島津氏久書状
「永和三年」十二月十一日 / 冊子 111頁
島津氏久が姫木十郎に、守護代に対する一所懸命の忠節を書き入れたことを伝え、詳細は対面して申し聞かせるとして、その働きを喜んだ書状。
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「永和三年」十二月十一日 / 冊子 111頁
島津氏久が姫木十郎に、守護代に対する一所懸命の忠節を書き入れたことを伝え、詳細は対面して申し聞かせるとして、その働きを喜んだ書状。
寛正七年四月十六日 / 冊子 460頁
島津立久が川上十郎左衛門に対し、従来の約束を重ねて確認し、前後とも二心なく疎略にしないことを誓い、違反時には諸神の罰を受けるとした起請文。
明応六年七月廿四日 / 冊子 572頁
沙弥善従が、大隅国禰寝院佐多村内の松坂薗・濱田などの田薗を重代相伝の私領として、証文を添え孫の又十郎清年へ永代譲渡した譲状。
文禄五年二月八日 / 冊子 7頁
伊集院幸侃が中河又十郎へ、薩州市来湯田村内の三石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
No.23と同文の宛行状が外中馬十郎左衛門尉・市来豊前入道にも存在したことを記す雑抄記事。先年の川内出向時に御輿を担いだ働きに対する恩賞知行である。
文禄五年八月二日 / 冊子 36頁
伊集院幸侃忠棟が、先年の御輿上げの忠恩により、薩州伊集院内大内田村の余分地のうち一作・高五石(原文「五斛」)を中馬十郎左衛門へ宛行った署判領知目録。
十一月十九日 / 冊子 143頁
島津義弘が新納十郎に、格別に奉公するとの申出どおり、その後も首尾に相違がないことを神妙で頼もしいと賞した書下。諸神八幡に誓って、今後もその奉公を忘れないと約する。
十二月廿九日 / 冊子 270頁
島津立久が、入来方面との約束や関係者の動向、前日の出来事への心得を伝え、今後の対応を河上三十郎左衛門へ求めた書状。難読箇所を含む。
七月十八日 / 冊子 720頁
別府への訪問予定を了承し、老者が奔走する一方で若者が役に立たないと嘆く。捕獲した馬のうち自分には一匹も当たらず、ある馬を左衛門次郎へ預けたいことや、左京方の馬の歩様・働きを評価した島津立久書状。
九月廿日 / 冊子 720~721頁
ある人物の不思議な扱いと、しほ太郎の無作法に強い憤りを示しつつ、処断を思いとどまって慎重に対応するよう伝える。陣中は差し迫った状況ではないため、弓衆を率いて来訪すれば喜ぶとし、この密書を他見させないよう命じた島津立久書状。
八月六日 / 冊子 721頁
日記の写しは原本に劣るとして自筆本を送り、これまで度々の戦を経験しながら犬追物は不得手だと述べる。検見役を引き受けてもらえれば稽古して披露したいので、詳しい教示と秘密保持を願った島津立久書状。
九月廿七日 / 冊子 721~722頁
近く山入りするので、二川付近へ来る人物に川上氏が同行するなら知らせるよう頼み、道程と到着日を相談する。助四郎に犬を引かせることなど犬追物関係の手配を内密に指示した島津立久書状。
十二月四日 / 冊子 722頁
龍雲寺の家々が無事完成したことを喜び、八郎衛門帰参時に詳しく話すと伝える。大友方から使者が来て志布志で対面する予定であり、忠国の別府帰還もよいとした島津立久書状。
十二月十九日 / 冊子 722頁
入来院に約束した犬を川上方から引かせて送るよう求め、東郷方の子息の元服に先例として誰を遣わすべきか相談し、稲葉方を雇う案を示して詳しい返事を求めた島津立久書状。
九月十九日 / 冊子 723頁
こちらは何事もなく退屈に過ごしているが相手の様子を知りたいと返事を求め、来訪を願って人を遣わそうとしたものの秋中は暇がないと聞いて断念したこと、朝夕噂ばかりしていると親しく伝えた島津久逸書状。
正月十日 / 冊子 723~724頁
新春を祝い、長く音信がなく心配していると述べ、翌日に串間へ赴き帰途に会いたいと伝える。日々笠懸をしているので一緒に行いたく、相手の遊芸の様子をうらやみ、便宜ごとの伝言を求めた島津国久書状。
三月五日 / 冊子 724頁
串間で話した案件について、帰宅後すぐ書面を送るはずが、相手の心中を詳しく聞いてから将来に適う形にしようとして遅れたと詫びる。後世のためにも内容を書き留め、相手にも写しを取ってほしいと求めた島津国久書状。
七月三日 / 冊子 724頁
京都から下った者が持つ本を逗留中に見せてほしいと頼み、親兄弟にも漏らさないとの誓文を当日作って差し出すと約した島津公久書状。面談では曖昧な返答だったため書面で詳しい返事を求める。
年月日未詳 / 冊子 724~725頁
