『上井覚兼日記』天正十三年九月六日条抄并猿渡氏考証
天正十三年九月六日 / 冊子 270~271頁/原整理番号 24の22
『上井覚兼日記』天正十三年九月六日条から、三池境へ軍衆を差し上せ、伊集院肥前守・山田越前守・猿渡越中守をはじめ諸所の衆を派遣した記事を抄出する。三人が筑後攻めの主取として並記される関連記事を比較し、越中の家格が通常の地頭持と異なったことを考証する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正十三年九月六日 / 冊子 270~271頁/原整理番号 24の22
『上井覚兼日記』天正十三年九月六日条から、三池境へ軍衆を差し上せ、伊集院肥前守・山田越前守・猿渡越中守をはじめ諸所の衆を派遣した記事を抄出する。三人が筑後攻めの主取として並記される関連記事を比較し、越中の家格が通常の地頭持と異なったことを考証する。
天正十三年九月十三日 / 冊子 271頁/原整理番号 24の23
『上井覚兼日記』天正十三年九月十三日条から、筑後表の伊集院肥前守・山田越前守・猿渡越中守が、前日に堀切城を切り崩して敵三百余人を討ち取ったと注進した記事を抄出する。日記に見える落城記事を比較し、三人が主取として挙げた戦功を考証する。
天正十三年九月十八日・十九日 / 冊子 272頁/原整理番号 24の24
『上井覚兼日記』天正十三年九月十八日・十九日条から、筑後表より堀切柵攻略の報告があり、江之浦方が身上を助ければ城を明け渡すと申し出たこと、両城の守備や人質を協議したことを抄出する。肥前守・越前守・越中が筑後攻めの総主取で、鍋島飛騨守への伝達にも関わったことを考証する。
天正十三年九月二十六日・二十七日 / 冊子 272~273頁/原整理番号 24の25
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十六日・二十七日条から、筑後表の勝利を内空閑殿・城殿・伯耆殿へ伝えて加勢を求め、続いて筑後表へ指示を送った記事を抄出する。肥前守・越前守・越中が堀切城を攻略した後も大敵に備えて三家へ援軍を求め、最終的に三人の軍功で筑後一国を攻め落としたとの考証を記す。
天正十三年九月二十九日・十月朔日 / 冊子 273頁/原整理番号 24の26
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十九日条から、堀切より新納右衛門佐の書状が到来し、宝満・橘・筑紫方を切り取り、筑後表の戦況を報告した記事を抄出する。十月朔日条も引き、戦功に対する御礼が筑紫殿へ使僧を通じて伝えられたことを考証する。
天正十三年十月十七日ほか / 冊子 273~274頁/原整理番号 24の27
『上井覚兼日記』天正十三年十月十七日条から、白浜次郎左衛門を介した静謐の祝言と談合、筑後表での辛労に対する言上を抄出する。あわせて猿渡氏の由緒と、天正十五年十二月十五日に高野木食興山上人が来訪した伝承、羽月大聖寺への信仰と肥後からの参詣を考証する。
天正13年 / 冊子 1頁
天正13年の出来事として、花山陣、撃隈庄の凶徒討伐と甲佐・堅志田などの攻略、阿蘇氏の降参を三項目で掲げる短い記事。肥後中央部で軍事拠点の制圧と阿蘇勢力の服属が進んだ局面を、年次記事の冒頭で簡潔にまとめている。
天正十三年八月十日 / 冊子 105~106頁/原整理番号 405
祢占重虎と球磨相良氏との縁組について、鹿児島老中の取成し、使者の池端出羽守・西方伊賀守、同年十二月の迎え、婚礼での取次・刀持・供奉などの役割と人数を記した日記の断簡。天正十三年八月十日付。
天正十三年八月十五日ほか / 冊子 249~251頁/原整理番号 2
『上井日記』から、天正十三年に隈庄を得た島津方が、土地の人々の一向宗信仰についてまず改宗を命じ、従わなければ処罰すると論じた記事を引く。季安は北原氏や伊集院幸侃の宗門との関係を考える。
