島津忠恒書状
四月六日 / 冊子 796-797頁
島津忠恒が、惟新からの連絡として、十二日から福昌寺・帖佐で大中公追善の法華三部読誦を行う予定を伝える。忠恒自身の帰国や出水見廻りも含め、今後の移動日程を相談した書状。
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四月六日 / 冊子 796-797頁
島津忠恒が、惟新からの連絡として、十二日から福昌寺・帖佐で大中公追善の法華三部読誦を行う予定を伝える。忠恒自身の帰国や出水見廻りも含め、今後の移動日程を相談した書状。
明和七年六月二十日(同年と記す編年記事) / 冊子 257頁/原整理番号 690/整理ID 690
同年六月二十日、南林寺で大中公の二百年忌法事を三日間修したと記す。大中公には島津貴久との注を付す。これに際し、番頭島津内膳久丘を使いとして香奠の白銀十枚を納め、拝礼させたという。
天明三年正月十一日~天明四年三月十五日(記事中の経過) / 冊子 737~738頁/原整理番号 2080/整理ID 2080
前年癸卯の正月十一日に南林寺で火災が起き、客殿まで焼けた。来訪中の蒲生郷士大脇孫六と住持泰禅は島津貴久(大中公)の影像を持ち出し、火災後は福昌寺に移した。その年七月二十六日に南林寺の再建工事を始め、翌春三月十日に落成した。十五日に影像を福昌寺から南林寺へ戻し、重豪は島津又六郎久良を、虎寿丸は大島休左衛門久章を大中公廟への参拝に遣わした。
文政3年6月23日(法事期間6月21~23日) / 冊子 578頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1737
重豪公御譜中、斉興公御譜にもあるとする。今年夏六月二十三日の記事で、大中公の二百五十年忌法事を南林寺で三日間、二十一日から二十三日まで修したと記す。大中公には貴久の傍注がある。重豪は島津安房久備を遣わし、香奠金二百疋を献じて拝させた。年は前後の文政三年の配列による。対象者・法事の場所と期間、代参者、香奠の金額と単位を記録する。香奠の単位は疋であり二百両へ換算しない。重豪本人の参拝ではなく久備による代参として整理する。
年月日記載なし(斉興公御譜の記事) / 冊子 106頁/原整理番号 152/整理ID 152
斉興が藩内に軍法を設けた理由を述べる記事。大中公・貫明公・松齢公の旧制を専ら模範とし、古い制度の良い点を棄てずに取り、当世の士にも忠厚な風法を用いさせたいとする。その意向を家老へ告げるため、詳しい書付を以下に示すと記す。具体的な命令はNo.153に収める。
7月(式部申渡)/7月11日五番組方の伝達副書(年不記) / 冊子 302頁/原整理番号 428/整理ID 428
国分での居住は先に命じられたが重大な事情で決しがたく、大中公に願いをかけ、国分の居住を延期することを太守が直々に許したとする。諸士の召移と征夷の手当を決め、厳重に備える趣旨を関係者へ伝える七月式部の申渡。続く七月十一日の大番頭方五番組方印・嶋津仲の副書は、各支配中へ写しを早く伝え、本文を滞りなく廻して留め返納するよう命じる。先の改称通知に合わせて本文の国分を国府へ書き換えず、居住延期・準備の指示と実施完了を区別する。
明治2年十一月29日知政所 / 冊子 714頁/原整理番号 938の2/整理ID 938-2
伊作・相州両家は大中公の正統相続時に兼帯し、以来代々厚く祭祀してきたと説明する。今般日新寺境内の梅岳公神社の傍に両家の惣社を設け、御当地御惣社の振合通りに両家歴代の霊をすべて遷魂した上で改祭し、以後春冬の神祭を行う旨を神社奉行と関係先へ伝える。明治二巳十一月廿九日、知政所。両家・歴代の霊・原の大中公梅岳公呼称・場所・遷魂後の条件と祭期を区分し、本文にない社号や各公の固有名、神祭の実施完了を補わず、春冬を春秋へ変更しない。
