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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
後編2-No.209記録確認度 高
年月日未詳 / 冊子 255~264頁
天正十四年末、島津軍が複数路から豊後へ侵攻した経過を、各隊の進路・城攻め・戦死者まで日を追って記す長編軍記。鶴賀城攻防を経て、戸次川では島津家久軍が仙石秀久・長宗我部元親ら四国勢を破り、長宗我部信親・十河存保らを討ち取った。その後、府内へ進み、大友宗麟が籠もる丹生島城をはじめ諸城を攻めるが、鉄砲・夜襲・火攻めを交えた激戦でも堅城の抵抗は続く。島津方の勝利だけでなく、損害・兵站・攻城の難航まで描き、豊後戦役全体を追える中核史料である。
- 登場人物
- 島津家久、島津義弘、仙石秀久、長宗我部元親、長宗我部信親、十河存保、大友宗麟、新納忠元
- 宛先
- —
- キーワード
- 天正十四年豊後へ発向之事、豊後侵攻、九州征伐、島津家久、島津義弘、鶴賀城、戸次川の戦い、仙石秀久、長宗我部元親、長宗我部信親、十河存保、府内、大友宗麟、丹生島城、鉄砲、夜襲、火攻め、兵站、攻城戦
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w7:23系図・大蔵姓高橋氏/戦国軍歴・改易移封・後裔旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
天正十四年~元和二年(高橋元種主要記事)、慶長十二年~宝永年間(後続系譜) / 冊子 501~506頁/原整理番号 23
高橋氏の出自を漢高祖・後漢霊帝の後裔から大蔵春実へつなぐ伝承で説き、筑前諸郡を領した大蔵姓高橋家に秋月氏から種時を迎え、顕種・元種へ続く系譜と軍歴を記す。顕種は大友方の攻撃を受けた筑前宝満城を守り、後に和睦した。元種は幼少で秋月種実の養子となり、天正十四年の島津勢による筑前攻略では父とともに大友勢を破り、七月二十七日の岩屋城落城・高橋紹運討死後、宝満城などをめぐる軍事行動に関与した。慶長四年、島津忠恒が伊集院忠真を都城で攻めた際には徳川家康から救援準備を命じられ、翌関ヶ原では当初西軍に属したが、福原・垣見・熊谷・木村らの処置をめぐり秋月種長・相良頼房らと共謀し、垣見・熊谷・木村の首を家康へ献じて本領安堵を得たとする。しかし同年冬、秀忠の命で領地を没収され奥州棚倉へ移り、元和二年十月九日に三十七歳で没した。後継の種直は慶長十二年に日州臼杵郡縣城で生まれ、旧臣の助力を受けて日州縣・高岡などに住み、光久の恩許により高橋姓を復した。以後の種長・種次・種栄・種良らについて、婚姻、知行、江戸勤仕、地頭職、没年・法名を宝永期まで載せる。
- 登場人物
- 漢高祖、後漢孝霊皇帝、大蔵春実、種時(高橋中務太輔)、顕種(参河守・宗仙)、高橋主膳鎮種(入道紹運)、秋月種実、高橋元種(九郎・右近大夫)、島津忠恒、伊集院忠真、徳川家康、徳川秀忠、石田三成、福原右馬助、垣見和泉守、熊谷内蔵允、木村宗左衛門、相良頼房、秋月種長、大友紹運、種直(延種・長吉・主膳・七郎右衛門)、志島紀伊守国貞、島津光久、種長、種次、種栄、種良
- 宛先
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- キーワード
- 高橋氏系図、大蔵姓、漢高祖、後漢霊帝、大蔵春実、秋月氏、種時、顕種、宝満城、高橋紹運、岩屋城、天正十四年、秋月種実、高橋元種、島津忠恒、伊集院忠真、都城、徳川家康、関ヶ原、西軍、石田三成、垣見和泉守、熊谷内蔵允、木村宗左衛門、秋月種長、相良頼房、首級献上、本領安堵、徳川秀忠、改易、奥州棚倉、種直、日州臼杵郡縣城、高岡、島津光久、高橋姓復帰
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:120-2系図・藤原姓鎌田氏政年流旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(天文九年・天正十四年・文明十七年は系図内記事) / 冊子 653頁/原整理番号 120-2
鎌田氏政年流の系図で、政年から子の政広へ続く。同三男家と注記し、政広は天文九年生まれ、山田蔵人有親の娘を母とすると記す。天正十四年の九州合戦時には和睦の使いとして上洛し、太刀と衣服を拝領したという。末尾では、鎌田氏正統に文明十七年、日州櫛間の牟田迫で戦死した尾張守政年がいるものの、その人物は政広の父・政年ではないと、同名の二人を明確に区別する。
- 登場人物
- 政年、政廣、山田蔵人有親、鎌田尾張守政年
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 藤原姓鎌田氏政年流系図、同三男家、政年、政広、天文九年、山田蔵人有親、天正十四年、九州合戦、和睦使、上洛、太刀拝領、衣服拝領、鎌田氏正統、尾張守政年、文明十七年、日州櫛間、牟田迫、同名別人
後編2-No.119記録確認度 高
年月日未詳 / 冊子 139~142頁
天正十四年正月、上井覚兼が新年儀礼と豊後戦線への対応を連日記録した日記区間。新納忠元らによる諸城攻略、人質・城郭の処置、高知尾・入田氏との交渉、使者・書状の往来を報告し、軍勢・兵糧・宿所を調整する。羽柴秀吉からの停戦要求や中央情勢も意識される一方、年始の参会、祈祷、寺社参詣、酒宴、連歌、贈答が続く。正月の華やかな儀礼と豊後侵攻の緊張が同じ日程に重なる島津家中の戦時の日常を示す。