年月日未詳 / 冊子 7~21頁
上井覚兼が天正十三年正月朔日から二十八日まで、年始の礼式と日々の政務・交際を克明に記した日記。寺社参詣、家中や僧侶・使者の来訪、連日の酒宴、太刀・馬・酒肴などの贈答、狩猟、書状の往来を日付順に追える。単なる儀礼記録にとどまらず、家臣同士の相談、役人・医師・芸能者との接触、検地帳や公役関係文書の閲覧、向島の境界問題をめぐる協議など、島津領国の日常統治も具体的に記す。二十六日以降には本田刑部少輔らとの境論、伊集院・山田・稲富・長谷場らの来訪と談合、荒神への参詣も現れ、戦国大名家の正月が信仰・饗応・行政実務の重なる場であったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 22~37頁
上井覚兼が天正十三年三月のほぼ一か月を日次で記した日記。寺社参詣や勤行、島津義久への出仕、家臣・僧侶・使者の来訪、書状と贈物の往来に加え、所領・境界争論の聴取、訴訟関係者の召喚、家中の談合など行政実務を詳しく伝える。一方で茶湯、連歌・酒宴、花や香を取り出して優劣を論じる遊興、酔客の振る舞い、病人への薬や医師の対応までが同じ日々の中に記される。月後半にも来客の饗応、武州・吉利殿らとの会談、荒神参詣、贈答が続き、覚兼が政務・信仰・情報収集・人的交際を絶えず調整していた実像が見える。戦国期島津家中の日常生活と裁許の双方を追える貴重な記録。
年月日未詳 / 冊子 37~46頁
上井覚兼が天正十三年五月朔日から二十五日までを中心に記した日記。養子・相続をめぐる訴訟や刑罰の相談、家臣間の申次、書状・使者の往来を扱う一方、柳沢殿や毛利方使僧の来着、肥後・筑前方面の情報、兵船・武庫・軍記に関する話題も記録する。伊集院・新納・本田・平田ら家中諸氏との談合、島津義久への出仕、寺社参詣、病気見舞い、贈答、茶湯・酒宴が連日交錯する。月末には武庫で白彦に御内儀を申し、戦記を読ませたこと、勝軍地蔵の着経、普請や材木の差配なども現れ、北部九州への軍事対応と領国内の裁許・宗教・生活実務が一体で進む様子を示す。
天正13年6月3日 / 冊子 54~56頁
天正十三年六月三日、島津義久・伊集院忠棟ら多数が参加した長篇の「賦何人連歌」。梅雨の雲と川、水辺の月、松、旅人、秋風、紅葉、雪、春の花など、季節と場所を移しながら句を連ね、百韻規模の文芸世界を形づくる。忠長・忠辰・宗運・可丹・賀雲・久茂・正信ら家中の武将や連歌参加者の名が各句に残り、軍事行動の続く時期にも、連歌が身分を越えた交流・教養・結束の場として機能していたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 59~69頁
上井覚兼が天正十三年六月十四日頃から七月二十八日まで、約一か月半の日々を記した日記。来客・使者・書状の往来、島津家当主・重臣への出仕、寺社参詣、連歌、酒宴、狩猟を記す一方、八城・肥後方面から届く軍報、城番や境目への人員配置、使者の派遣と返書の作成を詳しく追う。大雨・洪水、病気、馬や薬の手配、宿所での談合や酔客の振る舞いなど生活上の出来事も多い。紫波洲城への参会、八城への急使、軍事情報の聴取などが連続し、覚兼が戦時下の情報・裁許・人的交際を日常的に調整した実態を示す。
天正13年7月18日 / 冊子 69頁
島津義久が中山王へ、琉球国の安泰と文武の徳を祝い、近隣諸国が島津の支配下に入った近況を伝えて、今後も永く和通を続けるよう求めた書状案。 天正十三年七月十八日付で「進上 中山王」と明記され、九州での勢力拡大を背景に国王との外交関係を維持しようとした文書である。
年月日未詳 / 冊子 75~85頁
