河上益右衛門尉・白坂助七郎連署請取状
慶長三年七月四日 / 冊子 220~221頁
河上益右衛門尉・白坂助七郎が、本田助丞・富山清右衛門尉に宛てて出した請取状。「高麗御見次」の長寿調分として、銀子五百目を二包のまま、御振舞道具を種々納めた長櫃一合を受け取ったことを記す。
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慶長三年七月四日 / 冊子 220~221頁
河上益右衛門尉・白坂助七郎が、本田助丞・富山清右衛門尉に宛てて出した請取状。「高麗御見次」の長寿調分として、銀子五百目を二包のまま、御振舞道具を種々納めた長櫃一合を受け取ったことを記す。
四月十九日 / 冊子 671頁
貴島柳右衛門が北野郷右衛門に宛て、関ヶ原でその父が戦死する場面を確かに見届けたと知らせた書状。父は馬上で敵を前に笑い、関東勢へ駆け込んで数本の鑓で二、三度突き上げられた。井伊兵部の備えと思われ、柳右衛門は戦死に疑いがないと証言している。
康安元年十月十六日 / 冊子 23頁
斯波氏経が島津二郎右衛門尉に、菊池武光以下の凶徒を退治するため、一族とともに肥後国球磨郡から菊池陣へ発向し、忠節を尽くすよう命じた軍勢催促状。
大永三年五月日 / 冊子 642頁
高城重興が山口九郎右衛門尉に、先の文書に関する用件と肥前守への伝達を頼み、返事を求めた書状。
大永九年三月廿四日 / 冊子 699頁
岩出輔共・東郷重随が牧田吉右衛門尉に、篠原口合戦で一階堂大和守を射た忠功を認め、子孫まで相違なく扱うと証した連署状。
天文十三年十月吉日 / 冊子 819頁
島津日新が伊地知鏡右衛門に、相互の合意と協力を守り、大小の神祇に誓って疎略なく行動することを約した起請文。
永禄九年七月二日 / 冊子 147頁
日新が本田九郎右衛門の各地での度重なる忠節を忘れないとし、その褒賞として伊作入来名内の原薗および水田一町・畠地一町を永代にわたり違乱なく与えるとした鑑札。
(天正四年)八月吉日 / 冊子 482~483頁
彦山般若坊法印豪継が、日向表への出陣が神恵によって勝利したことを祝し、今後の武運長久を祈る目録二通を島津義久へ進上するので披露してほしいと伊集院右衛門大夫に依頼した書状。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、所定の浮免高一石余を直松作右衛門へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
天正14年11月11日 / 冊子 265頁
平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給を定めた掟書。二日につき三度、各人へ七合五勺ずつ渡し、御蔵入から支出すること、普請用物は触れに従うことを命じる。北郷作左衛門・相良新右衛門が取り仕切り、滞りなく調えるよう求めた、築城現場の給食・物資管理を示す文書である。
〔天正15年〕5月19日 / 冊子 334頁
豊臣秀吉が大口方面への陣替えを前に、鹿児島への途中で花道院城へ二、三夜宿営する計画を伝えた朱印状。先手衆が宿営を迷惑だと申し立てたため、伊集院右衛門大夫・石田治部少輔・木食上人に現地へ赴いて説得させ、返答次第では処罰すると告げる。島津義久にも重ねて事情を説明するよう命じ、豊臣軍の移動・宿営を強く徹底した文書。
(天正15年)11月26日 / 冊子 364頁
返答が届かないため直書を送り、大木の件や在所の扱い、兵粮・雑事の手配が進まないことへ強い不満を示す。油断によるものか、野心があるのかと問い、現地の事情を詳しく返答するよう村田久右衛門へ迫った新納忠元の書状。
文禄元年9月15日 / 冊子 595頁
米良重良(石見守)が米良勝右衛門尉へ、懇望を受け、互いが同姓であることを理由に、続く米良氏系図を書き写して送ると伝える。 書写は後日の証拠に備えるための一筆であり、ほかの者には決して見せないよう念を押す。同族の系譜情報が、閲覧を制限しながら内部で伝授された事情を示す書状である。
年月日未詳 / 冊子 595頁
島津義弘が米良勝右衛門尉へ、予定していた当月の参陣は「此表」の軍事行動が翌春へ延期されたため、ひとまず延引すると通知する。 ただし内々に出陣準備を整え、改めて知らせが届いた際には油断なく渡海するよう命じる。朝鮮出兵に向けた待機と動員準備の具体的な指示である。
天正21年正月21日 / 冊子 666頁
加世田地頭所の名内にある「淀免いち口」一反四畝を、前田小右衛門尉へ宛てた坪付。 所在地・地目と面積を簡潔に示し、本田因幡介正親の花押をもって土地の給付範囲を確定した文書。
文禄4年2月22日 / 冊子 866頁
