島津久賀・川上久国連署書状
十二月十九日 / 冊子 76頁
島津久賀・川上久国が、今月十六日に又三郎の祝儀が無事整ったことを報告する。兵部少輔夫妻の参列や黄門からの祝物に触れ、今後の指示を求める連署書状。
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十二月十九日 / 冊子 76頁
島津久賀・川上久国が、今月十六日に又三郎の祝儀が無事整ったことを報告する。兵部少輔夫妻の参列や黄門からの祝物に触れ、今後の指示を求める連署書状。
(寛永六年)十二月十九日 / 冊子 131頁
又三郎(島津光久)の十二月十六日の祝儀が滞りなく行われ、黄門や兵部少輔夫妻から祝物が届けられたことを、島津久賀・川上久国が報じた連署書状。
(慶長十八年)十一月晦日 / 冊子 423~425頁
慶長十八年十一月頃、島津家の女性年長者が、江戸へ赴く女性親族に対し、道中と在府中の身持ち、女房衆や家臣の統率、贈答、他家との交際、親子・家族への配慮を細かく説いた長文書状。
寛永十四年十二月廿二日 / 冊子 718~719頁
領内にキリシタン宗門はないとする従来の宗門改めを踏まえ、旅人・商人・出家・山伏などの身元と宿泊を厳しく調査し、改宗者や不審者を見つけた場合は拘束・通報するよう命じた条目。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。
廿九日 / 冊子 327頁
伊予御方から届いた書状に、亥子の祝いとして目見えがあったと記されている件を取り上げ、親類中だけの催しなのか、他の書状には見えないので先方での評判を尋ね、まずはめでたいことだと述べた島津家久書状。
廿三日 / 冊子 327~328頁
前日に下々まで手厚い饗応と菓子を受けたことに謝し、疲れていたので当日に茶を飲んで味わうこと、数寄屋で飲みたいことを述べ、すぐ訪ねてくるよう誘った島津家久書状。
十八日 / 冊子 328頁
遠方からの心遣いに謝し、避けられない一度の用事を了承し、強風で出船できないため三日頃に桑名へ向かう見込みと伝え、現地の様子を詳しく書いて後便を送るとした島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 747~749頁
豊州家六代朝久以後の系図。島津義弘の嫡女を母とする久賀、島津家久の庶子で朝久後室の領地を継いだ忠弘、松平定行家などへの婚姻、久次・久美以下の生没年・母方・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 129頁/原整理番号 204-1
島津久賀の従兵・時任氏の日記。十三日、有馬城見物のため上津浦を出船したが、順風が悪く、柳之瀬戸に船掛かりしてその夜泊まったと記す。以下は十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 132頁/原整理番号 216
島津久賀の従兵・時任氏の日記。十四日に有馬へ着船し、薩州様の船で目見えしたのち、陣場と城を見物し、同日晩に有馬を出船して上津浦へ着いたと記す。
正月廿七日 / 冊子 17頁/原整理番号 19
島津久賀(豊後守)・喜入忠政(摂津守)が連署し、大嶋子之清左衛門尉は当地の案内者であるため、薩摩の軍衆は少しも乱妨してはならないと命じた手形。肥後天草の永野九郎兵衛輝澄家に伝来したもの。
正月廿九日 / 冊子 25~26頁/原整理番号 39-4
喜入忠政・島津久賀が市来宗友へ、その地での逗留をねぎらい、兵糧不足のため余分に召し置いた軍勢を順次帰すよう将州老から命じられたので、両人の人衆の一部を帰したと報じる。当地へ渡った人数は本文に「都合七千九萬」とあるが、季安は「七千九百之誤也」と注し、このうち三千余は有馬へ渡り、残りは当地にいるという。長島から米約七百石を積んだ三艘のうち、一艘は「かうね」に残る石州・佐州の人衆用に残し、二艘は上津浦へ向けたが悪風のため未着なので、現地の物奉行と早急に継続輸送を相談するよう求める。今後の兵糧船・使船は上津浦へ送り、全軍勢を一両日中に当地へ揃える予定で、細川越中守殿衆へ早く派遣せよとの命令を受けて二千人を二十六日に受け取ったこと、鹿児島への早使、小舟の多数準備も伝える。追而書で、大小三艘を送り、必要な者を乗せるよう指示する書状。
