沙弥成仏譲状
応安五年五月十五日 / 冊子 61頁
沙弥成仏が左京進兼弘へ、大隅国肝付郡内岸良村の田畠・山野・狩倉など、阿仏以来代々譲られてきた所領を一括して譲渡した譲状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
367 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 8
応安五年五月十五日 / 冊子 61頁
沙弥成仏が左京進兼弘へ、大隅国肝付郡内岸良村の田畠・山野・狩倉など、阿仏以来代々譲られてきた所領を一括して譲渡した譲状。
応安五年十二月廿五日 / 冊子 64頁
今川了俊が島津安芸左京進に、中条三郎左衛門尉を差し出したことを賞し、本人も急ぎ馳せ参じ忠節を尽くせば恩賞を与えると催促した軍勢催促状。
応安七年七月廿日 / 冊子 70頁
今川了俊が島津左京亮の美濃守任官の希望について、京都へ推挙すると伝えた挙状。
「大永七年」五月十三日 / 冊子 677~678頁
日新が冨松左京亮・野村兵部少輔に、従来の忠勤を賞し、神妙大慶であるとして、今後も相談しながら頼みとする旨を伝えた感状。
三月廿二日 / 冊子 774頁
日新公が富松左京亮・野村兵部尉に、弓箭の初めから忠節を尽くしたことを賞し、今後も変わらぬ奉公を期待する旨を伝えた証状。
「天文十六年」九月十五日 / 冊子 843頁
日野町資将が本田左京太夫に、万徳寺からの芳札を受け、返書の取り次ぎと委細の報告を求めた書状。
(天文十六年)九月十五日 / 冊子 844頁
日野町資将が本田左京太夫に、書状の披見と再会を喜び、皿・白髪を贈り、万徳寺の権利に関する説明を求めた書状。
九月十五日 / 冊子 844~845頁
日野町資将が本田左京太夫に宛て、陣中で登城して島津家門へ奉公したことを喜んだ長文書状。万徳寺領の保全、公事負担、朝廷・武家双方との折衝で必要な手続を説明し、寺院と家門の権益を守るため関係者への詳細な周旋を求める。
(天文十六年)十二月廿八日 / 冊子 846頁
北郷忠相が本田左京太夫に、歳暮の祝意と賀書への謝意を伝え、翌年の吉兆と変わらぬ厚意を願った書状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
(慶長四年)五月廿一日 / 冊子 385頁
本村半右衛門尉が高城左京亮に、高四十石の指出として、慶長元年十一月廿日に主従二人で出立し、慶長三年二月に御供から帰朝した経歴を記す。その間、所から六か月分の御盛を受け、残る十八か月分は自ら堪忍したと申告する。
(慶長十七年)閏十月二日 / 冊子 383頁
慶長十七年閏十月二日、山口直友が鎌田左京亮へ、本多正純の指示により硫黄二百斤ほどを進上するよう求め、上様が鷹野のため関東へ下向したことも伝えた書状。
二月廿九日 / 冊子 412頁
二月二十九日、島津忠嘉が鎌田左京亮へ、高麗入・大脇の二所をめぐる安楽五郎左衛門と鎌田玄蕃助の所領争いについて、両者を召して熟談・調停するよう求めた書状。
二月五日 / 冊子 172頁
義宗が大平左京に、国中の乱悪に際して長唯と固く申し合わせ、部輔永と在府中に日夜奔走した結果、敵陣が各所で敗れたことを報告した書状。帰宿の状況を伝え、今後も親密な交誼を続けるよう望む。
七月七日 / 冊子 287頁
島津氏久が、相手の参会と承諾を喜び、島津又三郎との談合、年貢・補任状、京都での沙汰や預所に関する処置について平山左京亮へ指示した書状。
五月十三日 / 冊子 324頁
島津忠良(日新)が富松左京亮と野村兵部少輔に、合戦で以前から抜群の忠勤を尽くしたことを賞し、今後も頼みにする旨を伝えた契状。互いに疑心を抱かず、讒臣があっても相談し、島津貴久とも同意のうえであり、この義に背けば天道に任せると誓約する。
慶長七年九月十一日 / 冊子 847頁
島津忠長が歌道門弟となることを許された際、伝授された内容を一言も他言しないと誓った起請文。違反時には日本国中の神々、とりわけ住吉・玉津島の神罰を受けるとする。
十二月廿二日 / 冊子 381~382頁
珍品ではないが茶碗三個を贈り、茶を点てるのに使えるだろうと述べる。また、示現流兵法を望んでおり相談したいとして、近ごろの稽古の様子を尋ねた島津忠恒書状。
十一月十六日 / 冊子 96頁
島津龍伯が吉野で鷹狩りをして加治木へ赴く予定だったが、当日は雨天のため出発できたかを尋ね、島津惟新から番所まで状況を問い合わせるよう命じられたため飛札を送った書状。
年月日未詳 / 冊子 535頁
