北郷一雲時久書状
〔永禄六年〕五月二日 / 冊子 206~207頁
北郷時久が喜入季久に、飫肥・福島境では大きな変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ち取ったと報じた書状。先の返書への礼を述べ、屋形が当地へ来訪して軍事相談中であることを知らせ、遠隔地ながら今後も支援してほしいと頼んでいる。
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〔永禄六年〕五月二日 / 冊子 206~207頁
北郷時久が喜入季久に、飫肥・福島境では大きな変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ち取ったと報じた書状。先の返書への礼を述べ、屋形が当地へ来訪して軍事相談中であることを知らせ、遠隔地ながら今後も支援してほしいと頼んでいる。
永禄十二年四月十四日 / 冊子 217頁
島津義久が喜入季久の勲功を賞し、大隅国菱刈院内の花北名を給分として宛行い、速やかに知行するよう命じた宛行状。
永禄十二年六月十一日 / 冊子 226頁
細川藤孝が喜入季久から匠作を介して書状と黄金十両を受け取った礼を述べた書状。藤孝が思いがけず入手した小笠原家旧蔵の鞍一口を、伊勢因幡入道に添えて贈り、しかるべく取り計らうよう求めている。
永禄十二年六月十一日 / 冊子 226頁
喜入家に伝来する細川藤孝書状の別掲本。六月十一日付で喜入季久に宛てられ、本文と上包の宛所・藤孝の署名花押を示す。No.514と同日の贈答関係書状として収録されている。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
近衛前久が喜入季久の上洛を喜び、滞在中に必ず来訪するよう求めた書状。島津義久からの音信も受け取り祝着していると伝えるよう依頼し、詳細は進藤左衛門大夫が申し伝えるとする。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
進藤長治が喜入季久の上洛を祝し、以前薩摩へ下向した際の厚遇を忘れていないと述べた副状。世上の事情と多忙で面会できないことを残念がり、具体的な用件は大泉坊へ伝えたとし、贈られた線香一把への礼を述べる。
(元亀元年冬頃) / 冊子 239~240頁
昭高院道澄が喜入季久へ贈った二通の短札を収める。一通は扇一包を贈り、今後細々と文通したいと伝える。もう一通は初の面談を喜びながら突然の帰国に驚き、翌春に使節を下す予定なので、その際に詳しく申し述べると約束する。上洛後の元亀元年冬頃の書状と推定する編者注がある。
(元亀二年)二月廿六日 / 冊子 242~243頁
昭高院道澄が喜入季久に、前年冬の上洛時は多忙で雅興を十分に尽くせず残念だったと伝え、再度の在京を待つ書状。面談できた喜びを忘れないとし、自筆を加えた三部抄を贈り、詳細は清春上人の説明に委ねる。
(元亀二年)四月廿九日 / 冊子 244頁
小笠原宗賢が喜入季久の無事な帰国を喜び、在京中のたびたびの対面への礼を述べた書状。銀子十文の贈答に謝し、依頼された口伝・各方面への伝言や近況を知らせ、ゆがけ二具を贈る。今後も用向きがあれば承ると申し出る。
(元亀二年)六月十一日 / 冊子 245~246頁
細川藤孝が喜入季久の帰国後、二度書状を送ったが届いたかを尋ね、京都は現在平穏だと知らせた書状。季久在洛中は多忙のため疎遠になったことを今も残念がり、今後こちらで用事があれば隔意なく申し付けるよう求め、十一日韻の懐紙を贈る。
(元亀二年)九月三日 / 冊子 255頁
昭高院道澄が喜入季久の上洛時の懇切な対応に謝し、その後便宜を得られず音信を欠いたことを詫びた書状。門跡末寺の大弘寺を当面預かって取り成すよう特に依頼し、今後は頻繁に連絡するとして、衣一重を贈り、詳細を不断光院の説明に託す。