- 登場人物
- 上井覚兼、島津義久、新納忠元、平田豊前守、伊集院忠棟、高知尾衆、入田氏ほか
- 宛先
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- キーワード
- 上井覚兼日記、天正十四年正月、新納忠元、豊後、高知尾、入田氏、城攻め、人質、羽柴秀吉、軍議、正月儀礼
後編2-No.123記録確認度 高
年月日未詳 / 冊子 143~146頁
天正十四年二月十八日から同月末まで、上井覚兼が参会・贈答・酒宴・連歌・寺社参詣と、豊後・肥後方面の軍事情報や秘密書状の取次を記した日記区間。二十三日条では、関白となった豊臣秀吉から九州の停戦と国境裁定の受諾を求める書状が、細川玄旨・宗易の副状とともに届いた件を終日協議する。義久は秀吉を「無由来仁」と評し、頼朝以来の由緒を持つ島津家と対比して低く見るとともに、その関白への返書を「笑止之由共候」と評した。一方で勅命を伴う停戦要求には従う姿勢を示し、細川玄旨を介して返書を整える。九州征伐直前の島津側の秀吉観と、反発しつつ現実的に外交対応する姿勢を伝える著名な記事。
- 登場人物
- 上井覚兼、島津義久、豊臣秀吉、細川幽斎(玄旨)、千利休(宗易)、伊集院忠棟、本田源右衛門尉、平田新四郎ほか
- 宛先
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- キーワード
- 上井覚兼日記、天正十四年二月、島津義久、豊臣秀吉、無由来仁、笑止之由共候、頼朝以来、関白、九州停戦命令、勅命、細川幽斎、千利休、九州征伐
後編2-No.124記録確認度 低
年月日未詳 / 冊子 147~153頁
天正十四年二月から三月にかけて、上井覚兼が島津家中の参会・贈答・酒宴・連歌・祈祷と、豊後・肥後方面の軍事・外交を日々記録した長大な日記区間。羽柴秀吉の停戦命令への返答、細川・近衛家や京都との書状往来、諸将の出陣・帰陣、城郭・人質・兵糧の処置を協議する。入田氏、高知尾、志賀道益らをめぐる豊後情勢を追い、日向・肥後口の作戦も調整した。年始から春の儀礼生活と九州征伐前夜の政治的緊張が同時進行する島津家中の実像を伝える。
- 登場人物
- 上井覚兼、伊集院忠棟、新納忠元、平田新四郎、高知尾衆、入田氏ほか
- 宛先
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- キーワード
- 上井覚兼日記、天正十四年、羽柴秀吉、九州停戦令、豊後、肥後、入田氏、高知尾、志賀道益、軍議、書状往来、家中儀礼、島津氏、島津家中、薩摩政治、領国支配、軍事、外交
後編2-No.127記録確認度 低
年月日未詳 / 冊子 155~161頁
天正十四年三月上旬から四月初旬、上井覚兼が狩猟・花見・寺社参詣・酒宴・連歌・贈答を続けながら、豊後・肥後・日向・筑紫方面の使者往来と軍事相談を連日記録した日記区間。羽柴秀吉や近衛家からの書状、九州停戦命令への返答、入田氏・高知尾衆との交渉、諸将の出陣と城郭・兵糧の処置を協議する。返書の遅延や情報不足への焦燥も記され、儀礼的な家中生活の裏で中央政権への対応と豊後戦線の判断が絶えず迫られていたことを伝える。
- 登場人物
- 上井覚兼、伊集院忠棟、新納忠元、平田新四郎、入田氏、高知尾衆ほか
- 宛先
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- キーワード
- 上井覚兼日記、天正十四年三月、四月、羽柴秀吉、近衛家、豊後、肥後、日向、入田氏、高知尾、九州停戦令、軍議、島津氏、島津家中、薩摩政治、領国支配、軍事、外交
後編2-No.134記録確認度 低
年月日未詳 / 冊子 164~168頁
天正十四年四月から五月にかけて、上井覚兼が豊後方面への出陣準備、入田氏・志賀氏・高知尾衆との連絡、軍勢・兵糧・船・使者の手配を記録した長大な日記区間。近衛家・京都からの書状や羽柴秀吉方への返答をめぐる相談が続き、使者の遅延、情報不足、家中の意見の食い違いに覚兼が苛立つ場面も見える。寺社参詣、法華経講、狩猟、酒宴、贈答、病気見舞いなどの日常と、九州停戦令への外交対応・豊後侵攻の実務が同時進行する。
- 登場人物
- 上井覚兼、伊集院忠棟、新納忠元、入田氏、高知尾衆、志賀氏、豊後勢ほか
- 宛先
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- キーワード
- 上井覚兼日記、天正十四年四月、五月、伊集院忠棟、豊後、入田氏、志賀氏、高知尾、羽柴秀吉、近衛家、兵糧、軍議、島津氏、島津家中、薩摩政治、領国支配、軍事、外交
後編2-No.141記録確認度 低
年月日未詳 / 冊子 170~174頁
天正十四年五月から六月、上井覚兼が雨天の軍議、豊後・筑前への使者派遣、志賀道益・入田氏・高知尾衆との書状往来を連日記録した日記区間。近衛家・京都からの返書や羽柴秀吉方への対応を協議し、諸将の出陣、軍勢・船・兵糧の準備、祈祷や調伏の実施を進める。一方で連歌・酒宴・贈答・寺社参詣が続き、覚兼自身の病気や疲労、使者遅延への苛立ちも記される。筑前・豊後作戦が本格化する直前の兵站・情報連絡と家中の日常を同時に追える。
- 登場人物
- 上井覚兼、島津義弘、伊集院忠棟、新納忠元、志賀道益、入田氏、高知尾衆ほか
- 宛先