明和六年(十二月二十四日・二十六日)、追記は明和九年春 / 冊子 234~235頁/原整理番号 628/整理ID 628
この年、恕翁公元久・大中公貴久・一唯公久保・心應慶安大姉・曹源院殿の廟室を重修し、石塔を移したことを記す。十二月二十四日、組頭島津直衛久中を福昌寺と恵燈院へ遣わし、それぞれ代拝させた。続く記事は、享保乙卯の年に福昌寺が「池魚の災」に遭い、その後も寺宇が整わず殿屋を仮設していたため、この年、旧制に従って再建したとする。家老島津久金が総監、大目付島津久起が副監を務め、寺社奉行町田久連・島津久前、側用人二階堂行端、用人川上久福・川田国起、普請奉行伊集院兼明・村田経芳・面高俊常らが関与した。経芳が東武へ役務に出たため俊常が代わったとの注がある。春正月に着工し冬十二月に完成、同月二十六日に入仏供養を行った。先規により使番頭川上久馬久致を通じて福昌寺へ青蚨五百匹を贈って慶賀した。完成後、扁額を作り、重豪が「玉龍山」の三字を親書して山門に掲げた。門外の石橋一か所は龍門橋と呼ばれたが廃され、明和九年壬辰春には泉を引いて池とし、石橋を架けた。長さ二丈六尺余、幅一丈六尺余で、壮麗さは旧制を超えたとする。池中に蓮数百根を植えて蓮池と名づけ、小堂二宇に観音と弁財天女を安置し、さらに橋を架けて通じさせた。観音は俗に水観音といい、もとは龍門橋の傍らにあったとの注を伴う。
同年春三月二十一日(安永四年の文脈) / 冊子 453頁/原整理番号 1253/整理ID 1253
同年春三月二十一日、薩摩郡隈之城の稱名寺で、定山公の四百年忌の法事を修したと記す。定山公には島津師久の注があり、使番頭鎌田蔵人正方を遣わし、香奠銀三枚を献じて拝させたという。仝上は重豪公御譜中の出典を受ける。小字の注は、これまで祖先の遠忌法事では寺へ香奠銀五枚を納めていたが、ここで初めて減額し、銀三枚を香資として献じ、以後はこれに倣うと記す。その上で大中公・貫明公・松齢公・慈眼公のような場合はまた同じではないと付すため、すべての祖先法事を一律三枚へ改めたとしない。三枚はこの法事への献納額で、従前五枚と加算しない。四百年忌の原表記を保持し、師久の没年を逆算して補ったり、三月二十一日を死亡日として扱ったりしない。
寛政6年正月(本文)、正月10日伝達・2月2日納置の注 / 冊子 75~76頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0248-2
田布施城跡内の大中公誕生所に当たる小祠を基に石囲垣を取り仕立て、碑銘を立てるよう命じる添書。亀石と大中公の年競の松もあるので、粗末にならないよう囲垣を置くことを指示する。誕生所荒神の祭料が毎年不足するため、銀十五枚を渡し置き、郷士年寄の支配で祭料・石碑・囲垣の修覆料に取り計らうよう田布施地頭へ申し渡す。正月、勘解由の記載を伴う。包紙注は田布施亀城荒神祠碑銘書一通を木場次右衛門が見合のため預かったことと、2月2日納置を記す。横切書付に関する注と、寅正月10日に市来次郎左衛門から木場次右衛門へ渡された旨の注もある。碑銘の銀645銭長生銭とは別に、添書の銀十五枚という記載を保持する。
寛政10年正月15日火災、同年9月着工、翌寛政11年3月落成・12日木主遷還(本文) / 冊子 153頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0483
