堀孫太夫・日向喜兵衛連署達
四月朔日 / 冊子 160頁
市来神川の志摩助の子孫正兵衛が所持する忠恒袖判の過書について、過去の判物改めで記録方へ提出後返却されたものだと確認し、浦役児玉市左衛門へ渡して疎略なく丁重に保管するよう命じた船奉行二名の連署達。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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四月朔日 / 冊子 160頁
市来神川の志摩助の子孫正兵衛が所持する忠恒袖判の過書について、過去の判物改めで記録方へ提出後返却されたものだと確認し、浦役児玉市左衛門へ渡して疎略なく丁重に保管するよう命じた船奉行二名の連署達。
天正二年正月中旬~廿日 / 冊子 392頁
天正二年正月中旬に肝付大勢が牛根へ来攻した際の従軍者と役割を記す。島津家久以下の守備・戦功者、牛根城攻めの先陣大将島津忠長、後陣の島津歳久、侍大将上原長門守、切岸を掘って降伏へ導いた逆瀬川喜兵衛尉・伴五左衛門らを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 639-641頁
大垣出陣から関ヶ原の敗戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と退却を詳述する。義弘勢は約五十人に減り、具足の装飾や馬印を捨てて敵騎馬隊を正面突破し、大垣城の火を見て帰城を断念した。南宮山の長宗我部陣へ伊勢平左衛門を使者として送り、その後は駒野坂・土山・伊勢関・信楽方面を経て退いたこと、後醍院喜兵衛が大黒の向きから伊勢路を進言したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 641頁
旧伝として、後醍院喜兵衛が出陣時に携えた大黒の向きから吉方を占い、関ヶ原退却時の島津義弘(惟新)に伊勢路を進むよう進言した話を収める。あわせて慶長五年の書状記事として、薩摩へ向かった又介を三か村付近で密かに捜索し、発見時には討ち果たすよう命じた内容を記す。
年月日未詳 / 冊子 643-644頁
九月十五日の関ヶ原で東軍が迫り、宇喜多勢の敗走、大谷勢と東軍の攻防、小早川秀秋の帰順による大谷勢壊滅を経て島津義弘(惟新)が敵中へ切り込むまでを記す。義弘は長宗我部陣へ使者を送り、馬印・相印を捨てて東軍の大勢を突破した。後醍院喜兵衛が敵方の乗物へ島津義弘(惟新)の名を告げ、再会の証拠として命を助けた逸話も収める。
年月日未詳 / 冊子 645頁
敵味方が合戦に入る前から鬨の声がたびたび上がり、島津方の鬨の声は高橋喜兵衛を先頭に発したと記す。
年月日未詳 / 冊子 646頁
島津義弘(惟新)勢が四国衆の陣を通過する際、敵味方の別が定かでない長宗我部らへ伊勢平左衛門を使者として送り、島津勢が退却中である旨を伝えた経緯を記す。使者は相手が逆心ならその場で討死する覚悟で臨み、陣中の者は立ち向かわず、後醍院喜兵衛も敵方の者に再会の証拠として命を助けると告げた。
申年8月15日 / 冊子 277頁/原整理番号 107-18
申年八月十五日、伊地知小十郎季安が坂元喜兵衛へ、御記録所にある諸家系図帳や『高所之高系図』等を写し、位牌・墓銘・過去帳・古札改帳などと照合して近世の系譜を仕分け、古文書は許可を得たうえで写すよう求めた書状。季安は、校訂前に浄書したため現在の原稿は反古同然であるとし、坂元にもまず一通り写して各項を調査・修正すれば多数の誤りが見つかるはずだと説明する。その反古を季安のもとへ返し、後に発見した事項も加えて改訂すると述べ、作業は急には進まないので、詳しくは対面時に話したいと結ぶ。系図編纂が複数の記録類・古文書の照合と往復校訂によって進められた具体的過程を伝える。
正保二年五月廿四日 / 冊子 21頁/原整理番号 21
曖衆・郡見廻が後醍院喜兵衛へ、公儀の御狩以外に百姓を私的に狩へ出さず、違反した場合は自らの責任とする旨を誓う五月二十四日付誓書の抄出。
年月日未詳 / 冊子 494頁