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- キーワード
- 上井覚兼日記、天正十四年五月、六月、豊後、筑前、志賀道益、入田氏、高知尾、羽柴秀吉、軍議、兵站、調伏、島津氏、島津家中、薩摩政治、領国支配、軍事、外交
後編2-No.145記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 183頁
新納忠元譜の記事。天正十四年六月、宗和が使者を遣わし、十六日に忠元の弟と記される家久が書状で返答した。十二月二十日には忠元が宗和へ書を与えたことを記し、両者の使者・書状往来を簡潔に伝える。
- 登場人物
- 新納忠元、宗和、家久(忠元弟)
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 新納忠元譜、新納忠元、宗和、家久、使者、書状往来、天正十四年
旧記雑録拾遺 著作史料集2-文書ID 279-2記事旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日未詳 / 冊子 156頁/原整理番号 279-2
伊地知季安は、伊地知重政が城攻め前に用意した討出酒四升を、元日攻めで三原重庸が牛角の酒筒に泡盛を入れて板倉重昌へ奉った例や、天正十四年の鷹取城攻めで木脇祐定が水を携えた例と比較し、攻城前に酒を備えるのは勇気を助ける習慣だったと論じる。
- 登場人物
- 伊地知季安、伊地知重政、三原重庸、板倉重昌、木脇刑部左衛門祐定、三郎次郎忠隣
- 宛先
- 宛先なし(伊地知季安記事)
- キーワード
- 伊地知季安、伊地知重政、討出酒四升、三原重庸、牛角酒筒、泡盛、板倉重昌、天正十四年、鷹取城、木脇祐定、三郎次郎忠隣
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:111軍功書上・合戦/地頭職旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
- 登場人物
- 上原長門守、忠元、久治、上原長門守尚近、上原太郎五郎、上原勘解由左衛門、上原内蔵助、上原勘解由兵衛尉、上原右衛門尉、上原彦五郎
- 宛先
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- キーワード
- 上原氏軍功書上、元亀三年、禰寝方、和談使者、忠元、久治、伊地知方合戦、天正元年、肝付方合戦、上原長門守尚近、天正四年、高原地頭、天正六年、耳川合戦、上原太郎五郎、天正八年、矢崎城、上原勘解由左衛門、上原内蔵助、戦死、肥後合志方、天正十二年、島原合戦、上原右衛門尉、上原勘解由兵衛尉、上原彦五郎、分捕、天正十四年、筑紫、天正十五年、京勢、日州高城、防御人数
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w5:130-30記録・日記抄+系図/豊後渡海情報・河上氏十二~十三代旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
〔天正14年〕9月17日ほか / 冊子 341~343頁/原整理番号 130-30
〔天正十四年〕九月十七日の上井覚兼日記。覚兼が瀬戸山大蔵丞宅に泊まった夜、山田越前守の使者から、五日前に美々津から来た者が四国の兵船の豊後渡海と京衆下向の確実さを伝え、市来川上省伴・家村隼人佑の出家した二子が持参した書状にも同趣旨が記されていたと聞く。御家中に策動へ加わる者が多いとの風聞を受け、油断すれば重大だとの警告を了承したと記す。付随系譜では、忠家が菱刈合戦の馬越取合で永禄十年正月二十四日に戦死したこと、十二代包家が天文五年生まれで永禄十二年の渋谷一揆時に祁答院長野口で三十四歳にて戦死したことと多数の子女・僧を列記する。十三代忠宅は永禄七年生まれ、母を貴島氏女とし、大蔵姓から源姓川上へ改め、豊州撤退の夜戦で深手を負ったが本田淡路守親存に救助された。のち市来地頭本田氏との争論で伊集院忠棟(幸侃入道)の権威に押され十三年間牢浪したが、比志島紀州の上聞により赦免され、慶長年間の日州高岡外城取立時に移住して三十二石八斗を加増され、内山之城本丸に居住し与頭役を務め、正保三年正月十八日に八十三歳で没したとする。
- 登場人物
- 上井覚兼、瀬戸山大蔵丞、山田越前守、市来川上省伴、家村隼人佑、川上忠家、川上又次郎忠武、河上包家(十二代)、河上忠宅(十三代・千代熊丸・孫次郎・次郎左衛門尉)、本田掃部兵衛、吉富次郎五、本田淡路守親存、中馬大蔵、伊集院右衛門太夫忠棟(幸侃入道)、比志島紀州
- 宛先
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- キーワード
- 上井覚兼日記、天正十四年九月十七日、瀬戸山大蔵丞、山田越前守、美々津、四国兵船、豊後渡海、京衆下向、市来川上省伴、家村隼人佑、風聞、油断警告、川上忠家、菱刈合戦、馬越取合、永禄十年、十二代包家、天文五年、渋谷一揆、祁答院長野口、戦死、十三代忠宅、源姓川上、豊州撤退、夜戦負傷、本田淡路守親存、市来地頭本田氏、伊集院忠棟、幸侃入道、十三年牢浪、比志島紀州、日州高岡外城、三十二石八斗、内山之城、与頭役、正保三年、法名学翁正参庵主