正月15日に加世田日新寺が焼け、寺主寂禅は梅岳公・大中公の木主と仏像・重器を常潤院へ避難させた。寺宇・山門は焦土となり、斉宣が家老菱刈大炊隆邑を総宰として再建させ、国中の士民も私財を寄附した。同年9月着工、翌己未春3月落成。衆寮・禅堂も復旧し、12日に梅岳公木主を日新寺客殿へ戻し、寺社奉行・営作諸司その他の僧侶・郷士が供奉、衆僧が法儀を修した。斉宣は隆邑に大官香5把を献じ拝礼するよう命じ、重豪も側用人を遣わして同品3把を献じた。儀礼後に木主を牌殿へ安置、大中公木主・仏像等も旧位へ戻した。出典は重豪公御譜中。
寛政11年3月落成・13日木主奉還(本文。客年正月15日の火災は寛政10年) / 冊子 153頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0484
前年正月15日、加世田郷日新寺の火災で殿堂・門廡が全焼し、寺主寂禅が梅岳公・大中公の木主と仏像・重器を常潤院へ避難させた経緯を記す。斉宣は菱刈大炊隆邑を総宰として新造させ、その秋9月に着工、今己未春3月落成。13日に梅岳公木主を客殿へ奉還し、衆僧が法儀を行った。斉宣が隆邑に大官香5把の献納・代拝を命じ、父公も同品3把を献じた。儀礼後、木主を本殿へ安置し、大中公木主・仏像等も旧位に戻した。出典は斉宣公御譜中。前483の3月12日・牌殿という記載との差を残す。
文化7年庚午正月21日(法事19~21日)・26日田禄。後注文政8年冬10月 / 冊子 349頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1082
文化7年庚午正月21日、妙谷寺で貫明公200年忌法事を3日、19~21日に修した際、重豪も家老頴娃信濃久喬を遣わし、香奠金200疋を献じ代拝させた。割書は祖先遠忌の費用について、官庫から祭費を出す場合と寺主が寺役法事を行う場合、1日又は3日などの違いを説明する。重豪は記録奉行に論じさせ、大中公・貫明公・松齡公・慈眼公の梵儀では寺主が3日の法会を設け、香奠を増し、その他は1日、功徳ある者は五十年忌と同様とするとの説明を載せる。次の丸印は別件。先に千眼寺を再建し黄金を付しても資用が足りず、同月26日に斉興が田禄150石を寺産として付したのは重豪の意によると記す。後注は文政8年乙酉冬10月にさらに田禄150石を加えたこと。文化7年の斉興追加と後年追加を分け、1081同件記事の田禄を二重合算しない。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 720頁/原整理番号 946の1/整理ID 946-1
通達留。旧浄光明寺の御高祖霊社を龍尾神社、旧日新寺内梅岳公霊社を竹田神社、旧南林寺内大中公霊社を松原神社、旧妙谷寺龍伯公霊社を大平神社、旧妙圓寺内松齢公霊社を徳重神社、旧福昌寺跡慈眼公霊社を長谷神社と掲げる。今般の社建立に伴い、社号をこの通り称する旨を神社奉行と関係先へ伝える。明治二巳十二月、知政所。六組の社号・旧地・霊社対象、義久家久注と竹田の本々注を区分し、御高祖の具体名や社殿完成・祭祀開始実績、現在の住所は補わない。
記事 / 冊子 242頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0684
重年公御譜は、前年の江戸での襲封・元服に伴い、今年正月十八日、先例に従って薩府で使者を命じ先霊へ礼物を納めたと記す。台徳公・大猷公・厳有公・常憲公・文照公には各白銀二枚、南泉院の有章公、清揚院、慈眼院、不断光院の大玄院・寛陽院・陽和院・泰清院・真修院、福昌寺の蘭室院・霊龍院・深固院等、恵燈院の義天公には各白銀一枚を納める。本立寺の五世霊塔には青蚨二百匹、興国寺・南林寺・妙谷寺・隆盛院等の島津先霊にも白銀一枚を納め、襲封を賀した。同月二十一日には将軍家六霊を南泉院で拝し、元服を賀して慈眼院・浄国院・月桂院・瑞仙院や島津先霊にも白銀一枚を納めた。「従先蹤」は先例に従う意で、襲封と元服の献納が二日間に分けて行われた。
