内・8日帰国命の報 / 冊子 583~584頁/原整理番号 759の1/整理ID 759-1
太守が去る五日辰刻の参内後に東征する予定と軍列叡覧を承知し、軍装で参内して天杯、錦旗一流・剣一振・扇一本・反物一疋を中山前大納言の取次で受けたと報じる。勅筆の拝見後に原本を返し写を受け、御直衣・御擣帛各一領と金三万両、酒肴を賜った記事を続ける。総督府急報により本人の進発は追って沙汰し兵隊を直ちに出すと伝えられ、軍列叡覧後七ツ時に帰館、兵隊は嶋津伊勢が率い即日出軍し礼も奏聞したとする。去る八日に非蔵人口の呼出で留守居が大原左馬頭から帰国・海路東行の書付を受けたことを伝え、御兩殿への祝儀を向々に求める。末は朱慶応四辰六月十五日、備後と外四人を略す表示。経過・受領は通達の報告として示す。
六月15日六署、報告対象は去る5日参内と8日帰国書付 / 冊子 585~586頁/原整理番号 761の2/整理ID 761-2
去る五日辰刻に太守が参内し東征する予定と軍列叡覧を承知していたところ、軍装で参内し天杯、錦旗一流・剣一振・扇一本・反物一疋を受け、勅筆を拝見後返上して写を受け、御直衣・御擣帛各一領と金三万両、酒肴を賜ったと報じる。総督府急報で本人の進発は追って沙汰し兵隊を直ちに出すとされ、軍列叡覧後七ツ時に帰殿、兵は嶋津伊勢が率いて出軍し礼は奏聞したとする。去る八日の非蔵人口の呼出で帰国・海路東行の書付を大原左馬頭から受けたことも知らせる。身分に応じて家老へ祝儀を述べ、大奥では京都への飛脚で随真院・お盛にも伝え、地頭は書状とするなど一部を略して掲げ、御兩殿への祝儀を周知する。六月十五日、備後ほか六署。受領・進発変更は通達の報告として記す。
現行年紀:建武三年四月十七日 / 冊子 47頁/原整理番号 53/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0053
左馬頭が祢寢孫次郎殿へ発給した感状案。三月十七日の注進状を見て、宮毛城での軍忠を神妙と認める。 先日大将を差し遣わしたので、重ねて忠節を尽くすよう促し、恩賞についても沙汰があるべき旨を伝える。
記事成立日:未確認 / 冊子 181頁/整理ID TMP-P02-CONT-A25
尊氏将軍の令弟左馬頭直義の在判書五通があるとして、以下に掲げる。
記事成立日:未確認 / 冊子 582頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A028
建武・観応の間、将軍方に属して勲功があったと家譜が記す。 尊氏卿から御教書を賜ったことを述べる。 足利左馬頭直義についても「亦投感懷焉」と記す。 記事には文書自体の成立年月日は示されず、時期の記述として保存する。
記事成立日:未確認 / 冊子 584頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A035
尊氏卿の弟、足利左馬頭直義の感状一通を紹介する。 直義について在判と記す。 正文が家蔵にあると記す。 「記于左」により後続七七号へ導く。
享保九年十月十六日 / 冊子 677頁/整理ID 1706
公方の意向を踏まえ、色紙・詠歌などの扱いを伝え、関係者へ申し達するよう求める六名連署状。
年月日未詳 / 冊子 94頁
寛永十七年正月元日の城中における着座順を抄出した名書。北郷式部太輔を筆頭に、兵庫頭、桂又十郎以下の家臣を『上』の区分と組み合わせて列記し、各人の席次・序列を示している。
寛永十九年正月廿八日 / 冊子 189~190頁
島津久元・山田有栄・頴娃久政が五代仲兵衛尉・三原五郎兵衛尉へ、高二百石を知行および御使役分として与え、両人で支配するよう命じた連署引付。寛永十九年正月二十八日付で、久元が印を据えている。
(寛永9年)6月21日 / 冊子 13~14頁/原整理番号 13
江戸を六月四日に出立した右馬頭の早打が十六日に佐土原へ着いたこと、加藤肥後守父子の改易が五月二十九日に酒井雅楽頭の屋敷で申し渡されたことを記す。肥後守は酒井宮内預けで出羽庄内へ、豊後守は金森出雲守預けで飛騨へとする。上使・目付の六月十日江戸出立を町の伝聞として伝え、加藤右馬頭の案内と、隈本・八代の城番予定者も列挙する情報覚書。