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w6:9系図・伊地知重豊二男河内守流旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
天正14年(1586)~慶長4年(1599)頃の記事 / 冊子 421~422頁/原整理番号 9
家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重鑑は朝鮮役で功を立て庄内役では兵具奉行を務めて戦死するなど、石原・比志島両家との養子関係と、豊後・朝鮮・蒲生・庄内での軍歴を各支流に付記する。
- 登場人物
- 伊地知河内守、越前守、刑部少輔、重次、重位、重清、重徳、重増、重鑑、重詮、重恒、重侍、石原助兵衛、比志島河内守、島津日新斎
- 宛先
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- キーワード
- 家嫡太郎左衛門尉重豊、二男河内守一流、伊地知河内守、越前守、刑部少輔、重位、朝鮮戦死、石原助兵衛長子、重清、朝鮮役軍功、蒲生戦死、重徳、島津日新斎、重増、比志島河内守二男、天正十四年、豊後戦死、重鑑、庄内役、兵具奉行、養子、軍歴
附録1-No.538文書確認度 高
(天正十四年)十二月四日 / 冊子 226頁
足利義昭が豊臣秀吉と島津方の対立を憂慮し、和睦の成立を強く望んで一色駿河守を派遣した御内書。交渉が円満にまとまるよう求める。
- 登場人物
- 足利義昭、豊臣秀吉、一色駿河守、真木島昭光、島津修理大夫
- 宛先
- 島津修理大夫殿
- キーワード
- 足利義昭、御内書、豊臣秀吉、島津氏、和睦、一色駿河守、真木島昭光、交渉、天正十四年
附録1-No.540文書確認度 高
(天正十四年)十二月四日 / 冊子 227頁
足利義昭が豊臣秀吉との対立を憂慮して和睦を望み、一色駿河守を派遣したので交渉成立に尽力するよう伊集院右衛門大夫へ求めた御内書。
- 登場人物
- 足利義昭、豊臣秀吉、一色駿河守、真木島昭光、伊集院右衛門大夫
- 宛先
- 伊集院右衛門大夫殿
- キーワード
- 足利義昭、御内書、豊臣秀吉、伊集院右衛門大夫、和睦、一色駿河守、真木島昭光、天正十四年
後編1-No.770記録確認度 高
天正二年八月~十二月 / 冊子 349~350頁
上井覚兼日記の天正二年八月から十二月までの各月の範囲と花押を示し、覚兼が当時三十歳であったことを注記する。覚兼は天文十四年生まれ、天正四年から家老役、天正十七年に伊集院で四十五歳で没し妙円寺に葬られたこと、日記は天正二年八月から天正十四年十月まで十四冊あることを記す。
- 登場人物
- 上井覚兼、上井忠兼、肝付兼固
- 宛先
- —
- キーワード
- 上井覚兼日記注記、上井覚兼、上井忠兼、天正二年、花押、家老役、妙円寺、十四冊
後編2-No.116記事確認度 中
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
天正十四年正月、新納忠元が家臣を率いて大口を発し、豊後方の野尻城・高城などへ攻め込んだ戦功を記す「忠元勲功記」。城兵を討ち、城主・人質を確保して諸城を押さえ、入田氏側の人質との交換や服属処理まで進めた。諸隊の配置、城攻め、降参者の扱い、戦後の知行・褒賞を連続して述べ、新納忠元の豊後侵攻における軍事・占領実務を詳しく伝える。
- 登場人物
- 新納忠元、村隼人忠正、園田丹後守、野尻城主、高城城主、入田氏、大友氏
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 新納忠元勲功記、新納忠元、大口、野尻城、高城、豊後、人質、入田氏、城攻め、占領、軍功
後編2-No.120記事確認度 中
年月日未詳 / 冊子 142頁
天正十四年正月、島津方が豊後の護摩所へ攻め入り、肥後・日向口で軍事行動を進めたことを記す島津義久譜。正月二十三日には羽柴秀吉から新年の書状が届き、義久が細川兵部大輔入道を通じて返書した。豊後侵攻と中央政権への外交が並行していたことを示す。
- 登場人物
- 島津義久、羽柴秀吉、大乗院法印、細川兵部大輔
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 島津義久譜、島津義久、羽柴秀吉、豊後、護摩所、肥後、日向、細川兵部大輔、新年書状、中央外交
後編2-No.122記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 143頁
天正十四年二月十六日、豊後の入田宗和が宮崎へ使者を送り、高知尾境の情勢と志賀道益の動きを報告した島津義久譜の記事。志賀方が大友方の拠点・所領を奪ったのち入田氏との盟約へ傾き、豊後国内へ進出しやすくなったと伝える。入田氏の帰属が豊後侵攻の足掛かりとして評価されたことが分かる軍情報である。
- 登場人物
- 島津義久、入田宗和、上井伊勢守、高知尾衆、志賀道益、大友氏
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 島津義久譜、島津義久、入田宗和、高知尾、志賀道益、大友氏、豊後、宮崎、盟約、軍情報
後編2-No.126記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 153~155頁