当日の馬の出来に驚き喜んだことを伝え、上使が近日当地へ来るため内稽古が必要だとの久等順阿の意見を受け、川上氏を招いて酒肴を用意し相談したいとした島津忠昌書状。
二月廿九日 / 冊子 725頁
古則が出たので夜の法問に暇があれば来て聴聞するよう誘う。前年春の吉慶を述べ、普請に携わる上衆が負け落ちるのはよくないと批判し、今後は修行・稽古に心を入れて嗜むことが肝要だと諭した島津忠昌書状。
十月十日 / 冊子 725頁
久しく音信がないことを残念がり、先に頼んだ騎行関係の手配が早々に済んだことを喜ぶ。犬馬場がまだ整わないので、若者たちに縄稽古をさせるため来訪して指南し、諸事を相談したうえで喜入へ赴くよう求めた島津忠昌書状。
九月七日 / 冊子 727頁
入手した十八箇条の写本に疑問点があるため、諸本と見比べたいとして借用を願い、もし川上昌孫存命中の本字で書き置かれた本があるなら、それをぜひ披見したいと求めた島津伯囿書状。
天文二年十月八日 / 冊子 721~722頁
堀切十郎右衛門尉が、江子之尻五反のうち二反を道金禅門の後生菩提のため隅州楞厳寺へ寄進し、所有者へ代価を支払って後日の証文とした寄進状。
安永六年丁酉九月二十八日 / 冊子 534頁/原整理番号 1486/整理ID 1486
知行目録として高三十斛を掲げ、市来長里村の内、谷山上福元村の内、蒲生漆村の内を記し、名寄帳は別冊にあるとする。この通り拝領を命じるので、所務をすべき旨を伝える。安永六年丁酉九月二十八日。赤造酒則正・嶋仲久健・山市正久澄・小帯刀清香・喜主馬久福・嶋左中久金の六名が署し、今村政十郎殿宛。三十斛は目録全体の高で、三村に各三十斛又は計九十斛とはしない。署名のうち主馬と左中、宛所、包紙記載は同じ冊子頁の下段へ続く。包紙は酉九月二十八日二通、主馬殿から渡されたので納め置き、白木御文書五番箱に入れたと記す。二通は保管された文書数として保持し、三十斛を二倍にせず、五番箱を五箱とも読まない。次の巻百三十二の表紙はこの知行目録の正文に含めない。
天明三年十月廿八日 / 冊子 706~707頁/原整理番号 1992/整理ID 1992
島津重豪が加冠に際し仮名を仙十郎とするよう定めた書出。対象者の旧名・姓は本文に記されない。天明三年卯十月廿八日付、御判。正文は鎌田藤馬にあるとの保管注記を伴う。
永和3年12月11日(目録) / 冊子 185頁/原整理番号 6
姫木十郎殿宛の守護代としての忠節と本田氏・姫木家の関係に関する判物抜書。永和三年十二月十一日付の氏久御判を掲げ、続けて御判物の年代や姫木城をめぐる伝承を考証する。
寛永十一年八月廿六日 / 冊子 447~448頁
支配下の名寄帳を書き写し、来月十五日までに三冊を添えて差し出すよう命じた書状。一名持切の村は除き、割り合いの名のみを写し、地頭所の知行・衆中分も同様に扱い、遅延しないよう求める。
慶応元年・十二月廿五日 / 冊子 92頁/原整理番号 127-1
川上正十郎は伊地知小十郎に、町奉行格への役替の御礼が済んだため、翌年頭から当該役に付随する御太刀を進上するよう申し渡す。年々の再度の仰渡しはないことと、請けた旨を届けるよう伝える。
年月日未詳 / 冊子 451頁
寛正六年二月二十九日、島津立久が鶴戸城で伊東大和守祐堯の娘を迎え、末弘十郎四郎・宮丸太郎三郎が輿寄を務め、落合河内守が進物を贈ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 826頁
伊集院方が夜襲を仕掛け、伯囿らが城内で迎え撃った戦況を記す弓箭覚書。新納忠元・川上十郎左衛門らの配置と交戦、混乱する城内での応戦、負傷者・討死者の発生を挙げ、夜間の急襲に対する守備側の働きと損害を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 282~283頁
『桂忠次譜』の記事。桂兵吉忠次が父忠防とともに朝鮮へ渡り、慶長三年の帰朝準備中、海路を遮る明の艨艟と戦って二十一歳で戦死したとする。法号を傑心良英とし、家臣の深川加賀・海老原市十郎も同時に戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 411~415頁
『殉国名薮』は、慶長四年の庄内合戦で戦死した島津方の武士を、月日・戦場・所属や続柄とともに列挙する。六月一日の中田十郎をはじめ、山田城・恒吉・安永・高城・北郷・神田橋など各地で討死した町田新助忠玄、長野藤兵衛、平田三五郎、上井仲五兼政ら多数を掲げ、六月から翌年正月に及ぶ戦没者の記録をまとめる。
慶長六年十二月十九日 / 冊子 754頁
伊勢貞成が、大隅国桑原郡般若寺村内の屋敷・田畠を主計、孫五左衛門、仲十郎、三郎次郎、大学介らへ割り当てた知行目録。各屋敷の面積と石高を列記する。