庄内戦で戦死した者を、年月日・戦場・所属とともに列挙した殉国者名簿。慶長五年正月の河内・栗山・追田などでの戦闘を中心に、戦死者名のほか、主従・組・衆の別や人数を記し、庄内戦での人的損害を整理する。
年月日未詳 / 冊子 508頁
慶長五年二月、志和池城降伏後に北郷方が山之口で戦い、家臣三名を失いながら勝利した。梶山・勝岡・山之口・高城・安永など諸城が相次いで降伏し、忠真が都城を退去したのち、竜伯・忠恒が都城へ入り、諸城を長千代丸に与え、十一歳で元服させ忠能と名乗らせた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 647-648頁
伊賀国信楽付近で法師武者が小弓で島津義弘(惟新)を射ようとした際、木脇休作が駆け寄って弓矢を奪い、相手を追い払った。夜間には道を求めて民家へ入り、住人を案内人として同行させ、食料や干柿を調達しながら危険な山道を進んだ経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 648-651頁
信楽から和束・大和・河内・和泉方面へ退く過程を詳述する。道案内や食料を求め、住民を説得・拘束して山道を進み、夜間の追跡や盗賊を避けた。和束では知人の助力を得て一行をまとめ、道中の危機を切り抜け、国分城で迎えを受けた。帰国後、随行した者には感状と知行が与えられた。
年月日未詳 / 冊子 65~68頁/原整理番号 36-1
諏訪神事の頭屋・居頭役について、慶長五年・七年の役割分担を記した古書を挙げ、頭役、献役、幣役、宿などの担当者を列挙する。伊地知季安は、本田氏・新納家・平田家などの伝承や社役帳を照らし、担当家の組合とその変遷、神事の古い作法を考証する。また大口の諏訪神事にも触れ、慶長十二年・十八年の記録を挙げて鹿児島の頭屋との関係を推測する。
元禄二年四月三日 / 冊子 835頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2201
綱貴が寺社・町・勘定の七奉行へ、家来の是枝喜兵衛の中間である伴右衛門が、当正月十七日に江戸大坂町の部屋預所で狼藉し、牢舎を命じられ吟味のうえ江戸追放となった旨を書面で承知したと返答する。
明和二年四月十八日 / 冊子 88頁/原整理番号 181の74/整理ID 181-74
日光山法会が滞りなく済んだことへの祝儀と、国許への御暇を仰せ出されたことを、使者に伝えるよう仰せ付けられた旨を記す。その御口上に応じて、今日、使者を勤めた首尾を、四月十八日に佐久間新左衛門が左中様へ報告する。法会終了への祝儀、帰国の御暇、使者への御口上伝達を分けて示し、帰国が既に済んだとの記述にはしない。 これに先行する日付のない覚には、御老中松平右近将監の取次香取庄右衛門、松平右京大夫の津田庄次兵衛、松平周防守の小田五左衛門、阿部伊豫守の太田藤蔵を載せる。御側御用人板倉佐渡守の記載に続き、取次富岡又吉がある。後半の「若御年」には「寄脱カ」の注があり、小出信濃守の取次早田軍治、松平摂津守の佐藤六左衛門、水野壹岐守の山本喜兵衛、酒井石見守の梅野八右衛門、鳥井伊賀守の小笠原丹下を載せる。取次覚と十八日付首尾の各内容・日付を分けて示す。
安永七年冬十二月(記事の今茲冬十二月) / 冊子 559頁/原整理番号 1577/整理ID 1577
出水郡出水郷村の市人喜兵衛は、市中の火災で数百戸の家が焼けた際、私財を出して救済したため、この年の冬十二月に青銅五百匹を与えて賞した。また、甑島郡上甑島平良村の農民彌兵衛・千助と、同郡下甑島手打村の浦人善六は、その年の飢饉に皆が私蔵の米穀を出して村中の窮乏者を救済したため、冬十二月に賞し、彌兵衛には青銅千匹、千助には同三百匹、善六には同五百匹を与えた。
天明五年十一月八日 / 冊子 834頁/原整理番号 2289/整理ID 2289
重豪は、在国時節に差し上げる干鯛・残魚について、国許からの品が到着しないため、在国にあった品を献上してよいか伺う。十一月八日付の伺書と、留守居矢野清右衛門の呼出し、別の留守居伊木喜兵衛による御取次大竹三左衛門への御用付札提出を記す。