町田氏の系図として、町田出羽守高久と左京亮頼本の名および系線を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 683頁
町田氏の支流について、石谷高久から左京亮頼本・伊賀守梅吉・忠榮・八郎左衛門尉らへ続く系統と法名を記す系図記事。
(天文十六年)九月十五日 / 冊子 843頁
日野町資将が本田又次郎に、左京太夫への取り次ぎと太刀一腰の献上について調進を求めた書状。
(天正四年)七月十六日 / 冊子 479~480頁
島津義久が義弘に、川上左京亮からの報告を踏まえた境目の軍事談合について問い合わせ、現地足軽の状況を見極めるよう求める。熊鷹の羽一手と適期の竹を求め、出陣案と境目の情報を詳しく調べて神慮を伺う意向を伝えた。
年月日未詳 / 冊子 57頁
肥後の花之山で鎌田左京亮らとともに戦死した木脇祐昌が、敵も味方も同じく現世の夢を見終えるという趣旨を詠んだ辞世。 激戦の最期を背景に、討つ者と討たれる者を等しく無常の中に置く武将の死生観が表れた、印象的な一首である。
年月日未詳 / 冊子 188~189頁
長谷場越前自記。七月六日、筑紫方との防戦を破って町口・板城戸を突破し、筑紫広門の居城へ攻め入った過程を描く。河上左京亮が十文字・八ツ花形に切り回って奮戦し、多数の傷を負って倒れ、介錯された最期を中心に、城内へなだれ込む島津兵と双方の死者を記す。岩屋城ではなく、筑紫方居城攻略の白兵戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 189頁
勝部兵右衛門聞書。七月六日、境目に出た筑紫広門方の軍勢を追い崩し、鷹取城・和賀山を落としたのち筑紫の居城へ押し寄せた戦闘を記す。外構・本丸口で数度の合戦となり、河上左京亮が諸方を駆け回って戦い、多数の傷を負い倒れた。No.155と同じ攻略戦を別証言で照合できる記録である。
年月日未詳 / 冊子 195頁
島津忠隣譜の記事。筑紫進攻で副将となった忠隣は、七月六日の鷹取城攻撃で外門へ迫り、強敵と槍を合わせて八か所余りの傷を負いながら生還した。家臣の脇元城介は忠隣をかばって一歩も退かず討死し、河上左京亮も同日に戦死した。翌七日には忠隣が板添口から岩屋城へ直進して攻略に加わったと記し、忠隣本人が岩屋城で戦死したわけではない。
(天正16年)4月23日 / 冊子 385頁
細川幽斎・石田三成が新納忠元へ、二月五日付の書状を京都で受け取ったと知らせ、寒中の肥後出兵と島津義弘の働き、とりわけ忠元が先手を務めて一国平定に貢献したことを賞した連署状。相良氏の逆心で上洛路が塞がれているため通路を整えるよう求め、八代・芦北の処置を了承する。忠元の子・左京亮についても、希望に沿うよう秀吉へ申し上げ、追って返事をすると伝える。
(天正17年)正月30日 / 冊子 439頁
島津義弘が、左京亮の奉公ぶりと母への配慮を新納武蔵入道へ伝え、京都が平穏であることや飯野の留守態勢を報告した書状。 一郎の暇願い、召し下しの可否、現地事情の探索なども京尭を通じて確認するよう求め、在京者と国元の家族・家臣を結ぶ具体的な連絡内容を含む。
(天正20年)4月6日 / 冊子 541頁
島津久保が、左京亮の普請での苦労をねぎらい、留守中の国元の諸事を新納忠元に任せると伝えた書状。渡唐船がまったく回らず体面を失いかねない窮状を訴え、船を確保して島津義弘に従い渡海できるよう尽力を求める。
(天正20年)8月16日 / 冊子 600頁
島津久保が新納忠元へ、留守番のため現地に残っていると聞き、その苦労を察すると労う。持ち場を精いっぱい守り、油断なく番を務めるよう依頼した。 左京亮が格別に奉公していることにも触れ、朝鮮出兵で主力が不在となるなか、薩摩国内の守備を担う忠元への信頼を示す書状である。
文禄4年6月28日 / 冊子 892頁
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史料である。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 19~20頁
島津義弘が宰相殿へ、平松の家作が粗末で雨漏りし、家中の者も難儀しているため、平松の役人に修築を申し付けたことを述べる。使者や家臣の動向、伊東孫八の書状到着、又八郎忠恒の帰朝・上洛と迎えの国分左京亮派遣、高麗への出船、求聞持修行や平田豊前の子の大峯入峰に祈念を命じたことなどを報告し、返書を求めた書状。
(慶長元年)五月二日 / 冊子 21頁
島津義弘が忠恒へ、明使来朝により高麗在番衆の主力を帰朝させ、忠恒にも上洛命令が出たため国分左京亮を迎えに遣わしたと伝える。残番衆約七百人は抱節・比紀伊守を主取として兵粮を確保し、風説に動揺せず隣所へ持場を明け渡さないよう厳命する。帰朝希望者を安易に伴わず、留守居と番所の仕置を徹底するよう求めた書状。