(慶長六年)閏十一月六日 / 冊子 788頁
近衛信尹が、帰国する掃部兵衛に書状を託し、龍伯の上洛を待つ人々がいるとの京都の風聞を伝える。長十郎について玄旨からの依頼に応じ、慰めの言葉を添えるよう求めた。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第一番の手組を記した一覧。殿以下、島津又吉・島津摂津守・島津十郎・三原次郎四郎ら射手の名と割当てを図示する。
年月日未詳 / 冊子 304頁
島津家久譜の記事。慶長十五年十二月十一日、家久の船団が筑前沖を航行中に暴風と高波に遭い、相島へ避難したが、帆柱が折れ、供船が岩礁で大破したことを記す。肝付半十郎ら十余人が溺死し、翌日、家久が龍伯・惟新へ報告した。
(慶長十五年)十二月十二日 / 冊子 304頁
慶長十五年十二月十二日、島津家久が龍伯・惟新に、難船から自らは辛うじて助かり、同行者の多くは無事だったが、肝付半十郎以下十余人が死亡したと報告した書状。遭難の状況と救助・船の手配を急ぎ知らせる。
年月日未詳 / 冊子 479~519頁
米良隼人所持本をもとに天保七年に伊地知小十郎季安が書き留めた古高帳の写。慶長十五年または十八年の高帳とされ、家臣・寺社等をいろは順に掲げ、各人の高・内高・役分・職分などを大量に記録する。
元和七年十二月七日 / 冊子 775頁
元和七年十二月七日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、川上嶋津十郎左衛門尉らが検見・喚次を務める手組を記す。
寛永元年五月八日 / 冊子 817頁
市来惟清が、島津家久の伴右衛門屋敷への御成りと連歌会に又三郎・又十郎も若年時に同席し、鎌田源八が執筆を務めたため、懐紙を子孫まで秘蔵するよう記した覚書。併せて、当日の膳・汁・魚・菓子などの献立と、座奉行を務めた国分十右衛門・相良玄蕃允らを記録した。
(寛永元年)十月十四日 / 冊子 820頁
島津義弘の息女屋地が帖佐十郎兵衛へ、女性が上方や江戸へ人質として赴き、縁組を通じて島津家へ奉公した際に無公役の知行を受けた先例を列挙した覚書。自身への加増を求めるのではなく、宝寿院殿と娘の今後の奉公が続くよう、知行を給付してほしいと申し入れた。
(寛永三年)閏四月四日 / 冊子 8頁
寺沢広高が島津家久へ、端午の祝儀を贈り、家久の京都屋敷が無事で、又三郎・又十郎も健勝であると報告した書状。徳川秀忠は五月下旬、家光は六月十日頃の出発予定で、諸大名の帰国・移動状況も知らせる。
(寛永四年)二月廿四日 / 冊子 31~32頁
伊勢貞昌が、年末に当地へ赴いて越年するよう命じられた旨を寺田与左衛門方の内儀から聞き、急な出立に備えるよう早打で知らせる。老中にも書状を送り、又三郎・又十郎の息災と御姫様の出産後の状況も報じる。
六月廿五日 / 冊子 14頁
長積が、重田備州を介した書状への返礼とともに、当地の難しい事情を報じた書状。新納武州の関与、地下年寄衆の異見、十郎左衛門尉の他出を経て大口の争いが無事に収まったと伝え、鹿児島に出頭した新納武州とも相談して善左衛門尉の進退を支援するよう頼む。
六月九日 / 冊子 26頁
伊集院忠棟と村田経定が、木原十郎兵衛尉の子息を当年の市来・伊集院間の頭取に定めた連署書状。前年は事情により差し置かれたが、神慮と奉公に関わるため、異議なく了承して役目を命じるよう寄合中へ求める。
年月日不詳 / 冊子 112頁
川上久慶の書付。複数の姓・系統ごとに、白兎毛・鼠驪毛・鹿驪毛・黄騎毛・驢蝿毛・猿毛・雲雀毛・赤驥毛・儀渠毛・盗驪毛など、馬の毛色名と読みを系図状に整理する。川上十郎左衛門尉の自筆本を書き付けた旨を記す。
七月 / 冊子 203~204頁
市田某が御記録奉行に、秩父新太夫家の御番勤仕と免除の由緒を調査・記録するよう命じた達書。曽祖父十郎兵衛・養父十太夫の代に由緒を理由として御番免除を受けた経緯を確認し、帳面に記して関係先へ申し渡すよう指示する。
十二月二日 / 冊子 306頁
島津忠昌が、河上十郎左衛門尉を通じて相手の意向を詳しく承知したことを喜び、議論の細部は問わず、今後も信頼して協力するよう樺山殿へ伝えた書状。
十二月二日 / 冊子 306頁
河上十郎左衛門尉を通じて相手の意向を承知し、信頼と協力を求めた島津忠昌書状。本文はNo.698と同文のため省略され、宛所と署名が掲げられる。
二月十八日 / 冊子 398頁
島津義久が川上武蔵入道へ、河上十郎左衛門尉が所持する日記、当家御代々の手組の日記、犬追物の日記などの所在を列挙し、必要時に参照できるよう大切に所持するよう命じた覚書。