島津元久安堵状
嘉慶二年八月廿二日 / 冊子 139頁
島津元久が鹿屋周防介に、日向国三俣院北方弁分内の長田名を本領として、先例どおり知行するよう安堵した文書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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嘉慶二年八月廿二日 / 冊子 139頁
島津元久が鹿屋周防介に、日向国三俣院北方弁分内の長田名を本領として、先例どおり知行するよう安堵した文書。
応永三年十一月七日 / 冊子 166頁
島津元久が鹿屋周防介に、山東で闕所が生じた際には三十町を給分として宛行うと約した宛行状。
文禄2年3月26日 / 冊子 679頁
日向国蓬原内の市園屋敷・新開・とものきれ・道下などの土地を、面積ごとに列挙して鹿屋周防介へ与えた領知目録。 屋敷・畠を合わせた給付地の内訳を示し、一部を「御加恩」、残りを寄替として処理している。土地の所在と面積を具体的に確認できる家臣知行文書。
六月九日 / 冊子 108頁
境目で和睦の談合が成立したとの知らせを残念がり、日置周防介の身上と判断を案じ、薩摩・大隅側へ山越えすることを勧め、福島方面や使者衆の安否も尋ねた書状。
六月七日 / 冊子 108~109頁
伊東家着陣時に白鷺権現へ立てた願を翌月に成就するため、七夕頃から能を催し、『高砂』『落葉』『夕顔』など七番の演目を日置周防介に依頼して準備を求めた書状。
(文禄元年)9月8日 / 冊子 604頁
島津久保が三名へ、朝鮮の現地情勢は使者が詳しく説明するとしたうえで、当地が静謐になれば間もなく明国へ渡ることになり、そのまま入唐する可能性もあると伝える。 遠征の長期化を見越し、国内の留守居について決して油断しないよう念を押す。「再会を望む」と添え、先行きの不確かな出陣者の心情も表れた書状である。
九月八日 / 冊子 154~155頁
現地情勢は使者が詳しく説明するとし、朝鮮が平定されれば続いて明へ渡る予定なので、直接入唐する可能性もあると述べた。再会を望みつつ、留守居に決して油断しないよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 120頁
『殉国名薮』として、康暦元年頃に宮方へ属した鹿屋周防介兼永が三俣高城で討死したとする伝承を、『日向記』の三俣和田城陥落記事と関連づけて記す。
年月日未詳 / 冊子 139頁
島津国史として、忽翁公島津元久の名乗り・官職・法名を掲げ、嘉慶二年に渋谷重頼へ今川和元のもとで忠節を尽くすよう命じたこと、鹿屋周防介へ三俣院北方弁分長田名を安堵したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 256頁
寄郡の凶徒が蜂起して鹿屋周防介の居城を攻めたため、久豊が薩摩・大隅の軍勢を率いて救援を企てた記事。帖佐・加治木の敵対を避け、吉田・蒲生・本田・税所・敷禰・廻らに軍船を整えさせ、廻から市成へ渡って山田某の館へ進んだ。
年月日未詳 / 冊子 680頁
帖佐城没落後、日新(忠良)が遁世の身でありながら加治木城主伊地知周防介父子の謀叛を知り、大永七年五月六日にその地へ向かったことを記す。
天正三年十二月十四日 / 冊子 443頁
天正三年十二月十四日、島津義久が上井覚兼・白濱周防介を浄光明寺へ遣わした。豊後から肝付へ来た島津勝久の子が旧領内居住を望んだが、浄光明寺の意見を聞いたうえで、国内居住は許可し難いとした。
文禄五年五月四日 / 冊子 23頁
伊地知重治が伊地知周防介へ、島津家の祝儀に関する役を命じられた際の入具と包丁人の進退について、先例に基づく権限関係を説明した証状。入具は周防介が扱い、包丁人への下知や分別は場合に応じて行うが、包丁人一人の裁量で調進した時はその者の進退とするなど、私意ではなく旧儀によるものとした。
九月十一日 / 冊子 10頁