正月廿九日 / 冊子 26頁/原整理番号 40-2
喜入忠政・島津久賀が三原重庸・川上久国へ、上津浦の番手を受け取ったことを報告する使者を出し、鬼塚源太左衛門尉から条書への返答を受領したと伝える。条書は、命令なく有馬へ渡る者には自船・自飯米を負担させ、後日処分もあり得るという内容で、当地の諸軍勢へ周知するとする。一方、「かうね」から当地へ人衆を繰り渡す船で平田民部少輔が相談なく有馬へ渡り、船の配分や四、五千人の輸送を乱したことを強く批判する。物頭・奉行を安易に任じれば国のためにならないとして、厳格に命じるよう求め、三原重庸の帰着後に詳しく協議し、加世田小内記にも条書で伝える書状。
正月廿九日 / 冊子 27頁/原整理番号 41-2
喜入忠政・島津久賀が、「かう祢」にいる上入来院重国・北郷久加へ、有馬から届いた御袖判の条書を当地の軍勢には申し渡したので、両名のもとにいる者たちにも早急に伝えるよう求める。鹿児島との往復で得た返答から要点三か条を書き写し、任意に有馬へ渡海する者は自船・自飯米とする命令を周知しなければ、さらに無断渡海者が出ると警告する。船奉行で今度の諸役人中でも重要な立場の平田民部少輔まで前日に有馬へ渡ったと聞き、不都合であるとして、この法度を速やかに触れ渡すよう命じる書状。追而書で、昨日も飛札を出しており、当地へ早く来るよう求める。
正月廿九日 / 冊子 27頁/原整理番号 41-3
喜入忠政・島津久賀が亀之河の島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、鹿児島へ照会した条書への返答を知らせる。任意に有馬へ渡る者は自ら飯米と船を用意し、後日処分を受ける場合もあるとの命令なので、条書の写しを送り、当地から直接任意に渡ろうとする者も含め、配下の全員へ漏れなく申し渡すよう求める書状。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-2
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、前日に鬼塚源太左衛門尉が渡海した際に書状を出しており、さらに事情を伝えるため今井市兵衛を派遣したので、返答と口頭説明を聞くよう求める。「かう袮」の衆は、小舟による繰り越しを手配しにくいため、まだ当地へ来ていないと報告する書状。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-3
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、平田民部少輔が当地へ来ておらず、そちらへ渡ったとの風聞が事実なら当地へ送るよう求める。「かう袮」の衆も船の配分不調により未着で、当地ではすでに四か所へ陣替えしたのに船奉行が不在だと訴え、山田にも暇ができ次第の来着を求める。また、命令なく有馬へ渡った者には兵糧・船を支給せず、後日処罰するとの鹿児島からの命令を伝える。鹿児島衆の出立総数は本文に「三□□十人程」と欠字を含み「百」の補記があり、割当中56人が当地へ来て少人数が「かう袮」に残ると報告する。出水衆約300人は渡海希望があるものの当地に置くよう命じられているため、その通り伝えたとする覚書。
正月廿九日 / 冊子 28~29頁/原整理番号 42-4
喜入忠政・島津久賀が薩摩番所へ、本砥での用務のため使者二人を派遣するので、異議なく通行させるよう命じる手形。
二月三日 / 冊子 57~58頁/原整理番号 85-2
島津久賀・喜入忠政が島津久元・山田有栄へ、薩州様が日向筋から鹿児島・出水・獅子島を経て渡海する予定と、御陸衆を留める指示を了承したと返答する。伊地知杢右衛門らの参着、外城衆の人数調整、帰還者と船の配分、兵糧消費を報じ、不要な人衆を早く帰すことと船の処置について下知を求める。