年月日未詳 / 冊子 692頁/原整理番号 718の1
黎明に世子が江戸を出て西国へ急いだことと、家老・使衆・兵具奉行・代官などの随員を記す。右筆がいなかったため伊勢貞昌与力の有川喜左衛門が兼務した。神谷山三郎らは従行を許されず、後から自力で下り大坂で追いついたという。
寛永廿年三月朔日 / 冊子 435~436頁/原整理番号 546
江戸から、奥州でキリシタンが多数召し捕らえられ、逃亡者が諸国へ散るおそれがあるとの知らせがあったため、三名は地頭・衆中へ、怪しい者の通報、素性不明の旅人の宿泊禁止、巡礼・流浪者の追放を命じる。併せて、金山などでの密鋳銭を禁じ、発見時は報告して公儀法度により賞罰すること、金山に滞在した異国人が外城・在郷へ潜伏していないか調べて追放することを達する。
寛永廿年十一月七日 / 冊子 437頁/原整理番号 548
江戸の老中から島津図書頭・新納右衛門佐を通じて異国船警戒の命があったため、四名は沿岸・境目の警固を厳重にし、伴天連らが上陸しても内地へ入れないよう命じる。前年夏に筑前大島で捕らえられ江戸へ送られた南蛮人の陳述を添えて、溝辺・横川・栗野・吉松・吉田・馬関田・加久藤・飯野・須木・小林・高原・野尻・綾・高岡・穆佐・倉岡の衆中へ回覧する。
年月日未詳 / 冊子 447頁/原整理番号 560-1
長崎へ来航した唐船にキリシタンの唐人がいるとの訴えから、拷問で天川における南蛮宗への勧誘と日本・大明への渡航企図が判明したとして、唐船を厳重に改めるよう命じる。唐人を給水のためにも上陸させず、陸から船へ水を渡すこと、入港船には番衆を付けて直ちに鹿児島へ報告し、必要に応じ宰領を付け長崎へ送ることを定める。本文日付は寛永二十一年九月晦日だが、目録日付は空欄である。
寛永廿一年九月晦日 / 冊子 447~448頁/原整理番号 560-2
前文書の唐船・唐人警戒の趣旨を各地域の浦々へ確実に申し渡すよう、島津安芸守以下の地頭・役人へ命じる。本文は寛永二十一年十月三日付で四名が連署するが、目録年月日は寛永二十一年九月晦日である。
十月三日 / 冊子 448~449頁/原整理番号 560-3
唐船・キリシタン・他国人の警戒を沿岸諸所へ回覧し、各所で受取日と次所への引渡日を宛所下へ記し役衆が判を据え、回覧後は秋目から鹿児島へ返すよう命じる。唐船への唐人乗船・荷役は上陸を避け、キリシタンが名を替えることや無手形の不審者を改め、該当者を捕らえて鹿児島へ報告する。本文日付は寛永二十一年十月二十六日で、溝辺から倉岡まで十六か所向けの同案も記すが、目録日付は十月三日である。
正保二年五月五日 / 冊子 452~453頁/原整理番号 564
唐船が港へ入り、または沖に掛かった場合は昼夜を問わず厳重に番を付け、唐人が許可なく出帆しようとすれば功者二人を長崎へ直送して荒木加左衛門へ届けるよう命じる。掛け出した唐船を追って長崎へ赴く費用・飯米は後日算用で支給し、状を各所へ写して遅滞なく回覧する。本文は正保二年三月十七日付で日置から山川までの役衆宛だが、目録年月日は正保二年五月五日である。
文治3年5月3日(1187、同文参照)~正平12年10月5日(1357)の記事 / 冊子 430~431頁/原整理番号 13-2
冒頭は『諸家系図文書』10の2号文書と同一のため、源頼朝御教書本文を省略する。参照先は文治三年五月三日、大平基光と弟・後平二元能の見参後の帰国を伊豆藤内へ命じた御教書である。続いて、大平家から大平・牛屎・羽月・山野・鳥越・淵辺・太田・青木・入山・屋代・入田の十一家が分かれ、羽月・山野・太田・青木・入山・淵辺・屋代・入田の八家は牛屎院、大平・鳥越の二家は祁答院に村を持ったと説明する。国元(同太郎)の系統では、嘉禎三年四月十九日の足利義氏邸での将軍御遊後、大平太郎が新田太郎とともに第二の御馬の引手を務めたことを記す。元兼(同左衛門尉・法名元覚)は建長二年正月二日の将軍頼経の椀飯で畠山三郎国氏と、同三年正月三日の椀飯で足利三郎家氏と御馬を進献した。元茂の家では、子がなかった妻が二羽の鶴が飛来して食物とともに口へ入る夢を見た後に男子を産み、子孫が繁昌したため『向鶴』を定紋としたという家紋起源譚を載せる。末尾は元尚(大隅守・法名恵仏)、高元(牛屎左近将監・法名普光)へ続き、正平十二年十月五日の島津師久書状を次項へ導く。