天正十三年八月、上井覚兼が肥後戦線から届く書状・使者の報告を連日記録した長大な日記区間。花山・堅志田・隈庄・八代方面の戦況、戦死者、城番・兵員配置、兵糧や鉄砲の手配、敵方の帰順・人質処置をめぐり、島津義久・義弘、伊集院忠棟らと協議して返書を作成する。寺社参詣、連歌、酒宴、病気見舞い、贈答も併記され、戦場情報を集約しながら軍事・儀礼・家中の日常を同時に運営する覚兼の実務が具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 88~94頁
天正十三年閏八月、上井覚兼が肥後戦線と島津家中の動きを連日記録した長大な日記区間。八代・隈庄・堅志田方面の城番、普請、兵員・武具・兵糧の配置、敵方の帰順、捕虜・人質の処置をめぐり、島津家中の当主・重臣らと書状・使者を往復させる。軍事協議の一方で寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞い、家臣の訴訟処理も詳しく、占領地維持と家中の日常実務が同時に進む様子を伝える。
年月日未詳 / 冊子 98頁
天正十三年七月三日に甲斐宗運が死去したことを記す、島津義久譜中の短い記事。 肥後・阿蘇方の軍事と外交を支えた宗運の死は、その後の島津氏による肥後進出を考えるうえで重要な転機となる。
年月日未詳 / 冊子 103~112頁
天正十三年九月、上井覚兼が戦勝後の肥後支配と島津家中の実務を連日記録した長大な日記区間。阿蘇・隈部・高知尾方面の使者や書状を受け、降参者・人質、城番、所領、城の修築、兵糧・武具の配置を協議する。密書や謀議、家臣間の訴訟を処理し、島津家中の当主・重臣らへの報告・返書を作成する一方、寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞いも続く。軍事占領、外交、裁判、儀礼を調整する覚兼の戦後統治が具体的に見える。
年月日未詳 / 冊子 114~121頁
天正十三年十月、上井覚兼が豊後・肥後の軍事情勢と羽柴秀吉の九州介入への対応を連日記録した長大な日記区間。入田氏救援、城番・兵船・宿所・人質・帰服者の処置を協議し、島津家中の重臣らと秘密書状や京都使節の取次ぎを進める。秀吉の停戦・国分要求をめぐる情報、阿蘇・豊後方との折衝、諸将への返書が続く一方、寺社参詣、連歌、茶・酒宴、贈答、病気見舞いも詳しい。九州戦局と中央政局へ同時対応する島津家の緊張した実務を示す。
天正13年(1585)・寛永5年(1628) / 冊子 381頁/原整理番号 191
焼失した蒲池休右衛門家の系図に基づく家伝と、記主自身の考証を併記した覚書。筑後国蒲池城主の蒲池家は天正年間の合戦で敗れ、備中入道が天正十三年に島津義久へ属して千石を与えられたとする。備中入道の養子新助は山田民部入道性円の兄で小根占地頭、その嫡子が八郎左衛門で、記主は八郎左衛門の猶子だと述べる。備中入道を野田地頭とする家伝は当初不明としながら、寛永五年の御人数賦帳に『野田蒲池備中入道』とあるため正説と考えるに至った。
年月日未詳 / 冊子 4~5頁
天正十三年二月六日から十八日を中心に、島津義久が諸方の使者や上使を迎えた際の応接を日次で記す。宇都氏・土持弾正忠・北郷弾正忠らから賀札や贈物が届き、毛利殿の使僧五戒房が上使の到着を予告した。上使柳沢新右衛門尉元政の摩島往復、宿所の手配、義久との対面、席次をめぐる礼譲、太刀・段子・馬などの贈答、伊集院忠棟ら家臣の陪席までを詳述する。戦況報告ではなく、島津家が外来使節を迎える際の儀礼・座次・饗応・贈答の実務を具体的に伝える記録である。
年月日未詳 / 冊子 5頁
天正十三年二月二十日以降、島津義久が毛利氏の使僧五戒房、有馬氏・大村氏の使者らと対面した際の外交儀礼を記す。五戒房は先に摩島へ到着した上使の案内役で、龍造寺政家との和平に関する祝意を携えており、義久側と布・太刀などを贈答した。有馬氏の使者には太刀・甲冑を授けて三献を進め、大村氏の使節とも馬・甲冑等を交換する。さらに有馬方の官途・諱字をめぐる依頼と義字の授与にも触れ、九州諸氏との関係調整が、饗応・武具贈答・偏諱を通じて進められたことが分かる。