天正十四年三月二十七日の伊地知蔵人重増をはじめ、天正年間に豊後・筑前・筑紫・日向などで討死した島津方武士を、氏名・戦場・年齢・所属・同時戦死者とともに列挙する『殉国名藪』。岩屋城攻め、豊後陣、高城・赤城など各地の戦死者を収め、父子・兄弟・主従がともに戦死した例や遺族関係まで付記する。九州統一戦で島津軍が負った人的損失と家臣団構成を具体的に追える名簿史料である。
- 登場人物
- 島津方戦死者、伊地知蔵人重増、伊集院宮内左衛門尉忠連、宮原越中守、鎌田源左衛門尉政近、川上左京亮忠堅ほか
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 殉国名藪、島津方戦死者、伊地知重増、伊集院忠連、豊後、筑前、日向、岩屋城、討死、家臣団、戦死者名簿
後編2-No.128記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 161頁
天正十四年三月、近衛信尹から島津義弘へ使者と書状が届き、京都の諸事情が伝えられた島津義弘譜の記事。使者の古川宗心は、羽柴秀吉が近衛家の猶子となったうえで関白に任じられた経緯にも言及した。島津方が公家との連絡網を通じて秀吉の政権掌握を把握していたことを示す重要な記事である。
- 登場人物
- 島津義弘、近衛信尹、古川宗心、羽柴秀吉
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 島津義弘譜、島津義弘、近衛信尹、古川宗心、羽柴秀吉、関白、近衛家猶子、京都、公家外交、使者
後編2-No.132文書確認度 高
天正14年4月 / 冊子 163頁
天正十四年四月十八日から三日間催された渋谷大夫の勧進能について、円形の桟敷に誰が何間分の席を占めたかを図示した配置図。伊集院・本田・上井・平田など島津家中の諸氏を席順と広さで配置し、中央の舞台を取り囲む観覧空間を視覚化する。催事における家格・序列と会場運営を同時に読み取れる、きわめて珍しい図像史料である。
- 登場人物
- 渋谷大夫、伊集院氏、本田氏、上井氏、平田氏、島津家中
- 宛先
- 勧進能の観覧者
- キーワード
- 渋谷大夫、勧進能、桟敷、席次、円形配置図、島津家中、伊集院氏、本田氏、上井氏、家格、芸能
後編2-No.133記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 164頁
天正十四年四月六日、肥後の伊集院忠棟が、隈部親泰父子に反抗の動きが明白で軍勢派遣を急ぐべきだと注進した島津義弘譜の記事。義弘は上井覚兼を介して日向勢の出動を促したが、十二日の評議で意見が割れ、進発は遅延した。志賀氏・入田氏を支援するため高知尾へ兵を増し、日向勢を警衛に充てようとした経緯から、肥後・豊後・日向をまたぐ作戦調整の難しさが分かる。
- 登場人物
- 島津義弘、伊集院忠棟、隈部親泰父子、上井覚兼、志賀氏、入田氏、高知尾衆
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 島津義弘譜、島津義弘、伊集院忠棟、隈部親泰、上井覚兼、志賀氏、入田氏、高知尾、日向勢、軍議、出陣遅延
後編2-No.136記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 168~169頁
天正十四年五月一日、京都から帰着した鎌田刑部左衛門尉が、羽柴秀吉の九州国分・和平案を島津方へ報告した島津義久譜の記事。肥後半国・豊前半国・筑後一国を大友氏、肥前一国を毛利氏、筑前一国を京都方の知行とし、その他を島津領として和平を成立させるという構想が示された。秀吉が九州諸国を再配分して戦争を終結させようとした段階の重要な情報である。
- 登場人物
- 島津義久、鎌田刑部左衛門尉、羽柴秀吉、大友氏、毛利氏
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 島津義久譜、島津義久、鎌田刑部左衛門尉、羽柴秀吉、九州国分、和平案、大友氏、毛利氏、肥後、豊前、筑後、筑前
後編2-No.138記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 169頁
天正十四年六月七日、兵庫頭島津義弘が、前日の評議を踏まえて豊後への進軍をこれ以上ためらうべきではないと主張した島津義久譜の記事。三之山今宮の託宣が今月中の出陣を促したことを根拠とし、前年に堅志田・三船を手に入れた際にも神託があったとして、今回の出兵にも疑いはないと説く。軍議と神託が作戦決定を支えたことを示す。
- 登場人物
- 島津義弘、島津義久、三之山今宮、豊後勢
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 島津義久譜、島津義弘、兵庫頭、豊後出兵、三之山今宮、託宣、神託、堅志田、三船、軍議、出陣決定
後編2-No.140記事確認度 中
年月日未詳 / 冊子 169頁
天正十四年六月十日、豊後の志賀道益・入田氏が上井覚兼へ使者を送り、肥後の新納武蔵守からも同趣旨の注進が届いたことを記す島津義久譜の記事。海合人助に「調伏の矢」を持たせ、六月十四日に豊後へ向かう路上、国見の城腰付近で矢を射させた。軍事情報の共有だけでなく、敵を呪詛・制圧する祈祷的行為を作戦に組み込んだ珍しい記事である。
- 登場人物
- 島津義久、志賀道益、入田氏、上井覚兼、新納武蔵守、海合人助
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 島津義久譜、志賀道益、入田氏、上井覚兼、新納武蔵守、海合人助、豊後、調伏の矢、国見、祈祷、呪詛、軍事儀礼