二月五日 / 冊子 71~72頁/原整理番号 113-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、出水衆を残らず戻す件を回答する。亀之川から荷物だけを船で、人は陸路で移し、三百人を渡す迎船を求める。平田宗直の衆は千五百人のうち四百人が帰り約千百人が残るため、大船十艘ほどを要望し、悪風で五日間滞留して米がさらに必要なこと、薩州様供立ての関船・荷船は出水へ回すことを伝える。
二月五日 / 冊子 73頁/原整理番号 114-2
島津久賀・喜入忠政が永左近允蘇右衛門直純・竹内備前守へ、崎之津の舟番は不要となったので上津浦側へ帰るよう重ねて命じる。崎之津近くの二島を先の指示どおり狩り、早く来るよう求める。『かう袮』の佐州老・石州老からも帰還命令の書状が出たと伝える。
二月五日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 115-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、全員が急いで渡るよう命じる。荷物は船、人は徒歩とし、陣屋道具を余計に積まないこと、渡り終えるまで吉利忠張・東郷昌重が残ることを指示する。山狩奉行の長谷場兵右衛門・肥後内蔵助には狩りの結果を報告させ、有馬へ伝えるため早く来るよう求める。
二月五日 / 冊子 74頁/原整理番号 116-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が渡邊半右衛門尉へ、先日の使者としての来訪と伊東大和守祐久の書状を謝す。上津浦番所を大隅守が命じられたため自分たちが当地へ来たこと、近所なので今後も連絡し、異変があれば早く知らせるよう求める。
二月五日 / 冊子 74頁/原整理番号 116-3
入来院重国・北郷久加・喜入忠政・島津久賀が米舟上乗衆へ、『かうつら』軍衆の兵糧を積んだ船六艘を柳之瀬戸へ繋いでおき、誰から命じられても四人へ申し来て下知を受けるまでは、どこへも移動させないよう命じた。
二月五日 / 冊子 74~75頁/原整理番号 117-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、酉刻に届いた川上久国の書状を早船で送る。薩州様が直接当地へ渡るため軍衆を一人も帰さないよう命じられたこと、十二端帆の米舟一艘が来たが、当地にも大人数がいて兵糧がないため船を残したことを伝える。
二月七日 / 冊子 85~86頁/原整理番号 141-2
入来院重国・北郷久加・喜入忠政・島津久賀が三原重庸・川上久国へ、去る四日付書状への返答を多条で伝える。薩州様の有馬直行の有無に応じた番手・人数の扱い、船不足による軍衆の滞留、兵糧船・在陣人数・一日当たり兵糧などを報告し、兵糧蔵の引渡し等を求める。
年月日未詳 / 冊子 97頁/原整理番号 154-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、村田経乗の返事を受け、渡海人数と兵糧が多過ぎるため、船便に応じて人数を帰し兵糧を陣へ送る案を相談する。上津浦衆を新着衆と交代させ、帰還前に島原の陣城を見せたいとの願いも取り次ぐ。本文末は二月八日だが目録年月日欄は空欄。
二月九日 / 冊子 101頁/原整理番号 161-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、村田経乗が召し寄せられたため五か条の書付を送り、返答を早く求める。本田親紀を同行させ、詳しくは同人を通じて伝えるとする。
二月九日 / 冊子 102頁/原整理番号 162-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が市来宗友へ、上津浦の軍衆五千人に対して米千石ほどしかなく一か月分の兵糧にも足りないため、雑穀を含め早急に継送するよう求める。薩州様の有馬直行を踏まえ、賦方・物奉行と相談して手配させる。