天正13年3月2日 / 冊子 6頁
天正十三年三月二日、羽月郷大島村の若宮社殿造営に際して掲げられた棟札。若宮の由緒と造営の趣旨を記し、島津義久をはじめ島津忠明・新納忠武ら関係者の名を伝える。地域寺社の修造に島津家中がどのように関与したかを確認できる建築・信仰史料である。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁
天正十三年、忠平(島津義弘)を守護代として花山に置いた後、甲斐宗運の次子相模守ら阿蘇勢が花山を攻め、政虎・祐昌らが戦死した。報を受けた島津義久は数万を率いて八代へ進み、隈庄で二百余の首級を挙げ、甲佐・堅志田方面を攻略する。さらに甲斐親乗・満永宗甫らの離反、伊集院久春の不在を突いた津守城の失陥、新納忠元らによる翌年の奪還までを記す。肥後制圧が一進一退の城郭戦と在地勢力の去就によって進んだことを示す戦況記事。
〔天正13年〕4月13日 / 冊子 49頁
No.35と同文につき本文を省略した参照記事。上書には、天正十三年に貞方右衛門佐を使者として宇久方へ送った際の返答案とある。参照先No.35は、肥州での勝利と静謐を祝し、使僧・太刀・馬などの贈物に礼を述べ、関係継続を誓う島津義久書状案で、末尾に義久の名がある。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月二十四日、島津義久は町田出羽守・伊地知伯耆守を使者とし、上井伊勢守・鎌田出雲守・山田新介らを介して忠平へ命令を伝えた。前年春から忠平を義久の名代として八代へ移し、国政裁判を担わせようとしていたが、忠平は固辞を続けていたため、二十六日に重臣五名へ書状を託して再度説得させる。肥後支配を担う人事が、忠平の辞退と家臣団の仲介を経て進められたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月、島津義久が忠平を守護代に任じ、肥後八代へ移って国政を裁判するよう、島津図書頭忠長・町田出羽守久倍・伊地知伯耆守を通じて命じた記事。忠平は重任に耐えないとして再三辞退したが、義久は受諾を強く求め、忠平は八代へ赴任した。肥後の警衛を絶やさぬため役務を分担させ、田賦を定めたことにも触れ、守護代任命と現地統治の制度化を伝える。
年月日未詳 / 冊子 53頁
天正十三年四月二十九日、帰京する上使柳沢新右衛門尉に黄金百両・馬三疋・鷹一連を贈り、五月二日には琉球使僧の船が到着した。七日、肥州大野氏から、豊後軍が筑後の城島を攻めたものの二百人を失って退却したとの軍報が届く。八日には琉球国使僧天王寺と対面し、琉球産の織物・香・器物など多数の献上品を受け、返礼と酒宴を行った。中央使節の送別、九州戦況、琉球外交を連続して記す記事。
年月日未詳 / 冊子 69頁
天正十三年七月十三日以降、吉利下総守らが上井覚兼へ伝えた諸方の軍事情報をまとめた『島津義久譜』の記事。羽柴筑前守の軍勢が四国で戦い、七、八百人を失って敗れたとの風聞、甲斐宗運が病死したとの情報が届くが、謀略の可能性も疑っている。続いて島津図書頭忠長・伊集院忠棟らが宮崎・高知尾方面の作戦と兵器輸送を協議し、花山城をめぐって阿蘇・甲斐方の大軍と交戦した経過を記す。未確認情報を吟味しながら救援・守城策を組み立てる島津方の情報活動が分かる。
年月日未詳 / 冊子 70頁
薩州家の島津義虎が天正十三年七月二十五日に没したことと、子女・妻の系統を簡潔に示す譜記事。 法号や妻が母川上上野守忠克の娘であることなどを掲げ、薩州島津家の親族構成と後継関係を確認できる。
年月日未詳 / 冊子 70~71頁