後編2-No.142記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 174頁
天正十四年夏、筑紫広門の離反を受けて島津義久が大軍を率い、八代から筑前方面へ諸将を進めた経過を記す島津義久譜の記事。島津忠長・伊集院忠棟を将帥とし、新納忠元・北郷忠虎・上井覚兼らを動員して、大友方の要衝・岩屋城を攻撃した。高橋紹運が籠城して激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出しながら七月六日に城を陥落させた、九州征伐前夜の激戦を伝える。
- 登場人物
- 島津義久、筑紫広門、高橋紹運、島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元、上井覚兼ほか
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 島津義久譜、岩屋城合戦、高橋紹運、筑紫広門、島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元、上井覚兼、筑前、城攻め、九州征伐前夜
後編2-No.144記録確認度 低
年月日未詳 / 冊子 175~183頁
天正十四年六月一日から七月二十九日まで、上井覚兼が筑前・筑紫方面への出陣準備と軍中の日々を記した長大な日記。鹿児島・肥後・豊後・京都との使者や書状の往復、船・兵糧・武具の手配、諸将の参陣、軍議と進発日程を逐日追う。宗麟・志賀氏への対応や秀吉・近衛家をめぐる交渉も軍事行動と並行し、祈祷・連歌・酒宴・射礼、病気見舞いなど陣中の日常まで詳しい。筑前侵攻と岩屋城攻めを目前にした島津軍の意思決定、情報伝達の遅れや諸将間の調整を、当事者の視点から復元できる重要な日記史料である。
- 登場人物
- 上井覚兼、島津義弘、伊集院忠棟、新納忠元、鎌田政近、北郷忠虎、志賀氏ほか
- 宛先
- 該当なし
- キーワード
- 上井覚兼日記、筑前、筑紫、岩屋城、島津義弘、伊集院忠棟、新納忠元、軍議、使者往来、兵糧、陣中生活、島津氏、島津家中、薩摩政治、領国支配、軍事、外交
後編2-No.147記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 184頁
北郷忠虎譜の記事。天正十四年六月十八日、島津義久が筑紫勢の攻略を企てて大軍を鹿児島から出し、七月二日に肥後八代へ入り、諸将が筑紫へ直進したことを簡潔に記す。忠虎が参加した筑紫進攻の発動と行軍を示す記事であり、鷹取城・岩屋城での個別の戦功までは本文に記されていない。
- 登場人物
- 北郷忠虎、島津義久、島津軍
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 北郷忠虎譜、北郷忠虎、島津義久、鹿児島、肥後八代、筑紫進攻、島津軍、出陣、行軍
後編2-No.150記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 185~186頁
『島津世録記』の記事。天正十四年六月十八日に筑紫討伐を決し、七月二日に肥後八代へ軍勢を集結した経過を記す。島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・北郷忠虎ら諸隊の編成と進路を列挙し、鷹取城や筑紫広門の降伏、岩屋城での高橋紹運との激戦、双方の討死者へと展開する。大軍の構成から各城攻略までを一続きに示す戦役記事である。
- 登場人物
- 島津義久、島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元、北郷忠虎、筑紫広門、高橋紹運ほか
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 島津世録記、筑紫討伐、肥後八代、島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元、北郷忠虎、筑紫広門、高橋紹運、岩屋城
後編2-No.151記録確認度 高
年月日未詳 / 冊子 186~187頁
長谷場越前の自記。天正十四年六月十三日に義久が国元を出馬し、肥後八代に在陣して筑後・筑紫へ先陣を送った経過を述べる。島津義弘・歳久・家久、忠長、忠棟、北郷忠虎、新納忠元らの部隊と配下を列挙し、高良山から筑紫方面へ進む島津軍の軍勢編成・指揮系統を詳しく残す。岩屋城内の白兵戦ではなく、合戦前の動員と行軍を知る従軍記録である。
- 登場人物
- 長谷場越前、島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久、島津忠長、伊集院忠棟、北郷忠虎、新納忠元ほか
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 長谷場越前自記、長谷場越前、島津義久、肥後八代、筑後、筑紫、軍勢編成、先陣、高良山、行軍
後編2-No.154記録確認度 高
年月日未詳 / 冊子 188頁
天正十四年七月六日辰刻の鷹取城攻撃で、二十九歳の上野隼人佑が土師兵部と一歩も退かず戦い、互いに刺し違えて討死したことを記す覚書。末尾の歌は、その名を「高取の露」として後世に残す忠節をたたえる。個人の年齢・対戦相手・最期が具体的に分かる短い戦功・討死記事である。