(元亀二年)九月十日 / 冊子 255~256頁
小笠原秀清が、父が美濃に滞在しているため自ら喜入季久へ返答した書状。京都の騒乱で長く在国し、音信を欠いたことを詫びる。季久から注文された空穂について、虎・豹皮が手に入らないため猪皮で製作させたと伝え、銀子三両を受領し、ゆがけ二具を贈る。
天正15年10月22日 / 冊子 362頁
島津義久が喜入季久から献上された馬について、当家の乗馬にふさわしく早道にも使える優れた馬で、由緒や毛色にも問題がないと賞した書状。多数の馬から選んで贈った心遣いに礼を述べ、武庫様への披露や馬具の扱いにも触れる。
三月十一日 / 冊子 207頁
島津義弘が到着後しばらく音信を欠いたことを詫び、近況を尋ねた書状。暇な時に訪ねて昔話などをしたいと面会を望み、仰せに従って軽微ながら品二つを贈るとして、隔意のない交誼を求めている。
元亀元年六月~八月 / 冊子 239頁
元亀元年夏、喜入季久は大願成就のため上方へ向かい、義久の使節として将軍足利義昭への祝賀を担った。八月中旬に泉州境浦へ着船し、伊勢参宮と諸社寺参詣後に京都へ入り、将軍に謁見した。酒盃を頂戴し、宝刀を賜ったことを喜入家の名誉として記す。
(天正二年)十一月十二日 / 冊子 346~347頁
喜入季久が、足利義昭の入洛調略に関する御内書を頂戴したことを恐懼し、白沈香・段金一端を進上するので披露してほしいと真木島昭光・一色藤長へ依頼する。
(天正二年)閏十一月五日 / 冊子 346~347頁
喜入季久が、足利義昭が織田信長の行為により紀州へ移ったことを驚き、調略の御内書を頂戴したと返答する。遠隔地ながら島津義久の忠勤に別儀はなく、諸方面の計策が成功することを願い、詳細は江月斎が説明するとする。
年月日未詳 / 冊子 403頁
天正十六年七月十四日、喜入季久が五十七歳で没し、法号を昌円季久としたことを記す譜記事。 没年月日・享年・法号を簡潔に伝える、喜入氏人物史の基本記録である。
十一月十二日 / 冊子 415頁
喜入季久が真木嶋玄蕃頭・一色式部少輔入道へ、入洛調略について内書を下されたことを頂戴し、冥加至極と謝意を表すとともに、沈香十斤と段金一端を進上して披露を求めた書状。
永禄五年六月十六日 / 冊子 114~115頁
島津義久が六月三日の大隅横川合戦で喜入季久が奮戦し、配下の者も多数粉骨したことを比類ない名誉であり神妙であると賞した書状。
永禄六年五月二日 / 冊子 123頁
北郷時久が喜入季久からの返書を受け取り、貴久が当地へ来訪して軍事相談中であるため、遠方ながら今後も支援を求めた書状。追伸で飫肥・福島境に変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ったと報じる。
永禄十二年三月~元亀元年六月 / 冊子 214~215頁
羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元のもとへ飛来した鎌を祀る飛諏訪大明神、菱刈両院の地理・名称由来も記す。
元亀元年 / 冊子 230~231頁
元亀元年の主要事件を編年で記す。正月、渋谷党が隈城以下の諸地を差し出して降伏し、義久は罪を許して領地を再配分、家久を隈城地頭とした。正八幡宮・興国寺などへの所領寄進、貴久・義久から琉球国王への国交継続書状、印判を持たない商船の取締要請を載せる。六月以降は幕府への祝賀、喜入季久の上洛と太刀・馬代・黄金の献上、福昌寺領寄進、将軍から義久への御内書・太刀下賜を記す。
(元亀元年)六月廿八日 / 冊子 238頁
島津義久が足利義昭の入洛を祝賀する書状。国内事情のため祝賀が遅れたことを詫び、太刀一腰・馬一疋・黄金百両を進上して将軍の機嫌を伺い、取り計らいを細川藤孝に依頼した。詳細は使者喜入季久に申し含めたとする。