天正十三年八月、宮崎・高知尾方面から相次いで届いた軍報と島津方の対応を記す。島津家久らが兵器・兵員を送り、花山城をめぐって甲斐宗運の子相模守が率いる阿蘇方の大軍と交戦した。敵味方に多数の死者を出し、城の包囲、救援、撤兵が繰り返されるなか、伊集院忠棟らが上井覚兼へ戦況を伝え、島津忠長らが守城・増援策を協議する。情報の真偽を確かめながら日向・肥後境目の防衛を進めた過程を具体的に追える。
年月日未詳 / 冊子 71~73頁
天正十三年八月、島津忠平(義弘)が大軍を率いて八代から肥後の隈庄方面へ進み、阿蘇・甲斐宗運方と対峙した長篇の軍事記事。花山城救援、城下や河川での攻防、敵船との戦い、諸隊の進退と戦死者を詳しく記し、義弘は各地の軍報を受けながら包囲・撤兵を判断して八代へ帰陣した。その後、隈部親泰・合志親重ら在地勢力の使者を迎え、太刀・馬などの贈物を受けて今後の対応を協議する。戦場の推移から戦後の饗応・贈答・服属交渉までを連続して伝える。
(天正13年)閏8月23日 / 冊子 73頁
「案文有之」とし、『天正文書』第125号と同文のため本文を省略した参照記事。天正十三年閏八月二十三日付の島津義弘起請文前書案であることは確認できるが、この頁だけでは誓約条項や宛先は分からない。
年月日未詳 / 冊子 73頁
天正十三年閏八月二十六日、田代宗典父子以下五人が島津義弘を訪ね、翌二十七日には矢部の居所から五人が来て太刀・馬を持参した。二十九日には島津家久の使者三原宮内少輔が田代直経を介して矢部・山中方面の動きを報告し、高知尾の三田井氏にも触れる。在地勢力の出仕・贈答と情報連絡をまとめた譜記事。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年閏八月十一日以降、島津忠長が義弘の肥後八代出陣に従い、堅志田方面で放火・城攻めを進めた戦闘記事。敵二百余を斬り、首級を挙げた一方で攻城側も損害を受け、梅北国兼らの軍が合流した。忠長は無衣無食に近い軍中で薄酒を与えて兵を励まし、翌日の攻撃に備えており、前線指揮の具体像が見える。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年秋、島津家久が肥後・筑後での軍功後も高知尾進出を図った記事。家久は高知尾の大友方勢力を警戒しつつ吉田右衛門佐・高崎越前守らを派遣し、小崎城への人員・兵糧の集積と現地勢力の服属を進めた。高知尾を島津方の軍事拠点へ組み込む過程を伝える。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年閏八月、薩摩・大隅・日向の軍勢が肥後へ進発し、堅志田城を攻めた際の北郷忠虎の戦功を記す。忠虎は敵中へ斬り込み、首級二つを挙げたとされ、短文ながら肥後攻略における北郷氏の働きを顕彰する譜記事である。
年月日未詳 / 冊子 74~75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後堅志田城攻めで、樺山規久が敵兵と接戦した記事。牧之瀬筑前守・長田筑前守・緒方仲右衛門尉らが各一人を討ち、川添惣右衛門尉は規久の目前で負傷した。個人名と戦果・負傷を列挙し、規久隊の近接戦闘を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後甲佐・堅志田城攻めで、樺山久高が城門へ進み、防戦する敵兵と交戦した記事。高田中軍兵衛・森山主計が各一人を討ち、高崎大蔵兵衛正顕が首級を挙げるなど、久高配下の戦功を具体的に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年八月の肥後戦線における島津方の戦没者を、日付・戦場・戦死状況とともに列挙した「殉国名薮」。花山城を守って戦死した鎌田政虎、堅志田城攻めで倒れた木脇祐昌・西俣七郎・村山源太らを記し、矢部兵部左衛門尉が三人に囲まれて戦死したことなど、個別の譜では見えにくい損害の広がりを伝える。