- 登場人物
- 上野隼人佑、土師兵部
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 上野隼人覚書、上野隼人佑、土師兵部、鷹取城、七月六日、刺し違え、討死、和歌、忠節
後編2-No.158記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 192~194頁
島津義久譜の記事。天正十四年七月十日に筑紫広門が勝山城を明け渡したのち、十二日に島津軍が天拝嶽へ進み、十四日から高橋紹運の守る岩屋城を包囲した。少数の守兵が矢・鉄砲・石火矢で激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出しながら城門・城壁へ攻め寄せた経過を詳述する。落城と紹運方の最期に加え、島津方の討死者・戦功者を細字で多数列挙し、合戦参加者を復元できる中心的な譜の記事である。
- 登場人物
- 島津義久、筑紫広門、高橋紹運、島津忠長、伊集院忠棟、島津軍、岩屋城守備勢
- 宛先
- 記事
- キーワード
- 島津義久譜、筑紫広門、高橋紹運、勝山城、天拝嶽、岩屋城合戦、包囲戦、石火矢、戦死者、戦功者、交名
後編2-No.200記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 242頁
天正十四年十月、島津義弘が三万七百余騎を率いて肥後境から豊後南郡へ進攻した際、島津忠長もその軍に従ったことを記す。豊後征伐における忠長の所属と従軍経路を示す短い譜記事である。
- 登場人物
- 島津忠長、島津義弘
- 宛先
- —
- キーワード
- 島津忠長、島津義弘、豊後侵攻、三万七百余騎、肥後境、豊後南郡、従軍
後編2-No.201記事確認度 高
年月日未詳 / 冊子 242~243頁
天正十四年十月十五日の豊後出兵で、島津義弘が肥後口、島津家久が日向口の大将となった際、樺山忠助は家久の軍に従った。南郡・三重方面の諸城を攻め、鉄砲や石が飛び交う城際へ進み、敗走する敵を追って川を渡るなど、家久軍前線での戦功を記す。
- 登場人物
- 樺山忠助、島津家久、島津義弘、大友義統
- 宛先
- —
- キーワード
- 樺山忠助、島津家久、島津義弘、豊後侵攻、日向口、三重、攻城戦、鉄砲、渡河、追撃
後編2-No.206記録確認度 中
年月日未詳 / 冊子 252~253頁
勝部兵右衛門の聞書。天正十四年十月十四日に島津義久が鹿児島を発ち、日向口では家久・忠長・久親らを中心に諸家・外城の軍勢を編成したことを記す。多数の兵を三重方面へ進め、城を攻め落として南郡へ展開する過程、各将の配置と進軍路、敵の退却や戦場での働きを伝え、大規模動員の実態が分かる。
- 登場人物
- 勝部兵右衛門、島津義久、島津家久、島津忠長、島津久親
- 宛先
- —
- キーワード
- 勝部兵右衛門聞書、島津義久、島津家久、島津忠長、島津久親、豊後侵攻、日向口、三重、軍勢編成、攻城戦
旧記雑録拾遺 著作史料集1-文書ID 63-5覚書・軍勢記事旧記雑録拾遺暫定版確認度 中
年月日未詳 / 冊子 73頁/原整理番号 63の5
義久公御譜に天正十四年の豊後入り人数として二手合わせ三万七百余騎とあることを記す。一方、田賦の割付が見当たらず、当時の分国全体の町高も分からないとする覚書。軍勢数と軍役負担の関係は確定していない。
- 登場人物
- 島津義久(御譜の人物)
- 宛先
- なし(覚書のため宛先なし)
- キーワード
- 島津義久、豊後入、軍勢数、御譜、田賦、町高、領国高
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:107-1知行坪付・系譜由緒旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
- 登場人物
- 上原隼人佑(前項の上原尚信)、伊集院忠棟、村田経定、上井覚兼、平田光宗、本田親貞、河野通古、上原尚常(尚近とも作る)、上原尚張、島津義久、島津家久、新納刑部少輔忠堯、上原尚氏(隼人佑・筑前守・源右衛門尉)、島津図書頭忠長、伊集院忠棟入道幸侃、町田出羽守久倍、平田左近将監蔵宗、本田親貞入道三清
- 宛先
- 上原隼人佑殿
- キーワード
- 上原氏老臣連署坪付、正本家蔵、上原隼人佑、天正八年閏三月吉日、薩摩国加世田、津貫名、牧壇之門、あまつこみ、谷の口、山の下、牟田、坪、宮田尻、陰俣、上公田、堀町、九町二杖、坪数不整合、紙端脱落、丁畦町換算、伊地知季安考証、伊集院忠棟、村田経定、上井覚兼、平田光宗、本田親貞、旧記雑録後編一二三四号、河野通古、上原尚常、尚近、軍功略記、高崎縄瀬村小牧、久全源昌居士、清水押職、上原尚張、隆信合戦、国分、麑府、田禄収公、四分一、残禄四百八十二石、新納忠堯室、上原尚氏、豊後大友氏攻め、志布志伊屋松門、二町七段八畦五歩、島津忠長、伊集院幸侃、町田久倍、平田蔵宗、本田三清
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:3文書旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
〔延宝六年〕三月十三日 / 冊子 222頁/原整理番号 3