寛政3年4月6日(年次は朱注) / 冊子 23~24頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0072
島津静山が国元で3月10日に死去したことに伴い、忌服届を御用番松平和泉守へ、留守居助の伊木喜兵衛を通じて差し出したことを記す届書。忌の残日数がないので一日の遠慮を行ったとする。年次は朱注、日付は4月6日。目録は島津重豪の届書とするが、本文に独立の署名はない。
寛政3年7月6日(年次は朱注) / 冊子 25頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0080
彰君様の婚礼に当たり、御臺様へ煙草盆一通を献上したことを記す覚書。あらかじめ掛御老中の松平越中守から献上するよう申し渡されており、今朝、留守居助伊木喜兵衛を使者として差し上げたとする。本文に独立の署名・宛名はなく、年次は朱注による。
寛政4年(朱注。本文は去る11日と記し月日不記載) / 冊子 31頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0102
豊後守の当年の参勤時期を去る11日に伺ったところ、去々年に琉球人を召し連れて参府したため特例が認められ、7月中に参府するよう奉書が届いたことを記す覚書。豊後守は国元から使者を遣わして御礼を述べ、記録の主体も留守居使者を通じて老中へ御礼を伝え、伊木喜兵衛が取り扱ったとする。年次は朱注。本文に独立の署名や具体的な月日はない。
文化6年己巳4月28日成婚・5月15日謝婚。5月19日納幣・21日祝儀、12月朔日婚儀・2日賀品 / 冊子 314頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0995
斉宣が幕府に請い、松平相模守斉邦の妹弥姫を豊後守斉興の妻とすることを許された。文化6年己巳4月28日に成婚し、5月15日、九鬼和泉守隆國が斉宣の代わりに登営し贈幣して謝婚した。重豪も物頭相良典禮長元を遣わし、大家へ一種一荷、儲君と御臺へ各一種を献じて謝した。続く別件は、大家が有栖川中務卿織仁親王の令愛姫宮を大納言家慶の配偶者として聘した記事。5月19日、西丸附老中安藤對馬守信成をもって納幣の礼を整えた。21日、老中の命を受け、番鷲頭喜兵衛永澄(仮為留守居注)を城へ遣わし、家斉へ二種一荷、御臺へ二種・五百疋を献じ、姫宮にも同様に献じた。さらに使番岩元間(永澄注)を西営へ遣わし、家慶へ二種一荷を献じて祝した。冬12月朔日に婚儀を行い、ここから姫宮を御簾中と呼ぶとの注を付す。同2日、使者を遣わし大家と儲君へ各二種・五百疋、御臺と御簾中へも各二種・五百疋を献じて婚姻を賀した。斉興の婚姻と家慶・姫宮の納幣婚儀を分け、贈幣先・数量・使者・段階別の日付を保持する。
年月日未詳 / 冊子 363頁/原整理番号 428-1
『平塞録』は三月四日、公儀が諸将へ在陣中の扶持方代銀を給付し、上使衆が公儀勘定頭の能勢四郎右衛門・山中喜兵衛へ申し渡したと記す。両人は正月朔日から三月十日までの扶持方代銀を渡した。
寛永十六年三月十五日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 514
赤川次兵衛尉・瀬戸山種左衛門尉は御改奉行柳元喜左衛門尉へ、寛永十二年の宗門改めで人を隠した三件の科人について報告する。八十歳余りの盲人、男女四人、三十七歳の病人孫七をそれぞれ隠したため捕縛され、五人組預けとなったが、長期拘束が難しく五人組の相談で縄を解いて引き続き預かった。第一・第三件では五人組一人につき二貫文を納め、第二件は隠し人を申告したため科料なしとする。第二・第三件には、寛永十五年二月に旧改奉行野村監介・後醍院喜兵衛尉から赦免の書状が曖衆へ届いたことも記す。
寛永十六年三月廿五日 / 冊子 402~403頁/原整理番号 517