寛政6年正月(本文。碑銘作成)、天和2年・永正11年の回顧を含む / 冊子 75頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0248-1
薩州田布施の邑金峰山麓の亀城と、城内の荒神祠を修めた由緒を記す碑銘。小石室は天和2年壬戌に邑人篠原佐左衛門政盈が建て、島津貴久の誕生地と記していたという。寛政6年正月に有司へ修祠・石欄設置を命じ、銀六百四十五銭を長生銭として邑吏に付け、祠事の資としたため、臣山本正公室に石へ事を記して傍らに建てさせたと述べる。貴久は日新公の子、母は薩摩守重久の娘で、永正11年5月5日に生まれたと記す。誕生舎の跡に後人が荒神祠を建て、祠から東南十五、六歩の亀石二つと、亀石から西二歩の日新公が植えたと伝わる古松を挙げる。貴久の生誕・国難平定とこの地の縁を讃え、祠を鎮護して遺跡を存し、石や松のように保つ旨の銘を結ぶ。
慶応3年卯11月9日、太守発駕前に佐土原侯から差上写の注 / 冊子 424~425頁/原整理番号 601の2/整理ID 601-1
祖宗以来の高恩に報いたいとして、幕府が従来の失態を悔い政権を朝廷へ返すのは国体一新の基を開く幸であり、中将の忠誠と尽力を称え、太守も早く上京してほしいと願う建言写。王制復古の公議は万代の基礎となるので、和漢古今の明君・儒師などの道理を考え、古典を通じ才能ある者を用い、諸藩の応接や広い善言を聞いて政務を至公に行うよう求める。君臣の善言採用と国の安危を論じ、千載の機会として恐れながら言上する。末注は慶応三年卯十一月九日、太守の発駕前に佐土原侯から差し上げた写とする。目録の島津忠義建言書の標題と、正文の無署名・写の差上者を区分し、忠誠や政治的称賛は本文の主張として示す。
明治2年十一月(日不記)知政所 / 冊子 714~716頁/原整理番号 939/整理ID 939
諸所に安置した先代等の画像・肖像・木像・遺骸を、指定の社へ合祀する対応を列記する。浄光明寺内得佛公社、日新寺内梅岳公社、妙圓寺内松齢公社、福昌寺内英嶽殿、妙谷寺内貫明公社、諏方社宗源殿が合祀先となり、各旧寺名・対象・媒体は台帳へ個別転記した。阿多上宮寺・高山日新院・川邊玉泉寺は旧寺地の由緒から小社を建て、誕生日を神祭として従来通り敬い、所中士族から社守を選び寺地をその者へ支配させ、神社奉行が吟味して申し出る。画像は箱入保護し祭日に懸ける扱いと当分鹿籠転院の注も保持する。寺院を廃し、合祀または一社建立を行い本社と同日に祭祀する旨を神社奉行等と諸郷へ通知する。明治二巳十一月知政所。実廃寺数・移送完了・現代社名地図対応は補わない。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 718~719頁/原整理番号 943/整理ID 943
歳久について、帖佐瀧ケ水の自盡と貫明公による心岳寺建立を述べ、寺を廃して跡に一社を建て神霊を崇め社司を置く。忠朗について、奉仕忠節と忠棟父子の叛逆による衰亡を原の評価・説明として述べ、笑岳寺を廃して自家で神霊を崇め、庶流伊集院四郎が祭祀を永続できるよう寄附高から七石を永く与える。忠長・政近・國貞・久治・貞昌の五人は、慈眼公が病悩重い際に位牌脇へ位牌を配列させたとの記述を掲げ、寺院廃絶後、國貞には別に菩提所源舜庵を建て、各霊は長谷神社の肖像脇に改め設けて従祀し、釼一振も置く旨を伝える。明治二巳十二月知政所。原顕彰・叛逆評価、霊の扱いと寺高・庵・釼を区分し、実移送祭祀完成や病名・実給付総額は補わない。
6月27日(目録、年次記載なし) / 冊子 106頁/原整理番号 1-3