勝目助左衛門宗将が、石庵妙庵大姉の出自と猿渡家の系譜照会への対応を記した覚書。石庵妙庵大姉は天正十四年生まれ、寛永六年十月十八日に帖佐で四十四歳で没し、猿渡越中守の子・掃部兵衛の娘であるとする。系図作成に必要な返答書の催促と照会経緯を記し、延宝六年三月十三日、猿渡喜右衛門信安宛に送る。
- 登場人物
- 勝目宗将(勝目助左衛門)、石庵妙庵大姉、猿渡越中守、猿渡掃部兵衛、猿渡信安
- 宛先
- 猿渡信安(猿渡喜右衛門)
- キーワード
- 勝目宗将覚書、勝目助左衛門宗将、石庵妙庵大姉、猿渡越中守、猿渡掃部兵衛、猿渡信安、帖佐、系譜照会、返答書、延宝六年
旧記雑録拾遺 著作史料集5-文書ID B:21日記旧記雑録拾遺暫定版確認度 中
年月日未詳 / 冊子 103~109頁/原整理番号 21
伊地知重元が年男を勤めた際の日記。前年十二月十八日の節分・年末の餅や年縄の儀から天正十四年正月の年始行事まで、島津義久の御対面、社参、寺社・家臣・百姓らの出仕、進物と酒宴の次第を日付順に記す。元日の伊地知家、七日の平田家、末尾の本田家による椀飯のほか、十一日の大般若・吉書・具足召初、十四日の年縄の片付けを伝える。
- 登場人物
- 伊地知重元年男日、町田、津留、白潰次郎、本田刑部少輔、伊地知、川上、村田
- 宛先
- 境飯御座、内座、御座、町田、津留、御封面所、五社、本田刑部少輔、老中、地頭、伊地知、老中御座、蔵允、護摩所、納殿、慶賀、御船到面所、川上、福昌寺、村田、古後、御調面所、御前、本田城介、鷹衆、肥前秋月之使者、料足納股、談議所伊勢、封面所、例歳
- キーワード
- 伊地知重元年男日記、寺社・宗教、領地・地頭職、役職・人事、薩摩、伊勢、豊後、福昌寺、田布施、清水
旧記雑録拾遺 著作史料集5-文書ID C:73日記旧記雑録拾遺暫定版確認度 中
嘉禄二年十一一月八日 / 冊子 173頁/原整理番号 73
『伊地知勘解由重元御年男日記』天正十四年正月の記事。八日に伊作・田布施から初狩の獲物が届き、行司二人が披露した。猪三頭を御具足の餅の際に用い、猪一頭・鹿四頭を奥へ上げた。九日には加世田から猪六頭・鹿五頭が届き、奥や納殿らへ分けたと記す。本文書集十二号と同じ記事。
- 登場人物
- 伊地知重元年男日
- 宛先
- 鹿四丸奥、納殴、三官
- キーワード
- 伊地知重元年男日記、史料内容、田布施
旧記雑録拾遺 著作史料集5-文書ID D:142文書旧記雑録拾遺暫定版確認度 中
元禄二年十一月廿六日 / 冊子 213~214頁/原整理番号 142
牧の祈祷に関する抜書。天正十四年八月十二日からの祈念として、帝釈天・馬頭観音の法を各百座修し、牧神にも祈ることを列挙する。後年の祈祷や神事の記録にも触れ、馬牧の維持に伴う祭祀の具体例を示す。
- 登場人物
- —
- 宛先
- 薩州薩州高
- キーワード
- 調、史料内容、出水
旧記雑録拾遺 著作史料集5-文書ID D:159文書旧記雑録拾遺暫定版確認度 低
年月日未詳 / 冊子 223~224頁/原整理番号 159
『上井覚兼日記』天正十四年四月から五月の記事。瀬崎野などでの御馬追に向けた支度・使者の往来と、吉野御馬追の日程を記す。用いる馬や鞍・具足を調え、取駒をどう扱うかについても関係者と連絡した。
- 登場人物
- 津義久、平田新四郎
- 宛先
- 早旦時音、此日海江田、壱疋御崎観音、平田新四郎、一計
- キーワード
- 上井覚兼日記、御旧式類抄三、御馬追・牧政、寺社・宗教、目録・所蔵
旧記雑録拾遺 著作史料集5-文書ID G:342日記旧記雑録拾遺暫定版確認度 中
文保二年三月十五日 / 冊子 530頁/原整理番号 342
上井覚兼日記からの抜書。天正十四年六月の諸記事として、七八町組の編成、役の割当て、船や家臣の人事、上洛・軍事に関する相談を列挙する。
- 登場人物
- 上井、比志島
- 宛先
- 衆中各此方、是程之遠方、比志島、其百姓、鹿児島
- キーワード
- 上井覚兼日記抜書、寺社・宗教、役職・人事、目録・所蔵、鹿児島、豊後
島津世禄記-A28記事関連史料(外伝)確認度 高
巻三/冊子 38~41頁
伊東氏を保護した大友氏が秀吉へ島津征伐を求めたことに対し、義久が先に豊後へ攻め入った経過と、秀吉の九州国分け・征伐命令を記す。入田宗和・志賀道益ら大友方内部の離反を受け、新納忠元が密使を送り、天正十四年十月、義弘を大将とする三万七百余騎が肥後側から豊後へ進む。義弘勢は野尻・高城・津賀牟礼・松尾・鳥嶽などを攻略し、家久勢も日向側から三重方面へ進んだ。秀吉は島津・伊東・大友らの所領を配分する調停案を示して戦争停止を求めるが、島津方は従わず、十二月の戸次川方面の戦いで大友義鎮・仙石秀久・長宗我部信親・十河存保らの軍を破り、信親・存保を討つ。翌天正十五年、秀吉はこれを命令違反として九州征伐軍を進める。島津勢は府内・野上・玖珠方面から撤退を決め、義弘・家久は日向路、歳久・征久・忠元・伊集院久春らは肥後路へ分かれる。清田・三重・梅の隘・坂無・谷山・八代で追撃を受けながら防戦し、忠元らは国人の離反と豊臣方の海陸大軍の接近を見て、人吉を経て薩摩へ帰る。豊後侵攻の進展、戸次川での勝利、秀吉の国分け命令違反、豊臣軍来襲による撤退を一連の転換として描く。
- 登場人物
- 島津義久、島津義弘、島津家久、島津歳久、島津征久、島津忠長、新納忠元、伊集院忠棟、伊集院久春、入田宗和、志賀道益、大友義鎮、豊臣秀吉、仙石秀久、長宗我部信親、十河存保、伊勢貞昌、大野久高
- 宛先
- —
- キーワード
- 豊後征伐、九州国分け、戸次川合戦、秀吉九州征伐、豊後撤退、肥後路・日向路