柳元喜左衛門宗真は加久藤の改め結果と処理事項を列記する。改帳を納め、八十人分の切札のうち五十三人分は科料を添えて召し上げ、残る二十七人分を返却し、黒札三枚を交換、おろし札四人分の科料を納めた。牛馬死札三十一帳を有馬主馬首へ渡し、年・馬の区分が違う一札には銀二匁の科料を付した。先年改めの拘束者は、当時の改衆野村監介が江戸、後醍院喜兵衛尉が樋良へ材木奉行として出ており確認できず、庄屋衆の書付だけでは処理できないとする。竹木改めでは杉・檜を一尺廻り以上から付け出し、井手・川除け用の柴竹は従前どおりとし、天道宗は判断が定まらないため当面そのままに置く。
寛文8年4月2日、元禄5年12月17日、元禄8年8月25日、元禄10年閏2月5日、元禄12年閏9月8日ほか系譜内年代 / 冊子 368~370頁/原整理番号 188-1
蒲地五郎左衛門を祖として、伊作市之瀬での戦死と墓所から、伊賀(後号甫心)以下の子孫・婚姻・養子・早世・没年・法名・葬地を系線で記す。伊賀は十三歳から八十三歳まで日新・島津義久に奉仕し、義久出家時に甫心の名を賜り大隅国安妙軒に葬られたとする。帯刀長を国分観音寺、貞隆を福昌寺内花舞軒、貞直らを浄光明寺内江月院等に葬ったこと、貞次が青山主殿の養子となり青山六郎右衛門頼元と記されること、貞隆に実子がなく野田喜兵衛宗綱の二男を養子としたこと、女子の伊作・末吉・曽於郡・出水衆中家への縁組や国分『御上様』への奉仕を収める。
延元4年(1339)~明和3年(1766)の記事 / 冊子 398~402頁/原整理番号 4-1
後醍醐天皇第六皇子・征西将軍宮懐良親王を祖とし、良純・良政・良方・良張・良音・良央らへ続くとする近世薩摩在住家の系図。各人の出生・死没・法号、実子・養子・婚姻、松熊八郎・喜兵衛・喜右衛門・勝三郎などの通称と改名を記し、江戸・国元での勤役、府城での太刀一腰・馬代の献上と拝謁、高崎地頭職、船奉行・供奉、知行・褒賞銀などの奉公履歴を寛永から明和年間まで載せる。末尾の別紙は、平十兵衛家系図では同家を伊豆国伊東祐親―工藤祐経―祐明の後裔とする異説を示し、この別紙が『後醍醐院正統系図』中に収められていたと注記するため、懐良親王後裔説と伊東氏系譜説が併存する点が特徴である。
寛永十五年三月四日 / 冊子 363頁/原整理番号 428-2
長岡佐渡守興長と有吉頼母英貴が、役高五十四万石につき百石四人扶持として二万一千六百人分、合計七千四百五十二石京升、石当たり銀五十目で銀三百七十二貫六百目の扶持方を、能勢四郎右衛門頼安・山中喜兵衛信三から受け取ったことを証する。
11月27日 / 冊子 426頁/原整理番号 396の7
同日、利右衛門・喜兵衛尉・主膳・正右衛門・長吉の合計五人を掲げる。羽嶋から立てた水手として、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取りを命ずる。
年月日未詳 / 冊子 702頁/原整理番号 732
正月十五日の国分賦所記録。盾板十五枚・大釘三十・熊手十などの調達と代銀・代銭を記し、国分御城山の松で盾板を作り、奉行が出水米之津まで宿送りするよう手配する。続いて十五日までの出立人数85人と国分から付けた人躰、付衆・大工等の名前を記す。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 813
出水滞留中の正月二十日、喜入吉兵衛付衆の到着と、三原左衛門佐からの注進次第出船する旨を記す。落城間近との取沙汰や、南雲・市成・東郷三人の島原行、三原与力野元源左衛門と伊集院衆帖佐小兵衛の戦死注進を載せる。自力立以外には一人一日黒米五合を支給するとし、二十一日に書き留めたと結ぶ。
二月十日 / 冊子 113~114頁/原整理番号 177
『国分賦所日記』。国分役所が、楯板十枚・熊手十挺を出水米之津の竹内宮内左衛門らに注文して長櫃へ収め、正月十七日付の季安らの書状により公儀の命として島原へ渡すよう調えた経緯を記す。二月十日、楯十五枚・熊手十挺の調達・搬出に関わる者を任命した。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