日新軒の六月二十七日付書状を掲げ、色紙の来歴に関する古記録と照らして近衛稙家公の筆跡かどうかを再考する。書状には家門の旧好と、委曲は古市長門守から伝える旨が記される。
年月日未詳 / 冊子 338頁/原整理番号 29
時升が忠元の二十七歳の歳旦詩を解説する。巾車には官名や庶人の乗物などの用例があるが、忠元はその年齢で高位にいなかったため帰去来辞に出る農人の車として考える。春の陽気で古い叢の花が再び紅になる句を、家の没落後に忠元が主君に遇い、その仁愛によって力を発揮したことと読む。割拠と英雄の句では器量を自負する読みを退け、年若い忠元が草廬の諸葛亮に比べ、忠信の心から奉公する情を述べたと解する。
文化10年11月廿九日(本書上印・朱年注) / 冊子 428頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1331
重豪公御譜中・写正文在家老座。野田感應寺へ御五代様の位牌を安置するよう大御隠居が仰せ付けたため、厨子・位牌を加世田日新寺安置の大中様(島津貴久注)の位牌の形により、別紙絵図面のとおりにしてよいか、寺社奉行が吟味して申し出たと伝える。そのとおり命じてよいか御意を伺い、趣を知らせるよう求める。文化10年朱注、11月廿九日、上印川上右近署、下印鎌田典膳宛。行間朱返答は1332として別記し、本伺を造作承認済・位牌厨子製作済としない。後続のNo.1333にある五項の位牌書立と対応する。
享和二年十月 / 冊子 231頁
島津貴久の葬所をめぐる異説を検証した補注。旧説では福昌寺の石塔を墓としたが、祭文や加世田の伝承から日新寺常潤院山中説が唱えられた。享和二年、本田親貞・相良常旭が現地調査すると石塔には「大中公」とだけあり、埋葬を示す銘記も伝承もなかったため、加世田で葬儀後に福昌寺へ埋葬し、常潤院の塔は灰塚と結論づけた。誤説をあえて残し、誤りの経緯を明らかにすると説明する。
天明七年三月二十一日~四月十二日(年は前後記事・目録による) / 冊子 961~962頁/原整理番号 2602/整理ID 2602
重豪の隠居に際し、宗廟・神社へ敬意を表して供物を納めた経過を記す。三月二十一日、家老島津久邦を遣わし、鹿児島五社(諏方・稲荷・祇園・春日・若宮)と福ヶ迫諏方社へ金二百疋ずつを献納する。二十二日には喜入久福を南泉院へ遣わし、神祖廟へ銀二枚、台徳・大猷・厳有・常憲・文昭・有章・有徳・惇信・浚明の各廟へ銀一枚ずつを納める。また久邦を不断光院と浄光明寺へ遣わし、清揚廟と得佛へ銀一枚ずつ、浄國へ金二百疋を献納する。同日、側用人を遣わして、霊符堂看経所・休息所看経所・護摩所・稲荷・八幡・天神・不動、外庭の稲荷と相殿の若宮八幡、春日大明神、鵜戸権現、大人八幡、観音、尾畔の稲荷・弁財天・観音、二丸の諏方・弁財天へ青銭五十疋ずつを納める。二十三日には二階堂行旦を福昌寺へ遣わし、浄岸院・慈眼院・寛陽院・泰清院・大玄院・有邦院・慈徳院へ金二百疋ずつ、圓徳院へ官香二把と金二百疋を献納する。二十六日に平田成政を加世田へ遣わして日新公へ金二百疋、二十七日に二階堂行旦を遣わして花尾山へ銀一枚、郡山一之宮へ金二百疋を納める。四月十二日には菱刈實祐を南林寺へ遣わし、大中公へ金二百疋を献納する。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 16
忠元の年譜が、天文七年に忠勝の敗落で家臣が離散し、安萬も父祐久に従って田布施へ移ったと記す。十四年、大中公が伊集院にいた時に入来院重朝が背き、八月七日頃に神殿から兵を出して郡山城を夜襲した。忠元は諸将とともに城へ迫り、先に柵を登って山口某と刀で戦い首を取った。初めての従軍で槍傷を負い、その時は十九歳だったという。