二月十一日 / 冊子 116頁/原整理番号 185-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が島津久元・山田有栄へ、当地には一所衆や鹿児島衆など若輩が多く、武功ある者が少ないため、召し寄せられた皿良善介・蒲川内蔵允の両人をこちらに置くよう求める。事情に応じて相談の上取り計らうよう依頼する。
二月七日 / 冊子 86頁/原整理番号 142-2
入来院重国ら四将が東郷昌重へ、薩州様の紫尾山通行に伴う道普請のため鶴田衆を帰したいとの願いに答える。出陣中の人衆帰還は法度で認められないため、道は所持の三村の庄屋に命じて整えるよう指示した。
二月九日 / 冊子 100~101頁/原整理番号 160-2
入来院重国ら上津浦四将が山田有栄・島津久元へ、薩州様の直行に伴い伊勢貞昌から注進があり、陣営を早く整えるため村田経乗・相良頼房・村尾源左衛門らを当地へ参らせるよう求める。佐州・石州の陣所が遠いため両所とも相談したと追伸する。
正月16日 / 冊子 724~725頁/原整理番号 751
海上が穏やかなうちに天草へ順次渡海し、船を送り戻して兵糧を運ぶよう求める。船の往来が途切れると兵糧不足となるため、物奉行・舟奉行との相談を重視し、加世田・出水からの米輸送に関する連絡も記す。正月十六日、次飛脚で送る書状。欠字は推補しない。
正月18日 / 冊子 746頁/原整理番号 775
軍衆は二万ほどの割当だったが各自が大勢を召し連れたため、水手を合わせ三万ほどとなり、米は五千石しかないと伝える。一か月分の兵糧のうち二十日分は既に渡しており、人数を減らすか、肥前・肥後などから米を借りるかを物奉行と相談するよう求める。日向庄内・肝付・根占など後続の衆は呼び留め、残っている大勢の扱いも相談するよう命じる。正月十八日付、久賀ら六名宛。
正月18日 / 冊子 747~748頁/原整理番号 783
新納忠清らの有馬渡海について、船不足なら先に天草へ渡り、千人が揃わなくても大口衆などを先行させるよう求める。吉田次郎兵衛の使者派遣、玉薬・兵具・大鋸大工の手配、出水の物奉行・船奉行らとの連絡を指示する。十三日の天草久田間着船を喜び、山狩と地下衆によるキリシタン探索を徹底し、捕らえた者を杖で問い相談するよう命じる。十八日付、重国ら五名宛。
正月21日 / 冊子 769頁/原整理番号 824
松平主税・伊東大和守が富岡の番であるため黄門から書状を届け、久国も伊東家老へ連絡したと伝える。宛先の五名を物頭として派遣し、用向きを伝えるよう命じたという。黄門は今朝大量に吐血して容体が悪く、必要な連絡は出水の市来八左衛門を介するよう求める。万一の場合も軍衆を引き揚げず奉公するという黄門の意向を重ねて伝える。
正月25日 / 冊子 788~789頁/原整理番号 873
久玉からから祢への陣替報告に返答し、人数は順次送ってよいが、定められた配分外で勝手に出兵する者には飯米と船を与えず、処罰する方針を伝える。諸将の相談不一致と大人数による混乱を懸念し、有馬の三老との協議を求める。黄門重病、新納の直行、清田石見守の天草番手に薩摩が代わる件に触れ、人数配分と軍紀を鬼塚を介して調整するよう指示する。
正月25日 / 冊子 789頁/原整理番号 874
国分の山伏である存堯坊・本林坊・大鏡坊について、当地で験者を務めさせるため、一刻も早く帰すよう久賀ら四人に命じる。引き延ばしてはならないとし、鬼塚の便で伝える。末尾には前の条書による指示だが、この控えではこのように記したという注がある。
寛永14年12月22日 / 冊子 503頁/原整理番号 510
島津久賀ほか四名が大野正右衛門へ示した連署覚。領内にキリシタン宗門の者がいないとする先年の宗門改めについて、改宗者、縁組、他領からの出入り、被官・家来・山伏・商人・旅人などの調査と届け出の扱いを条項ごとに答える。沙汰があれば申越すよう求め、十二月二十二日付で連署する。
正月廿六日 / 冊子 5~6頁/原整理番号 3-3