年月日未詳 / 冊子 390~393頁/原整理番号 115
天正二年八月以後の出仕・交渉・接待を記す日記の抄録。川辺で盗人孫左衛門をめぐって起きた鹿籠との争論を忠元・鎌田らと相談し、中書の内議を使者の忠元から聞く。隈城の四十町、山田三十町、天辰・田崎を交換する所領調整や、弓箭の談合、江月斎・和泉の使者への対応を続けて記す。頴娃や唐口の座席と接待、諸役と参加者、雑説をめぐる義虎や中書への報告も記録する。天草の使僧の太刀・厚板物・馬代などの進献、和泉・天草の和平交渉と所領の一部譲渡、使僧の返事についても述べる。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):建武三年丙子二月十八日 記事内参照年紀:建武・延元年間 / 冊子 46頁/整理ID KW1-G000027
足利尊氏が勅命を奉じて北條氏を討ち、義貞との合戦で不利となって播磨州兵庫へ退いたと叙述する。 建武三年丙子二月十八日に大伴氏の船で鎮西へ向かい、筑前州多々良濱湊に着船して宗像大宮司の館へ入ったとする。 小貳入道妙惠・大郎頼尚等が附属する一方、菊地掃部助武俊等は宮方に属し、鎮西でも合戦が続いたと述べる。 建武・延元年間の尊氏の御教書と、直義・師直・直顯・三條侍從等の簡牘を後に掲げるとする。
正月廿八日 / 冊子 147~148頁
川上因幡守久国と新納右衛門佐久詮が国元重臣へ、海上防備用の船と石火矢について幕府側の回答を伝えた連署書状。前年に願い出た『かれうた船』・勢楼船・石火矢のうち、勢楼船は筑州との相談の結果ひとまず不要とされ、石火矢は新造より先に既存の筒を点検して試射するよう指示された。海上では鉄砲が不可欠であり、手持ちが不足する場合は改めて願い出るよう阿部豊後守忠秋から詳しく申し渡された経緯を記している。
「寛永十八年」四月廿七日 / 冊子 152~153頁
長岡興長・阿茶監物が島津家重臣へ、出水近海に流着した無人船の調査と沿岸警戒について報じた連署書状。船内外に生貝・生蠣が付着して長期間漂流した形跡があり、長崎へ向かう唐の釣舟で、付着した貝も高砂辺のものとする見立てを伝える。島津光久の命で出水周辺や領内の島々・浦々を警戒し、山田民部少輔有栄が出水へ赴いたこと、肥後側でも水俣に近い芦北郡や領内の津々浦々・山中を厳重に捜索したことを記している。
「寛永十八年」七月十九日 / 冊子 156~157頁
馬場三郎左衛門尉利重と柘植平右衛門尉正時が島津家重臣へ、領内の浦へ唐船一艘が着岸した件を報じた連署書状。船内を調査し、唐人二十三人と荷物の書付を厳重に添えて届けたことを了承し、詳細は二人の使者へ伝えたとしている。
「寛永十八年」十二月六日 / 冊子 173~174頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、幕府上使として水野甲斐守が下向するとの情報を東郷加兵衛に調べさせ、確報があれば早飛脚で知らせること、翌年の島津光久の参府時期について阿部忠秋・阿部重次へ届け出たことを報告した連署書状。さらに金山の稼行と産金の調査、江戸への金の輸送、系図細書の閲覧と道春への進物、若君の疱瘡などについて詳しく伝えている。
「寛永十八年」十二月廿一日 / 冊子 178~180頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、若君の疱瘡平癒と諸大名からの祝儀、松平信綱への伺い、光久の参府時期、金山の産金・保管と幕府側への相談、九州巡回上使への対応を報告した連署書状。さらに関蔵人からの書立、国絵図の郡分け・道筋の調査、来春の上洛に関する見通し、道春への書状・進物、系図細書、贈答品など、多岐にわたる案件を伝えている。