飛鳥井雅教が、前年の上洛時にたびたび会ったことを懐かしみ、約束どおり下向する予定が大内周防介の強い引留めで延期になったと伝えた書状。翌春の下国を約し、橘景への伝達を頼み、板物一端を贈って詳細は平田兵衛尉に託す。
七月廿八日 / 冊子 113頁
樺山久高の覚書。普請、竹尻・板城戸、諸口番衆、弓・鉄炮、城屋敷、鹿屋周防介が担当する八木、富隈御蔵米、秋月殿の財部への移転、福島周辺の諸事など、領内の軍事・普請・配置・蔵米関係の懸案を箇条書きにする。
五月廿日 / 冊子 310頁
島津忠昌が羽嶋新左衛門尉に、二年間の戦乱のなかで豊州において比類ない働きがあり、周防介が一味同心して無二の忠志を示しながら命を落としたことを悼み、その軍忠を子孫まで忘れず、先人の志を失わないよう求めた書状。
延徳二年二月六日 / 冊子 546頁
延徳二年二月六日の犬追物手組について、島津忠昌を中心とする参加者と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年三月廿二日 / 冊子 548頁
延徳二年三月二十二日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者名と各人の疋数を列挙した記録。
延徳二年三月廿三日 / 冊子 549頁
延徳二年三月二十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年三月卅日 / 冊子 549頁
延徳二年三月三十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を一覧にした記録。
延徳二年四月四日 / 冊子 550頁
延徳二年四月四日に志布志で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記録した一覧。
延徳二年四月六日 / 冊子 550頁
延徳二年四月六日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
嘉慶2年8月22日 / 冊子 553頁/原整理番号 48
陸奥守(傍注で島津元久)が鹿屋周防介へ、日向国三俣院北方弁分内の長田名は本領なので、先例に任せて知行するよう認めた安堵状。嘉慶2年8月22日付で陸奥守の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』470号文書と同文と記す。
応永3年11月7日 / 冊子 553頁/原整理番号 49
藤原(傍注で島津元久)が鹿屋周防介へ、山東で闕所が生じた時には三十町を給分として宛行うと約した文書。応永3年11月7日付で藤原の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』569号文書と同文と記す。三十町を既に引き渡したのではなく、闕所発生を条件とする将来の宛行である。
応永19年11月25日 / 冊子 554頁/原整理番号 52
久豊(傍注で島津久豊)が鹿屋周防介へ、三ヶ国錯乱の際に格別の忠節を尽くしたことを認め、自身の本望が達成された時には鹿屋院の当給人らを立て替え、鹿屋院の本領を一円認めると約した書下。応永19年11月25日付で久豊の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編二』894号文書と同文と記す。実施は将来の『達本望時』という条件付きである。
年月日未詳 / 冊子 188~191頁
西藩野史の記事として、応永七年以降、島津元久が鹿屋周防介忠兼を鹿屋院へ復帰させ、肝付氏一族の所領・城を処理したことを起点に、伊作久義、鶴田重成、渋谷氏らをめぐる三州各地の軍事行動と所領再編を長期的に記す。元久・久豊方の出兵、和議、離反、討伐と恩賞の経過を載せる。
年月日未詳 / 冊子 678頁
伊地知周防介父子らの謀叛企図を受け、島津忠良が大永七年五月に加治木へ進発し、関係者を誅した経過を記す『貴久記』。島津勝久方は忠良を伊作から誘い出して勢力を弱めようとし、加治木・帖佐・鹿児島方面で両陣営の攻防が続いた。家臣処罰を契機に守護家対立が軍事化したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