慶長五年、慶長七年、寛永十四年~延宝七年(後続系譜記事) / 冊子 487~489頁/原整理番号 20-1
慶長五年・七年の諏訪大明神祭会について、御頭屋・御頭人、左右の居頭、初献・二献・三献、相伴、御幣、敷皮などの勤役者を列挙した書上。高城・寺山・国分・新納・平田・加治木・本田・猿渡らの人名と、嫡子・二男・内衆などの続柄や立場を具体的に記す。後半は平田氏の後続系図で、伊東肥後守祐辰女を妻とした人物の没年・葬地に続き、内田才右衛門正重の嫡子・宗宣が宗敏の婿となって家を継いだことを記す。宗宣は寛永十四年の肥前有馬におけるキリシタン一揆で軍使を務め、翌年二月二十八日の原城攻めでは自ら枝書右衛門を召し取り、分捕りの証状を得たとし、その後の宗模・宗貞・宗明・宗喜らについて妻の出自、出生・没年、幼名・通称を延宝年間まで載せる。
寛政四年十月十一日 / 冊子 184頁/原整理番号 152
寛政四年十月十一日の犬追物稽古手組。上手組に島津與十郎ら、次手組に島津主税ら、下手組に島津圖書らを配し、各組の検見と喚次を記す。
年月日未詳 / 冊子 687-689頁
井尻弥五助が徳川家康への書状を携えて江戸へ向かい、水口で厳しい改めを受けて拘禁された後、釈放されて伏見攻めや関ヶ原退却に供奉した経緯を記す。住吉で義弘が切腹を決意すると供衆も殉死を覚悟したが、大坂の夫人方が無事との報で中止し、仙秀坊が人質退去の手形を得て一同は帰国した。
五月九日 / 冊子 574–575頁/整理ID 1963
吉貴が五月九日、亀姫入輿に付き添う川上長左衛門と、京都留守居の今井八右衛門へ、諸事を女中年寄とも相談し、女中の無益な雑談・善悪の批判を禁じて厳重に取り締まるよう命じる。近衛家との縁組は家の誉れで西丸からの配慮もあるため、付随者が不和で家の風儀を乱すとの批判を受けないよう戒める。大蔵・勘解由・帯刀からも指示を受け、枝喜兵衛・高田茂大夫にも趣旨を申し渡すよう求める。冒頭は前頁にあり参照範囲を復元する。
年月日未詳 / 冊子 328~330頁/原整理番号 371
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城本丸で鑓を働かせた大口衆を中心に、手負、首取得、射撃、屏越、戦死などを列記した注文。高城七郎左衛門尉、肱岡左近丞、松下惣左衛門尉、濱川西市丞らの手負と各証跡人を記し、続く『首注文』では松木平兵衛、小城弥左衛門尉、寺師刑部左衛門尉、帖佐喜兵衛、原田新兵衛らについて首一つずつと証跡人または無証跡を区別する。さらに敵への弓射、敵の鑓・道具の取得、屏越、加賀守鑓場・本丸での戦死を記す。本文に作成者、宛所、差出日はなく、目録年月日欄も空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四三号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 157~159頁/原整理番号 41
『国分平八郎家系図』と題し、八文字紋を掲げる国分氏の系図。康友は兼宗大納言知国の四男とされ、鹿児島大夫・新田宮・鹿児島藤内・左馬允・大夫判官・薩摩国司などの称を伴い、島津忠久の猶子となった由緒を記す。定友以下の諸系線を展開し、友久は国分左衛門尉を号し、頭注に執印康友三男の鹿児島四郎友家を平野氏祖とする異説を載せる。友成・久成らへ続き、久成は羽島を号した。五代院右衛門友清の年代、五代筑前守が島津立久に仕え京都所司代浦上美濃守則宗から送られた書状、友宗が島津忠国の伊東征伐で功を立て加江田等を与えられたことを記す。友綱・友明は肝付合戦の平房八幡で討死し、友秀は朝鮮番船で討死した。末尾は友昌(蔵人)―友快(喜兵衛)と続き、その子孫を助之進とする。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 25
坂元村・西原村などの門と居住者を列挙する書付。片平門の白石喜兵衛、水口門の永田兼右衛門、りやうそ門の藤崎新兵衛らを挙げ、滑川・南林寺大門口・内之丸上之原などを用いて各門の範囲を示す。