本田六右衛門尉が神前で示した深い決意を、島津家と義弘父子に対する忠節として高く評価した感状。春日・八幡・天満大自在天神を証人に挙げる。 今後は忠恒に特に心を添えて忠節を尽くすよう頼み、義弘から次代への主従関係を固めようとする内容である。
文禄4年9月3日 / 冊子 910頁
薩摩国河辺郡野崎名の土地について、惣高九百四拾石余の内訳と返地分を示し、京の石田三成との相談どおり本田六右衛門尉へ給与する。 今後加増があれば両名の判断で配分する旨も記した、検地後の知行再編を数量で追える連署証状。
文禄4年9月3日 / 冊子 911頁
財部の米良家に伝わった証状で、宮里一所を打ち替え、石高三百五拾九石余の土地を米良勝右衛門へ給与する。 返地分を差し引き、残余は京都で石田三成と相談して配分するという、領国検地後の所替えと知行算定の実務を示す。
文禄五年正月廿二日 / 冊子 3頁
島津忠恒が新納五郎右衛門尉へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため龍伯・武庫と相談すると述べ、これまで示してきた誠実な奉公を忘れていないので、特に念を入れて知行を宛行うと約し、なお忠節を尽くすよう求めた証状。
文禄五年四月廿八日 / 冊子 19頁
町田存松久倍と新納旅庵長住が、金子六枚(秤目二百六十三匁七厘)を受け取ったことを記し、勝目兵右衛門・古後七郎右衛門へ宛てた受取状。
文禄五年八月廿二日 / 冊子 39頁
薩摩国の蔵米について、年度別の納物、米・大豆・銀の数量と差引残高を記し、徳善院・長束大蔵・増田右衛門尉が伊集院右衛門大夫へ示した算用状。
文禄五年十一月二日 / 冊子 51頁
伊集院右衛門入道幸侃が羽嶋藤右衛門尉へ、隅州肝付の内、新富之村の作分から高四斗二升を割り付け、右の地は五斗出来として返地に差し遣わす旨を記した宛行状。
(慶長元年)十一月廿四日 / 冊子 54頁
島津忠恒が本田六右衛門尉・相良新右衛門尉へ、鎌田出雲守(鎌雲)の談合所への出席を控えさせつつ、支配・配当の件は内談を尽くすよう命じた。支配は奉公の実績に基づき衆人のためとなるよう行い、配当衆・使者・筆者を分別して任命し、公儀を軽んじる者が出ないよう両人から各人へ申し聞かせることを求めた書状。
文禄五年十二月二日 / 冊子 56頁
伊集院幸侃が米良勝右衛門尉に、薩州大口内の柳田村・大儀寺村にある土地を石高別に充行った領知目録。
文禄五年十二月廿三日 / 冊子 63頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺郡崎村・高橋村・谷山平川村などの土地を、村別の石高を示して充行った領知目録。
十二月廿三日 / 冊子 63頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺野崎村・高橋村・谷山平川村・松田渡り村の土地を石高別に充行った領知目録。
(慶長二年)五月廿三日 / 冊子 102~103頁
島津忠恒が本田源右衛門尉に、三原諸右衛門尉を通じて先に伝えた事項を確認し、奥地への出勢が決まったため、人馬を早急に渡海させるべく八木民部左衛門尉・関帖右衛門尉を派遣したと報じた書状。幸侃が上洛した場合の情報収集を命じ、遅滞や讒言を戒める。
慶長三年五月十二日 / 冊子 209~210頁
長寿院盛淳が、薩州入来院の蔵野村における領地について作成し、松下甚五右衛門に宛てた領知目録。
十月十日 / 冊子 257~258頁
島津忠恒が十月十日付で本田六右衛門・鎌田出雲・比志島紀伊・山田越前・新納武蔵・平田太郎左衛門・町田出羽入道へ出した書状。本冊では本文がNo.537の文書と同文であるため省略されている。別本に七名の宛名があり、廿二日付の書状とも同案であると注記する。
八月 / 冊子 287頁
大川平久兵衛が八月付で松下為右衛門へ出した書状。図書老・出雲守父子の命で高麗の軍記が編纂されていることを知り、高柳好左衛門行文に大川平源太左衛門の戦死記事を書いてもらった経緯を説明する。先の書状へ写して送るよう命じられたため、老眼で見苦しいながらも書写して送付すると述べる。
慶長四年三月七日 / 冊子 356頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺宮下村二百八十七石余と柏原内中別府村四百十二石余、合計七百石を宛行う。このうち五百石は加増、二百石は先年の配当時に知行不足のため上地した分の返地とする。
(慶長四年) / 冊子 400頁
島津義久が前田久右衛門尉に、旧主肝付弾正忠の武勇は広く知られており、その家跡を取り立てるべきだと述べる。前田家が代々重ねた比類ない戦功と忠節を評価して召し出し、高四十石を宛行う。
(慶長四年)七月十一日 / 冊子 401頁