(慶長三年正月) / 冊子 182~184頁
島津義弘が朝鮮から送ったとされる仮名書状。唐人が約十里先まで進んだとの急報を受けて物見を出し、事実なら出撃する覚悟を述べる。蔚山では敵が夜襲して二の丸まで攻め上り、浅野左京大夫・太田飛騨守らが本丸に籠もり、加藤清正も西生浦方面から少人数で入城したと報告する。義弘父子も救援に赴く一方、留守勢を残して城を固めることや、使者・便船の手配を伝える。
年月日未詳 / 冊子 188頁
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃守らが到着し、豊久は先駆けの働きを浅野左京大夫・加藤主計頭から賞賛された。
年月日未詳 / 冊子 301頁
国分氏伝が、朝鮮出陣前に「自力で五百石相当の軍役を勤めれば、帰朝時に高五百石を与える」と諸士へ約束されたことを記す。国分左京は自力でその軍役を負担して渡海し、出陣前に二百五十石を受けた。帰国後に残額を願い出たが、国分氏が夫満宮の社領八町を領して社領を失わせていることを理由に、既給分の石高で相当と裁定された。
年月日未詳 / 冊子 665-666頁
島津義弘(惟新)の指示で船中の者を夫人方の御座船へ移した。豊後国森江の口では有川助兵衛の船が番船に囲まれ、別船が救援に戻って鉄砲戦となったが、多勢に抗しきれず有川助兵衛・伊集院左京らが討死し、船二艘も焼かれた。他の船は細島へ向かい、義弘一行はほどなく上陸した。
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
(寛永三年)八月廿八日 / 冊子 18頁
牧野清兵衛が島津家久の中納言任官を祝い、上様と又三郎様が息災であること、当地に異状がないことを知らせる。詳しい当地の様子は仁礼蔵人と鎌田左京から申し上げるとする。
三月廿三日 / 冊子 54頁
上井秀秋が土持大膳亮に、当地で逗留している博士・田上左京進がそちらを徘徊する予定だと知らせた書状。旅人であるため、万一困窮・不都合が生じた際には援助するよう頼む。
卯月五日 / 冊子 385頁
島津龍伯が出船の予定を問い合わせ、東山宛ての書状を持参するよう依頼し、鎌田左京亮にも別件の用務を命じたことを伝える。さらに徳川家康の上着に関する先の風聞は虚説で、真龍の報告では三月十五日時点で未着だったと訂正した書状。
慶長九年四月五日 / 冊子 27頁
出船予定を問い、東山宛ての書状を鎌田左京亮へ託すよう依頼し、公方の上着という先報が虚説だったことを、上方から下った者の情報に基づいて訂正した書状。
八月七日 / 冊子 138頁
国元への出立時に三山まで見送られたことと在京勤番をねぎらい、普請について老中・両院へ取り次ぐよう頼んだ。義久の帰国許可を祝い、自身が公家成りして羽柴薩摩侍従となる命を受けたこと、左京亮は人質扱いではないので一旦下向させる意向を伝えた書状。
正月十日 / 冊子 141~142頁
年頭を祝い、左京亮の暇が許されない一方、右馬頭は安宅三郎兵衛尉の奔走と朱印拝領により下向が認められたと報告した。大口普請、鉄砲・大仏材木の調達、飯野留守の見舞いを督促し、内裏・大仏・院跡三か所の普請で諸大名に暇がない京都情勢も伝えた書状。
正月十一日 / 冊子 358~359頁
琉球へ下す使者について、川上式部太輔ら五人のうち誰を任命するのがよいか義弘の意見を求め、現地では鎌田左京亮が義弘の意向に従うよう申し付けると伝えた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 487頁
北郷氏庶流系図として、文明八年六月二十一日の都城再拝領と安永からの移転、北郷氏一族による都城受取を記す記事。
(慶長元年)五月廿九日 / 冊子 25頁
島津義弘が忠恒へ、明との和平成立により高麗在番衆の主立った者へ帰朝命令が出たものの、方針が変更され、中途まで帰った者も持場へ戻って勤番するよう命じられたと伝える。義弘は忠恒に代わって渡海する案を石田三成へ申し入れたが、二、三十日ほどの短期で交替すれば忠恒の面目に関わるとして退けられたため、諸人同様に高麗勤番へ戻るよう求めた書状。
(元和元年) / 冊子 571~572頁
幕府の法度に反する者がいるとの情報を受け、関係者を召し出して詳しく調査するよう求める。違反の程度と人数を確認し、重い者には相応の処置を行うよう指示した家久書状。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。