大永七年、伊地知周防介父子の謀叛から始まる島津忠良方と勝久方の攻防を記す。加治木・帖佐・伊集院方面で諸勢が交戦し、忠良方が鹿児島へ進攻すると勝久方が退避した。城と街道をめぐる軍勢移動、諸将の帰属・離反を追う。
年月日未詳 / 冊子 99~100頁
永禄四年霜月、伊東方が兵糧不足を理由に島津忠親へ城の明渡しを迫ったため、忠親方は鎌ケ倉の兵を新山へ移した。十二月に使僧と日置周防介を山東へ送り、佐土原方との和睦を整え、宮薮を引き渡して番衆を入れた経過を記す。
宝徳二年十二月五日 / 冊子 422頁
牛屎院内光吉の水田について、せとくち門・三反井・小山下・山下のならひなど各所の面積を列挙し、合計を示した坪付。村田経房・大寺光貴・町田胤久が署判した。
延徳二年四月朔日 / 冊子 550頁
延徳二年四月朔日に福島で行われた犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と成績を疋数で示した一覧。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月、肝付勢が島津方の陣を崩して総大将の島津忠将以下多数を討ち、廻城の守備を救ったことを記す。さらに飫肥方との和議交渉、人質交換、先宮城の一部引渡しなど日向方面の動向を続けて記録する。
年月日未詳 / 冊子 103頁
島津忠親が伊東方との和睦条件に従い、永禄五年二月二十二日に志布志を伊東方経由で肝付氏へ渡した。五月十八日には飫肥も伊東方へ引き渡して忠親が櫛間へ退き、日置・柏原両氏には南郷三百町が与えられた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 103~104頁
伊東勢が本城・酒谷を攻略したため、島津忠親が飫肥南郷を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた経過を記す。忠親は九月十七日夜に飫肥城を奇襲して百余人を討ち、翌日酒谷城も奪回し、北郷時久には末吉三百五十町などが与えられた。
年月日未詳 / 冊子 118~119頁
日置・柏原両氏ら三十六人が神判して時機を待ち、永禄五年九月十七日夜に忠親勢とともに飫肥本城へ侵入した経過を詳記する。伊東方の守兵と各門で戦い本城を奪い、翌十八日には酒谷城も落として、忠親が再び飫肥へ入部した。
永禄九年五月十八日~七月十七日 / 冊子 145~146頁
永禄九年五月、北郷時久が松山へ初陣し、忠徳らと出立の儀礼を行った後、福島方面で伊東勢を待ち伏せして十一人を討ったことを記す。六月十六日の肝付勢による岩川攻撃と双方の損害、七月の時久の飫肥出陣、肝付勢による福島攻撃と守兵の戦果も載せる。
天正三年三月十五日 / 冊子 430頁
天正三年三月十五日、島津義久が代始めの犬追物を催した際の装束と式次第を記す。対面所で三献を行い、手長・配膳・包丁人・掻副・弓箙・行騰・沓鐙押などの役を定め、義久が庭で騎馬して惣門から馬場へ入り、射手らが待ち受けた。
天正九年八月上旬 / 冊子 697~698頁
天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。
現行年紀:八月廿二日 / 冊子 102頁/原整理番号 173/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0173
畠山三郎殿に供をし、郡内の人々が真幸へ越え、敵城馬関田に向かう近陣を数か所取ったと伝える。 その界の事を取り計らうよう求め、同心への期待を示す。
7月28日(年未記載) / 冊子 552~553頁/原整理番号 46