島津義久が小西作右衛門尉に、使札を受けたことを喜び、鉄砲衆三百人を大口表まで派遣した厚意に謝意を示す。近く摂津から帰国する予定なので、その折に使者を立てて詳しく申し通じると伝える。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 435頁
島津忠恒が本田六右衛門尉に、長く在京している辛労をねぎらい、奥方のことを引き続き油断なく取り扱うよう求める。庄内情勢はなお変わらず心配だが、兵を出して戦っているので近日中に決着するだろうと述べ、以後も逐次報告するとする。また存松を急いで上らせるので、交替して下向するよう命じる。
十一月六日 / 冊子 465頁
伊集院忠真が平野源右衛門尉・高島新蔵に対し、幸侃を糺明せず成敗し、自身も去る三月以来進退を封じられたことを非道と訴える。表裏の行為や龍伯・兵庫頭の神文違背などを別紙に列挙して両所への取成しを求める。また武庫入との会談、大坂が静謐であることを伝え、今後の書信と親交を望む。
八月廿日 / 冊子 566~567頁
島津義弘(惟新)が本田六右衛門尉へ、国境の出水には在国衆を在番させ、家中の統制を保つよう命じる。他国では長宗我部勢が二千の軍役に対して五千、立花勢が千三百に対して四千を率いて参陣したのに、薩摩勢は千人足らずで面目を失うと厳しく指摘する。山水・帖佐の役人から人数が到着しないことを不審とし、秀頼への奉公に必要な軍勢動員を促す書状。
(慶長五年)十月十日 / 冊子 594頁
山口直友が西俣彦右衛門尉へ、徳川家康が承知している人物を九州へ下向させるので、道中を滞りなく通行させるよう証する。
慶長五年十月十日 / 冊子 594頁
島津義弘(惟新)が安楽五郎右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が榊松三右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
(慶長五年)十月十九日 / 冊子 598-599頁
島津義弘(惟新)が本田六右衛門尉へ、現地で長く辛労していることをねぎらい、島津忠長の出水在番を少将こと島津忠恒(家久)が頼んできたと知らせる。従前の相談どおり本田は持ち場にとどまり、現地の諸事を適切に取り計らうよう求める。
慶長五年十一月六日 / 冊子 610頁
平田増宗・鎌田政近が古後七郎右衛門へ、銀子二百十五匁、五枚を京都への音信として中原般若院へ渡すよう指示する切手を発給する。
(慶長六年)八月三日 / 冊子 771-772頁
島津忠恒が本田源右衛門に、諸境目の普請は特に念を入れて進めるよう諸方へ命じたと伝え、担当する境でも油断なく実施するよう命じる。詳細は山鹿弥助の口上に託した書状。
慶長六年十二月三日 / 冊子 789-790頁
村田雅楽助が署判し、屋敷三畝や法楽寺内の田地などを羽嶋藤右衛門尉へ加増として宛行った目録。各田地の面積・石高を列記する。
(慶長七年)八月廿四日 / 冊子 841頁
島津惟新が本田六右衛門尉へ、忠恒の出船後に音信がなく案じていたが、三原諸右衛門尉から無事を聞き、二度の大風にも遭わず到着したことを喜ぶ。供奉衆に油断なく奉公させ、忠恒へ伝言するとともに、旅先の様子を詳しく知らせるよう求めた。
(慶長八年)七月□「朔」日 / 冊子 900頁
林次長が本田六右衛門へ、秀頼の祝言が七月二十八日に決まり、忠恒の上洛は将軍から不要とされたと知らせる。忠恒に事情を伝えて上洛を見合わせ、翌春の上洛に備えるよう求めた書状。欠損箇所が多い。
慶長八年十月廿五日 / 冊子 914-915頁
玉川義則が鮫島筑右衛門へ、置流弓の伝授を許した免許状。流儀の法度に従い誓紙を立てて指導すること、子孫であっても器用や執心のない者には伝授しないことを命じる。
(慶長十一年)六月十四日 / 冊子 77頁
島津忠恒が高橋七郎右衛門種十に、修理殿の参上予定や自身の伏見帰着、公儀の都合を見て訪問する意向を伝えた書状。日取りは確定できないため承知してほしいと述べる。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納為舟(忠元)が湯田新右衛門尉に宛てた加増坪付。山野村内の中田一段六歩ほか、石高一石四斗二升八合、および由畠三段二畝十八歩・分米三石一斗五升六合などの田畠を記す。途中は「外数行略」として省略され、濱田将兵衛・大蔵の名も見える。
慶長十二年四月十四日 / 冊子 111頁
慶長十二年四月十四日、新納忠元が合田島一町五段八歩、分米十五石余の田地を湯田新右衛門尉に与えた坪付。
慶長十二年四月十四日 / 冊子 111頁
慶長十二年四月十四日、新納忠元が木崎村内かた牧之門の田地を加右衛門尉に与えた坪付。下田・中道などの面積と分米を列記し、田島屋敷を付す。