島津久賀・喜入忠政が山田民部少輔らへ、正月二十六日四ツ時前に上津浦へ着船し、越中守配下の清田石見守から番所を受け取ったことを報告する。二千人ほどを率いて陣屋建設を命じ、残る人数は北郷佐渡守・入来院石見守のもと「かうね」に留めて山狩を相談中であるため、川野監物・鮫島民部左衛門尉を使者とした連署書状。
正月廿六日 / 冊子 6頁/原整理番号 3-4
島津久賀・喜入忠政が三原左衛門佐らへ、上津浦の番所を受け取り、二千人ほどが同地へ越し、残る人数を「かうね」の山狩に残したことなどを箇条書で伝える。黄門の松平主税助・伊東大和守宛書状、御袖判条書案への意見、在郷の扱い、渡海衆からの段階的帰還と人数過多の見込みについて返答を求める連署達。
正月廿六日 / 冊子 6~8頁/原整理番号 3-5
島津久賀・喜入忠政が川上左将監へ、天草上津浦の番所を清田石見守から受け取り、周辺の山狩と部隊集結を野州老・石州老・佐州老らと協議した経過を報告する。有馬方面では石火矢で塀・二之丸まで損壊し、籠城側が薪不足に陥って落人が出たため近日落着すると見込む。また、兵糧と配置を検討し、渡海七千九百人・出水残留三千三百六十八人を踏まえ、上津浦方面を六千人とし余分の千九百人を帰す案を述べる。
正月廿六日 / 冊子 8頁/原整理番号 3-6
島津久賀・喜入忠政が川上左近将監へ、野州老から、馬場三郎左衛門尉の話として薩州様が下向するとの知らせを受けたと伝える。これほど喜ばしいことはないとして、川上にもすでに届いているであろうこの報について、祝意を申し上げるよう頼む連署書状。
正月廿六日 / 冊子 8頁/原整理番号 3-8
島津久賀・喜入忠政が川上左近将監へ、黄門様の気色がなお回復しないと聞き、近ごろは食事も取れないのではないかと深く案じて早打を出したため、しかるべく取り次ぐよう求めた連署書状。
正月廿七日 / 冊子 14~15頁/原整理番号 14-2
島津久賀・喜入忠政が三原左衛門佐らへ、石火矢で城の屏・土手が崩れ、落人も出て近日落去が見込まれると報告する。上津浦では陣屋を建て始めたが周辺に百姓や海人もなく不便で、兵糧不足を踏まえて不要な人数を早く帰し、出水の三千三百六十八人も帰還させるよう協議を求める。また、島原行きを願う普請奉行伊地知杢右衛門尉重政は、当地で軍衆指揮や使者を担える熟練者として留めたいと照会する連署書状。
正月廿八日 / 冊子 18頁/原整理番号 23-2
島津久賀・喜入忠政が入来院重国・北郷久加へ、正月二十六日に上津浦の番手を受け取ったこと、使者川野監物が有馬から帰ったことを報告する。島津久元の意向として北郷久加一人を富岡城への使者に急がせ、山狩が済み次第、当地と亀之川の兵を上津浦へ移すよう船奉行と協議することを求める。長島からの兵糧船二艘が遅れているため小舟で捜索させ、出水にも兵糧船を要請したこと、在郷改は山狩後まで見合わせること、細川忠利は有馬に着き久元の陣を見舞ったが城攻めの時期は未詳であることを伝える。さらに島原から届いた御袖判条書の写しを送り、同地と亀之川の衆へ急ぎ申し聞かせるよう命じる連署書状。
二月五日 / 冊子 72~73頁/原整理番号 113-3
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、『かう袮』で牛を切った一人を成敗したと報告する。首を村役人の陰山二右衛門へ渡す予定だったが、有馬兵庫頭の用で不在のため庄屋へ預け、兵庫頭の役人へ伝えるよう求める。季安は森元宗節家に伝承があるため後日調べると注記する。
寛永14年12月22日 / 冊子 503頁/原整理番号 511
前掲510と同文であるため本文を省略し、日付のみを「二十三日丁巳」と掲げた文書。原注にも五一〇号文書と同文につき省略とある。
(寛永15年)正月23日 / 冊子 775~776頁/原整理番号 845
久賀ら四人が鬼塚の来訪を受け協議し、大人数の兵糧負担を考慮して島原約千人・天草五千人、計六千人とする方針を久国へ報告する。物奉行・船奉行の分担と市来・出水・京泊の輸送手配を示し、山狩ではまだ切支丹を発見していないこと、細川勢の番手との交替を伝える。編者は案文帳の伝来を説明し、末尾に黄門重病の報と万一にも在陣を続ける指示を付記する。