祢寝久高と目録が掲げる権左衛門が、城と所領の管理事項を箇条書きにした覚書。御普請、竹の利用、諸口の番衆、板城戸、弓鉄砲を挙げ、城近くの山を切らないこと、城屋敷を荒らさないこと、番普請を怠らないことを記す。鹿屋周防介に関わる米と御蔵米、秋月殿が財部へ移る件、福嶋へ往還する者が諸事を慎む件にも及ぶ。日付は7月28日で年記・宛所はなく、末尾に権左衛門の花押と久高の傍注、欄外に『旧記雑録後編三』816号文書との同文注記がある。判読の難しい仮名の箇条は断定的に現代語化しない。
元禄5年9月23日 / 冊子 566頁/原整理番号 64
伊地知助右衛門重英が鹿屋権左衛門へ、同家の先祖鹿屋周防介が島津元久の家老職を務めたことについて、証書が多く、鹿屋家の系図にも載っていると述べ、後日の証拠とするため改めて尋ねた書状。元禄5年壬申9月23日付で重英の花押を据える。本文の末尾には『古文書雑集』と貼紙の注記があり、直前の鹿屋氏系図に記された家老職の由緒を確認する照会である。
七月二十八日 / 冊子 209頁/原整理番号 542
鹿屋周防介らに対する城務・軍備関係の覚書。御普請、篦切り、竹尻、番衆の掃除、板城戸、城近山の伐採禁止、弓鉄砲、城屋敷、兵粮米、財部から秋月殿への移送、福島への人返しなどの事項を列挙する。七月二十八日付、樺山権左衛門判。
応永二年二月二十九日 / 冊子 214頁/原整理番号 547
応永二年二月二十九日の大追物手組。伊東殿、島津又三郎、島津越前守、稲津弥次郎、伊東伊豆守、島津弥三郎、島津修理亮、野村源五、湯地五郎四郎、鹿屋周防介、島津殿、伊東遠江守を組み合わせ、検見を島津上野入道とする。旧記雑録前編所収文書と同一と注記される。
宝徳三年九月八日 / 冊子 121頁/原整理番号 9
宝徳三年九月八日、志布志鹿屋氏家蔵本の犬追物手組。陸奥守殿、島津四郎・遠江守、肝付河内守らの犬数を列記し、検見を鹿屋周防介とする。
宝徳四年五月十四日 / 冊子 122頁/原整理番号 11
宝徳四年五月十四日の犬追物手組。陸奥守殿・島津四郎・島津遠江守・市来太郎・鹿屋周防介らの射手を列記し、検見を島津下野守とする。
宝徳四年五月十五日 / 冊子 122頁/原整理番号 12
宝徳四年五月十五日の犬追物手組。前日の手組に続き、陸奥守殿・島津四郎・島津遠江守・市来太郎・鹿屋周防介らを掲げ、検見を島津上野守とする。
巻一/冊子 8頁
種子島加賀守恵時と子の左近大夫直時が不和となり、直時が貴久へ援助を求めた事件と、加治木攻めを併記する。貴久は新納伊勢守を大将に小勢を派遣し、軍は硫黄島を経て屋久島へ着く。恵時も種子島から来て身柄を貴久に委ねようとするが、貴久は他人の所領を貪らず、父子を和解させて帰島させたため、種子島氏は以後その恩を重んじた。後半では忠良・貴久が小浜から加治木城を攻め、真幸院の北原兼孝も加勢するが、北原方の周防介・洪江兵庫助ら七十余人が戦死し、島津勢は帰陣する。その後も小浜への侵攻が続いたため、忠良父子は敵を油断させる策として小浜の塁を本田方へ一時的に譲る。従来概要の「最終的な講和・服属」ではなく、初回攻撃の失敗と後日の誘敵策を記した記事である。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:天正元年癸酉之春 / 冊子 197頁/整理ID TMP-P02-CONT-A69
冒頭の「子」が伊東大脇大夫義祐・肝付河内守兼續入道省釣・伊地知周防介重興等に與同し、大守に背くとの叙述を置く。「子」の実名帰属は未確定。 天正元年春、島津義久が昌信を祢寢へ遣わし、重長に離一揆・島津旗下への帰属を伝えたとする。 留滞中の密談を記し、さらに新納忠元・伊集院久治・上原尚近の再遣、和諧と誓約に言及する。密談句の主体・意味は留保する。 肝付氏の党を離れ島津旗下に属する旨の誓約と、密事に関する八人使衆の誓紙を「記左」と導入する。
応永二年二月二十九日 / 冊子 118頁/原整理番号 2
応永二年二月二十九日の犬追物について、射手を組み合わせ、検見役を付した手組。加治木鹿屋仁右衛門蔵本により、島津・伊東・稲津・湯地・鹿屋らの参加を記す。
応永二年二月二十九日 / 冊子 119頁/原整理番号 4
応永二年二月二十九日の犬追物で、伊東・島津・稲津・野村・湯治・鹿屋らの犬数と検見役を記す別本手組。紙切れ部分や異本注記を伴う。