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年秋、新納忠元が肥後方面へ出陣し、阿蘇方との戦いや堅志田城攻めに関与した経過を記す。田宗和へ帰順を促す書状を送り、十二月には島津家久の書状、古川主膳入道宗忍の来訪を受けた。さらに島津義久の家督継承を祝う使者・贈答にも触れ、戦闘と外交・家中儀礼が連続して進む様子が分かる。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
天正十三年八月十八日以降、島津義弘が肥州隈府方面の成敗を命じられ、諸軍を率いて出馬した経過を長谷場越前が記す。松尾の柵を越えて敵と交戦し、兵庫頭義弘の奮戦、敵将の討取り、諸隊の進退や戦死者を伝える一方、合志方との使者・太刀をめぐる争い、在地勢力の去就や帰順交渉にも触れる。肥後出陣の戦闘と調略を現場に近い視点でまとめた日記である。
年月日未詳 / 冊子 87頁
天正十三年九月上旬、合志方と島津軍が連携して肥後の敵勢へ進み、阿蘇・隈部方との交戦や使者による折衝を重ねた経過を記す「日向記」。 敵を誘い出して退路を断つ戦術、首級獲得、降参者の処置まで述べ、肥後諸勢力をめぐる戦闘と調略が同時に進んだことを示す。
年月日未詳 / 冊子 87頁
天正十三年閏八月十三日、島津軍が甲佐・堅志田の両城を攻め落とした際、川西市丞が堅志田城内で敵と接戦し、手傷を負いながら戦功を挙げた覚書。 戦功により褒賞を受けたことと、関係者の名が記録上欠けていることにも触れ、足軽・下級武士の働きを伝える貴重な個人記録である。
年月日未詳 / 冊子 96~97頁
天正十三年春、八代から北川海道を山越えして花山へ根陣を構えた島津方に対し、阿蘇方が八月十日から攻撃した経過を記す「日向記」。木脇刑部左衛門らが防戦するなか、隈庄へ向かった軍勢が呼び戻され、同十三日には甲佐・堅志田両城の陥落へ戦局が進む。花山籠城と周辺の城攻めが連動していたことを示す。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
天正十三年閏八月十二日、薩摩・大隅・日向の軍勢が肥後の敵城を攻めた経過を長谷場越前が記す。城下の町を焼き、鉄砲・火攻めで城戸を破り、逃れる敵を追撃した。島津義弘・伊集院忠棟らが軍勢や兵船を差配し、城主の妻子・降参者の処置、占領後の守備配置まで進めており、攻城から支配確立までを連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 100頁
天正十三年九月朔日、飯田山の陣中で家臣の内通・謀議が発覚した経過を記す島津義弘譜。関係者の証言や密書を照合し、虚偽の訴えや若年者の軽率な関与を見分けながら処分を進めた。戦陣で軍事行動と並行して家中秩序を維持し、義弘が証拠を確かめて裁断する様子が分かる。
年月日未詳 / 冊子 100~103頁
天正十三年九月四日以降、島津義弘が肥後支配を固めるために行った交渉と軍事処置をまとめた長文の譜記事。阿蘇氏や隈部・高知尾方面から使者・書状・太刀・馬を受け、降参条件、旧領安堵、人質、城番、軍勢・兵船の配置を伊集院忠棟らと協議する。帰服情報を吟味して返書を送り、敵城への備えや謀反の処理も進める一方、祝儀・饗応・寺社参詣を行う。武力、起請、贈答、所領処置を組み合わせた戦後統治の実務が詳しい。
年月日未詳 / 冊子 103頁
天正十三年十月朔日、飯田山在陣中に樺呂木新介の乱企てと倉岡讃岐守の虚言が発覚し、上井覚兼・島津忠長らが兵を出して関係者を討った経過を記す。その後、秋月・龍造寺・筑紫・星野氏や高良山から戦勝祝賀の使者・書状が相次ぎ、家中の反乱処分と北部九州諸勢力の島津方接近を続けて示す。