元亀元年六月下旬~九月廿五日 / 冊子 240頁
元亀元年六月下旬、伊勢参宮へ出発した喜入季久を義久の使節として将軍足利義昭へ派遣した。九月二十三日に将軍が織田信長を伴って摂州中島陣所から帰京したが、翌日信長は越前勢に備えて志賀へ出陣した。二十五日、季久は細川藤孝を介して将軍へ太刀・馬代千疋・黄金百両を献上し、藤孝にも太刀・馬代五百疋・塩硝三十斤を贈った。
(元亀元年)十月廿二日 / 冊子 240頁
細川藤孝が島津義久へ、上洛礼の使者喜入季久から太刀一腰・馬一疋・黄金百両を将軍へ進上した旨を披露し、将軍が喜んで御内書を下したと報じた書状。さらに太刀一振が義久へ返礼として下賜されたので、趣旨を了承するよう伝える。
元亀元年十月廿五日 / 冊子 240~241頁
元亀元年十月二十五日、喜入季久が将軍御殿へ召され、義久に下賜された御内書と太刀を受け取ったことを記す短い譜中記事。
(元亀二年)五月廿一日 / 冊子 244~245頁
宗固が上方・豊後方面での活動と苦労を詳しく報じた書状。薩摩から送られた鷹を土佐一条氏を介して将軍家へ届け、織田信長が拝領したこと、路銀不足や堺での争い、豊後への帰還事情を記す。喜入季久の上洛時の評判が京都で高く、将軍もたびたび尋ねたことを伝え、唐織の衣服を調えるため将軍家・局・取次へ贈る黄金の内訳と手続きを説明している。
(元亀三年)四月七日 / 冊子 265頁
細川藤孝が喜入季久へ、池坊が薩摩へ下向するので取り扱いを依頼した書状。池坊は代々奉仕してきた者で昔から比類ない働きがあるとして、その旨を大守へ取り成し、特別に懇意にするよう求める。
元亀四年二月廿一日 / 冊子 300~301頁
禰寝重長との和睦成立後、前日の無署名誓紙に代えて署名を明示した連署起請文。伊集院忠金・本田盛親・河野清通・伊集院久治・上原尚常・市来家諸・新納忠元・喜入季久の八名が花押を据え、誓紙を重長へ渡した。
元亀四年二月廿六日 / 冊子 301頁
伊集院忠金・平田昌宗・喜入季久が禰寝重長へ、肝付方を離れて忠節を尽くす決意を祝し、以後永く相違なく、和議をめぐる雑説があれば双方から申し開くことを誓った連署起請文。新田八幡・霧島・鹿児島諏訪・天満天神などの神罰を掲げる。
元亀四年五月廿四日 / 冊子 304~305頁
禰寝重長が望む鹿屋の処遇について、現時点では周辺事情に詳しくないため、島津方の戦争成就後に検討し、やむを得ず守護領とする場合には鹿屋の田数に相当する別所を与えると約束した証文。伊集院忠金・村田経定・平田昌宗・川上意釣・喜入季久が連署する。
元亀三年~天正年間 / 冊子 319~320頁
禰寝・肝付・伊地知方が島津氏に従わなかったため、島津軍が下大隅へ渡り早崎を陣として小浜城を攻め、前陣と号したことを記す。のち禰寝重長が島津方へ出頭すると伊東・肝付・伊地知勢が禰寝麓を攻め、喜入季久が迎撃したが、弟忠通・久績以下十余人が戦死した。最終的に肝付・伊地知も帰順し、伊地知氏には下城一所が与えられ鹿児島に在住した。
天正二年正月十八日~廿七日 / 冊子 329頁
天正二年正月十八日から牛根城の切岸を昼夜掘り進め、城内まで道を通したため、守兵が降伏を請うた経緯を記す。十九日夜に停戦し、翌日人質を交換、二十二日に新納忠元が入城、二十七日に義久が早崎陣から帰還した。続いて伊東・肝付・伊地知勢の禰寝侵攻と喜入季久らの迎撃も記す。
天正二年正月三日~廿七日 / 冊子 333頁
天正二年正月三日の茶園ヶ尾合戦、牛根城切岸の掘削と開城、同十九日の禰寝方面の戦闘を詳述する。家久・忠長らの追撃、霧島山神火の瑞兆、喜入季久の奮戦と弟二人の戦死、人質交換、新納忠元の入城を記し、切岸を掘り抜いた三名の働きを高く評価する。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁
島津義虎が喜入季久の禰寝口での比類ない働きを使者から聞いて称賛し、慰労のため馬を贈りたいと申し出る。また季久側の慶事を祝し、先の使者への謝意と、不慮の事情で面会できなかったため後日参上して積年の話をしたい旨を伝える。
(天正二年)三月四日 / 冊子 337~338頁
島津義虎が鹿児島へ伺候できなかった事情を述べ、義久に敵意はなく、以前から神名に誓って忠節を約していると弁明する。出水・高城・水引・山野・東郷・中郷をめぐる風説を否定し、疑義があればまず照会してほしいと喜入季久に取り成しを頼み、詳しくは伊地知勘解由助へ口達したとする。
(天正二年)四月十四日 / 冊子 339頁
足利義昭が京都の不慮の事態により紀州へ滞在し、各方面を調略しているとして、喜入季久に忠節と支援を求める。使者江月斎を下し、詳しくは一色藤長・真木島昭光が述べるとする。
(天正二年)四月十四日 / 冊子 340頁
一色藤長・真木島昭光が、足利義昭が織田信長によって京都を退き紀州で諸勢力を催している事情を説明し、喜入季久に忠功と援助を求める。義昭の御内書と江月斎の口達を取り次ぐ連署副状。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
(天正三年)三月廿八日 / 冊子 434頁
近衛前久が警固のため滞留する喜入季久の尽力と親密な奉公を喜び、今後も他と混同せず命じるので引き続き馳走するよう求める。『詠歌大概序』を自筆で贈り、貞知に詳細を伝えさせ、義久へもよく申し聞かせるよう依頼する。
(天正三年)八月廿日 / 冊子 438頁
小笠原宗賢が喜入季久からの書状と沈香に礼を述べ、前年に島津歳久、今度は島津家久と対面したことを喜ぶ。老齢と中風を訴え、生前に季久の上洛を望み、包丁二丁を贈った書状。
天正三年十月廿日 / 冊子 440頁
天正三年十月二十日の犬追物手組として、四角に配した射手と各人の射犬数、検見・喚次を記す。島津忠長・歳久、喜入季久、新納忠元らが参加した。
年月日未詳 / 冊子 469頁
「何人」「何船」「何路」「二字返音」「初何」「山何」「何風」「薄何」「何草」「御何」の十組について、発句と脇句以下を集成した連歌資料。島津義久・上井覚兼・樺山玄佐・喜入季久・伊集院忠棟らの句を収める。
天正四年四月九日 / 冊子 474~475頁
近衛前久の台覧に供した天正四年四月九日の犬追物手組。四角に配した射手、各人の射犬数、検見・喚次を記し、島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが参加した。
天正四年四月十二日 / 冊子 475頁
天正四年四月十二日の犬追物手組。四角の射手と各人の射犬数、検見・喚次を記し、前久台覧のもと島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが射芸を披露した。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 493~496頁
上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。
(天正五年)九月三日 / 冊子 520頁
飛鳥井雅継が喜入季久に、父が不慮の病により八月七日に死去したことを知らせ、父と格別の知音であった季久に今後も変わらぬ交誼を求める。祝意のしるしとして扇子五本を贈り、相応の用があれば申し付けるよう伝えた。
天正五年十一月十三日 / 冊子 521~522頁
鹿児島馬場で行われた天正五年十一月十三日の犬追物手組。四角に配した義弘・歳久・家久・久隅・征久・喜入季久らの射犬数、検見・喚次を記す。
天正五年十一月十五日 / 冊子 522頁
天正五年十一月十五日の犬追物手組。義久の検見のもと、義弘・歳久・家久・征久・久隅・喜入季久らを四角に配し、各人の射犬数と検見・喚次を記す。