「寛永十八年」十二月廿一日 / 冊子 180~181頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、土井利勝・堀田正盛からの書状、道春からの返札、阿部忠秋の用向き、喜入摂津守を通じて照会した翌春の参府時期とその返答を報告した連署書状。さらに阿部忠秋から命じられた防船(かりうた)・勢楼船の用意と大鉄砲の新鋳について、井上政重へ相談する予定であったが筑後へ召し出されて不在のため、回答を保留した経緯を伝える。追記には、十二月二十一日付の書状を翌年正月十八日に勝目才左衛門が持参したこと、参府の奉書と船・大鉄砲の件を記す。
「寛永廿年」二月廿四日 / 冊子 229~230頁
島津久通・川上久国が、金山から両使が帰国したことを報じ、金山停止後の処置を指示した連署書状。北郷佐州と相談のうえ、曾木・横川の衆から四人ほどを金山番手として移し、扶持と山衆屋敷を与えて山内を朝夕巡回させること、金山停止に伴い他国人約二千人を早々に帰国・退去させることを求める。さらに高麗人の取扱責任者を為善から左衛門佐方へ付け替える件を関係者へ申し渡すよう伝えている。
「寛永二十年」三月朔日 / 冊子 231頁
島津久元ら三名が、奥州で多数の切支丹宗徒が捕縛されたことを受け、領内の宗門改めを徹底するよう命じた連署書状。新たな入信者や潜伏者を早急に摘発し、宗旨を偽る者、匿う者、連帯責任を負う五人組などを厳しく調べること、申告者への褒賞を周知して隠れ切支丹を発見することを求めている。
「寛永廿年」四月五日 / 冊子 232~233頁
島津久通・川上久国が、朝鮮信使の船が領内へ漂着した場合の対応を伝えた連署書状。幕府老中の命に従い、綱・碇・水・薪などを速やかに供給し、漂着の知らせを飛脚で急報すること、浦々の役人へ事前に申し渡して滞りなく救援できるよう備えることを求めている。
「寛永廿年」五月十一日 / 冊子 235~236頁
島津久通・川上久国が、島津光久の帰国暇と江戸出立予定を伝えた連署書状。阿部対馬守重次・牧野内匠頭が上使として暇を伝え、光久が御袷・白銀千枚を、若君からも御袷五十を拝領し、馬も後日賜る予定であると報じる。出立日は五月十五日と定まったとして、喜びと祝意を共有するよう伝えている。
「寛永廿年」六月廿三日 / 冊子 241~242頁
島津久通・新納久詮が、証人衆の評定所出頭と逃亡事件を報じた連署書状。御証人奉行の切紙により証人衆を伴って評定所へ出頭した経緯を伝える。安芸守が主家との争いから国を逃れ、証人として江戸にいた子の弥四郎も留守居衆へ無断で逃亡したため、私怨の有無にかかわらず厳しく捜索・処置するよう求めている。
「寛永廿年」九月廿一日 / 冊子 253~254頁
島津久通・新納久詮が、筑前大島で捕らえた南蛮人・伴天連らの白状を伝え、領内の切支丹穿鑿を命じた連署書状。阿部忠秋・阿部重次から江戸留守居が評定所へ呼び出され、井上筑後守の別紙とともに供述内容を在江戸大名へ示された経緯を報告し、国元でも同様に周知・捜索するよう求めている。
「寛永二十年」十月二日 / 冊子 254~255頁
島津久通・新納久詮が、水野藤右衛門の薩摩下向に伴う接待・贈答を指示した連署書状。鶴拝領の礼に来る上使の宿所、饗応、腰の物などの進物を相談し、高価すぎる品や籠相の品は避けること、銀子の受取や支出を慎重に扱うことなど、過不足のない接遇を求めている。
「寛永二十年」十一月九日 / 冊子 261~264頁
島津久通・新納久詮が国元の重臣らへ、翌年の琉球使者参府について人数・行列・進物・船舶・馬・宿所・衣服・路銀などの準備を詳細に協議した連署書状。朝鮮使節の例も参照し、琉球人百二十人程度という当初案に対して二百五十人前後の編成を検討し、幕府・京都側との調整を求めている。
「寛永二十年」十一月十八日 / 冊子 264~265頁
島津久通・新納久詮が国元の重臣らへ、先の書状を受領したことを伝え、祝儀・進物や翌年の交替に伴う供立てについて、京都・江戸の関係者と相談しながら準備するよう求めた連署書状。供奉者の選定と熟練した者の召上げに念を入れるよう指示している。